古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

立原諏訪神社及び鉢形城

  神社に参拝すると度々「○○の氏神様」とか「○○鎮守様」という看板等を見かけることがあり、いつも不思議に思うことがある。氏神と鎮守様は何がどう違うのだろうかと。これに産土神(うぶすなかみ)が加わると厳密な線引きが非常に難しくなり、浅学な筆者の頭の中は混乱をきたしてしまう。
 辞書やインターネット等で調べると、本来の氏神は古代にその氏人たちだけが祀った神であり、そのほとんどが祖先神であったようだ。また産土神はその土地の本来の守護神であり、その地を生んだ神様であるに対して、鎮守神は、氏神や産土神等の祖先神や地主神を押さえ込み、服従させるために新たに祀られた神であるそうだ。つまり鎮守様(鎮守神ともいうが)が人間がある土地に人工物を造営したとき(荘園や寺院、城郭等)、その土地に宿る神霊が人間や造営物に対して危害を加える祟りを起こさせないように、その地主神よりも霊威の強い神を新たに勧請してその土地を守るために祀った神であり、室町時代の頃に荘園制が崩壊すると信仰は衰退し、氏神に合祀され今日に至っていることが多い。
  そういう意味では現在において氏神、産土神、鎮守神は同じ意味で扱われることになったが、「「○○鎮守様」などと書かれているとついそこへ行ってみたくなるのは深層心理を突いたなかなかずる賢い一手だとふと最近思うこともある。だからと言っていやな意味ではないが。
 今回取り上げる立原諏訪神社は鉢形城の一郭に守護氏神として信仰された社故、今回氏神や鎮守様などについて感じていたことを冒頭で取り上げた次第だ。
所在地     埼玉県大里郡寄居町立原2701
御祭神     建御名方命 誉田別命
社  挌     不明
例  祭     不明
                       

 立原諏訪神社は鉢形城の三の曲輪、通称秩父曲輪の外郭に位置し、神社の敷地内全体も諏訪曲輪とも大手馬出しにあたるとも言われており、城の西南部を形成していて周囲には藪化しているものの、空堀、土塁等の遺構がよく残っている。
 この社の創建は戦国時代末期、武蔵国日尾城(埼玉県小鹿野町)の諏訪部遠江守が北条氏邦の家老として出仕した時に信濃国にある諏訪神社を守護氏神として分祀、奉斎したと案内板に記されている。
 ちなみにこの諏訪部遠江守は諏訪部氏の家系であり、諏訪部氏は清和源氏満快流で信濃源氏の一族であり、当時から信濃国を中心に武士から武門の神として御諏訪様は深く信仰されていた。

 
                   社の東側にある社号標                   参道を進むと正面に鳥居がある。
 

  鳥居を過ぎると右側に大黒天や石祠等がある。              元諏訪神
           
                             拝    殿
  
       拝殿の手前で左側にある天手長男神社                    拝殿の近くには案内板がある。
諏訪神社
 諏訪神社は、武州日尾城主(小鹿野町)諏訪部遠江守が鉢形城の家老となって出仕したとき、信州にある諏訪神社を守護氏神として分祀奉齋しました。
 やがて天正十八年(1590)鉢形城の落城により、この近辺から北条氏の家臣たちが落ちていき、人々も少なくなりました。しかし城下の立原の人たちは鎮守様と崇敬し、館の跡を社地として今日の神社を造営したものです。
 本殿は宝暦年間、その他の建造物は天保年間に造営されていて、年に三度の大祭を中心に、人々の心のよりどころとなっています。
 なんどかの台風にあいましたが、空堀御手洗池に深い面影を落している欅の大木は、400年にわたる歴史の重みを語りかけているようでもあります。
 祭神は建御名方命、相殿に誉田別命が祀られています。これは明治42年萩和田の八幡神社が合祀されたものです。
                                                       案内板より引用                                     

 


鉢形城
 寄居町は荒川の扇状地の楔(くさび)に位置していて交通の要衝でもあり、また歴史的に見ても多くの文化遺産を有する魅力的な町である。中でも鉢形城を外すことはできない位有名な城で、「日本100名城」にも掲載されている。
所在地     埼玉県大里郡寄居町鉢形2496-2
区  分     国指定史跡
城郭構造    連郭式平山城
築城年、主   文明8年(1476) 長尾景春
主な城主    長尾景春 上杉顕定 北条氏邦
           
