新町笛木諏訪神社
古くは、当町北部を「落合」、南部を「笛木」と呼んでいて、慶安4年(1651)に落合村(旗本領)と笛木村(天領)が合体して宿が形成される。その後、元禄年間(1688―1704)頃までは新宿(しんしゆく)といわれ、中山道の宿場町として栄えていた。
2006年(平成18年)1月23日に群馬郡群馬町・箕郷町・倉渕村と共に高崎市に編入された。当初は隣接する藤岡市と合併交渉を行っていたが交渉が決裂。のちに隣接していない高崎市との合併が決まり、現在は高崎市の飛び地となっている。
・所在地 群馬県高崎市新町557
・ご祭神 建御名方神 八坂刀売神
・社 格 旧緑埜郡笛木村鎮守 旧村社
・例祭等 元旦祭 初午祭 2月 春季大祭 4月3日
秋季例祭 10月17日 新嘗祭 11月23日 他
埼玉県上里町から国道17号線を北西方向に進み、県境に流れる神流川を越えると群馬県となり、その玄関口にあたる所が高崎市新町地域である。その新町に入り、国道を新町駅方向に進む手前にある「笛木」交差点を右折し、群馬県道40号藤岡大胡線に合流後北東に進む。その後300m程先で進行方向右手に「新町郵便局」が見え、その先に「浄泉寺」「専福寺」、更にその南側に新町笛木諏訪神社が寺社区画のように整然と並ぶように建てられている。
新町笛木諏訪神社 一の鳥居正面
一の鳥居、社号標柱がある場所は社の境内から一本南側で国道17号線から
分岐して走る旧中山道沿いに建っている。
『日本歴史地名大系』「新町宿」の解説
中山道の上州七宿の一つ。江戸より二四里、東の本庄宿(現埼玉県本庄市)より二里、西の倉賀野宿(現高崎市)へ一里半に位置する。西部を温井川が北流して烏川に合して東流し、東部を北流する神流川を東北部で合する。慶安四年(一六五一)落合村(落合新町)と笛木村(笛木新町)が伝馬役を命ぜられて宿場を成立させ、両町を併せた新宿は新町・新宿などとよばれていたが、元文年間(一七三六―四一)に新町宿とされたという。烏川を渡り倉賀野宿と結ぶ渡船場があった。
「寛文郷帳」には幕府領・旗本稲垣領の二給の笛木村、幕府領・旗本加藤領の二給の落合新町が記され、「元禄郷帳」では落合新町は同様であるが笛木村はみえず、幕府領の笛木新田となっている。その後も両町は行政上では半ば独立していたらしく、「天保郷帳」などにも両町を別に記す。
また神流川の流路が変わるため、その度に橋や渡船場の位置が変更し、白昼でも道筋がわかりにくいということで宿端に常夜灯が置かれていた(文化五年「常夜灯再建願」田口文書)。
立ち並ぶ民家の間に通る参道
現在もそうだが、江戸時代当時も神流川は武州と上州の国境をなしていた。普段の神流川の流量は少ないが、しばしば氾濫し大きな被害を出していた。現在両岸の堤防の間隔は約700㍍であるが、明治の頃の堤防の間隔は約1㎞あった。国境は新町側堤防より、わずか150㍍程の所にある。かつてはここに本流があったのであろう。
現在の神流川橋が架けられたのは昭和九年の天皇陛下行幸の年である。それ以前の道は上流50㍍程の所にあり、盛土もなく河原を整地して作ったもので、現在も一部使用されている。その当時の橋は板橋で増水時は流されないように取りはずしておいたという。
江戸時代この河原は、散流で水の流れもいくつにか分かれ、道も整備されず迷いやすかった。そこで旅の安全のため見通し燈籠が造られていた。この常夜燈もしばしば洪水により流された。そこで洪水に強い石造の燈籠が文化12年(1815)両岸に建てられた経緯があった。
二の鳥居及び境内入口
因みにこの新町地域内の神流川原は天正10年(1582)関東管領として厩橋城にあった滝川一益が、本能寺の変に接して上京しようとし、これを阻止しようとした北条氏直の大軍と戦った神流川合戦の戦場であった。胴塚稲荷や首塚の石祠が今日もまつられている。昭和40年神流川古戦場跡の大きな碑が堤防脇に建てられ、その隣には馬頭尊がまつられている.
