古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

下須戸八坂神社


        
             
・所在地 埼玉県行田市下須戸2840
             
・ご祭神 素盞嗚尊
             
・社 格 旧下須戸村鎮守 旧村社
             
・例祭等 7月第2土日曜日
 埼玉県道128号熊谷羽生線を行田市街地、工業団地を通り過ぎた先の「下須戸」交差点を左折し、同県道364号上新郷埼玉線を900m程北上する。その後十字路を左折して500m程道なりに進むと、右側に下須戸八坂神社の鳥居が見えてくる。
        
                  下須戸八坂神社正面
 行田市中部東端に位置する下須戸地域は上星川が同市小見地域で見沼代用水と合流し、南東方向に流れるその左岸にある広大で肥沃な田園地域である。
 社の鎮座する「須戸」という地域名の語源は「洲門」であり、すなわち中洲の先端を意味するものといわれ、嘗ては利根川流域に多くあった地名であったという。
 不思議なことに下須戸近郊にはそれに対する「上須戸」は存在しない。ここから10km以上北西方向に離れた旧妻沼町に「上須戸」が存在し、この両村で対をなしているようだ。
『新編武蔵風土記稿』埼玉郡之十九 忍領
「郡中に上須戸と云村なし、ここより北の方三余里を隔てて幡羅郡上須戸村ありて、下須戸村なし、是両郡に跨て上下を唱へしものなるべし」
 言い伝えによれば、約700年前鎌倉幕府の迫害を受けた一人の僧が、牛頭天王の像を奉じて当地に住み着いたという。これが当社の旧別当真言宗天王院医王寺の開基であり、同寺の寺鎮守として牛頭天王像を祀ったことが当社の創始である。
        
                  
下須戸八坂神社境内
        
                     拝 殿
「行田の神々」23 八坂神社(下須戸)
 行田市の東側、国道125号沿いにある太田西小学校の近くに鎮座しています。
 言い伝えによれば、鎌倉幕府から追われた一人の僧が、牛頭天王像を奉じて当地に住み着きました。この僧が当地に真言宗医王寺を開き、この寺の鎮守として、牛頭天王像を祭ったのが始まりであるといわれています。
 古くは牛頭天王社と呼ばれていましたが、明治時代の神仏分離により、医王寺の管理を離れ、社名も八坂神社に改められ、主祭神も農耕の神様として信仰されているスサノオノミコトが祭られています。
 社殿のかたわらに小さな池がありますが、昔、周辺の村々に疫病が流行したとき、医王寺の僧が村人に疫病感染の原因である生水を飲むことをやめさせ、代わりにこの水を沸騰して飲むことを進めたお陰で、この村は疫病から守られたといいます。
 当社が牛頭天王社として信仰されていた江戸時代において、下須戸村は一時忍領であったこともありますが、長く幕府領でした。
 さらに、下須戸の須は、州で中州の先端を意味するといわれます。行田市の地図を見ると見ると良く分かりますが、南の荒川、北の利根川がかつて低地である行田市内を、乱流した痕跡が良く残されています。下須戸付近も乱流した川の痕跡が明らかに残る所であり、こうした地形から地名が付けられたのかも知れません。 
        
               社殿の左側には小さな池がある。
 上記「行田の神々23 八坂神社」に記されているように、昔近郊一円に疫病が流行り、医王寺の僧は感染の原因となる生水の飲用を村人にやめさせ、代わりにこの池の水を沸かして与えたところ、当地は疫病から守られたと伝わっていて、古くからの信仰の中心といわれていたのであろう。
 今ではその面影はなく、バリケードで張り巡らされているなど、寂しい状況となっているが、嘗てはこの池の水に対する信仰があり、遠くからはるばるこの水を受けに来るものが後を絶たなかったという。
        
                    本 殿  
          
                            拝殿手前左側に祀られている
                           若宮八幡社・辨才天等の石祠、石碑。
 この「辨才天」は下須戸地域の南方にある埼玉地域に鎮守する宇賀神社同様、出自不明の蛇神である「宇賀神」と同神であると考えられる。この宇賀神は、日本で中世以降信仰された神であり、神名の「宇賀」は、日本神話に登場する宇迦之御魂神(うかのみたま)に由来するものと一般的には考えられていて、その姿は、人頭蛇身で蜷局(とぐろ)を巻く形で表され、頭部も老翁や女性であったりと諸説あり一様ではない。
 元々は宇迦之御魂神などと同様に、穀霊神・福徳神として民間で信仰されていた神ではないかと推測されているが、両者には名前以外の共通性は乏しく、その出自は不明である。
 社の鎮座する場所の多くが、河川に隣接する所もあり、水との関連性が強いといわれる蛇神・龍神の化身とされることもある。
        
