江ヶ崎久伊豆神社
元荒川左岸の白岡台地南東端に位置する。西と南は黒浜村、東から南にかけての開析低地(もともと平坦だった扇状地・段丘・平野等の低地が、河川などの侵食作用によって谷や斜面が刻まれ、起伏のある地形へと変化した場所)を日(につ)川が流れる。
鎮守の久伊豆神社境内から同社に納めたとみられる鰐口が出土しており、正和三年(一三一四)三月九日の紀年銘に「檀那江崎(弥)沙弥行蓮」とみえる。寛永五年(一六二八)岩槻藩阿部氏の検地があった(宝暦八年「検地帳」荒綾文化叢書)。田園簿によれば同藩領で、田高四七石余・畑高一五二石余。延宝八年(一六八〇)の家数三五(うち本百姓一九)、人数三〇四、新田の家数五(すべて本百姓)、人数三〇(「岩付領内村名石高家数人数寄帳」吉田家文書)。
・所在地 埼玉県蓮田市大字江ケ崎1202
・ご祭神 大己貴命
・社 格 旧江ヶ崎村鎮守 旧村社
・例祭等 祈年祭 3月13日 例祭 10月7日(旧暦 9月9日) 他
江ヶ崎は、蓮田市中心部の約四㌖北西に位置し、その地域名は、かつてこの付近が海であったころ、古東京湾の入り江であったことにちなむものである。地内は、白岡台地の南東端を成す畑や山林の多い北部と、元荒川左岸の低地帯の東部から南部にかけての地域に二分され、北部の台地の先端部には新羅三郎義光の子孫か家臣もしくは鬼窪尾張守繁政の居城と伝えられる江ヶ崎城跡があったが、瑞穂団地の造成によってごく一部を残して消滅してしまった。当社はこの二つの地域の接点ともいえる村の中央部に、鬱蒼たる樹木の生い茂る閑静な社叢に包まれて鎮座し、旧江ヶ崎村の鎮守として祀られてきた社である。
江ヶ崎久伊豆神社正面
入口にある神明系の一の鳥居から二の鳥居に向かう参道一帯は、鬱蒼たる緑の森に包まれ(写真左)、二の鳥居手前の舗装されていない参道付近の路面には苔生が自生していて、厳かな雰囲気を醸し出しているようだ。
因みに、参道の入口から二の鳥居までの部分を昔から「大門」と呼び、参道入口の社号標の裏辺りには、かつて「一本杉」と呼ばれた巨大な杉の古木があったという。
「大門」の呼称は、元来は一の鳥居と二の鳥居の間に大門があったことによるもので、「三社御修覆帳」にも「御神体神興二而大門大杉本ヨリ」との記述が見える。「一本杉」は、「記録年鑑」に「久伊豆宮大門先二古来ヨリ大ナル杉ノ木アリ是ヲ世挙テ一本杉ト云先戌年折レ申候依之寛延三年(一七五〇)三月右一本殖カヘ」とあり、現存すれば相当の大木であったことがうかがえる。なお、社殿の北側には、これとは別に樹齢約400年の大杉があり、御神木として大切にされてきたが、枯死したため、昭和47年に惜しまれつつ伐採されたという。
参道の進んだ先にある朱色の二の鳥居
但し正面からでは鳥居の両側には樹木もあり、裏側から撮影している。
二の鳥居付近には平成2年3月31日に指定された「蓮田市江ヶ崎久伊豆神社社叢ふるさとの森」(写真左)・「江ヶ崎の久伊豆神社」(同右)の案内板が設置されている。
拝 殿
『新編武藏風土記稿 江ヶ崎村』
久伊豆社 村の鎭守にて、祭神大己貴神、勸請は嘉吉年中なりと云、
別當 南學院 本山派修驗、幸手小渕村不動院の配下、九雲山と號す、開山賴奚永祿六年起立す、本尊不動、
久伊豆神社(みょうじんさま) 蓮田市江ヶ崎一二〇二(江ヶ崎字前側)
