倉賀野浅間山古墳
当古墳は烏川左岸段丘上にあり、烏川の形成した崖線から800m北方に位置し、西側を烏川の支流である粕沢川に東側を無名小河川に画された北西から南東に伸びる幅300mほどの微高地上に立地している。
国指定史跡に指定されている当古墳は全長約171.5mの前方後円墳で、標高85mの平坦地上に立地している。築造は4世紀後半から5世紀初頭と推定され、県内最大の太田市天神山古墳(全長210m、5世紀中頃)に次ぐ規模を誇り、ひいては関東地方では太田天神山古墳、舟塚山古墳(茨城県石岡市)に次ぐ第3位の規模の古墳で、築造された当時は東日本最大の古墳であった。
・名 称 浅間山古墳
・所 在 地 群馬県高崎市倉賀野町313ほか
・形 状 前方後円墳
・規 模 墳丘長171.5m 高さ14.1m
・指定種別 国指定史跡 昭和2年4月8日 令和3年3月26日(追加指定)
令和3年10月11日(追加指定)
大鶴巻古墳・小鶴巻古墳の北西方向に位置する全長171.5mの前方後円墳。一旦上記2古墳から北上し、「上町西」交差点を左折、群馬県道121号和田多中倉賀野線に合流後し350m程進んだ丁字路を左折すると、進行方向正面にこんもりとした林の囲まれた当古墳が見えてくる。
因みに「浅間山」の名称は、明治時代まで墳頂に富士浅間社を祭っていたのがその由来となっているようだ。
『群馬県歴史の道調査報告書11:中山道HP』において、この古墳は『県下では太田天神山古墳に次ぐ大前方後円墳で、墳丘全長一七四㍍、後円部径一〇八㍍、同高一四㍍、前方部前幅七八㍍、同高七㍍、幅三〇㍍の周堀をめぐらせており、形は大変優美な姿をしている。主体部は未発掘だが、五世紀代の古墳と推定されている。前述の大鶴卷・小鶴卷古墳等と共に、千数百年以前にこの地方に君臨した大豪族の墳墓と考えられる。あるいは、山ノ上碑等にその名を見せる「佐野三家」一族に関係あるかと思われるが、今後の研究に俟つ』と、この古墳の規模について若干の差異はあるものの、上記のような説明文を載せている。
倉賀野浅間山古墳後円部正面
令和4年度から令和6年度までの調査成果により、浅間山古墳の外堀はほぼ全周することが確認された。形状は墳丘の東西側の幅が狭く、後円部の西側が大きく外に広がっていた。外堀の一部が広がる理由については、墳丘を構築する際に追加で土が必要になったため余分に掘削したことなどが考えられるが、今後の検討課題となっているという。いずれにしても、4世紀後半頃において二重の周堀は全国的にも最先端の構造であり、墳丘の規模や形状も含めた研究から、ヤマト王権と深い関わりがあったことが推察されているという。
倉賀野浅間山古墳の案内板
国指定史跡 浅間山古墳
浅間山古墳は、烏川左岸の台地上に位置する四世紀後半から五世紀初頭に築造された前方後円墳です。墳丘は前方部が二段、後円部が三段の築造で、斜面には葺石があります。墳丘周囲には内堀と外堀の二重周堀があります。内堀は馬蹄形で、その外側に葺石を持つ中堤(ちゅうてい)が築かれ、さらにその外側に外堀が廻っていることが確認されています。
同一段丘上には、前方後円墳の大鶴巻古墳・小鶴巻古墳、円墳の大山古墳・庚申塚古墳などの古墳及び方形周溝墓が多数築造されており、浅間山古墳周辺地域が古墳出現期から五世紀後半にかけて充実した墓域を形成していたことがわかります。
浅間山古墳は築造時、東日本で最大の前方後円墳でした。現在も太田市に存在する太田天神山古墳(墳丘長210m)に次いで県内第二位の規模を誇り、高崎市内で最大規模のものです。
浅間山古墳の規模
墳丘長 :171.5m
前方部 :長さ66.3m、高さ5.5m
後円部 :長さ105.0m、高さ14.1m
内堀の幅:30.8m(前方部)、31.3m(後円部)
中堤の幅:9〜10m
外堀の幅:56〜65m
全 長:南北332m、東西210m(外堀を含む古墳の全体の規模)
※ 令和3年5月現在の調査結果による推定規模(以下略)
案内板より引用
後円部(写真左)から前方部(同右)を望む。
倉賀野浅間山古墳は、大和の佐紀楯列古墳群の佐紀陵山古墳(奈良市・全長209m)と親和性の高い類似形の平面形を呈しており、また、近郊の下佐野遺跡群などで滑石や緑色凝灰岩を用いた玉造製作工房跡が確認されたことによって、当古墳の築造時期とほぼ同時期の、倉賀野地域に早い段階で玉造集団が移住・定着し、新たな祭祀体制への備えが存在していたことが考えられているとの事だ。
どちらにしても、当古墳は、現在の群馬が古墳時代において「ヤマト」との関係をより強固に結び付ける歴史を物語る古墳であり、それが一地域の力の結集によって具現化された大型前方後円墳の一つである。このような重要な古墳が、その全貌を今もほぼ形状を保ったままで残存していることに大きな価値がある。市街地化が急速に進む現代にあって、これだけの大型古墳が周堀の形状も綺麗に地割として残っている点は、群馬県でも稀有といい、古墳時代からの歴史を如実に伝えることのできる歴史文化遺産といえよう。
参考資料「高崎市文化財調査報告書429:倉賀野浅間山古墳HP」
「群馬県歴史の道調査報告書11:中山道HP」「高崎市HP」
「ウィキペディア(Wikipedia)」「遺跡案内板」等