                    境内の一風景
 埼玉地域の宇賀神社には河川に関連した伝承である「おさき伝説」が今なお語り継がれていて、「いつのころかこの村に、おさきという娘がいた。ある時おさきが、かんざしを沼に落とし、これを拾おうとして葦で目を突いたあげく、沼にはまって死んでしまったため、村人たちは、おさきの霊を小祠に祀った」。また「おさきという娘が、ある年日照りが続き百姓が嘆くのを見て、雨を願い自ら沼に身を投じたところ、にわかに雨が降り地を潤し百姓たちはおおいに助かり、石祠を立て霊を祀った」とあり、当初は霊力の強い神霊を祀ったものが時代が下がるに従いこの地が水田地帯であるところから、農耕神としての稲荷信仰と神使のミサキ狐の信仰が習合し現在の祭神宇賀御魂神が祀られたと考えられている。

 八坂神社は、神道と仏教の融合・神仏習合の典型例といえる神社で、一説では、斉明天皇2年(656)新羅の牛頭山に鎮座していた素盞嗚尊の霊を迎えて創祀されたとされているこの神様は神仏習合の中で祇園精舎の守護神であり、疫病を鎮める仏教の神・牛頭天王と同一視され、明治の神仏分離令まで牛頭天王を称していた。こうした起こりから、八坂神社は厄難退散の性質が色濃く出ている神社でもある。
 この下須戸八坂神社は「素盞嗚尊」を祭神とした社であり、神話において描かれている「素盞嗚尊」のヤマタノオロチの大蛇退治伝説の話は、出雲の斐伊川の治水事業を象徴した話であるという解釈もある。社の鎮座する「須戸」という地域名の語源は「洲門」であり、すなわち中洲の先端を意味するものといわれ、河川に関連した地域名であることから、当時の地元住民の方々が子孫繁栄・五穀豊穣を祈り、「素盞嗚尊」をご祭神とする八坂神社を創建した一方で、弁財天を祀ったと考えることもできよう。



参考資料「
新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「行田の神々」「忍の行田の昔話」
    Wikipedia」等
 

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若小玉勝呂神社

 若小玉勝呂神社のご祭神は中筒男命(なかつつのおのみこと)で、住吉大神の1柱であり、航海の神で、住吉系の社である。この住吉神社の「住吉」という社名由来は、神功皇后が住吉大神をお祀りされる際、それに相応しい土地を探したが、この地を見つけた時に、「真住吉」との託宣を得られ、この地を住吉と名づけて鎮座したという
現在、この「住吉」は、スミヨシと読むが、古くは「墨江(スミノエ)」と読んでいたり、時には「清江」と表記される事もある。
『古事記』
 其底筒之男命、中筒之男命、上筒之男命三柱神者、墨江之三前大神也、
 スミノエの「エ」とは、今でも関西圏では、良い事を「ええ」(良い)というのと同じで、神さまが「住むのに良い」という意味で、神さまの御心にかなう土地ということで住吉となった。また住吉大神は祓の神様でもあり、昔の住吉の海岸は水が美しかったということもあり、正に「澄み良し」という意味もある。
 勝呂神社が鎮座する若小玉地域は、「埼玉の津」で有名な埼玉古墳群の北方近隣にあり、嘗ては利根川や荒川水系河川等が流れる自然豊かな地域であったのであろうか。
        
              
・所在地 埼玉県行田市若小玉2630
              
・ご祭神 中筒男命 外四柱
              
・社 格 旧若小玉村鎮守 旧村社
              
・例祭等 例祭(若小玉の獅子舞) 920日に近い日曜日

 国道17号線を熊谷市街地からJR行田駅方面に進み、「佐谷田」交差点を左折する。途中までの経路は「佐谷田神社」「菅谷八幡神社」を参照。埼玉県道128号熊谷羽生線に合流後、暫く道なりに進み、行田市街地を抜け、武蔵水路を越えた「富士見」交差点から450m程先にある信号を左折する。左折する変則的な十字路の右側にはコンビニエンスがあるため分かりやすい。左折後320m先の十字路を左方向に進むと若小玉勝呂神社の正面に到着する。
 余談となり社とは全く関係のない話となるが、昔は国道125号といえば、上記「佐谷田」交差点から国道17号から分岐し、行田・加須方向に進行する道路と、新たにこの道路の北側を並列して進む「国道125号バイパス」の2本がある、との認識でいたが、調べてみると2018年(平成30年)330日に、熊谷市内の全区間(熊谷市佐谷田地内、行田・熊谷市境 - 終点間)の旧道が指定解除され、埼玉県道128号熊谷羽生線へ降格されたとのことだ。
 勝呂会館が社の北側に隣接しており、そこには駐車スペースも確保されていて、そこに止めてから参拝を開始する。
        
