古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

瓦葺稲荷神社


        
              
・所在地 埼玉県上尾市瓦葺2282
                   (
原市九区自治会館)
              
・ご祭神 倉稲魂命
              
・社 格 旧下瓦葺村鎮守
              
・例祭等 稲荷神社の祭礼 三月初午 八幡神社の祭礼 九月十五日
 瓦葺氷川神社の南方にある「尾山台団地」方向に進路をとる。国道16号線の高架橋を潜った先は左カーブするが、道なりに進路をとると、団地に達する丁字路となり、そこを右折し、すぐ先にある「尾山台団地」交差点を左折する。同団地の中央部を東西に走る道を東方向に進行、JR東北本線の踏切を越え500m程進むと左手に「原市九区自治会館」、隣接するように瓦葺稲荷神社が見えてくる。
原市九区自治会館には駐車スペースが確保されている為、駐車場を探す手間もなく、大変助かる。
        
                  瓦葺稲荷神社正面
『日本歴史地名大系』 「下瓦葺村」の解説
 上瓦葺村の東にある。綾瀬川から続く低地で、集落は大宮台地原市支台上にある。台地へりには見沼代用水東縁(ひがしべり)用水が南東へ流れる。北は埼玉郡馬込村(現蓮田市)、南は砂村(現大宮市)。足立郡南部領に属する(風土記稿)。正保(一六四四―四八)から元禄(一六八八―一七〇四)の間に瓦葺村から分村したとみられ、元禄二年の大宮宿助郷証文(渡辺家文書)に下瓦吹村とみえる。
        
 鳥居の社号額は二基並列されていて、右側は「正一位稲荷大明神」と刻印、左側の社号額は年代的に古く感じ、ハッキリと読めないが「八幡神社」であろう。
 鳥居の配置状況をみると、社名を「
瓦葺稲荷神社」と紹介しているが、正確には「瓦葺稲荷神社・八幡神社」なのであろう。
 
 住宅街の一角にありながら、社の境内周辺のみ桜等の大木が林立し、荘厳な緑の空間を形成している(写真左)。小まめな手入れもされているようで、地域に方々に大切にされてきた社なのであろう。参道を進み、境内との境部で右側には掲示板が設置されており、稲荷神社と八幡神社の解説文が載せてあった。
 当社には稲荷神社と八幡神社が併社されております。
 稲荷神社
 稲荷神社は 京都市伏見区東山に渡来人秦(はた)氏が 七一一年(和銅四年)に創始した伏見稲荷大社が本社とされ 五穀豊穣から商売繁盛の神として信仰が広がり 正月と二月の初午(はつうま)には参詣客でにぎわいます。
 八幡神社
 八幡神社の総本社は大分県宇佐市の宇佐八幡宮です。農耕あるいは海の神として崇敬されています。大戦期は陸海軍の信仰を集め出兵の時は八幡神社から送りだされました。武家に広く信仰され清和源氏は八幡神を氏神としました。祭礼は九月十五日です。
「御利益」
「家内安全」「交通安全」「病気平癒」「学業成就」「勝負運」「良縁」
「商売繁盛」「五穀豊穣」「鬼門除」「安産」
        
                                     拝 殿
『新編武蔵風土記稿 下瓦葺村』
 八幡社 村の鎭守にて、観音寺の持、
 末社 春日社、天神社、第六天社、
 觀音寺 新義眞言宗、京都智積院末、普陀落山那智院と號す、中興開山宥光天和三年二月九日
     
寂す、本尊十一面觀音を安置せり、
 稻荷社、
        
        境内に設置されている「
稲荷神社改装 稲荷会館新築 記念碑」
 稲荷神社改装 稲荷会館新築 記念碑
 我が郷瓦葺には此の地に稲荷神社祀神倉稲魂命、尾山と稱する地に八幡神社祀神應神天皇が祀られてあった。氏子は往古より二つの神社を守神として崇拝しこの郷を安住の地と定め農耕に忙み和を以て村造りに努めて来た 偶々明治四十二年勅令に基き此の地に八幡神社を遷し合祀して鎮守稲荷神社と稱し祖先より受継ぐ敬神の念篤く祭事を行い鎮守の加護のもと農業の発展に励み平和な樂土建設に精進して来た 祖先が魂こめて造営した神殿も永い年月の間に損傷を來たしここに至り氏子の總意に依り社殿全般を改装し神德を永く子孫に傳えんとするものなり
 
拝殿正面上部には、本殿に施されている彫刻の写真とその解説文が展示されている(写真左・右)。
 山田弥吉によって彫られた彫刻は、向拝欄間(正面の屋根の下部)に龍や獅子、本殿正面に花や鳥が彫られている。また、脇障子(仕切りの板壁)には、八幡神社を象徴する応神天皇が赤子の姿で表され、応神天皇を抱く竹内宿祢(左側)と、神宮皇后の彫刻(美ッ側)がはめ込まれている。
文章:広報あげお2017.1No994
から転記
        
                                     本 殿
 瓦葺稲荷神社は、明治431910)年に八幡神社が合祀しされたため、正面に稲荷神社と、稲荷神社の南西に八幡神社が鎮座している。その際、八幡神社の本殿が稲荷神社となり、稲荷神社の本殿は八幡神社となった。
 稲荷神社の基壇(きだん)には、明治151882)年に再建されたことや、発起人、寄付者、造成に関与した職人名も共に記されている。これによると、棟梁は砂村(現さいたま市)の山田市五郎、脇棟梁は瓦葺村の黒濱久次郎、木((木を切る職人)は藤左ヱ門と井上治兵ヱ、石工は前川岸(現戸田市)の桑原貞治郎、そして彫工は、大谷本郷村の山田弥吉である。
 
        八幡神社本殿              八幡神社本殿の右並びには、
                           境内社や石祠が祀られている。
 明治時代、政府の政策による社寺の統廃合を受け、老朽化した本殿・本堂を作り直したり、新たに建築したりする社寺が多数あった。このような状況で建てられた上尾市域の社寺建築の中に、上尾を中心に活動した宮大工の山田弥吉によって施された彫刻が見られる。
 弥吉は、大谷本郷村 (現上尾市大谷本郷/上尾市西消防署大谷分署付近)に在住していたといわれている。本名は浅右衛門。明治261893)年916日に49歳で亡くなったことが記されているが、 その他の来歴などは不明である。
        
                             境内に並べて置かれている力石
 弥吉の作例は、 市内では畔吉の諏訪神社本殿、向山の不動堂、原市の山車彫刻の他、瓦葺の稲荷神社本殿も彼の手によって彫刻が施されたという。また、 市外の作例では川越市の蓮馨寺の手水舎や鴻巣市の勝願寺の本堂向拝、さいたま市岩槻区柏崎の久伊豆神社の本殿、伊奈町志久の神輿などの彫刻を手掛けている。このように弥吉は、明治初期から明治20年代にかけて、市内外で精力的に彫刻の制作を行っていた。
 弥吉の周辺では、息子も彫刻制作を行うとともに、 弥吉と同年代で大谷本郷村に在住して山田姓を名乗る彫刻人がいたことが分かっている。 このことから、 弥吉を中心とした彫工の集団が、大谷地区を中心として彫刻制作に従事していたと考えられている。
        
                           社殿からの眺め


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「上尾歴史散歩HP」
    境内案内板・記念碑文」等

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