 鉢形城(はちがたじょう)は、埼玉県大里郡寄居町大字鉢形にある戦国時代の城跡であり、構造は連郭式平山城。現在は国の史跡に指定され、鉢形城公園(はちがたじょうこうえん)として整備されている。園内には鉢形城歴史館(はちがたじょうれきしかん)が建てられ、往時の鉢形城の姿を紹介している。
 鉢形城は、深沢川が荒川に合流する付近の両河川が谷を刻む断崖上の天然の要害に立地し、その縄張りは唯一平地部に面する南西側に大手、外曲輪、三の曲輪(三ノ丸)の三つの郭を配し、両河川の合流地点である北東側に向かって順に二の曲輪(二ノ丸)、本曲輪(本丸)、笹曲輪と、曲輪が連なる連郭式の構造となっている。搦手、本丸、二ノ丸、三ノ丸および諏訪曲輪には塹壕をともない、また北西側の荒川沿岸は断崖に面する。
 初めて鉢形城を築城したのは関東管領山内上杉氏の家臣である長尾景春と伝えられている。その後、小田原の後北条氏時代に北条氏邦によって整備拡張され、後北条氏の上野国支配の拠点となった。その後、下野国遠征の足がかりともなったが、その滅亡とともに廃城となった。
 関東地方に所在する戦国時代の城郭としては比較的きれいに残された城のひとつと云われ、1932年、国の史跡に指定された。1984年からは寄居町による保存事業が開始された。現在は鉢形城公園として整備され、鉢形城歴史館が設置されている。
           
                       鉢形城のすぐ北側にある荒川。
                断崖の地形は今も昔もそれほど変わらなかっただろう。

 鉢形城の始まりは、1473年6月、山内上杉氏の家宰であり、同家の実権をふるった長尾景信が古河公方足利成氏を攻める途中、戦闘は優位に進めたものの景信自身は五十子において陣没した。長尾家の家督を継いだのは景信の嫡男長尾景春ではなく弟長尾忠景であり、山内上杉家の当主上杉顕定も景春を登用せず忠景を家宰とした。長尾景春はこれに怒り、1476年、武蔵国鉢形の地に城を築城し、成氏側に立って顕定に復讐を繰り返すこととなる。
 その後上杉家の城として栄えた。室町末期、上杉家の家老でこの地の豪族であった藤田康邦に、小田原の北条氏康の四男氏邦が入婿し城主となった。北条氏邦は城を整備拡充して現在の規模にし、北関東支配の拠点および甲斐・信濃からの侵攻に対する防備の要とした。しかし、天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原攻めの際、前田利家、上杉景勝らに包囲攻撃され、一ヶ月の籠城の後、北条氏邦は城兵の助命を条件に降伏・開城した。その後、徳川家康の関東入国に伴い廃城となった。
           
                            鉢形城俯瞰図
 この城の最大の特徴はその立地にある。鉢形城は、深沢川が荒川に合流する付近の両河川が谷を刻む断崖上の天然の要害に立地し、その縄張りは唯一平地部に面する南西側に大手、外曲輪、三の曲輪(三ノ丸)の三つの郭を配し、両河川の合流地点である北東側に向かって順に二の曲輪(二ノ丸)、本曲輪(本丸)、笹曲輪と、曲輪が連なる連郭式の構造となっている。搦手、本丸、二ノ丸、三ノ丸および諏訪曲輪には塹壕をともない、また北西側の荒川沿岸は断崖に面する。
 
     二の曲輪から三の曲輪方向を撮影             二の曲輪の南側にある馬出
鉢形城の歴史
 
鉢形城跡は、戦国時代の代表的な城郭跡として、昭和7年に国指定史跡となりました。指定面積は約24万㎡です。
 城の中心部は、荒川と深沢川に挟まれた断崖絶壁の上に築かれていて、天然の要害をなしています。この地は、交通の要所に当たり、上州や信州方面を望む重要な地点でした。
 