                  
若小玉勝呂神社正面
 
 鳥居の額には「正一位勝呂大明神」と表記      鳥居の右側にある社号標柱
       
                参道の先に見える二の鳥居
 旧若小玉村鎮守・旧村社で、参道周りの社叢林も勢いよく生い茂っており、静かで落ち着いた佇まいの神社。これほどの規模の社であるにも関わらず、残念ながら境内を見回しても案内板等は無く、後日ネット等で調べても勧請年月・縁起・沿革等は全て不明。
          
               二の鳥居の額には「勝呂神社」と表記      
 社には直接関係はないが、『日本歴史地名大系』には 「旧若小玉村」の解説が載っている。
 [現在地名]行田市若小玉・藤原町
 長野村の東、小見村の南に位置し、東は見沼代用水を隔てて下須戸村。八幡山古墳地蔵塚古墳などを含む若小玉古墳群が分布する。「万葉集」巻二〇に収める防人歌の作者埼玉郡防人藤原部等母麿遺跡として県の旧跡に指定されている。「吾妻鏡」嘉禎四年(一二三八)二月二三日条の参内する将軍に供奉した御家人のなかに若児玉小次郎の名があり、また同書建長二年(一二五〇)三月一日条に載る閑院殿造営雑掌のうちには若児玉次郎とあって、これらは当地在住の武士であろうという(風土記稿)。永仁三年(一二九五)九月一三日の関東下知状(別符文書)に若児玉氏元後家妙性尼がみえる。
 
       
                     拝 殿
 行田の神々22 勝呂神社(若小玉)
 国道125号線(現埼玉県道128号熊谷羽生線)の行田バイパスが武蔵水路、秩父線を跨ぐ行田大橋の南側に位置しています。
 神社の周辺は、現在大字名を若小玉(わかこだま)と呼び、鎌倉時代の『吾妻鑑』には、若児玉小次郎、若児玉次郎の名前が記載されており、このあたりに館をかまえていた武士と思われます。
 鞘戸(さやど)耕地に小次郎の館があり、屋敷鎮守の祠が残されていたが、江戸時代にはすでにみな陸田になり、痕跡は残っていない状態であったことが記録に残されています。このように古くは若児玉の字が使われており、さらに『群村誌』によれば若子玉から若小玉へと変わったといいます。
 神社の祭神は中筒男命(なかつつおのみこと)。いつ創建されたかについては明らかでありませんが、江戸時代までは、近くにある真言宗遍性寺が別当を勤めていました。
 勝呂神社は、近くでは南河原村にもあります。当社との関係は明らかでありませんが、南河原村の勝呂神社は、生田の森で先陣を取り討ち死にした河原兄弟で知られる河原氏が、もとは入間郡の勝呂村の出身で、移住するにあたり当所の住吉神社を勧請したもので、名前も地名を取り勝呂神社にしたと伝えられています。
 若小玉の当社では九月二十日の祭礼にササラ(獅子舞)が奉納されます。古くは雨乞いササラとも呼ばれ、『鐘巻(かねまき)』が代表的な演目として残っています。
        
                拝殿向拝部には精巧な「龍」の彫刻が施されている。

              木鼻部左右の「獅子」(写真左・右)
 
    拝殿正面左側の欄間には「獅子」       拝殿正面右側の欄間には「鳳凰」
 
   拝殿の左側には境内社が祭られている。          本 殿
        
               社殿の右側に並列して祀られている境内社・榛名社。
         規模は小さいながらも、社としても立派な造りである。
 境内社の榛名神社は氏子から群馬の本社と同格であるといわれ、古老の中には、こちらの神社の方が格が高いとする人もいる。そのために当地では本社に代参を行うことはない。
 四月三日は電嵐除けを祈願して「電祭り」を行う。当日「榛名神社祈祷神璽」の神札が農家に配布され、笛代や畑に立てられる。「榛名様のお陰で今年は作物がよくできた」とは、地元でよく耳にする話である。

