古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

立石琴平神社


        
            
・所在地 群馬県藤岡市立石1400
            
・ご祭神 大物主神
            
・社 格 旧村社
            
・例祭等 春季例大祭 429日 秋季例大祭 113日 
                 越年祭 
1231日 他
 立石新田伊勢島神社の南側を国道17号線が通っており、一旦国道に合流し、「北藤岡駅」方向に進行、「立石」交差点を左折し、路地を南へ入り高崎線の踏切を渡り、道幅の狭い農道のごとき道を道なりに南下、その後右方向進むと、立石地域の集落の中に立石琴平神社は鎮座している。昔懐かしい地域の鎮守様のような雰囲気を醸し出している社。なお、
社の北側に専用駐車場あり。
        
                 
立石琴平神社正面
『日本歴史地名大系』「立石村」の解説
 北境を烏(からす)川が東流、東境を温井(ぬくい)川が北流し、北部を中山道が東西に抜ける。古くは立石・和泉の二村であったといい、村名は「立石様」と称する自然石にちなむともいわれる。永禄六年(一五六三)に武田信玄との申合せによって安保氏に与えられた地に「立石村」がある(同年五月一〇日「北条氏康・氏政連署知行宛行状」安保文書)。同年閏一二月一四日の某禁制(写、飯島文書)で、木部(現高崎市)在城衆および番手衆の「泉・立石両郡」での乱妨・竹木伐採を禁じている。
 
    鳥居の先で左側にある手水舎              手水舎の並びに祀られている道祖神
        
                 参道右側にある神楽殿
     
110日・429日・1231日の年3回「立石神社太々神楽」を奉納している。
 この立石神社太々神楽は、400年程の歴史を誇る伝統芸能で、日本神話に基づき奉納される古式豊かな神楽で「大和舞太々里神楽」と称し、天正9年(158110月に立石神社の源惣兵衛と松本連が上京し、京都の神祗宮領長(吉田殿)より裁許状を得て、伊勢より勧請して始められたといわれ、舞は36座伝わる。
 
  神楽殿と拝殿の間にポツンとある「立石様」といわれる石とその案内板(写真左・右)
「立石様」の伝説
 江戸時代の始め頃、立石あたりは前橋藩の酒井雅楽頭(うたのかみ)の領地でありました。北に烏川が流れている立石には、江戸時代の主要な街道である中山道が通っていました。
 三角道の道端の大きな杉の木の下に「立石様」という石がありました。「立石様」は濃い緑色をした高さ1メートルほどの細長い自然石で、不思議な霊験がある石ということで、石神様として祀られていました。
「立石様」の評判をきいた雅楽頭は、きれいなこの石を欲しくなり前橋の城へ運ぼうとしました。重さ200貫(750キログラム)ほどの石ですが、やっとのことで船に乗せました。城の影が映る利根川の深い淵にまで来ると、船がぐらりと傾いて、ひっくりかえりそうになりました。「これは「立石様」が城に行くのを嫌がっているのに違いない。無理して動かすと船が沈んでしまう」と人々は恐ろしくなりました。
 雅楽頭は、せっかく城の近くまで来たのに残念だと怒って、長槍で石の背中部分を2回続けて突きましたが硬くて刃が立ちません。仕方なく、元の位置に戻すことにしました。
 帰りには嘘のように船が軽くなり、容易に元の場所に戻すことができました。立石様は立石の土地を守る神様なので、やたらに他所に動かしてはいけないのだと人々に思われました。
 永らく「立石様」は立石地内の個人宅に置かれていましたが、令和6105日にこの地に移設しました。
                                       案内板より引用

