古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

倉賀野神社(1)

 倉賀野は西上野と北武蔵の境界に位置し、利根川が流れ中山道が通過する古来より交通の要地である。この倉賀野という地名由来は、「穀倉地帯・物流拠点としての性格を反映した地名」という説明が現在もっとも一般的のようだが、学術的には「有力説の一つ」とみなすのが妥当という。
 歴史を辿ると、『吾妻鏡』にその名が見える「武蔵七党」の支流である「藤原姓児玉党倉賀野氏」が,鎌倉時代に移住し、当地に城砦を構え、在地名を苗字としたのがその起源とされている。
『埼玉苗字辞典』
武蔵七党系図「有三郎別当大夫経行(平児玉)―秩父平四郎行高―倉賀野三郎高俊―太郎兵衛尉秀行―太郎左衛門尉行澄―行泰(弟三郎左衛門尉光行、後閑三郎政行)―平太左衛門尉頼行(弟三郎俊行)。高俊の弟四郎高義―八郎公行」
 この倉賀野三郎高俊が倉賀野氏の祖と比定され、14世紀末(南北朝期)にその子孫が倉賀野城を築城し、以後、倉賀野氏は同城を本拠として室町時代、戦国時代を生き抜くことになる。戦国期には城主の倉賀野行政が関東管領の上杉憲政に仕えたが、天文15年(1546)の河越夜戦で戦死した。その後、上杉憲政が長尾景虎(上杉謙信)を頼り越後に落ち延びたため、倉賀野城は倉賀野尚行が城主となり、金井秀景や須賀佐渡、福田加賀守、富田伊勢守、須田大隈守、田沼庄衛門をはじめとする倉賀野十六騎と城を守った。
 永禄4年(1561)に甲斐国の武田信玄による西上野侵攻で競られ、金井秀景らが武田氏に与するなど内部分裂もあり、永禄8年(1565)に落城、倉賀野尚行も上杉謙信を頼って越後に逃れる。
 その後、元亀元年(1570)、武田氏に従っていた金井秀景が城主となり、以降は姓を改め倉賀野秀景と名乗る。天正10年(1582)、武田氏が滅亡すると、倉賀野秀景は滝川一益に従ったが、本能寺の変の後は北条氏直に仕え、天正18年(1590)、豊臣秀吉による小田原征伐において、秀景は後北条氏武将として小田原城に籠城し、結果、小田原落城と共に倉賀野城も降伏・開城し、その後は廃城となった。
 当社は、建長5年(1253)武蔵七党の児玉党の余流、倉賀野三郎高俊が社殿を造営。倉賀野氏の氏神としてこの地に修復・造営が重ねられ、江戸時代は近隣七ケ郷の総鎮守となる。旧社名は飯玉大明神。明治10年(1877)に大國魂神社と改称し、明治43年(1910)に近隣神社合祀を経て倉賀野神社となる。
        
             
・所在地 群馬県高崎市倉賀野町1263
             ・ご祭神 大國魂大神
             
・社 格 旧上中居・下中居・下之城等十二か郷総鎮守
             ・例祭等 春季例大祭 419日 秋季例大祭 1019日 他
 かつての「中山道倉賀野宿」であった付近を東西に通る群馬県道121号和田多中倉賀野線を西行し、「上町」交差点の先にある丁字路を左折し暫く南行すると、進行方向右手に倉賀野神社の正面鳥居が見えてくる。因みに旧中山道から曲がる路地には「鎮守倉賀野神社」の社号標柱も建っているので目印として分かりやすい
        
                 倉賀野神社正面鳥居
 高崎市南部、旧中山道の倉賀野宿であった地域に位置している。地図を確認すると、社の北側には東西に旧中山道が走り、西側には古墳群があり、南側には倉賀野中学校や倉賀野城跡があり、その先に烏川が東流している。
 倉賀野一帯は古く「宮原の庄」と呼ばれたが、大国魂社(飯玉社)鎮座の地の意であるという。またこの地は古くから開発が進んだ地域であったようで、この地は一大古墳地帯で、昭和十年の古墳調査によれば、後述の浅間山・大鶴卷・小鶴卷等の大前方後円墳を含む大小二〇七基もの古墳が、わずか一平方キロの内に密集しているのである。相当古くから政治権力が存し、開発が進められたであろうことは想像できよう。
『慶応四年文書』によれば、江戸時代には「飯玉社」と呼ばれ、近郷きっての名社であり、江戸時代を通じて、上中居・下中居・下之城・矢中・中里・栗崎・台新田・佐野・下和田・和田多中・上大類及び倉賀野の計十二か郷の総鎮守であったという。
 