 若小玉地区に伝わる民俗芸能である「若小玉の獅子舞」は、現在若小玉獅子舞保存会が保存・継承し、五穀豊穣、悪魔退散、村内安全を祈願して村の総鎮守である勝呂神社の大祭の際に奉納されている。起源については、江戸時代後半の文化11年(1814)に、村内の中里家に集まる若者を中心に始められたと伝えられている。
 獅子は法眼(ほうがん)、中獅子(なかじし)、雌獅子(めじし)の三匹獅子舞で、他に面冠(めんか)、おかめ、火男(ひょっとこ)、笛方、歌方、万燈、花笠などで構成されている。
 曲目は「橋掛り(はしがかり)」、「花掛り(はながかり)」、「鐘巻(かねまき)」の3曲でいずれも神話を題材としている。
        
                                境内に建つ神楽殿
 勝呂神社拝殿前で「橋掛り」を舞った後、村回りを行い、稲荷神社または諏訪神社(1年交替で獅子舞が演じられる)で「橋掛り」、秋葉神社で「花掛り」を奉納し、夜には勝呂神社で「鐘巻」、「花掛り」を奉納します。「鐘巻」は須佐之男命(すさのおのみこと)が八岐大蛇(やまたのおろち)を退治する場面の舞で、若小玉を代表する曲目です。舞の最後には、子どもたちが元気に育つようにとの願いを込め、面冠が見物客の中にいる子どもたちを鐘の上に座らせるほほえましい光景も見られる。
 現在は920に近い日曜日に実施されている。

○若小玉の獅子舞
・読み わかこだまのししまい
・区分 市指定民俗文化財
・種別 無形民俗文化財
・形態 三匹獅子舞
・指定年月日 平成21730
・所在地 行田市若小玉  勝呂神社 埼玉県行田市若小玉2630



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「朝日日本歴史人物事典」
    「住吉大社HPWikipedia」「行田の神々」等

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小沼氷川神社


        
               
・所在地 埼玉県坂戸市小沼840
               
・ご祭神 素戔嗚尊
               
・社 格 旧小沼村鎮守 旧村社
               
・例祭等

 越辺川(おっぺがわ)が東流から南流に流路が変わる右岸部に島田・赤尾・小沼という地域が続いていて、小沼氷川神社は赤尾金山彦神社の南東で直線距離にして約2kmの場所に鎮座する。赤尾金山彦神社から一旦埼玉県道74号日高川島線に合流し、そこから南西方向に進み、約1km先の十字路を左折、そこから首都圏中央連絡自動車道 坂戸ICを目指し、小沼地区の集落中央部に小沼氷川神社は鎮座している。
 残念ながらこの社までのルートは一本道がなく、また道路も入り組んでいるため、正確を期すためには、より細かい説明となってしまうので、このような曖昧な表現となってしまったことをお詫びしたい。
 社に隣接して「小沼集会所」があり、そこの駐車スペースをお借りしてから参拝を開始した。
        
                  小沼氷川神社正面
            社の正面鳥居からは日当たりもよく明るい雰囲気
 小沼地域は越辺川右岸の低地から台地に位置する。地域内には弥生後期の集落跡小沼新井遺跡、古墳後期の雷電山古墳群、雷電塚古墳(県文化財)があり、さらに元暦・正和・文和・貞和・永徳などの年号を刻む板碑が各所に点在し、古くから住居地になっていたらしい。
         
     鳥居の右側にある社号標柱        鳥居を過ぎると境内が左方向に見える。

『日本歴史地名大系』には「小沼村」の解説が載っている。全文紹介する。
[現在地名]坂戸市小沼
塚越村の東にあり、南西は青木村、東は南東流する越辺川を境に比企郡上伊草村(現川島町)。入間郡河越領に属した(風土記稿)。田園簿では田五〇七石・畑二二二石、川越藩領(六一〇石)と旗本酒井領(一一九石)。川越藩領分は寛文四年(一六六四)の河越領郷村高帳では高六三六石余、反別は田五四町四反余・畑四四町六反余。同帳に書き加えられた新田分は田九八石余、反別は田八町四反余・畑六町八反余。元禄一五年(一七〇二)には全村が川越藩領で(河越御領分明細記)、宝永元年(一七〇四)には同藩領を離れた。その後旗本島田領となり(国立史料館本元禄郷帳など)、化政期には川越藩領(文政一〇年「組合村々定方につき申上書」林家文書など)
        
