伊賀袋浅間神社
下河辺氏は藤原秀郷の子孫である下野国小山氏の一門。下河辺行義の代に源頼政の支援の下に下河辺荘が成立して、嫡流の小山氏から自立した勢力となった。頼政敗死以後、行平は源頼朝の信頼を得ることで、引き続き下河辺荘を維持した。
行平は下河辺荘の荘司であった。下河辺荘は、かつての渡良瀬川下流にあたる太日川と旧利根川(現在の江戸川と中川)に沿って広がる荘園であった。その領域は当時の下総国葛飾郡にまたがり、平坦で低地が多かった。八条院領の寄進系荘園だったが、頼朝からも改めて安堵された。
治承4(1180)年、以仁王と源頼政の挙兵を源頼朝に伝え、頼朝の挙兵に参加。その軍功で下河辺荘を安堵され、以後有力御家人となった。頼朝の信任が厚く、養和1(1181)年、頼朝の寝所近辺祗候衆のひとりに選ばれ、鶴岡若宮上棟の際には頼朝の命を狙った男を捕らえ、その功により貢馬を免除された。平家追討・奥州合戦では、その武勇を示した。弓芸に秀で,流鏑馬・弓始・鹿狩りなどで何度も射手を勤め,のち頼家の弓の師範となった。建久6(1195)年、源家門葉に準ぜられたが、畠山重忠の乱(1205)以後の動向は不明である。
・所在地 埼玉県加須市伊賀袋47
・ご祭神 木花咲耶姫命
・社 格 旧村社
・例祭等 例祭(夏祭り) 7月1日
加須市・伊賀袋地域は、渡良瀬旧川の屈曲した所の右岸内域に位置する。この地域は、蛇行する渡良瀬旧川の内側にあるため、上流から運ばれてきた砂や礫(れき)などが堆積するようになり、田畑耕作地として最適な地であるという。
駒場鷲神社から埼玉県道368号飯積向古河線を北東方面に500m程進み、用水路を過ぎた十字路を右折する。そのまま道なりに600m程進むと、民家が建ち並ぶ一角に伊賀袋浅間神社が右手方向に見えてくる。
自然堤防上に鎮座する伊賀袋浅間神社
『日本歴史地名大系 』「伊賀袋村」の解説
下総国葛飾郡に属する。渡良瀬川が屈曲した所の右岸に位置し、渡良瀬川を隔てて北は向古河(むこうこが)村、東は下総国葛飾郡新久田(あらくだ)村・立崎(たつさき)村(現茨城県古河市)。地名は渡良瀬川の屈曲した低地にあったことによるという。
天正一八年(一五九〇)九月二〇日、豊臣秀吉が古河公方足利義氏の女氏姫に宛行った三三二石のうちに「こがの内いかふくろ」四四石三斗があった(「豊臣秀吉印判状」喜連川文書)。慶長五年(一六〇〇)五月二日、氏姫は当地「ふしやま」(浅間神社か)の別当に向古河真光寺を補任している(「足利氏姫補任状写」武州文書)。「寛文朱印留」に村名がみえ、元禄郷帳では高八四石余。天保五年(一八三四)には六六石余の前々改出新田を加えて一五一石余(「御領分郷村高帳」茨城県蔭山家文書)。
慶長5年(1600年)に古河公方足利家の氏姫により、渡良瀬川対岸にある伊賀袋村の浅間神社別当寺に任じられた「向古河真光寺」は古河公方ゆかりの寺院である。新義真言宗の寺院であり、「正観山薬法院慈眼坊」とも号し、隣接する茨城県古河市徳星寺の末寺で、「真光院」とも呼ばれた。残念ながら現在は廃寺で、寺跡は加須市の指定文化財(史跡)になっている。
創建の経緯は不明だが、『古河志』に引用されている寺記『武州埼玉郡真光院来由記』によれば、戦国時代の文明年間(1469年〜1486年)、古河公方足利氏出身の万慶により中興した。『古河志』には里俗の伝承として、当寺の本堂・客殿は公方の居所にあった建物の一部を移したとも紹介されている。なお『新編武蔵風土記稿』によれば、文明年間の僧・万慶は中興ではなく開山とされている。
石段上に鎮座する拝殿
浅間神社 北川辺町伊賀袋四七(伊賀袋字浅間前)
伊賀袋は、渡良瀬川の蛇行により形成された袋状の地形にちなむ地名であるといわれ、地味豊かで耕地に適しているため、古代より人が居住したと伝える。
建治年間、上野国より江田伊賀守政氏の一族が移り住み、神職として人々を指導し開発に努力したので伊賀守の「伊賀」を冠して伊賀袋と称するようになったといわれ、慶長五年の『鴻巣御所足利義氏女証状』に「いがふくろ」とあるのが初見であり、古くは古賀藩領に属している。
当社は村の見渡せる自然堤防上に鎮座する。社伝によれば、建久四年五月征夷大将軍源頼朝が富士の裾野で催した大巻狩りに加わった頼朝の臣、下河辺の荘司下河辺行平が最初の古河城主となった際、駿河国の一の宮富士浅間大神の分霊をこの地に勧請したものと伝え、以来領主をはじめ住民の崇敬きわめて篤く、隆盛をみたという。
明治十四年六月に瓦葺本殿を再建する。明治二十八年に村社となり同三十九年には八幡・香取両社を合祀した。昭和五〇年、本殿を改築し藁葺きの拝殿を銅板葺きに改めた。
*平成の大合併の為、現在の住所は違うが、敢えて文面は変えずに記載している。
「埼玉の神社」より引用
本 殿
