古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

倉賀野諏訪神社

 金井 秀景(かない ひでかげ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。上野国西部の武士団、倉賀野衆の一人である。金井淡路守とも称する。後に倉賀野城主となり、倉賀野淡路守秀景と名乗った。
 金井氏は新田氏一族に属する岩松氏の支流で、岩松時兼の三男・金井長義を祖とする。当初、倉賀野氏の当主・倉賀野行政麾下の倉賀野十六騎の一人として関東管領・上杉憲政に従った。天文15年(1546年)、行政が河越城の戦いで討死すると、他の十六騎と共に病弱であった行政の嫡男・倉賀野為広をよく助け、城を守る。
 天文16年(1547年)の小田井原の戦いでは、籤引きで先鋒に選ばれた為広の名代として上杉氏勢を率い、武田晴信と戦うが、大敗を喫した。その後、為広が死去。倉賀野尚行が跡を継いだ永禄2年(1559年)頃に、金井秀景は一転して武田氏方になり、武田信玄に仕える。永禄8年(1565年)、武田信玄により倉賀野城が落城。孤立した箕輪城も永禄9年(1566年)落城、箕輪城主・長野業盛は自刃し、倉賀野尚行が上杉謙信の許に逃亡した。
 元亀元年(1570年)、秀景が倉賀野城主となり倉賀野氏に改姓し、倉賀野秀景となる。
 天正10年(1582年)3月に織田信長の武田征伐で甲斐武田氏が滅亡した後は、織田氏の武将である滝川一益に伺候する。秀景はこの時武田豊信に出仕を促し、梶原政景を仲介するなど一益の補佐役に位置する立場にあった。 同年6月に本能寺の変で信長が死去し、その後の神流川の戦いでも北条氏直率いる軍勢と戦い奮戦するが、敗れた一益が関東から撤退すると、和田信業らと共に後北条氏の軍門に降る。この時、秀景は一益との別れを惜しみ、真田昌幸らと木曾まで一益を警固している。
 天正18年(1590年)の小田原征伐では北条氏方武将として小田原城に籠城し、早川口の守備についた。小田原城は同年75日に落城。秀景は727日に没した。死因は不明。
        
             
・所在地 群馬県高崎市倉賀野町1967
             ・ご祭神 建御名方神
             ・社 格 不明
             ・例祭等 例祭 826
 JR八高線北藤岡駅の北側を通る国道17号線に一旦合流し、北西方向(旧倉賀野町方面)に向かう。烏川を越えた「金属工業団地」交差点を左折、かつての日光例幣使街道である群馬県道136号綿貫倉賀野停車場線を西行し、旧倉賀野町市街地に入る。
 その後、1㎞程進んだ「下町」交差点を右折し、道なりに250m程北行すると、閑静な住宅街の中にひっそりと倉賀野諏訪神社は鎮座している。
 社の東側には「下町公民館」が隣接しており、そこの一角の駐車スペースをお借りしてから参拝を行う。
        
                  倉賀野諏訪神社入り口
「下町」交差点は、かつて倉賀野宿の東端にあたり、日光例幣使街道と中山道が交わる二つの街道の分岐点、つまり『追分』があり、ここには「是従右江戸道、左日光道」の立派な道標と文化11年(1814)、五料の高砂屋文之助の発願で建てられた大常夜燈がある。この道標. 常夜燈は共に高崎市の文化財に指定されている。
 また、その三角地には「閻魔堂」が建っている。このお堂は内九品寺持ちで、古絵図では「弥陀堂」等と記していて、堂内には阿弥陀仏と閻魔大王を安置されている。八月十六日(盆の十六日)「仁王様」の縁日には善男善女で賑わったそうだ。
        
                  倉賀野諏訪神社正面
 倉賀野は干害に苦しんだ土地であった。高崎との地境粕沢の堰から長野堰用水を引いて灌漑用水としていたが、不足気味であったらしく、水争いの記録が多く伝えられている。
 諏訪神社の東前にある池は古池(今は整地されているようだ)と呼ばれ、倉賀野駅の北東にある新池と並んで貴重な灌漑用溜池であった。古池の造成は近世初頭(一六世紀末か)、新池は天明六(一七八六)年である。両池共今は養鯉に利用されているとの事だ。
  
  鳥居付近に設置されている社の案内板     鳥居右横にある「皇太子殿下行啓記念碑」
        
                    拝 殿
 諏訪神社
 この社は、倉賀野城主金井淡路守が、永禄年間(一五五八〜六九)に信州の諏訪湖畔に建つ諏訪大社から勧請し建立したと言われています。
 ご祭神の建御名方神は、五穀豊饒、開運長寿、風水害除けに御神徳があると信仰されています。八月二十六日の例祭で参詣者に授けられる「茅のカマ」は、全国にあるお諏訪さまでも珍しい「風除け」のお守りです。
 境内社の池鯉鮒(知立)神社は、嘉祥三年(八五〇)慈覚大師(円仁)が旅の途中蝮に噛まれたので知立神社に平癒を祈願したところ、痛みも去り腫れも引いたといいます。この御神徳を敬って、三河国(愛知県)
より池鯉鮒大明神を勧請して祀った石宮です。そのため、「蝮よけ、長虫よけ」の神様として信仰され、参拝することで山野を歩いていても蝮蛇に噛まれないと言われています。
                                       案内板より引用
        
              拝殿の左側には立派な土俵がある。
      826日の例祭に、境内で子供の草相撲が奉納されることがあるという。
        
             社殿の奥に境内社・石祠群が祀られている。
 左側には八坂神社、その右隣の石祠群の中右端に池鯉鮒(ちりゅう/知立)神社が祀られている。
 知立神社(ちりゅうじんじゃ/ちりふじんじゃ)は、愛知県知立市西町にある神社で、延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳では参河国碧海郡に「知立神社」と記載され、式内社に列していて、旧社格は県社。旧称は「池鯉鮒大明神」で、江戸時代には「東海道三社」の1つに数えられた由緒ある社である。
 社伝では、第12代景行天皇の時に東国平定に赴いた日本武尊が当地で戦勝を祈願し、平定後の帰途に感謝して建国祖神の上記4柱を祀ったのが創建という。
 一方、江戸時代まで当社を氏神として祀っていた永見氏一族の『永見氏家譜』によれば、その出自について饒速日尊後裔で知波屋見命(知波夜命:初代三河国造)十五世孫の三河連貞連が、白鳳2年に天武天皇の勅命により知立神主になったとしている。
 江戸時代に入り、寛文年間(16611672)には松平忠房から社領として10石が追加寄進された。江戸時代には主に「池鯉鮒大明神」として知られ、「東海道三社」の1つにも挙げられ、近隣20数か村の産土神として、また蝮除け・長虫除け・雨乞・安産の神として信仰された。特に神札を身につければ蝮蛇に咬まれないとされ、北関東から山陰地方に至る各地に分社が建てられたという。
        
           コンパクトにうまく纏まって配置されている社



参考資料「群馬県歴史の道調査報告書11:中山道」「ニッポン城めぐりHP」「ウィキペディア」
    「境内案内板」等

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