                     拝 殿
八幡社
古は村の鎮守にて、民家も多く此社邊に住せしが、當社は越邊川の上にあれば、水溢の患ありとて今の所へ民家を移せしより、村内實蔵寺境内の氷川明神を産神とせり、村内東光寺持、
寶蔵寺
新義眞言宗、勝呂大智寺末、氷川山と號す、本尊は不動を安ぜり、
氷川社 村の鎮守なり
                               『新編武蔵風土記稿』より引用
 文化・文政年間に編集された「新編武蔵風土記稿」には小沼村の「産土神」として第一に「八幡神社」を載せている。しかし同時に氷川社も寶蔵寺境内に「村の鎮守なり」として祀られていた。「埼玉の神社」ではその経緯を次のように述べている「当地は慶長年間以前、二つの集落に分かれていて、越辺川の付近に一八戸が居住し八幡神社を産土の神と祀り、高台に三十数戸が居住し氷川神社を産土の神と祀る。常に両鎮守と称して崇敬されてきたが、越辺川は毎年水害を被り困難を来したために、寛永の頃高台の集落に全戸移転し、八幡神社はそのまま堤外に残した」と。
        
                       拝殿に掲げてある「正一位氷川大明神」の扁額
 その後、明治五年の社格制定にあたり、往時から住民は両社を鎮守としてきたところから、氏子一同話し合いの上、両社に氏子が分かれ、別々に村社に申し立てたが、同四〇年に八幡神社が氷川神社へ合祀され、同時に字西廊の八坂神社も合祀された。そのため、一間社流造りの本殿には、氷川大明神像とともに騎乗の八幡大明神像を安置している。
                                  「埼玉の神社」から引用
 
 境内社・稲荷神社・金刀比羅神社・神明神社       合祀社に掲げてある扁額
          合祀社

 ところで、島田天神社で紹介した伝承・伝説を改めて紹介する。そこには島田・赤尾・小沼という地域に共有する洪水に纏わる住民同士の対立を、「神様(竜神)の争い」としてぼかして語られているようにしか解釈できない説話であるからだ。
「島田のお諏訪さま」
 赤尾のお諏訪さまと島田のお諏訪さまは夫婦であるといわれていた(姉弟であるとも)。また、島田のお諏訪さまは小沼の方を睨むように耕地の中に建っており、島田と小沼は仲が悪く、未だに縁組みをしてはならないともいう。それは次のような話があるからだ。
 昔、越辺川が洪水となり、島田に大水が出そうになった時、島田のお諏訪さまと赤尾のお諏訪さまが竜神となって、小沼にある堤防を壊しに行った。または、二つのお諏訪さまから火の玉が上がり、小沼へと向かったともいう。
 そうして下流部の小沼の堤が竜神に切られ決壊すると、上手の島田や赤尾の水は引いて水害は無くなるのだった。この際、小沼のお諏訪さまからも竜神が出て、これを防ごうと大変な争いになったという。だから、島田と小沼は仲が悪かったのだ。

但し小沼地域にも上記の内容とは違った説話もあり、紹介したい。
「水害を救った梶坊」
 いつごろのことか定かではないが、まだ三芳野耕地が大雨のたびに水害になやまされていたころのこと、小沼の東光寺に梶坊という僧侶が住していた。この梶棒が洪水のたびになげき苦しむ里人の姿を見て、その害を除く祈禱をしたところ、対岸の赤尾と島田にある諏訪明神があばれ、堤を破壊するのだというお告げを得た。そこで梶坊は、自ら堤の守護神となって水害を防ぐことを決意し、八大龍王をまつり、生きながら龍神となるべく堤防下の沼に身を投げたという。それ以来、堤防の決潰はなくなったので、その徳を慕った里人は沼のほとりに梶房大権現として祀ったのである。

「島田のお諏訪さま」では結局のところ島田・小沼の仲違いの原因が、島田・赤尾のお諏訪さまが、小沼の堤防を壊したためとなっているが、「水害を救った梶坊」では、赤尾と島田の諏訪明神が堤を破壊することを小沼村の東光寺にいて、祈祷によるお告げで知った「梶坊」という僧侶が、自らを犠牲にして堤防下の沼に身を投げた。その僧侶の思いの根底には、島田、赤尾両村と小沼村の住民がいつまでも仲良く暮らしてほしい、という切実な願望からきているものであろう。そういう意味において水害を救った梶坊」は、小沼村サイドに立った優しい説話として、記されているように筆者は考える。
 因みに諏訪神社の神紋は「梶の葉」である。小沼村東光寺の梶坊」という人物は、本来「小沼のお諏訪さま」であったものが、「梶坊」という僧に変化して語られたものだったかもしれない。

