古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

和名野芽神社

 カヤノヒメは、日本神話に登場する草の神である。 『古事記』では鹿屋野比売神、『日本書紀』では草祖草野姫(くさのおやかやのひめ。草祖は草の祖神の意味)と表記し、『古事記』では別名が野椎神(のづちのかみ)であると記している。
 神産みにおいて伊邪那岐命 (いざなぎ)・伊邪那美命(いざなみ)の間によって風の神・木の神・山の神と共に生まれた野の神。またの名を野椎神という。 『古事記』においては、山の神である大山津見神との間に、48柱(天之狭土神・国之狭土神・天之狭霧神・国之狭霧神・天之闇戸神・国之闇戸神・大戸或子神・大戸或女神)の神を生んだ。
『日本書紀』五段本書には、「次に草の祖、草野姫を生む。亦は野槌と名す」とあり、神名の「カヤ」は萱のことである。萱は屋根を葺くのに使われるなど、人間にとって身近な草であり、家の屋根の葺く草の霊として草の神の名前となった。
 別名の「ノヅチ(野槌)」は「野の精霊(野つ霊)」の意味である。
「八百万の神」を信奉する嘗ての日本人の自然に対する細やかな配慮を感じる「草の神」を祀る神社がこの和名
野芽神社である。
               
             
・所在地 埼玉県比企郡吉見町和名464
             
・ご祭神 草野姫命
             
・社 格 旧村社
             
・例 祭 春祭り 425日 例祭 1017日 秋祭り 1028

 久米田神社から北方向に1km程進んだ高台の一角に鎮座している和名野芽神社。進路途中「和名保育園」と「和名集会所」があるY字路の左斜め方向に進むとほぼ正面に社の社叢、及び鳥居が見える。後日地図を確認すると吉見町役場からでも北西に1㎞程の距離である。
 神社脇に駐車できる広い空間があり、そこの一角に停めてから参拝を行う。
               
                                  和名野芽神社正面
      周囲は民家も少なく、高台の一角にひっそりと鎮座しているという第一印象。
 
        石製の明神鳥居            鳥居上部に掲げる社号額
               
             参道の先には小さな拝殿が静かに鎮座する。
                                                        拝 殿

 野芽神社 吉見町和名四六四
 吉見丘陵の東端部一帯は、古くから谷田が開かれた所で、中世には、横見郷と呼ばれていた。当社の鎮座する和名は、この横見郷に属した村で、その地名は、『郡村誌』に「地味 真土三分 赤色埴土七分」とあるように、埴土の多い土地であるため、「埴」が転訛したものと考えられている。
 穂先にある剛毛である芒のことを意味している。『曾丹集』に「我守るなかての稲も芒は落ちてむらむら穂先出でにけらしも」という歌があるが、稲や麦の穂先に伸びる芒は豊かな実りをもたらすもの、すなわち穀霊が宿る依代に見立てられていたことは十分に推察できる。横見郷の総鎮守は、式内社の横見神社に比定されている飯玉氷川明神社(旧号)で、「飯玉」という社号が示すように稲に宿る穀霊を祀る社であることを考え合わせると、当社もまた、芒に宿る穀霊を祀った社であるということができよう。なお、『明細帳』によれば、祭神は草野姫命となっている。
 また、拝殿には、江戸時代に奉納された「正一位野(埜)芽大明神」という社号額が二枚掲げられており、そのうちの一枚の裏面には「享保十二未(一七二七)八月二日」の年紀が見えることから、このころ京都の吉田家から極位を受けたものと思われる。
                                  「埼玉の神社」より引用
 
     拝殿に掲げてある扁額         社殿の左奥に鎮座する境内社・詳細不明


 和名野芽神社から西方向に進み、和名沼の西側端附近に「和名埴輪窯跡群」が嘗て存在していた。吉見町HPによると「古墳時代の遺物である埴輪は500℃以上の高温で焼くために、半地下式の登窯やトンネル等の施設が必要であった。和名埴輪窯跡群は、そうした登窯が集中しており和名沼の北側斜面一帯に広がっている。昭和49年に行われた発掘調査では、円筒埴輪・形象埴輪を伴って4基の登窯を検出しているが、この付近一帯にはさらに多くの窯跡が存在していると考えられる」と説明されている。県指定 重要遺跡に指定されている。
               
                           「 和名埴輪窯跡群」案内板

 和名埴輪窯跡群
 古くから、ここ和名沼の北側斜面一帯は、多くの埴輪が発見されることで知られていました。昭和四十九年に行われた発掘調査では四基の埴輪を焼いた登り窯の跡が見つかっています。昭和六十二年にはさらに一基の窯跡があることが確かめられ、そのままこの場所に遺されています。これら以外にもたくさんの登り窯跡があると考えられており、県内有数の埴輪窯跡群のひとつです。
 埴輪は、今からおよそ一六〇〇年前から一二〇〇年前頃まで続いた古墳時代の豪族の墓である古墳の廻りに設置されたものです。
 ここで焼かれた埴輪には、人物、馬などの形象埴輪や円筒埴輪があり、近くの久米田古墳群をはじめとする吉見丘陵や、岩鼻古墳群などの松山台地上に造られた多くの古墳に設置するために生産されたと考えられます。 吉見町教育委員会
                                      案内板より引用


参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「吉見町HP」Wikipedia

  

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