境内に設置されている社の高崎市指定文化財の案内板
新町笛木諏訪神社には多くの文化財が指定を受けている。
・諏訪神社の石鳥居 -元禄15年・享保16年-明神鳥居-高崎市指定重要文化財
・諏訪神社の獅子舞- 安政3年 高崎市指定重要無形民俗文化財
・小林譲洲先生壽蔵之碑- 高崎市指定重要文化財
・諏訪神社の御輿 享和元年-3尺5寸・破風・総漆・金箔押し-市指定重要有形民俗文化財
境内入口の左側に手水舎、その奥にある境内社 拝殿手前にある「諏訪神社之由来」碑
境内入口から左側に折れ曲がるような配置の参道
新町笛木諏訪神社の創建は天正年間(1573~1593)に諏訪大明神の分霊を勧請したのが始まりと伝えられている。当初は笛木村の鎮守として本屋敷(現在の新町駅周辺)に鎮座していたが宝永5年(1708)に火災にあった祭、御神木から光が発し一点を示したので霊地と悟り現在地に遷座している。享保4年(1747)と明治39年(1906)に火災により社殿が焼失しその都度再建されている。
参道が左側に曲がる地点に聳え立っているご神木
拝 殿
諏訪神社之由来
一、御祭神 建御名方神 八坂刀売神
一、諏訪大明神が緑埜郡笛木村の鎮守として今の元宮の地を卜して始めて奉祀されたのは天正の頃か
一、慶安四年(一六五一)室賀下総守により検地あり 中山道筋に街並みの区画が行われ宿場町「新宿」が新たに造成された
一、承応三年諏訪大明神は村社に加列し 元禄十五年(一七○二)に石鳥居成る。この頃には笛木新町が街道筋に繫栄してきた
一、宝永五年(一七○八)御神木が焼けた
この時光物が飛び来たり落ちた処を神威と定め大明神を御遷座した これが現在の社地である由
一、享保九年二月(一七二四)社殿の中へ宮殿を奉納し 京都へ赴き吉田家に願い正一位の神位を授与され 御位をお宮へ納める
一、享保の頃二畝歩の土地を買いとり鎮守の大門を作るという 同十七年に石鳥居成る
一、延享四年正月(一七四七)新町宿の大火に遭い社殿 稲荷社 津島社等烏有に帰した。十年後 宝暦七年にこけら葺の荘厳なる社殿再建成り 同年六月二十四日御遷座する 同十一年九月には銅葺の稲荷社成り全く同状態に復した
一、明治三十九年(一九○六)失火により社殿を全焼したが、同四十三年に先ず拝殿を再興し 昭和十年(一九三四)に至り御本殿が完成され 以来神徳はいよいよ明らかに氏子の尊崇は日をおつて篤く現在に及ぶ。(以下略)
「諏訪神社之由来」碑文より引用
本 殿
本殿は一間社流造りで、壁面には木彫りで左側面には児島高徳公、背面には楠木正成公、右側側面には新田義貞公等の多くのシーンが彫刻(彫師士 深谷市岡部在住 佐藤正貫氏)で飾られ、玉垣で囲まれている。
拝殿手前で左側にある高崎市指定文化財 拝殿の左側にも高崎市指定文化財である
「諏訪神社の獅子舞」の標柱 「小林穣洲先生壽蔵之碑」の標柱あり。
高崎市指定文化財
①諏訪神社の獅子舞
安政3年(1856)に創られ、氏子によって伝承されてきた稲荷流・阿久津派の獅子舞。かつては諏訪神社の祭礼に神業芸能として天下泰平・五穀豊穣を祈りながら天狗の先導により雄二頭、雌一頭とカンカチが加わり、横笛の音に合わせ町内を舞い歩いた。最近では春、秋の祭典、正月(元旦祭)に獅子舞を奉納している。
③小林穣洲先生壽蔵之碑
文政9年(1826)新町生まれの書家で、隷書、草書に名品を残す。小学校の前身となる「墾信社(こんしんしゃ)」を浄泉寺に開設し、多くの子弟の教育に情熱を注ぐ。門弟、知己がその高徳をたたえ、この碑を建てる。
本田の裏奥にある神興庫
高崎市指定文化財
④諏訪神社の御輿
享和元年(1801)ころの製作。台輪寸法は3尺5寸(約106㎝)、屋根は唐破風型、総漆塗りおよび金箔押しで、造りは古風御輿。唐戸四面、内堂天井には極彩色鳳凰図が描かれている。この御輿は、明治中ころまで獅子舞が先導して、四神旗・太鼓等を連ね、およそ100名の行列で氏子町内を渡御した。
社殿から向かって右側に祀られている「正一位稲荷大明神」
社殿の手前で右側にある神楽殿 神楽殿の左側脇にあった年中行事等
神楽殿の右奥に第5区 山車庫が見える。 記された古い木製の案内板あり。
神楽殿の脇の道を進むと、左手に土に柱が覆われた鳥居が一基保存されている。
高崎市指定文化財
②諏訪神社の石鳥居
諏訪神社は新町の前身、笛木村の鎮守として本屋敷(駅周辺)に祀られていたが、宝永5年(1708)現在地に移された。一基は元禄15年(1702)の銘のある新町で最も古い鳥居で、もう一基は24年後に氏子により建造された。ともに明神鳥居の特色である笠木の曲線が美しく、現在は境内に保存されている。
以上高崎市指定文化財①から④まで境内案内板より引用
文化財の鳥居の奥に境内社・合祀社が祀られているが、詳しい所は不明
諏訪神社の東にある元修験堂の境内に、『竹本百合太夫の辞世の碑』がある。百合太夫は義太夫の大家で、文化年間に江戸から新町宿へ来て、稲荷横丁の金子屋横山定右衛門の養子となり、天保3年(1832)51歳で歿している。この碑は江戸の知人や門弟が建てたものである。
辞世の句 〝物いひし土人形も名残かな〟
案内板によれば、この碑は昭和63年3月に新町指定文化財と指定をうけているようだが、高崎市の文化財一覧には載せていないようだ。
しっとりとして落ち着いた境内
新町地域の中心に位置し、住宅街にありながらも、西に専福寺、浄泉寺と並ぶ、神社仏閣の一帯にあり、緑豊かな境内。とてもひっそりとした佇まいで趣があり、ゆっくり参拝できた。
参考資料「群馬県歴史の道調査報告書11:中山道」「日本歴史地名大系」「高崎市HP」
「ウィキペディア(Wikipedia)」「境内案内板・由来等碑文」等