 さて社殿の奥には、緑豊かな大木が覆うように育っている。
         
             
 坂戸市では、良好な自然と生活環境を増進するため、坂戸市環境保全条例を設け、一定基準に達した樹木や樹林などを保存樹木として指定し、樹木の保存と緑化に努めているとのことだ。


参考資料「新編武蔵風土記講」「埼玉の神社」「日本歴史地名大系」「坂戸市環境政策課HP」
    「坂戸市史 民俗史料編 I 」等
                         

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赤尾金山彦神社


        
              
・所在地 埼玉県坂戸市赤尾1867
              
・ご祭神 金山彦命
              
・社 格 旧村社
              
・例祭等

 赤尾金山彦神社は、島田天神社から赤尾白山神社に向かう進路の途中で、偶々出会った社である。赤尾白山神社から直線距離にして800m程南方向に位置し、この社も南方向に流れる越辺川を背にして、三方は全て田畑が広がる中、ポツンと静かに祀れている。
 赤尾金山彦神社のご祭神は金山彦命。この神は日本神話に登場する神である。神産みにおいて、イザナミが火の神カグツチを産んで火傷をし病み苦しんでいるときに、その嘔吐物(たぐり)から化生した神である。『古事記』では金山毘古神・金山毘売神の二神、『日本書紀』の第三の一書では金山彦神のみが化生している。この神は古来より剣・鏡・鋤・鍬を鍛える守護神で、製鉄や鍛冶生産を守護する神として信仰されている。 
        
            越辺川を背にして静かに鎮座する赤尾金山彦神社

 同じ赤尾地域内の白山神社には一目連神社の石祠が祀られている。一目連神社は天目一箇神を祭神とする伊勢国二ノ宮多度大社の別宮名である。因みに多度大社は本宮である多度神社と共に、別宮である一目連神社の2社セットで多度両宮とも称している。
 この一目連神社のご祭神である天目一箇神は、天津彦根命の子である。鍛冶の神であり、『古事記』の岩戸隠れの段で鍛冶をしていると見られる天津麻羅と同神とされる。神名の「目一箇」(まひとつ)は「一つ目」(片目)の意味であり、鍛冶が鉄の色でその温度をみるのに片目をつぶっていたことから、または片目を失明する鍛冶の職業病があったことからとされている。これは、天津麻羅の「マラ」が、片目を意味する「目占(めうら)」に由来することと共通している。
『坂戸市史 民俗史料編 I 』には「片目になった赤尾のお諏訪さま」という伝承・伝説が今に語り継がれている。
 昔、大雨が降り、越辺川が氾濫し島田が危なくなった時、島田のお諏訪さまと赤尾のお諏訪さまの姉弟が竜神となってあらわれ、小沼にある附島の土手をきろうとした。すると、小沼のお諏訪さまが槍を持ってあらわれ、大ゲンカとなった。そのとき、赤尾のお諏訪さまは槍で目をつかれたのがもとで、片目になったといわれている。
「赤尾のお諏訪さま」とは同じ地域に鎮座し、埼玉県道74号を挟んで南方向に鎮座する諏訪神社のことであるが、同じく越辺川右岸に鎮座する社でもあり、お互い距離も近いため、民衆レベルの交流は当然あったと思われ、赤尾地域として同じ伝承・伝説を共有していたと考える。
 ともあれ赤尾地域は嘗て鍛冶・金属加工が盛んな地だったのではないかと、勝手に想像を膨らましてしまいそうな社名である。
 
 
       赤尾金山彦神社正面               鳥居の社号額
 おそらく社殿と共に鳥居も近年改修されているのであろう。朱色の両部鳥居は、周囲が田畑風景の中において、ひと際目立ち、社号額も目新しくなっている。境内もきれいに手入れされており、この地域の方々の社に対する思いを感じた次第だ。
        