 鉢形城は、文明8年(1476)関東管領であった山内上杉氏の家宰長尾景春が築城したと伝えられています。後に、この地域の豪族藤田康邦(やすくに)に入婿した、小田原の北条氏康(うじやす)の四男氏邦(うじくに)が整備拡充し、現在の大きさとなりました。関東地方において有数の規模を誇る鉢形城は、北関東支配の拠点として、さらに甲斐・信濃からの侵攻への備えとして重要な役割を担いました。
 また、鉢形城跡の周辺には、殿原小路や鍛冶小路などの小路名が伝わっており、小規模ながら初期的な城下町が形成されていたことが窺えます。
 
 天正18年(1590)の豊臣秀吉による小田原攻めの際には、後北条氏の重要な支城として、前田利家・上杉景勝等の北国軍に包囲され、激しい攻防戦を展開しました。1ヶ月余りにおよぶ籠城の後、北条氏邦は、6月14日に至り、城兵の助命を条件に開城しました。
 開城後は、徳川氏の関東入国に伴い、家康配下の成瀬正一・日下部定好が代官となり、この地を統治しました。
                                                       案内板より引用                                                                                          
           
 

 関東地方に所在する戦国時代末期の城郭としては比較的きれいに残された城のひとつと云われ、1932年(昭和7年)、国の史跡に指定された。1984年(昭和59年)からは寄居町による保存事業が開始され、現在は鉢形城公園として整備され、鉢形城歴史館が設置されている。



 ところで余談になるが寄居町折原には壱岐天手長男神社(あめのたながおじんじゃ)が鎮座している。この社は先祖が壱岐よりこの地に土着した折に、壱岐の天手長男神社を勧請したものと伝えられていて、地元では「お手長さま」と呼ばれているという。同町小園にも壱岐天手長男神社があり、こちらはその分社らしい。
 この社の総本社は長崎県壱岐市郷ノ浦町にある壱岐天手長男神社であるが、「鉢形山」、または「鉢形嶺」と呼ばれる古くより神奈備山として信仰の対象になっていた山上に鎮座している。「鉢形山」と「鉢形城」と全く同じ地名だ。

 寄居町の「鉢形城」の名前の由来は幾つかあり、以下のようである。
1 「円錐形の山」で文字通り鉢の形を見たてた名称とされる(『地名用語語源辞典』)。
2 ハチはハシ(端)の転で台地のヘリの意となって崖地を指すとし、形[かた]は 「方」で、すなわち、方向・場所の意となる。鉢形(本田)の西部には谷津が走り、また反対側 の東方にも、二流の浸食谷が鉢形の北東部で合流して、台地(鉢形中坪)を大きく湾曲しながら 南下し、鉢形の南突端で西流の谷津と合流するなど、谷、崖、湿地に関連する地形、流れが多数 あって鉢形はそれらに囲まれた台地上にある。
3 鉢は、仏具の応器(応量器)のこととされる。それは、僧が托鉢[たくはつ]の時に 使う鉢のことを言い、僧尼が玄関先で経文を読み、布施される米やお金を受け取る時の器をいう。

 対して壱岐天手長男神社の「鉢形山」の由来は、神功皇后が朝鮮出兵の折、兜(かぶと)を鉢(境内地)に治めて、戦勝を祈願したことからこの名がついたといい、何となく寄居町の「鉢形城」と同じようにも思える。壱岐島という武蔵国から大変離れた場所ながら同神社は寄居町小園地域や深谷市萱場地方にもあり、別名天手長男神社として境内社、末社まで含めると埼玉県北部には思った以上に存在し、当時の海上による交流が我々が考えている以上に豊かだったのではないかと考える。

 この壱岐島の「鉢形嶺」と寄居町の「鉢形城」、はたして名前の一致は偶然なのだろうか。



                                                                                                       

