所久喜八幡神社
・所在地 埼玉県久喜市所久喜145
・ご祭神 応神天皇
・社 格 旧所久喜村鎮守 旧村社
・例祭等 例祭 9月15日
江面地域の西側で、備前堀川の左岸に位置する久喜市所久喜地域は、江戸時代初期までは江面村と一村であったが、慶安年代に分村した経緯がある。因みに北方1㎞程先に「小河原井(こがわらい)」と呼称する飛地がある。この地域は長さ35町(約3.8km)・横16町(約1.7km)の広大な沼であった河原井沼(現在の久喜菖蒲公園にある昭和沼といわれている)の北東方向にある低湿地地帯で、農耕には適さない場所であったようで、当時開発に携わった方々の苦労は如何ばかりであったと思わずにはいられない。
江面久伊豆神社から北西方向で直線距離にして700m程という近距離に鎮座している北所久喜八幡神社。地図を確認すると久喜インターチェンジの西側に社は位置している。
所久喜八幡神社正面
『日本歴史地名大系』 「所久喜村」の解説
江面村の西にあり、南から西は同村と河原井沼新田。北方の六万部村と中曾根村に囲まれた所に小河原井(こがわらい)とよばれる飛地がある(郡村誌)。騎西領に所属(風土記稿)。古くは江面村の一部であったが、慶安三年(一六五〇)に分村し(寛政一〇年「江面村明細帳」慶応義塾大学蔵など)、同年の年貢割付状(内田家文書)から「江面村之内所茎村」として当村分だけの割付状となる。
境内の様子
当社の創建年代は不明であるが、ただ所久喜村の新田開発の際に創建されたものと推測される。近くの善徳寺が別当寺であった。現在の社殿は幕末期に建てられたもので、精密な彫刻が施されている。1873年(明治6年)、近代社格制度に基づく「村社」に列せられた。
拝 殿
『新編武蔵風土記稿 所久喜村』
所久喜村はもと江面村の内なりしが、正保四年松平伊豆守檢地の時、今の如く別村となれり、戸数六十餘、東は江面村、西は臺村、南は原村、北は六萬部村、坤の方河原井沼新田なり、東西七町、南北十二町(中略)
八幡社 村の鎭守なり、江面村善德寺持、
八幡神社 久喜市所久喜一四五(所久喜字用水内)
鎮座地の所久喜は所茎とも書き、かつては江面村の一部であった。慶安三年(一六五〇)の年貢割附状には「寅歳江面之内所茎村年貢納割付之事」とあり、このころ江面村から分村したのであろう。その開発には折原家や真田家がかわわったと伝えられている。当地は元々河原井沼の北東に隣接する低湿地で、農耕には適さない土地であったため、開発は困難を極めたものと思われる。当社の創建もこの新田開発が進められる中で行われたと推測されるが、その経緯は明らかではない。『風土記稿』所久喜村の項には「八幡社 村の鎮守なり、江面村善徳寺持」とある。別当の善徳寺は、寛弘年間(一〇〇四-一二)に法印隆盛によって開山され、江戸期には、江面村の鎮守の久伊豆社をはじめ白山社・神明社・第六天社・女体権現社の別当も兼ねていた。
当社は文久二年(一八六二)から慶応二年(一八六六)にかけて社殿が新築され、現在の社殿はこの時に建立されたものである。本殿の外壁には昇り竜・降り竜をはじめ秀麗な彫刻が四面に施され、所々に「真田忠四郎」「折原政八」など、建立に尽力した村の有力者一二名の名が刻まれている。
明治初年に行われた神仏分離によって、当社は別当の善徳寺から離れ、同六年に村社に列した。
本殿内には、元禄十五年(一七〇二)銘の金幣が奉安されている。
「埼玉の神社」より引用
拝殿に掲げてある「八幡宮」の扁額 本 殿
本殿内の精巧な彫刻
当社の氏子区域は、近世の所久喜村を引き継ぐ大字所久喜と河原井町の一部で、総代は、本田と飛び地である小ヶ原井(小河原井 こがはらい)の二つの村組から、それぞれ二名ずつの計四名を選出し、任期三年で神社運営に当たっているという。
また、氏子の間では「八幡様の祭りは静かにやる」という習わしがあり、9月15日の例祭には、他社に見られるような奉納芸能や余興などは行われないという。
かつては百度参りが盛んで、回数を数えるための「数取り札」が設けられていたが、昭和後期より廃れ始め、現在では数取り札は取り外されている。それに反比例するかのように年始の初詣は盛んになっている。
境内社 左から弁天社・稲荷社 境内東側にある青面金剛の石碑
社殿からの眺め
参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」等
