古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

原市白山神社

 上尾市・原市地域は、同市南東部の主に大宮台地上に位置し、面積は3.1639 km2で上尾市の町・字では大字平方に次いで広い地域である。
 地域東部の市街化調整区域には原市沼や「原市ふるさとの緑の景観地」があり、北東部を中心に自然が比較的多い地域となっている。周囲は畑や田んぼが広がり、雑木林や原市沼などの湿地帯もあるなど、のどかな自然に囲まれた地域であるが、徐々に開発が進行し住宅地のほか倉庫や工場等の立地も増えている。直下には綾瀬川断層が所在する。
 南西部は嘗ての見沼の最北端に位置し、現在も湿地帯を形成している。またこの南西部には上尾市で最も落差の大きな崖があり、最も急な坂道が字一番耕地にある。
 地域内の「原市ふるさとの緑の景観地」周辺に十五番耕地遺跡をはじめ、地内には観音山遺跡や愛宕山遺跡などの多くの遺跡があり、建物跡やピットなどの遺構や縄文土器片などの遺物が検出されている。
        
              
・所在地 埼玉県上尾市原市3956
              
・ご祭神 菊理姫命
              
・社 格 旧無格社
              
・例祭等 春祈祷 417日 天王様 714日に近い日曜日 
                   お日待 
1014
 大宮台地上に位置する上尾市原市地域主要部に沿って通っている埼玉県道5号さいたま菖蒲線をさいたま市東大宮方向に進行する。但し、並列して流れ途中から分離する第二産業道路方向に進むと高架橋となってしまうので進む際にも注意が必要だ。国道16号東大宮バイパス及び重複の県道3号さいたま栗橋線と交わる原市(中)交差点を直進し、最初の丁字路を左折、そこから直線距離で300m程東側に原 は鎮座している。
 道幅が狭い道路となり、且つ、入り組んでいて、宅地化も進んでいる中に鎮座している社でもあり、ルート説明がしづらい点はご了解して頂きたい。
 決して規模は大きくはない社ではあるが、境内に駐車スペース有。       
        
                  市白山神社正面
     鳥居の目の前にはロープが張っており、正面からの参拝は安全の為行わず。
 嘗てさいたま市北区吉野町は「吉野原村」といい、現在の原市地域も含まれていた。吉野原村を通る菖蒲往還沿いに宿場が形成され、吉野「原」村の「宿」として「原宿」と呼ばれていた。その後、宿場の道沿いで市(いち)が立つようになり、吉野「原」村の「市」として「原市」と呼ばれるようになったという。但し江戸時代の寛永二十年(一六四三)の文書には「原宿」「原市」の両方が使用されているという記述が『新編武蔵風土記稿 原市村』にはあり、このことから少なくとも江戸時代初期には「原市」という呼称が使われていたことがわかる。
        
 鳥居正面から進めなかったので、一旦ロープの張っていない右方向に進む。その先には、境内社が3社、
鳥居正面から進めなかったので、一旦ロープの張っていない右方向に進む。その先には、境内社が3社、左から「八雲社」「観音堂」「不動堂」が祀られている。「八雲社」の左側にある建物は「神興庫」。
 境内社の手前にある一対の石柱は「高臺橋の石柱」といい、第二産業道路の見沼用水に架かっていた高台橋にあったものを移築したものという。特に右側の石柱には「高臺橋」左側の石柱には「たかたいはし」と刻まれている。
        
                    拝 殿
 白山神社 上尾市原市三九五六(原市字廿番耕地)
 鎮座地の原市は、江戸初期には原宿とも称し、岩槻から桶川へ向かう道を軸にして、菖蒲への道、大宮道、幸手道、上尾道などが交差する交通の要衝であった。『風土記稿』によれば、地名の由来は、かつて吉野領原村の内であった当地に市が立ったことによるという。
 社殿の傍らにそびえる神木の欅は、樹齢三百年といわれる古木でその見事な枝振りは、境内の神さびた雰囲気を一層際立たせている。口碑によれば、創建は江戸初期に布教に来た白山の修験者が、越前加賀一宮白山比咩神社の分霊を、当地に祀ったことによるという。
 先に記した街道のうち幸手道は日光街道の脇往還で、白山の修験者は、この道筋を通って当地を訪れ、村人たちに白山比咩大神の神徳を説いたのであろう。
 別当の妙厳寺は、比企郡市ノ川村曹洞宗永福寺末で、竜淵山と号し僧大洞存裔により永徳元年(一四八九)に開基されたという。
 当社は、明治初年に無格社とされた。
 境内の石造物で最も古いものは、宝暦十年(一七六〇)銘の稲荷社の石祠で、「願主原市村 半左右門 権兵衛 惣村中」と刻まれている。また、社頭に掛かる鰐口には、「文久三癸亥年(一八六三)三月吉日氏子中 世話人 川田治兵衛 川田弥五郎」の銘が刻まれている。
                                  「埼玉の神社」より引用
 よく見ると、拝殿上部には「鰐口(わにぐち)」が掛かっている。この鰐口とは仏堂の正面軒先に吊り下げられた仏具の一種であり、布を編んだ太い綱とともにつるしてある円形の大きな鈴である。中は空洞で下方に鰐の口のような一文字の裂け目があり、前に垂らした綱で打ち鳴らす。主に寺院で使用されているものではあるが、時に神社の社殿でも使われることもあるようだ。
 
            拝殿手前に祀られている稲荷宮(写真左・右)
        
                                      本 殿
 春祈祷は「観音様」あるいは「千部(せんぶ)」とも称し、古くから観音経の行事が行われていた。神仏習合時代から続くものと思われ、神仏分離以前は、本殿に菊理比姫命の本地仏であった十一面観音を安置して行っていたのであろう。当日は、拝殿に四・五十名ほどの氏子が集まり、神前に「村内安全 家内安全 千巻経」と書かれた御札の束を奉安して、太鼓や鉦を叩きながら、先達に合わせて観音経を繰り返し唱和した。その唱え方は、例えば、五十名が集まると二十巻(回)唱えて千巻唱えたことになるというように、五十名で一度唱和すれば五十回分唱えたと同等とされた。読経を終えると奉安をしておいた御札が全員に配布された。
 お日待は、若衆当番が前日に、参道の入り口に幟を立て、境内に灯籠五十張りほどを飾る。当日は、朝から若衆当番は拝殿に詰め、氏子が三々五々参拝し、夕方なると灯籠に灯が入り、参拝は夜更けまで続いた。昔の様子を知る古老は「明治時代は若衆が三十貫(約一一二㎏)もある力石を持ち上げて力競べをした」と語っている。
        
                社殿から見た境内の様子


参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「広報あげおHP 2015.3 №972」
    「
Wikipedia」等
 

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