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下忍神社

 
 下忍神社が鎮座する行田市下忍地区は、その昔、忍城の下(外れ)といい戦国時代以前からの名称であったそうで、口碑には「下忍の地名の下は、上(殿様)に対するもので、当地は武士が住んでいたところから、忍城に対して下忍と呼ぶようになった」とある。
 この「忍」という地名は戦国時代以前よりかなり古くからこの地方で使用されていたようだ。その由来として忍は磯辺(オシベ)の転化とか、鴛(オシドリ)がすんでいたからであるといわれ、河川や沼地が多かったこの地らしい口伝がある。また文献上では鎌倉時代の東鑑という本に忍五郎、鴛三郎が活躍していることが出ているから、その当時から用いられていたのだろう。そして1050年頃、忍氏がこの地域を開拓し、「忍荘」として交通の要路となったと言われている。
 またこの社は古くから久伊豆社と称して鎮座していたと伝えられ、旧下忍村の鎮守となっていた。明治2年村社に列格、高畑の塞神社、東谷の天神社をを合祀、明治42年に下忍神社と改称、さらに同年中京田の山神社、高畑の琴平神社を合祀したといわれる。
所在地   埼玉県行田市下忍1160
御祭神   大己貴命
社  挌   旧村社
例  祭   不明
 

         
 下忍神社は下忍愛宕神社から埼玉県道148号騎西鴻巣線を北方向に進む。道なりに進み、途中県道と別れる変則的な十字路を直進する。そのまま北上すると4,5分くらいで左側に下忍神社が鎮座する場所に到着する。駐車スペースは神社の南側にあるのだが、入口付近は鎖で塞がれていていたので、北側に路上駐車して急ぎ参拝を行った。
            
                            下忍神社 正面
 
            右側には手水舎                                           拝殿の手前にある力石
           
                              拝    殿
 
  拝殿上部にある「久伊豆神社」と書かれた扁額                拝殿内部
           
                             本    殿
下忍神社の由来 
 「武蔵志」には「下忍、境地ノ南ニテ士町足軽町アリ」と載せ、口碑には「下忍の地名の下は、上(殿様)に対するもので、当地は武士が住んでいたところから、忍城に対して下忍と呼ぶようになった」とある。
当社の創始は、口碑に「下忍神社は晋、久伊豆社と呼んでいた。久伊豆社は武蔵七党の一つ私市党の氏神で、私市城の鎮めに祀った社である」というが、私市城との関係は明らかにできない。また「明細帳」には「昔ヨリ下忍村上組総鎮守ト仰キ云々」とあり、「風土記稿」には「久伊豆社 村の鎮守とす、明光寺持」と載せている。
 明治初めの神仏分離により寺の管理を離れ、明治2年に村社となり、同3年高畑の塞神社を境内に合祀し、同42年には東谷の天神社を本殿に合祀して、社号を下忍神社と改める。更に、同年中京田の山神社、高畑の琴平神社を境内に合祀する。
合祀社のうち塞神社は、古くは道六神と称し、既に「慶長13年検地水帳」(島崎隆家所蔵)にその名が見えることから古社であることが分かる。また、琴平神社は、旧別当明光寺の本山、行田遍照院の金毘羅大権現であり、神仏分離により下忍飯田萬吉家に移され、次いで当社に合祀したものである。内陣に、「弘化四年開眼供養」の墨書がある金毘羅権現像(24cm)を安置している。
                                         埼玉県神社庁 「埼玉の神社」より引用

 この下忍神社の隣には明治2年に合祀した高畑の琴平神社が二社並列という形で鎮座している。
          
                        合祀社 琴平神社正面
            
                           琴平神社 拝殿
 

   下忍神社と琴平神社の間にある石祠群        琴平神社の拝殿手前にある「新川早船絵馬」 
                                               の案内板
新川早船絵馬
  本絵馬は明治6年に琴平神社に奉納されたもので、江戸時代から明治初頭頃にかけて賑わった新川河岸に関わる人々が奉納したものである。
絵師は岩田霞岳で、中央には早船の様子、左上には河岸問屋の様子が描かれ、下半部には奉納者の名前と国・村名が列記されている。当時の荒川舟運や新川河岸の様子、金比羅信仰の様相等を示す貴重な資料である
                                           行田市教育委員会掲示板より引用
   