祭神は「木花咲耶姫命」を祀り、氏子からは浅間様(せんげんさま)と呼ばれており、特に女性の信者が多かったという。嘗て奉納絵馬には女性名で大願成就と書かれた小絵馬が多く見られた。口碑には「湯を浴びて体を休められるのが一番の御利益であった」とあり、きびしい当時の生活の中で当社にある籠もり堂の「神湯(しんとう)」と呼ばれる湯殿に入浴して祈願すると、難病もたちまち全快するという神威は有難いものであったであろう。
ある年、古河公方の奥方が病気平癒祈願成就のため神田を寄進したと伝えられ、この神湯に浴して治癒したといわれている。この籠もり堂では自炊しながらお籠りをしたもので、炊事場に諸道具が備えられており、大正の頃まではにぎわったという。現在は改築され、集会所として氏子に利用されているとの事だ。
社殿の左側に祀られている境内社と石碑二基 境内左側奥に祀られている境内社と石祠二基
境内社は不明。一番右側の石碑は大六天 左から三峯神社・下浅間社、石祠二基は大六天
左から元禄15年(1702)9月造立の庚申塔 青面金剛と第六天
観音像・庚申供養塔。一番右側の石碑は不詳。 この社には「第(大)六天の石碑や石祠が多い。
石段下に設置されている「富士浅間神社の由緒と伊賀袋の起源と変遷」の石碑
「富士浅間神社の由緒と伊賀袋の起源と変遷」
祭神 木花咲耶姫命
当社は一一三三(建久四)年五月 征夷大将軍源頼朝が富士の裾野に大巻狩りを催した時 これに参加した頼朝の股肱の臣 下河辺の荘司 最初の古河城主 下河辺行平が駿河国の一の宮 富士浅間大神の分霊をこの地に勧請したものと伝えられる ここは渡良瀬川の自然堤防上にあり 清流に青松の影をうつして風光明媚 神社を祀るに相応しい所である 爾来 領主をはじめ 住民の崇敬きわめて篤く 隆盛をきわめた
一三三八(建武四)年 新田義重の孫 江田氏の祖 三河守賴氏より五代の裔 伊賀守政氏が足利尊氏との戦いに敗れてこの地に亡命 浅間神社に仮寓し 後に神官となって土着し 代々開発に努力した それまでは 単に「袋」と呼んでいた地名に 伊賀守の名を冠して「伊賀袋」と呼称するようになった 「袋」とは 河川の屈曲して流れる所に造成された袋状の台地で 地味豊かにして農耕に適しているため 古代より人の住居したところである 因みに当地からは 古墳時代初期の 和泉式土器が出土している
一四五五(康正元)年 足利成氏が古河公方となると 浅間神社は公方関基の向古河村 真光寺の管轄となった ある年 公方の奥方が病気になった時 平癒祈願成就のため 公方より神田を寄進された。同社には古來籠り堂に神湯の設備があって これに浴して祈願すると 難病も忽ち全快するといわれ 参籠者の絶えることがなかったという 夏と秋の大祭には参拝者に神酒や甘酒を饗し 芝居や相撲などを催して賑った これまでにいくたびか社殿の新改築が行われたと思われるが その記録をとどめない 一八八一(明治十四)年六月 瓦葺きの本殿を新築して面目を一新し 同二十八年に村社に昇格した さらに三十九年に 八幡・香取の両神が合祀された
このたび氏子多年の念願がかなって 本殿を改築し 茅葺の拝殿をとりこわして新築し 共に銅版葺きにしたので 威容ととのい 境内の老松古柏のなかに一段と尊厳をそなえた
伊賀袋村は 古くは下河辺荘といわれ 下総国西葛飾郡に属し古河藩領であったが 明治四年の廃藩置県後茨城県となり 同二十一年 猿島郡新郷村大字伊賀袋となった 大正初期まで神社の裏に渡し場があり 古河へ通ずる主要な場所であった またこの辺りから河流が左折するので急流となり遡航する高瀬舟の船頭達に「おせんげんの難所」といわれて警戒されていた 当地は河川に接しているため 堤防の決潰によりたびたび水害を蒙った
大正初年 河川改修により川の西側となり 昭和五年七月県境変更 埼玉県北埼玉郡川辺村に編入された 昭和三十年耕地整理を実施し 同年の町村合併で利島村と合併 北川辺村となり 同四十六年 町制施行で北川辺町となって現在に至る
ここに社殿の新築を記念して その由來を碑に誌し 社前に奉納して 永く後世に伝えんとする所以である(以下略)
碑文より引用
境内に一際目立つ大松の見事な枝ぶり
奥に「伊賀袋自治会集会所」が見え、その左側に「観音」「不動」の小さいお堂がある。
祭礼の中に「霜月十五日」と呼ばれる祭りがある。その名の通り古くは11月であったが、現在は12月15日が祭日である。これは新嘗祭であり、今では「甘酒祭り」の名で通っている。
氏子から集まられた新米で甘酒が作られ、祭り当日に参拝者に振る舞われる。これは古くから伝わる行事で、一説には御神酒の飲めない女性に勧めたのが始まりといわれている。
参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「Wikipedia」
「境内石碑文」等