  正面鳥居のすぐ左手には「常夜灯、王垣と倉賀野宿」の案内板と、市指定文化財である
        「
倉賀野神社本殿」の標柱が設置されている(写真左・右)
 常夜灯、王垣と倉賀野宿
 中町下町境にある太鼓橋は享和二年(一八〇二)宿内の旅籠屋、飯盛女たちが二百両も出し合って石橋にかけ替えたものである。
 その飯盛女たちの信仰を集めたのが横町の三光寺稲荷(=冠稲荷)であるが、社寺廃合令により明治四十二年(一九〇八)倉賀野神社に合併された。
 社殿は前橋川曲の諏訪神社に売られて行き常夜灯と玉垣は、倉賀野神社と養報寺に移されて残っている。
 天保時(一八三〇~一八四三)倉賀野宿は旅籠屋が三十二軒もあり、高崎宿の十五軒を上回るにぎわいを見せていた。
 本社前の常夜灯は文久三年(一八六三)「三国屋つね」が寄進したもの、玉垣にも「金沢屋内りつ、ひろ、ぎん」「升屋内はま、やず、ふじ」「新屋奈美」など数多く刻まれている。
また元紺屋町の「糀屋藤治郎」田町の「桐屋三右衛門」ほか高崎宿の名ある商家、職人も見える。
 倉賀野河岸と共に宿場の繁栄を支えてきた旅籠屋、飯盛女たちの深い信仰とやるせない哀歓を物語る貴重な石造文化財である。
(狂歌)「乗りこころよさそふにこそ見ゆるなれ馬のくらがのしゅくのめしもり」
十返舎一九-                                案内板より引用 
        
           古い歴史を感じさせてくれる雰囲気が漂う境内
 現在の本殿は元治元年(一八六四)に、拝殿は明治八年(一八七五)に再建されたものだが、建築の細部にわたる彫刻は美事なものである。境内には多くの境内末社の外、明治の神社合併により、横町の冠稲荷、南町の白山社、田子屋の八坂社、田屋町の大杉社等の諸社が合祠されている。また境内南西隅にある北向道祖神は文化二年(一八〇五)の建立で、現在でも香煙絶えることなく尊信を集めている。明治の合併以後同社を倉賀野神社と改称された。
        
                  趣のある手水舎
        
           一の鳥居を過ぎて参道左側脇にある「
神饌田」
 日本国はかつて「豊葦原瑞穂国(とよあしはらみずほのくに)」と称され、お米は古来より、日本人にとって大切な穀物であり、『日本書紀』の天孫降臨の場面で、三大神勅の一つである「斎庭〈ゆにわ〉の稲穂の神勅」にも記されている。この神勅は、天照大御神が高天原で召されている神聖な田の稲穂を我が御子に与えようという内容で、稲作と神道に深いつながりあることを伝えている。
 神饌田(しんせんでん)とは、「神田」「宮田」「御供田」ともいい、神に属し祭祀に供せられる稲を作る田の事。当社では、6月下旬に御田植祭、10月中旬に抜穂祭(ぬいぼさい)が行われている。
        
                    拝 殿
 
拝殿上部にある飯玉大明神・倉賀野神社の扁額  扁額の左側には由緒等記された奉納板あり
                   
                     拝殿前に設置されている「飯玉縁起」の案内板
 飯玉縁起
 光仁天皇(七七一-七八〇)の御代、群馬郡の地頭群馬太夫満行には八人の子がいた。末子の八郎満胤は、芸能弓馬の道にすぐれ帝から目代の職をたまわるようになった。ところが兄たちは八郎を夜討にして、鳥琢池の岩屋に押しこめた。
 三年後、八郎は龍王の智徳を受けて大蛇となり、兄たちとその妻子眷属まで食い殺した。その害は国中の人々まで及ぶようになったので、帝はこれを憂え、年に一人の生贄を許した。
 やがて、小幡権守宗岡が海津姫が贄番に当たる年、十六歳の海津姫との別れを共々に嘆き悲しんだ。都からやってきた奥州への勅使、宮内判官宗光はこれを知り、海津姫と共に岩屋へ入った。頭を振り尾をたたく大蛇にむかい、一心に観世音菩薩の称名、琴を弾いた。これによって、大蛇は黄色の涙を流して悔い改め、神明となって衆生を利益せんと空に飛んだ。烏川の辺りへ移り、「我が名は飯玉」と託宣し消え失せた。これを見た倉賀野の住人高木左衛門定国に命じて、勅使宗光が建てさせたのが「飯玉大明神」であるという。これが「飯玉縁起」のあらすじである。
 この話は、十四世紀半ばに編さんされた神仏習合を説く縁起物語集『神道集』巻八所載「上野国那波八郎大明神事」によく似通っているので有名である。「飯玉縁起」一巻は、江戸時代初期の寛文十二年(一六七二)すでに存在していたとされる伝来の社宝であり、唱導文芸『神道集』の研究にとっても欠かせない貴重な資料である。
 そして、今でも拝殿正面の向拝に、宗光が琴をかなでる彫刻が、見られるのは興味深い。社殿の彫刻が、祀る神の伝承縁起を物語っているということ自体が、全く珍しいからである。-(彫師は北村喜代松・石川兼次郎)-
 なお、この「飯玉縁起」は「神道大系」(神社篇二十五)に収載されている。
                                       案内板より引用


(2)に続く。


参考資料「
群馬県近世寺社総合調査報告書-歴史的建造物を中心に-神社編HP
    「
群馬県歴史の道調査報告書11:中山道HP」「橿原神宮HP」「倉賀野神社HP」
    
「埼玉苗字辞典」「境内案内板」等

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