 この絵馬は、明治6年(1873)に琴平神社(下忍神社境内)に奉納されたもので、作者は絵師の岩田霞岳(かがく)、願主は芝崎鉄五郎です。桐板6枚を繋げて造られ縦77.5cm、横104.7cmの額装です。新川とは新川河岸(かし)の事で、寛永6年(1629)の荒川開削以降に開かれ、主に忍藩の年貢米や御用荷物の運送で賑わいましたが、鉄道の開設により衰退し、大正末頃には消滅してしまいました。
 画面中央には早船の様子、左上には河岸問屋の様子が描かれており、船、問屋の家屋、波頭が見事な筆致で描かれています。下半部には本絵馬の奉納者の名前と国・村名が列記されていますが、その構成は埼玉県の外、栃木、千葉、茨城、群馬県にまで及んでいます。奉納者は、問屋仲間や船頭仲間として新川河岸とつながりのあった者と考えられ、彼らが商売繁盛と航行の安全を祈願して、船運の神として信仰されていた琴平神社に奉納したものと思われます。当時の船運、新川河岸の様子や金比羅神社信仰の様相を示す貴重な資料です。
                                           行田市教育委員会掲示板より引用

 新川早船絵馬は荒川の新川河岸の様子を描いた絵馬であり、行田市指定文化財(歴史資料)となっている。
 新川河岸とは現在の熊谷市久下付近の荒川に明治初期まであった、河岸場(やっちゃば、舟運の荷降しのための中継所)である。荒川からはかなり遠方である下忍村にまで、舟運関係者が在住していたようで、この絵馬は当時の新川河岸の規模の大きさと賑わいぶりを示している。

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下忍愛宕神社

 忍川は延長12Km、流域面積25Km2の中川水系の一級河川。河川管理上の起点は熊谷市平戸にあり、源流にあたる熊谷市中心市街地の区間(一級河川指定区間外)では星川と呼ばれるが、同市市街地北部を流れる星川とは別の川である。この起点である箇所から東へ向かって流れ、行田市の市街地を経由し、秩父鉄道を横断した付近から流路を南へ変え、最後は吹上町袋で元荒川の左岸に合流する。古い時代(中世あるいはそれ以前)には、忍川の流路は乱流していて不定であり、星川の派川だった時代を経て、流路は次第に荒川の派川へと移行していったと思われる。
 戦国時代には、忍城主 成田氏によって星川の水が忍沼(忍城の外堀)へ導水されている。これは新規に水路を開削したのではなく、星川の派川跡を改修したものだと思われる。取水口跡(行田市総合公園の南側、行田市谷郷)には、大樋跡の碑が建てられている。
所在地    埼玉県鴻巣市下忍2842
御祭神    八坂大神
社  挌    不明
例  祭    例祭日7月23・24日

        
 下忍愛宕神社は旧北足立郡吹上町の北東側で、埼玉県道148号騎西鴻巣線と上越新幹線が交差する近くに鎮座している。吹上町は中山道の熊谷宿・鴻巣宿間があまりにも遠距離であったため、ちょうど中間地点に位置していた吹上村が非公式の休憩所である間の宿として発展し始め、それがまた、城下町・(現・行田市)に向かう千人同心街道の設置に当たっては正式な宿場の一つ・吹上宿として認められることとなり、重要な中継地として発展したという。
 2005年(平成17年)10月1日に北埼玉郡川里町と共に鴻巣市に編入されて、市域の一部となった。
 
           
                           下忍愛宕神社遠景
 
 下忍愛宕神社の創建年代は不詳。新編武蔵風土記稿には「天神社、明光寺持。愛宕社」と記載され、また近隣の下忍千手院が愛宕山と号し、寛永年間(1624-1643)以前の創建といわれることから、愛宕社は、江戸時代初期以前に鎮座していたものと思われる。
             
                             拝    殿
 
        拝殿の右側にある天神社                    左側には日枝神社
                       
                             本    殿
 この社の最大の特徴は拝殿の奥の本殿が愛宕山古墳、つまり墳頂上にあることだ。愛宕山古墳は、直径20~30m、高さ3m程の古墳時代後期の円墳と推定されているが、出土品などが確認されていないため、塚の可能性もあるという。 墳頂には愛宕神社が祀られていて、周りはコンクリートで固められ墳形は大きく変形していて原形を留めていないように見える。ちなみにこの愛宕山古墳は昭和34年1月16日鴻巣市指定史跡に指定されている。
           