勧請の年代については、先祖代々、当社の祭祀に当たってきた社家の矢島家に所蔵されている「太雲山社領」に「一、久伊豆大明神嘉吉三癸亥歳勧請 当貞享元甲子(一六八六)迄弐百四拾弐年二罷成候」とあることから、嘉吉三年(一四四三)の勧請と伝えられている。更に『風土記稿』江ヶ崎村の項にも「久伊豆社 村の鎮守にて、祭神大己貴神 勸請は嘉吉年中なりと云」とあることや、白岡町実ヶ谷の鎮守である久伊豆神社が嘉吉元年(一四三一)であることなどからみて、嘉吉三年という勧請の年代はまず間違いないであろう。
ちなみに、久伊豆神社は、武蔵七党の私市党や野与党によって信仰されたといわれ、その勢力が及んでいた南・北埼玉郡に特に多く分布しており、蓮田市内や隣接する岩槻市・白岡町などにも多くの久伊豆神社が祀られている。
当社の勧請から一二〇年を経た永禄六年(一五六三)に至って、本山派修験の太雲山南学院(『風土記稿』では「南覚院」と記されている)が別当として開基された。南学院は、小淵村(現春日部市)不動院の末寺であり、開山は権大僧都法印頼憲であった。(中略)矢島家には役行者像をはじめとする一八体の円空仏が現存しており、元禄二年(一六八九)ごろに円空がこの南学院に立ち寄った際に彫刻したものと伝えられている。なお、この円空仏は、「矢島家円空仏群」として県指定文化財になっている。
本 殿
また、口碑によれば、当社は初めは現在の境内地の近くにあり、「宮地」の屋号で呼ばれる関根昇司家辺りにあったとも伝えられ、この「宮地」の屋号は、そこに昔当社が鎮座していたことにちなむものであろう。その「宮地」に隣接して矢島家累代の墓所があるのも、かつて「宮地」に当社が存在していたことの名残であるといえよう。
当社が「宮地」から現在の境内地に遷座したのは、矢島家に伝わる「三社御修覆帳」によれば延享三年(一七四六)のことである。ここでいう「三社」とは、久伊豆大明神・諏訪大明神・山王大権現の三社を指すものであるが、そのうち山王大権現は神仏分離の後、廃社となり、諏訪大明神は江ヶ崎に隣接する長崎の地内に鎮座する諏訪神社のことである。当社が「宮地」から現在の境内地に遷った理由は定かではないが、境内の拡張を意図したものと推測される。現在の境内が新たな社地に選ばれたのは、明治四十年に「法印様山」と呼ばれている矢島家の地内から「檀那江崎沙彌行蓮敬白」と刻まれた正和三年(一三一四)銘の鰐口(市指定文化財)が発掘されていることからすれば、古くより何らかの神仏が祀られていた聖地であったかもしれない。(中略)
明治維新の後は、神仏分離を経て明治六年に村社となり、世襲神職家である矢島家や氏子・崇敬者らに支えられ、その信仰はますます厚いものとなっている。境内の随所に奉納された石造物や拝殿に掛けられた多数の絵馬や額は、当社への信仰の厚さを物語るものといえよう。
「埼玉の神社」より引用
社殿の左側に祀られている境内社・天神社 本殿奥に祀られている石祠等
「矢島家円空仏(秋葉大権現像)」の案内板
社の神職である「矢島家」には一八体の円空仏が現存しており、元禄二年(一六八九)ごろに円空がこの南学院に立ち寄った際に彫刻したものと伝えられている。なお、この円空仏は、「矢島家円空仏群」として県指定文化財になっている。
二の鳥居の北側に祀られている境内社・秋葉神社
秋葉神社は、幕末の嘉永6年(1853)に現在の静岡県の秋葉山本宮秋葉神社より勧請したもので、火防の御利益があることから、地元の消防団が年2回の祭り(4月18日 12月18日)を行ってきたが、市制施行後は消防組織が改組されたため、消防団による祭典は廃止されたという。
参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「境内案内板」等