                     拝 殿
 金山彦神社 坂戸市赤尾一八六七
 当社は入間郡の北端、越辺川流域の低湿地に位置する農業地帯である赤尾に鎮座し、金山彦命を祀る。
 その創建については、寛延年間の洪水により、社殿とともに由緒書など、ことごとくを流失してしまったため明らかではないが、氏子の間では、南北朝時代に赤尾開村の折、鎮守として勧請したもので、それゆえ鎮座地の地名を本村と呼ぶのだといわれている。(中略)
 当社は、金山様の通称で氏子に親しまれているが、年配の人々は氏神様とも呼び、毎月一日・十五日には月参りに来る人もある。このほかオビアゲ(初宮詣)・帯解き(七五三詣)・新婚宮参りなど、祝事があった時には必ず当社に参詣し、神恩に感謝するとともに、より一層の幸を祈願する。
 赤尾は、川沿いの低地であるため、往古より「蛙の小便で水が出る」といわれるほど、度々水害を被り、家屋や田畑が流出した。そこで、水害を防ぐため、昭和三四年に越辺川の河川改修が行われることとなったが、この際、当社の境内地が堤塘敷となることになった。このため、字本村から字川久保の現在の鎮座地へ遷宮が行われ、また、これを機に社殿も新築された。
                                  「埼玉の神社」より引用
 
   社殿右側に鎮座する境内社・御嶽神社。       御岳神社と社殿の間には
  社の中には不思議な石編が祭られている。      桜の老木・巨木が聳え立つ。
        
             社の東側には真っすぐに越辺川の土手が続く。

 ところで金山彦神の神格は、『古事記・天の石屋』の段において「天の金山の鉄を取りて、鍛人の天津麻羅を求めて、伊斯許理度売命に科せ、鏡を作らしめ」とあり、この段の文脈や同時に生まれた神々全体の理解のしかたによって異なる解釈が導き出されている。
(1)この神々の誕生を火山の噴火の表象と捉え、嘔吐が溶岩の流出を表して、その中に鉱石が存在することを金山の二神が表しているとする説。
(2)鎮火祭に由来する神話と捉え、火を鎮める刀剣関連の神々が次に生まれてくるのに先立って、刀剣の材料としての鉄を表しているとする説。
(3)金属の中でも生活に重要な鍬を司る神であるとする説。
(4)誕生した神々がみな火の効用を表すと捉え、この神は冶金のための火の効用を表しているとする説。
(5)この神々を、伊耶那美神の復活を祈る神招ぎの香具山祭祀における一連の呪具の神格化とし、天の石屋の段で呪具の材料の拠り所となる「天の金山」と対応した神名とみる説。
等がある。


『新編武蔵風土記稿』には、越辺川の上流域から坂戸市の市域には鍛冶などの小字名が、広範囲に分布していて、越辺川の流域では金属の精錬が行われていた可能性がある。
白山神社や金山彦神社が鎮座する赤尾地区。「赤尾」の「赤」を冠に持つ地名や川や沼は、古来から砂鉄に関連しているという。恐らく、鉄が酸化すると酸化鉄として赤くなることに由来するのであろう。
 
赤尾地域に近い坂戸市石井地域には勝呂神社が鎮座しているが、そもそも「勝呂」という地名は朝鮮語の村主(すくり)からきているという。村主とは、渡来人技術者集団の統率者を意味する語であり、つまりは、技術に優れた集団が、しっかりとした目的をもって「村主=勝呂」を目指し、移住したと考える。その一派が赤尾地域に移住したのではあるまいか。



参考資料「新編武蔵風土記
稿」「埼玉の神社」「國學院大學 古事記学センターウェブサイト」
    「
坂戸市史 民俗史料編 IWikipedia」等
 

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赤尾白山神社


        
              
・所在地 埼玉県坂戸市赤尾1688
              
・ご祭神 菊理媛命 伊奘諾尊 伊奘冉尊
              
・社 格 旧村社
              
・例祭等 

 島田天神社から一旦埼玉県道74号線日高川島線方向に進み、越辺川の土手に架かる橋の300m手前にある十字路を左折、その1km程先に赤尾白山神社は鎮座している。社に通じる道路が狭いが、鳥居脇に駐車スペースは確保されていて、そこの一角に止めてから参拝を行った。
 
社の北側で背後には越辺川の土手がすぐ目視でき、嘗て何度も水害等の被害を受けたそうであるが、実際に来てみると成程と頷ける。やはり自らの目で見て初めて分かるものもある、としみじみと感じた。
 今はそんな事は感じさせない位穏やかで長閑な風景が似合う社である。
        
