立石新田伊勢島神社
寛保二戌ノ年八月朔日の大満水は七月廿七日申刻より大雨降続、同廿九日卯ノ刻より水増酉刻には畑並居屋敷迄押開、戌ノ刻より風強く吹出し、家或は四五尺に余る廻りの,木とも所にて吹たおす事其数多し(中略)西上州山川の咄筆紙に尽しがたく、新町在立石新田、家数五十七軒の所七軒残皆押流され死おびただし、村々に止り命助かる人も有よし也。(後略)
この時の新町宿大洪水の被害は、流出家屋九十七軒、半潰百十四軒、大破家七十七軒、合計二百八十八戸が大被害を受け、流死人五十四人と大変な状況であった。
この寛保二年(一七四二)の大洪水の折、温井川の増水が早く、橋も流出し逃げ場を失って立石新田の婦女子が多く死亡した。そして二十一年後の宝暦十三年(一七六三)、寺や村人達等によって立派な石橋が架けられその橋の供養をした。昭和五年コンクリート橋に架け替えられた時に石橋の石は立石新田に返され、神社や寺の境内に保存されているとの事だ。
・所在地 群馬県藤岡市立石新田3
・ご祭神 天照皇大神 素盞嗚尊 月読命
・社 格 旧立石新田村鎮守
・例祭等 春祭り 3月 秋祭り 10月16日に近い日曜日
新町八幡神社の北側を通る中山道を北西方向に進み、温井川に架かる弁天橋を渡ると藤岡市立石新田に入る。間もなく三差路となり、左への広い道は昭和5年(1930)に造られた道である。しかし昭和40年(1965)バイパスが造られたため、現在は群馬県道178号中島新町線となり静かな通りとなった。
右の道が中山道でやや右へヵーブし間もなく集落に入る。ここが通称「砂原」と言われる70戸程の立石新田であり、道なりに進むと、地域の中程東側に立石新田伊勢嶋神社の鳥居が見えてくる。
中山道沿いに鎮座する立石新田伊勢嶋神社
烏川右岸に沿って新町との境を流れる温井川にある一帯を、昔から通称である「砂原」といっていたが、この名の通り、この地域は洪水の常襲地帯であった。古くはお伊勢の森から付いたのか、「伊勢島村」とも呼ばれていた。度重なる水害から村民が離散し廃村となり立石村に合併された。その後、立石村や烏川左岸の八幡原や角渕の人々が再び開拓して天和年間(1681〜1683)には立石新田が開発されたという。
『日本歴史地名大系』 「立石新田」の解説
北境を烏川が東流し、東から南は新町宿(現多野郡新町)、南から西は立石村・中島村、北は群馬郡八幡原村(現高崎市)・同郡宇貫(うぬき)村・那波郡角淵(つのぶち)村(現佐波郡玉村町)と接する。古くは伊勢島村・砂原村と称したが、烏川の度重なる水害を避け他村へ移住、延宝年間(一六七三―八一)に立石村の人々が再開発したという。
元禄郷帳では前橋藩領、後期の御改革組合村高帳では幕府領、家数四九。中山道新町宿の助郷高一四四石を勤め(享保九年「新町宿助郷帳」田口文書)、文化一二年(一八一五)の尾張藩主帰国の際には御両懸人足割入場に人足三一人を出している(「新町宿人馬寄高并継立書上帳」内田文書)。寛保二年(一七四二)八月の大洪水では田畑残らず永川砂入となり、民家六〇軒ほどが流れ、残るは一〇軒余という有様で、流死八〇人余、流馬三〇疋余の大被害を受けた(「大洪水被害記事」須賀文書)。
社の入口である鳥居の両側には幾多の石造物や石祠等が置かれている(写真左・右)
鳥居に向かって左側には、庚申塔(万延元年 1860)・二十二夜塔(慶応2年 1866)・御岳山大神(弘化2年 1845)・他巳待講等(写真左)。鳥居の右側には、社号標柱の他に猿田彦大神(慶応2年 1866)・大巳貴尊・蚕影山太〇・榛名山〇〇大神や、琴平大神入口の道標石も見える(同右)。
参道を進むと左側に立石新田公会堂が境内に割り込むように建っている。
立石新田伊勢島神社自体は明治42年(1909)7月、地域内に祀られていた神明宮等七社を現社地に当時鎮座していた稲荷神社社殿に合祀して、「伊勢島神社」としたという比較的歴史は浅い社である。但し、この社の創建に至る経緯は、この地域一帯の宿命といえる水害等の自然災害を抜きにしては語れないものである。
社の西側で、地域の集落を越えて直ぐに関越自動車道が横切ったその先に広大な烏川の河川敷が広がり、その一角に「烏川緑地スポーツ広場」が、その公園の東側隅にポツンと『神明宮元宮』、別名『お伊勢の森』と呼ばれる石祠と数本の立木が祀られている。
