駒場鷲神社
・所在地 埼玉県加須市駒場24
・ご祭神 天穂日命 武夷鳥命
・社 格 旧駒場村鎮守
・例祭等 春祭り 4月15日 秋祭り(新嘗祭) 11月23日
旧北川辺町・駒場地域は、渡良瀬川が蛇行した末にできた三日月湖のような「渡良瀬旧川」の西側に位置していて、平均標高11m~12m程、集落は平均標高よりやや高い14m程の旧川の堤上に点在している。この地域には飛び地が存在していて、地域の南東方向にあり、前谷地域と本郷地域の間に字三軒家(さんげんや)と称している場所で、丁度、渡良瀬旧川の南東端部の南側に東西650m程、南北330m程の張り出し部のある四角形の形状をした地である。
また、この地域は平均標高でもわかるように、水害による田畑などの損失が頻繁な地域であり、『田園簿』では「水損場」と記されている。
駒場鷲神社正面
栄八幡宮の南側に面している東西に延びている農道を800m程東行すると、正面やや左手に駒場鷲神社が見えてくる。社の東側には駒場集会所があり、そこには若干の駐車スペースがあり、そこの一角をお借りしてから参拝を開始した。
駒場鷲神社 境内の様子
一見、高台の上に社は鎮座しているように見えるが、入口から下がる石段があり、その先に一の鳥居があり、参道を進んだ先に二の鳥居、そして上り階段上に社殿がある。右隣には埼玉県道368号飯積向古河線が通っているが、その県道との標高差は全くない。つまり、県道の下に社殿を抜かした境内が存在しているという不思議な位置関係なのである。
推測するに、この県道自体が渡良瀬旧川の堤上に出来ているのであり、その県道の両脇の場所が一段低くなっているのも当然のことといえよう。
拝 殿
『新編武藏風土記稿 駒場村』
鷲明神社 村の鎭守にして萬治二年勸請と云、光明院持、
鷲神社(みょうじんさま) 北川辺町駒場二四(駒場字大道東)
当地は東境に旧渡良瀬川が流れ、この堤上に点在する集落で、大字伊賀袋と本郷に挟まれ、東南部に飛び地(字駒場三軒)を持ち、古くは牧場があった所と伝えられる。
『風土記稿』によると元亀年中、高橋右近、左近という二名の者が移住してこの土地を開き、右近は農家となり大いに栄えたという。
当社は『明細帳』によると、村の開発から九〇年ほど下った万治二年に北葛飾郡鷲ノ宮の鷲神社より勧請とあるが、一間社流造りの本殿に祀られる幣帛には「文禄元壬辰年九月」の墨書があり、『明細帳』より七〇年さかのぼる。さらに墨書には「別当宝蔵山光明院」とあるが、この寺は文禄元年起立と『風土記稿』に見え、当社はその時期が同一である。なお、光明院は明治の初めに廃寺となっている。
祭神は天穂日命・武夷鳥命の二柱であり、明治期の合祀は行われていない。
境内末社には、天明四年氏子鈴木某が祀ったという疱瘡神社が本殿右側にある。飛び地境内末社には、前述の若宮八幡社と下総古河藩士が祀った神社の一つといわれる大六天神社がある。
*平成の大合併の為、現在の住所は違うが、敢えて文面は変えずに記載している。
「埼玉の神社」より引用
社殿石段下にある「駒場鷲神社改築・ 記念碑の左隣にある「十九夜供養塔」二基と
大六天神社新築記念碑」 延宝八年正月と刻印された「庚申塔」
社殿右隣に祀られている境内社・疱瘡神社
当社の氏子たちは鷲宮町(現久喜市鷲宮)の鷲宮神社を本社と意識しており、四月一〇日の春祭りのときには、当番が鷲宮まで出掛け、神前へ玉串を奉奠(典)するとともに、各耕地分の神札を受けてくることを習わしとしているという。
また、飛び地境内末社の若宮八幡社は、三軒耕地の六戸が社を護り、四月一五日に祭りを行っている。
一段低くなっている境内
参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「標高、緯度と経度を調べる地図」等