                           愛宕山古墳 案内板
           
 下忍愛宕神社の規模は小さい社ではあるが、本殿が墳頂上にある為、遠目からでも確認できるくらい存在感のある社である。古墳か塚かどうかの議論の余地はあるにしろ、この面白い配置故に見た目にも不思議な余韻を残してくれる、そんな社である。

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広田鷺栖神社

 広田鷺栖神社は鴻巣市川里地区にあり、旧名広田村と称し、古くから田地として開発されている肥沃な土地であり、現在も白鷺の姿を多く見るところである。埼玉県神社庁発行の「埼玉の神社」によれば白鷺が田に下り稲を荒らしても、農民は決して追い払うことをせず「お鷺様お立ちください」といって去ってもらうという。また、過っても鷺を殺すと口のきけない子供が出来るといわれている。
 コウノトリ伝説で有名な鴻巣市らしい説話だが、このような鷺の伝承、伝説がこの広田鷺栖神社周辺に少なからず存在している。

         
            ・所在地 埼玉県鴻巣市広田3814
            ・ご祭神 日本武尊
            ・社 挌 旧広田村鎮守・旧村社
            ・例祭等 筒粥神事 215日 春日待 415日 秋季例祭 1015日
 広田鷺栖神社は埼玉古墳群の南東方向にあり、県道313号北根菖蒲線に面して鎮座している。地図を見ると良く解るが、不思議とこの鷺栖神社から埼玉古墳群の丁度中間地点には小崎沼があり、何かしらの関連性を伺わせる位置関係にあると思われる。
                
                           広田鷺栖神社正面
 広田鷺栖神社が鎮座する旧川里町周辺は、一昔まではサギ山と言われる集団繁殖地(コロニー)を形成していたらしい。このサギ山は現在でも日本各地にあるが、全国各地に「鷺山」という地名がたくさん残っていることから、かつては現在よりもさらに多くのサギ山があったと考えられている。
 埼玉県内でもこのサギ山は20年前までは14か所あったらしいが、水田転作で田んぼが減ってしまったり、田んぼが近代化することで、サギのエサとなる魚やカエルにとって住みにくい場所に変わってしまったため、サギ類の数は以前よりは少なくなってしまいサギ類の集団繁殖地サギ山も減少傾向にあり、現在では5か所と約3分の1になってしまったという。残念な現実だ。
 
            入口近くに設置されている「広田のささら」の掲示板(写真左・右)
 鴻巣市指定無形民俗文化財
 広田のささら   昭和50年12月15日指定

 広田のささらは、別名「龍頭舞」といい、頭に龍頭をかぶって舞う獅子舞である。
 この獅子舞は、寛永十六年(一六三九)七月二十七日より地区内の諏訪神社で始められたと伝えられている。その後、明治四十二年に諏訪神社が鷺栖神社に合祀されてからは、獅子舞は鷺栖神社の神事として毎年十月  十五日の大祭に、五穀豊穣と悪魔除けを祈願して奉納されている。(中略)               境内案内板より引用
 広田鷺栖神社の氏子区域は旧広田村で300戸程あり、現鴻巣市旧川里村全域の鎮守様である。当所は旧村名の広田が示すように水稲・陸稲の田地が広がる肥沃な地であり、このため、鴻巣市の指定無形民俗文化財である「広田のささら」を始め、多くの農耕関係の行事をよく伝えている所である。 
           