                  赤尾白山神社正面
 島田地域に鎮座する島田天神社の北東方向に赤尾地域はある。この赤尾地域は坂戸市の最北端に位置し越辺川を境として、東松山市早俣、川島町長楽と接している。この地域は都幾川が越辺川に合流した下流に位置し、越辺川の流路が北東方向から北端で流れを南東に転じていて、堤防が切れやすく水害の常襲地帯でもあった。
 この赤尾白山神社は丁度北部付近で越辺川に都幾川が合流している地に鎮座している。
        
                            木製の朱がひときわ目立つ両部鳥居
『日本歴史地名大系 』には「赤尾村」の解説が紹介されている。
 赤尾村 [現在地名]坂戸市赤尾
 島田村の東にある。北西境を北東へ流れる越辺川が北端で流れを南東に転じ、東境を流れ下る。東は同川を隔て比企郡中山村(現川島町)、北は同川を境に同郡正代村(現東松山市)。承元四年(一二一〇)三月二九日の小代行平譲状(小代文書)には、行平から養子俊平へ譲られた小代郷(現同上)の村々のうちに「みなみあかをのむら」がある。
 現越生町最勝寺旧蔵の応永三年(一三九六)の大般若経奥書に「赤尾阿弥陀堂海禅」とある(武蔵史料銘記集)。
戦国期に当地に来住したと伝える安野・森田・林・池田・山崎・新井の六家が草分百姓とされる(元禄一二年「田畑町歩村高覚」森田家文書)。林家は信州諏訪地方から来住した土豪ともいわれている。近世には入間郡河越領に属した(風土記稿)。(以下略)
        
                     拝 殿
『鶴ヶ島市立図書館/鶴ヶ島市デジタル郷土資料』には、『日本歴史地名大系 』と重複する内容も多いが、戦国時代での内容が細かく記されているので、そちらも紹介する。
坂戸市赤尾「六人の侍」
赤尾の森田家に伝わる「森田文書」には「天文七年、安野・森田・林・池田・山崎・新井の侍六人が石井の台地に住む。元亀三年、六人は石井の支配を逃れ、越辺の川端へ移り住み赤尾村と名をつける。赤尾村の古き家に安田・田中・浅黒、此外天正慶長の頃、大塚・兼子等、其外もあり。慶長十四年から元和元年までに浪人六人、岡野・水沢・大沢・坂巻・浅見・大久保十郎左衛門が所々から移住す」

但し赤尾村の名は、鎌倉時代初期の承元四年(1210)に書かれた「小代行平譲状」(永青文庫所蔵写による。)に、「みなみあかおのむら(南赤尾ノ村)」と載っているので、元亀三年(1572)に遡る362年前から、赤尾村の地名はあった。故にこの年に初めて地名が誕生したわけではない。
        
        境内に祀られている石祠。左より「○○○大権現」「一目連神社」
        
          境内に祀られている正面中央に梵字を配した特異な塔
        
 赤尾白山神社の左側には鳥居が並立し、その先には境内社・八坂神社 愛宕神社が鎮座している。

           境内社・八坂神社               境内社・愛宕神社 

(赤尾村)白山社
村の鎮守なり、本地佛は十一面観音にて銅の華曼に彫たる物なり、村内修験明王院の持、
                               「新編武蔵風土記稿」より引用


 白山神社 坂戸市赤尾一六六八
 当社は都幾川の合流する越辺川の南岸に鎮まる。村は低地のため古くから水害に見舞われ、社の壁面には水害の痕跡も残されている。
 創立について社記は文亀年間と伝え、『風土記稿』によると村の鎮守であり、本地仏は十一面観音を彫った銅の華鬘であった。ただしこれは現存していない。
 祭神は、菊理媛命・伊奘諾尊・伊奘冉尊の三柱である。
 別当は修験明王院であったが、これは本山派修験か当山派修験か明らかでない。しかし、村内にあって村人のために諸祈禱を修していたことは伝えられている。
 また、社記に「元禄水帳ニハ白山社免除地二反六畝壱歩福寿院支配」とあり、明和五年から白山諏訪明王供米として米七斗を領主から賜っている。これは天保年間からは米七升五合になり、明治四年まで続けられたとあるが、福寿院および諏訪明王について、現在では明らかにできない。
 本殿は一間社流造りである。覆屋及び拝殿の造営年代は安政五年と言われ往時幣殿はなく土間に踏み石を置いた形であった。
 明治初めの神仏分離により別当は廃され、明治五年には古くから村鎮守であったことにより村社となった。
                                  「埼玉の神社」より引用
 


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」
    「
鶴ヶ島市立図書館/鶴ヶ島市デジタル郷土資料」等

                     

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