 案内板に登場する「酒井雅楽頭」は、徳川家の祖父方である松平家と同祖とされる酒井広親(ひろちか)の次男とされる酒井家忠からの家系で、代々雅楽助(のち雅楽頭)を名乗り、雅楽頭家(うたのかみけ)と呼ばれていた。
 酒井雅楽助正親は左衛門尉家の忠次と同じく家康青年期の重臣のひとりで、永禄4年(1561)もしくは永禄5年(1562)に家康の三河支配の過程で三河西尾城主に取り立てられた。
 慶長6年(1601)、その子酒井重忠は当時の厩橋城に3万石で入封してから9150年にわたり前橋を治め、前橋の町割りの基礎を築き上げたという。
        
                    拝 殿
 烏川・神流川・鏑川に囲まれた藤岡市の北東部に位置する神社。安土桃山時代の天正9年(1581)創建といわれ、村の五穀豊穣、村民の無病息災、厄除け、家内安全を祈願する村社として存在している。後年、立石琴平神社(立石金毘羅神社)と合祀され現在に至る。古くは「金毘羅さん」の愛称で村人から親しまれていた。
        
            拝殿中央上部に掲げてある扁額と奉納額
 皆野町国神神社の項でも説明しているが、金刀比羅宮(ことひらぐう)は、香川県仲多度郡琴平町の象頭山中腹に鎮座する単立神社である。明治初年の神仏分離以前は金毘羅大権現(こんぴらだいごんげん)と称し、明治初年以降に神社になってからの当宮の通称は「金比羅さん」として親しまれている。
 この金刀比羅宮の由緒についてはいくつかの説があるが、金刀比羅宮は自身の由緒で大物主命が象頭山に行宮を営んだ跡を祭った琴平神社から始まり、中世以降に本地垂迹説により仏教の金毘羅と習合して金毘羅大権現と称したとしている。大宝年間に修験道の役小角が象頭山に登った際に天竺毘比羅霊鷲山に住する護法善神金毘羅(クンビーラ)の神験に遭ったのが開山の縁起との伝承から、これが金毘羅大権現になったとする。また別の説として、『生駒記讃陽綱目』の金刀比羅宮の條によれば、延喜式神名帳に名が見える讃岐国官社24社の1とされ讃岐国多度郡の雲気神社が金刀比羅宮という記述がある。
 
   中央の扁額等の左側にある奉納額(写真左)、右側には絵馬(同右)も掲げてある。

 大物主神(おおものぬしのかみ、大物主大神)は、日本神話に登場する神で、『記紀神話』によれば、大国主神とともに国造りを行っていた少名毘古那神が常世の国へ去り、大国主神がこれからどうやってこの国を造って行けば良いのかと思い悩んでいた時に、海の向こうから光り輝く神が現れて、我を倭の青垣の東の山の上に奉れば国造りはうまく行くと言い、大国主神はこの神を祀ることで国造りを終えた。この山が三輪山とされる。
 ところで、大物主神の由緒は不明瞭であり、他の神と同定すべきか否かについて古来見解が分かれてきた。『古事記』においては出自について詳しい説明が無く、大国主命とは別の神である様に述べられている。
 一方『日本書紀』では先述の大己貴神の別名とする説、大己貴神の幸魂奇魂とする説と、別個の国津神とする説が併記されている。 例えば異伝を記した「一書」では、国譲りの時に天津神とその子孫に忠誠を尽くすと誓って帰参してきた国津神の頭として、事代主神と並び大物主が明記されている。
 明治初年の廃仏毀釈の際、旧来の本尊に替わって大物主を祭神とした例が多い。一例として、香川県仲多度郡琴平町の金刀比羅宮は、近世まで神仏習合の寺社であり祭神について大物主、素戔嗚、金山彦と諸説あったが、明治の神仏分離に際して金毘羅三輪一体との言葉が残る大物主を正式な祭神とされている。
        
             社殿左側に祀られている八幡宮天満宮
             
           境内南側の道路沿いに聳えたつイチョウのご神木 


参考資料「日本歴史地名大系」「ぐんま地域文化マップHP」「ウィキペディア(Wikipedia)」
    「境内案内板」等
 

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