下蓮田八幡神社
・所在地 埼玉県蓮田市東6-9-17
・ご祭神(主)応神天皇 (合殿)仁徳天皇
・社 格 旧下蓮田村鎮守 旧村社
・例祭等 初拝み 1月15日 春祈祷 4月上旬 祭礼 7月25日
新穀祭 11月23日 大祓 12月中旬
蓮田市の南部に位置する東(ひがし)地域は、蓮田駅に近く交通の便もあり、また、太平洋戦争後の宅地化推進により、かつてこの地域周辺に広がっていた「鎮守の森」は徐々に消えていき、景観も大きく変わってしまったという。
蓮田駅の南西部にある「蓮田市立蓮田南小学校」のすぐ西側に鎮座している社。確かに周囲は開発によって多くの住宅街等に囲まれているが、社の入口から参道周辺にはまだこんもりとした社叢林は今尚健在で、氏子の方々の日々の崇敬の厚さを感じずにはいられない。
下蓮田八幡神社正面
『日本歴史地名大系』 「下蓮田村」の解説
上蓮田村の南にあり、元荒川の右岸、綾瀬川の左岸に位置する。古くは上蓮田村と一村であったとみられ、同村の久伊豆神社は両村の鎮守となっている。寛永年間(一六二四―四四)検地があり(風土記稿)、田園簿では田高二一〇石余・畑高二〇九石余、岩槻藩領。寛文一二年(一六七二)の岩付御領分石高覚(吉田家文書)によると高四七七石余。延宝八年(一六八〇)の人数は二一〇、新田の家数一四(うち本百姓九)、人数九四(「岩付領内村名石高家数人数寄帳」同文書)。
比較的長い参道を進むと一の鳥居(写真左)、その後二の鳥居(同右)に達する。
二の鳥居の右側に祀られている境内社・金刀毘羅宮
この金刀毘羅宮は、古くから境内社として祀られている。かつては、毎年2月10日に、社の前に浅敷を作り、紅白の幕を張って盛大に祭りをして、当社の祭りより人出が多かったというが、戦後には衰退してという。
二の鳥居近くに設置されている案内板
拝 殿
『新編武蔵風土記稿 下蓮田村』
八幡社 〇天神社 〇愛宕社 〇神明社 〇山王社 〇稻荷社 以上の神社慶福寺持、
慶福寺 天台宗、入間郡古尾谷村灌頂院末、中應山蓮臺院と號す、開山慶蓮は慶安年中寂せしと云、本尊三尊の彌陀を安ず、地藏堂二宇 一は立像、丈二尺許、定朝の作、一は秘佛にして見ることを許さず、
八幡神社 蓮田市東六-九(蓮田字神原)
JR蓮田駅の東口を出て、南西に約一〇分ほど歩くと、当社の境内がある。この辺りは、元来は「鎮守の森」の言葉がふさわしいような山林であったが、交通の便がよいため、太平洋戦争後は宅地化が進み景観は大きく変わった。また、当社の境内の東側は蓮田南小学校に隣接しているため、子供たちからも「八幡様」の通称で親しまれており、境内で遊ぶ子供たちの姿もよく見受けられる。
当社の創始については明らかではないが、古くから下蓮田の鎮守として祀られてきた。西南西四〇〇㍍ほどの所には、中世武士の城館跡を示す「堀の内」の地名があり、武神とされる八幡神の勧請に、この城館に居住した武士がかかわっていたとも推測される。
祭神について『明細帳』は「祭神応神天皇、合殿仁徳天皇」としており、一間社流造りの本殿には金幣が大小一体ずつ安置されている。また、鎮座地付近は当社にちなんで「若宮」と呼ばれ、鳥居に掛かる社号額にも「若宮八幡宮」と刻まれていることから、当社は古くは「若宮八幡」を号していたことがわかる。
明治四十一年七月十八日、政府の合祀政策に従い、下蓮田では、村社であった当社に字桑原の無格社神明社と字綾瀬附の無格社稲荷社の両社を合祀した。しかし、旧氏子の強い要望によって両社共昭和十年ごろ旧地に復し、合祀前のように祀られるようになった。
「埼玉の神社」より引用
拝殿内部 本 殿
現在では、行政上は大字蓮田及び御前橋一と末広一丁目と東六丁目の各一部となっているが、当社の氏子区域である下蓮田は、江戸時代には独立した一村であり、「前口」「桑原」「新田」という現在も存続する三つの村組からなっていた。『風土記稿』下蓮田村の項では、村内の神社について「八幡社 〇天神社 〇愛宕社 〇神明社 〇山王社 〇稲荷社 以上の神社慶福持」と載せている。文中の慶福持は、阿弥陀三尊を本尊とする天台宗の寺院で、古くから下蓮田に住む人々の檀那寺でもある。
「大神宮 出雲大社 太々記念碑」
『風土記稿』にみえる諸社のうち、天神社は前口、神明社は桑原、稲荷社は新田で祀る社である。下蓮田では、村全体の鎮守として当社を祀ると共に、このような小規模の社を組ごとに祀ってきた。神社運営も、これらの組を単位として行われており、各組から年番が二名ずつ出て、祭典の世話役を務めるほか、総代も各地区から一名ずつ適任者が互選で選出されるという。
社殿からの眺め
参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「ウィキペディア(Wikipedia)」
「境内案内板」等