                      境内に建つ朱が鮮やかな二の鳥居                                                       

           
                               拝  殿        
『新編武蔵風土記稿 広田村』
 鷺宮 村の鎭守とす、祭神詳ならず、
 別當金剛院 本山修驗、屈巢村櫻本坊の配下なり、本尊不動を置、

 鷺栖神社  川里村広田三八一四(広田字東)
 当社の創建については、社伝に「昔伊勢の国・能保野(のぼの)を発ちし日本武尊の神霊白鷺の姿となり当地に飛来し翼を休める、当社是により祀る。社殿の造営は明応七年、鷺の宮と号す」とある。
 当地区は旧名広田村と称し、古くから田地として開発されていつ肥沃な土地であり、現在も白鷺の姿を多く見る所である。白鷺が田に下り稲を荒らしても、農民は決して追い払うことはせず、「お鷺様お立ちくだせい」といって去ってもらうという。また、誤っても鷺を殺すと口のきけない子供が出来るといわれている。
 祭神は日本武尊であり、古くは修験金剛院が当社の別当を務めた。明治二年神仏分離により、鷺栖神社と改称する。明治以降、当地の倉川家が神職となり、のちに松岡家がこれに代わって祀職を務めている。
 元禄一四年銘の棟札及び文政三年の修理棟札を有した旧本殿は、昭和四一年の台風により倒壊し、現在の社殿はその後の再建である。
 明治四二年一一月に字本村の榛名神社・諏訪神社、東の久伊豆神社、原の子宮神社、谷畑の天神社、三ヶ谷戸の八幡神社、堤の秋葉神社、六軒の日吉神社の八社を本殿に合祀している。
なお、合祀跡及び旧別当金剛院跡地は小作地としていたが、農地解放により失った。
                                                        「埼玉の神社」より引用

 拝殿上部には「筒粥神事」の進行を記した目録が張られている。
 215日の筒粥は、合祀前東の久伊豆社組の行事であったが、合祀後当社の行事となる。筒粥には、白米一升二合(閏年一升三合)小豆一合二勺(閏年一合三勺)竹又は篠(節なし)長さ一寸二分(閏年一寸三分)二九本が用いられ、神前(拝殿前庭)に竈作りと称し太い生木を三本左義長(サギッチョ)に立て、これを釡にかける。竹筒に粥が入った状態により二九種の作物の出来を占うという。
 
        拝殿上部に掲げてある扁額                       拝殿内部
 
    社殿の左側にある境内社 榛名神社       社殿の奥には弁天・塞神等の石祠が祀られている。
           
                           境内西側にある神楽殿 
              神楽殿の右側並びには幾多の伊勢講記念碑が並んでいる。
            
                                             埼玉県道の南側にある一の鳥居と社号標 
          
 広田鷺栖神社の一の鳥居から西側道路隅に「鴻巣市指定文化財 天然記念物」の指定を受けている『新井家の大榎』の大木・老木ある(写真左)。高さはそれ程ではないが、幹回り等、なかなかの貫禄があり、案内板(同右)によると天正19年に新井家のご先祖がこの地に定住した時点で、既に大木であったというのだから、推定樹齢は430年以上となろう。

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箕田2号墳(三士塚)、宮前宮登古墳

 箕田古墳群は鴻巣市にある古墳群で、大宮台地の北端部に位置し、東西800m、南北800mの広大な地域に渡って分布している。古墳は荒川・元荒川の沖積地に囲まれた標高16~18mの台地上に立地し、九基の古墳が確認されているが、現在は7基が残っているそうだ。その中でも箕田2号墳、宮登古墳が特に有名だ。
       
1 箕田2号墳(三士塚)
 所在地   埼玉県鴻巣市箕田(字九右衛門)1260
 区  分   鴻巣市指定史跡 1970年(昭和45年)3月10日
 埋葬者   不明
 築造年代 6世紀後半(推定)
 箕田古墳群の代表格のような古墳で別名「三士塚」。5号墳に次ぐ箕田古墳群第2位の規模をもつ古墳である。現状は直径23m、高さ3mを測る円墳で、墳丘の形状を良く残しているといわれている。周辺が宅地化されているにも関わらずこの古墳の辺りだけは緑に囲まれひっそりと佇んでいる。
           
箕田古墳群
本古墳群は大宮台地の北端部に位置し、東西800m、南北800mの広い地域に渡って分布している。古墳は荒川・元荒川の沖積地に囲まれた標高16-18mの台地上に立地し、龍泉寺・富士山・宮前・稲荷町の四つの支群を形成している。
今までに九基の古墳の所在が知られているものの、現在は1・3号墳が消滅しているため、わずかに七基の古墳が残っているのみである。しかし、付近一帯に埴輪片が採集される事実からすると往時は相当数の古墳が存在していたものと思われ、鴻巣市では生出塚古墳群と並んで最も多くの古墳が密集していた地域である。
発掘調査は昭和3年に柴田常恵氏によって7号墳が行われたのをはじめとして2・3・9号墳(宮登古墳、宮登神社内)で実施されており、須恵器有蓋高坏・はそう・埴輪・金環・切子玉・丸玉・鉄鏃等が発見されている。
箕田古墳群の築造年代は、出土遺物や最近の発掘調査より六世紀初頭から七世紀中葉の約150年間に及ぶことが判明している。