※時間等の都合で、当地を見学・散策できず、写真に納めきれませんでした。
その石祠の近くに「中山道お伊勢の森」の案内板があるのだが、その案内板によれば、この辺り一帯は、昔から砂原村と言っていて、いつの頃か伊勢島村というようになり、村の北端に、伊勢大神宮を奉斎して、神明宮社殿を建立し。村の鎮守として崇敬していたようだ。その後、寛文年間の水害により、村民が離散し廃村となり、立石村に合併、但し立石村民が再開発して、伊勢島新田村と仮称する(*天和年中 正式に分村して立石新田村となる)。
時代は下り、明治42年(1909)7月、神明宮・稲荷神社・琴平社・諏訪社・菅原社・秋葉社・ 戸隠社を稲荷神社社殿に合祀して、伊勢島神社と改称し、鎮守様として専崇したという。
拝 殿
中山道お伊勢の森
このあたりから烏川右岸に沿って新町との境を流れる温井川にある一帯を、昔から砂原村と言っていたが、何時の頃からか年代は詳らかでは無いが、伊勢島村と言うようになり、村の北端に伊勢神宮を祀り、村の人々は大神宮さまと称して崇敬した。しかし度々の水害によって村勢が衰え、江戸時代始めの頃には隣村の立石村に合併となった。
慶安(一六四八)から承応(一六五二)の頃、加賀藩の意向によって、中島村から新町宿に至る中山道としての新しい道が出来たので、立石村の人々により再開発され、道の両側に沿った集落が形成され、その中程に立石村の政所稲荷社を勧請し、その北隣地に教養寺を創建した。
その時境内に建てられた石造塔には、
西上刕緑埜郡、伊勢嶋新田 寛文十年 十一月吉日 などの文字が刻まれている。
天和二(一六八二)年、前橋藩主酒井忠挙が村名を立石新田村改め現在に至っている。中山道は、始めお伊勢の森の北側を通っていたが、寛保二(一七四二)年の大洪水以後川の浸蝕により、文化年中に森の南側を通るようになった。
広重の浮世絵(中山道六十九次新町宿)はこの辺りの風景を画いたものである。
昭和元年、御神木とされていた﨔の大木の落札価格が壱千五円参銭であったことからもその大きさが想像される。現存の神明宮元宮の社殿は、昭和六十二年、村の篤志家の寄進であり、河川敷側に保存されているのは極めて稀なことである(以下略)。
案内板より引用
※この案内板は、地域の歴史や水害等の様子を伝えているだけでなく、間接的にも立石新田伊勢島神社の創建にも関わっていると思われ、敢てこの文書を掲載している。
拝殿に掲げてある社の扁額 本 殿
天和2年(1682)村名が立石新田となった時期、「立石新田獅子舞」が他の区より伝承されたという。
「立石新田獅子舞」
天和2年(1682)村名が立石新田となった時期、他の区より伝承されたものと考えられます。流派は稲荷流阿久津派とされ、羽根獅子3(先獅子、中獅子、後獅子)、カンカチ1、花笠2、笛数人の構成に、天狗(猿田彦大神)が加わった珍しい構成です。
継承されてきた獅子舞も太平洋戦争終戦後30年間も途絶えましたが、有志の人たちが獅子舞の復活に情熱を注ぎ、寄付金を集め、衣装も整え、昭和54年(1979)に復活されました。しかし、平成2年(1990)後継者不足で再度休止に追い込まれてしまいましたが、平成29年(2017)立石新田の伝統芸能を絶やしてはいけないとの機運が高まり、保存会準備委員会を立ち上げ、平成30年(2018)正式に「砂原獅子舞保存会」(会長 金井聡明)を発足させました。舞一人、笛一人の経験者しかいない中、参加者の募集から始め、この活動は上毛新聞に紹介されました。
文久2年(1862)、藤岡太音次塗師により獅子頭塗替えを実施後、長期に渡り修理されていないため傷みが著しく、獅子頭等の修復作業から取り掛かり、住民の皆様、企業の方々からのご寄付により、平成30年(2018)、中獅子(女獅子)の頭を修復することが出来、令和元年(2019)の伊勢島神社秋祭りにて披露、そして令和4年(2022年)、43年ぶりに伊勢島神社秋祭りにて区内を巡行する事となりました。
「ぐんま地域文化マップHP」より引用
社殿の右側奥に祀られている境内社(写真左・右)
立石新田公会堂の奥に聳え立つ社の御神木
参考資料「群馬県歴史の道調査報告書11:中山道」「群馬県立文書館 目録検索HP」
「日本歴史地名大系」「ぐんま地域文化マップHP」等
