川島久伊豆神社
また、祭事が簡素なものとなっている理由も、こうした度々の水害による村の疲弊と深い関係があるという事だ。
・所在地 埼玉県蓮田市東3-9-10
・ご祭神 大己貴命
・社 格 旧川島村鎮守 旧村社
・例祭等 初祈祷 1月 春祈祷 4月15日 例祭 7月25日
お日待 10月9日 新穀感謝祭 11月23日 大祓 11月
JR蓮田駅東口ロータリーから駅前通りを進み、埼玉県道154号蓮田杉戸線合流後東行し、元荒川に架かる「宮前橋」手前に社は鎮座する。この川島久伊豆神社は、江戸時代後期(1800年代)に創立されたもので、地域の人から農業の安全や豊作を祈る神である「作神」として信仰をあつめている。
社は県道沿いに鎮座しているが、実際に当地に到着すると、丁度背を向けた配置となっている。宮前橋の手前の交差点を右折、元荒川沿いに境内は広がり、入口もこちら側からとなっている。また、道路沿いに社号標柱や案内板が設置されている。
川島久伊豆神社正面
『日本歴史地名大系』 「川島村」の解説
蓮田台地の南東部に位置し、元荒川右岸の自然堤防上にある。東は元荒川を隔てて笹山村。同川に沿って水除堤があり、川島橋という土橋が架けられていた(風土記稿)。寛永期(一六二四―四四)に岩槻藩阿部氏の検地があり(同書)、田園簿では同藩領で、田高六五石余・畑高八五石余。寛文一二年(一六七二)の岩付御領分石高覚(吉田家文書)によれば高三一六石余、この間新田開発が盛んに進められたことがわかる。延宝八年(一六八〇)の人数は一七五(「岩付領内村名石高家数人数寄帳」吉田家文書)。
当地川島は、江戸時代の始めは岩槻藩領であったが、幕府領を経て、延享4年(1747)からは御三卿の一家一橋領となった。そのため、村民は自分たちの村に誇りを持ち、苦境にも負けずに農業に励んだという。
参道左側に祀られている三宝荒神と並びに設置されている案内板、伊勢参宮記念碑。
川島・久伊豆神社
蓮田市東三丁目八百六十二の一
この久伊豆神社は、江戸時代後期(一八〇〇年代)に創立されたもので地域の人から農業の安全や豊作を祈る神(作神)として信仰をあつめている。祭神は大己貴命である。
「新編武蔵風土記稿」によれば、「久伊豆神社、村の鎮守にて地蔵院持」と記載されている。
久伊豆神社は、元荒川流域にのみ分布しており、東の「香取」、西の「氷川」圏と並び一祭祀圏をなしている。
市内には、久伊豆神社七社、系列の根金神社一社を加え合計八社が現存している。
「久伊豆」の読み方については、「ヒサイズ」と「クイズ」の両方があるが、この地方では、ほぼ「ヒサイズ」と読んでいる。
また、近郷の人には当社を「ぬすっと宮」と呼ぶ人が多い。この由来については諸説あるが、昔、川上の方から追われてきた義賊が神社の森に逃げ込んだ。慈悲深い神は、これをかくまい、追手から逃がしてやったという。以来だれとはなしにこう呼ばれるようになったといわれている。
現在の拝殿は、昭和三年に改築されたものである。当時の工事費は八二五円であった(以下略)。
案内板より引用
境内社 左から稲荷神社・稲荷神社・雷電神社
当社は、近隣の人々から「盗人(ぬすっと)宮」と呼ばれていたという。この呼称については諸説があるが、昔、川上の方から追われてきた義賊が神社の森に逃げ込んだところ、慈悲深い神がこれを匿って追手から逃がしてやったとか、お供物が片っ端から盗まれてしまい、ついには御神体まで盗まれてしまったなどと言い伝えられてきたが、実際のところはよく分からなかった。
ところが、平成4年1月にになって、ブラジルに住む当地出身の二世の方が、「家族に病人が出るのは、先祖が昭和8年に出国した時に御神体を無断で持って来たためと思われるのでお返ししたい」と、訪日する友人に託して像高11.5㎝の不動明王のような木造の立像を返しにきた。そこで、当社では壊れた光背と足先を新しく作って本殿に納め、御神体帰還祝いとして、久しぶりに神楽を奉納するなど、にぎやかに祭典を行った。なお、この話は、「五十九年ぶり神体里帰り」として同年四月十七日の『毎日新聞』で報じられたという。
拝 殿
『新編武蔵風土記稿 川島村』
久伊豆社 村の鎭守なり、地藏院持、末社 天神 荒神 稻荷 雷電、
地藏院 新義眞言宗、太田新井村安樂寺門徒、花德山延命寺と號す、本尊延命地藏を安ず、
久伊豆神社御由緒 蓮田市川島八六二(川島字宮面)
□御縁起(歴史)
元荒川にかかる宮前橋のそばに鎮座する当社は、大巳貴命を祭神とし、川島の鎮守として奉斎されてきた。落ち着いた雰囲気の境内には松がよく茂り、その中の一本には、珍しく「宿り木」が寄生している。昔から見れば、松も随分少なくなったといわれるが、それでも元荒川の水面に影を映す美しい社叢は、神の坐す所にふさわしい景観であるように感じられる。
また、明治初期までは、川島の集落から社殿に向かって、八〇メートルほどの一直線の長い参道がついていた。そのころは鳥居の手前(南側)には堀があり、太鼓橋が架かっていた。しかし、参道の辺りにも民家が増え始め、ついには参道そのものも住宅などの敷地になってしまい、昔の面影は失われてしまった。元荒川の揚水機小屋のある、境内南側の低くなっている所は、かつての堀の跡である。
『風土記稿』に「久伊豆社 村の鎮守なり、地蔵院持、末社 天神 荒神 稲荷 雷電」とあるように、当社は地内の地蔵院の持ちであった。神仏分離後、地蔵院は廃寺となり、その草葺きの建物は村の集会所として各種の会合の場として長い間使われ、太平洋戦争中は疎開者の住居にもなっていたが、老朽化が進んだために取り壊され、昭和四十年に公民館として生まれ変わった。公民館の中には、地蔵院の名残として本尊の延命地蔵が祀られている。
「埼玉の神社」「案内板」より引用
本 殿 境内社・天神様
当地はJR蓮田駅からも比較的近く、地内を東北自動車道も通ることから、近年住宅地として再開発が進んでいる。多くの転入者を迎え、昔からの集落である上(かみ)・下(しも)に加え、団地と呼ばれる新しい地区ができ、200戸程の住民の過半数が氏子となっている。
参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「境内案内板」等