箕田2号墳
本墳は別名「三士塚」と呼ばれ、5号墳に次ぐ箕田古墳群第二位の規模をもつ古墳である。現状は直径23m、高さ3mと測る円墳で、墳丘の形状を良く残している。
昭和58年に隣接地で発掘調査が行われ、墳丘を巡る周溝が確認されている。それによると築造当時は、直径32mを有する大型古墳であったことが明らかになっている。また周溝より須恵器有蓋高坏・甕の破片及び埴輪片が検出されており、本墳は六世紀後葉に築造されたものであることが判明している。
なお、本跡の南側一帯は箕田館の推定地となっており、それに関連して本墳は武蔵守源任及び妻子の墓とする古記述がある。しかし、築造年代からするとこの記述を信用することはできず、おそらく後世に両者が結びついて伝承されたものであろう。
                                                           案内板より引用
 昭和58年の調査では、周溝(しゅうこう)が確認され、築造当時は32mの大型古墳であったことや、出土品から、築造年が6世紀末であることが判明している。またこの古墳に接して氷川神社の故地があり、「新編武蔵風土記」には「社(氷川神社のこと)の後に小塚あり、高さ六、七尺幅十二、三間、往年土人此塚を穿ちしに、古鏡太刀などの朽腐せしものを得たり、これ古へ貴人を葬埋せし古墳なるべしといへり」と紹介している。


2 宮前宮登古墳
 
 所在地   埼玉県鴻巣市宮前88
 区  分   鴻巣市指定史跡 1970年(昭和45年)3月10日
 埋葬者   不明
 築造年代 7世紀前半から中頃(推定)
                  
 宮前宮登古墳は宮登神社の奥に小じんまりと佇んでいる。通称箕田9号墳。よく見ると社の後方に箱式石棺の一部が露出していて、案内板には石室について記述されている部分もあり、それが石室の一部ではないかと思われる。
  発掘調査が1959年に行われ、埋葬施設は横穴式石室となっている。出土したものとして須恵器、土師器、切子玉、管玉、丸玉、鉄鏃などが知られている。
           
                 宮前宮登神社の鳥居周辺にあった宮登古墳の案内板
 宮登古墳
 箕田古墳群中の一基で、荒川に面する大宮台地の西側縁辺部に位置している。
墳丘の保存状態は比較的良好で、直径20m、高さ2m程を有する円墳である。昭和34年に埋葬部の発掘調査が行われており、それによると主体部は、角閃石安山岩を使用した胴張り型横穴式石室で、玄室長2.9m奥壁幅1.3m、高さ1.65mを有する。
 玄室内からは、須恵器はそう・鉄鏃・切子玉(水晶製)・管玉・丸玉他が出土しており、これらの遺物から七世紀の前半から中頃かけて築かれた古墳と考えられている。また、埴輪類は認められていないので、埴輪樹立の風習が行われなくなった以後のものであろう。
なお、石室に使われた角閃石安山岩は、群馬県榛名山二ツ岳の爆発によりできた岩石で、利根川流域に分布する。本墳を作った人々は利根川からわざわざこの岩石を運んだものであろう。
                                                           案内板より引用

 この案内版によると、この石棺使用された角閃石安山岩は群馬県榛名山の火山噴火でできた火山岩である。この角閃石安山岩とは、火山岩の1種類で、角閃石を含んだ安山岩をいう。 特に、古墳時代の群馬県においては、Hr-FP(榛名山の噴火)の噴火による軽石を指す。古墳時代に大量に石を必要とする古墳の石室や羨道造りに多数使われており、綿貫観音山古墳、総社二子山古墳を始めとした横穴式石室を持つ古墳によく用いられ、群馬県、埼玉県では120基以上の古墳で使用された。

 宮前宮登古墳は箕田古墳群の他の古墳と異なる系統の石材が使用され、周辺の支配者の系譜に何らかの変化があったのではないかと言われているが詳細は現在不明だ。

               

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