古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

靭負熊野神社

「靱負尉(ゆきえのじょう))は「えもん(衛門)の尉」の別称で、律令制における官司。律令制以前は大王の親衛軍をさし、靫負(ゆげい)と言われていた。原義は「矢を入れる靫(ゆき、ゆぎ)を負うもの」であり、靫を持って朝廷の警護の任に当たった武官を指す言葉である。舎人同様、上に天皇や宮号を称するものであり(白髪部靫負・勾靫負など)、国造の子弟を主として編成されたもののようである。舎人が東国出身者が多かったのに対し、靫負はどちらかというと西国が中心である。舎人が天皇の警護を主としたのと異なり、靫負は宮城の門を守護することが主任務とされていたが、宮号を称する靫負が少ないことから、舎人の勢力に押され、儀仗的な存在になったことが推定される。
 宮城・衛門府の第三等の官で、左右二府に大尉(だいじょう)、少尉(しょうじょう)がある。和訓にて「ゆげひのつかさ」と呼び、「靫負」という漢字をあてる場合がある。「ゆげひ」とは「ゆぎおひ(靫負ひ)」の転訛で「靫」とは弓を入れる容器のこと。「ゆげひ」がさらに訛って「ゆぎえ」とも称される。律令制では、従六位下、正七位上相当の官で、衛門府のことを「靫負司(ゆげいのつかさ)」と呼ぶこともあり、衛門佐を「靫負尉」とも呼称していて、検非違使庁も衛門府の官人の兼任からなるところから、「靫負庁」とも呼ばれている。
               
             
・所在地 埼玉県比企郡小川町靭負343
             
・ご祭神 伊弉冉命 速玉男命 事解男命
             
・社 格 旧村社
             
・例 祭 祈年祭 43日 御例祭 1015

 国道254号バイパスを寄居町方向に進み、進行方向左側に見える「ホンダオート オークション東京会場」を越えた直後のT字路を左折する。道なりに800m程進行すると右側に東武東上線東武竹沢駅ロータリーが見え、その先の突当たりを左方向に進路をとる。その後「靭負区民センター」手前にT字路があるので、そこを左折し、暫く進むと正面方向に曹洞宗竹沢山雲龍寺の標柱が見えるが、同時に熊野神社の参道入口でもある。地形を確認すると東武東上線東武竹沢駅から直線距離で東300m程の場所にある。
 曹洞宗竹沢山雲龍寺には専用駐車場もあり、そこに停めてから参拝を行った。
               
                                 靭負熊野神社入口
                    
曹洞宗竹沢山雲龍寺の北側で高台に鎮座する。

  小川町靱負地域は嘗て竹沢郷と云われ、この一帯は、平安時代の末期から鎌倉時代にかけて活躍した武蔵七党児玉党の一支族である竹沢氏が開発し、本拠地とした所である。竹沢姓を初めて名乗ったのは、児玉保義の子二郎行高であり、その子孫の右京亮は、足利基氏と謀って新田義興を矢口の渡しで謀殺したことで知られる。当社の北側の山にある平場跡は、この竹沢氏の居館跡と伝えられており、境内には竹沢氏の供養塔といわれる苔生した五輪塔がある。
・武蔵七党系図
「有三郎別当大夫経行―保義―竹沢二郎行高―五郎行定(三郎トモ)」
冑山本の武蔵七党系図
「保義―行家―富野四郎大夫行義―□□―雅行―竹沢二郎行高―五郎行定」
               
                                      正面一の鳥居

 槻川支流の兜川流域に位置する小川町笠原・原川・木呂子・勝呂・木部・靱負は、かつて、竹沢村という一村であったが、その前身は中世における竹沢郷であったと推定される。児玉党に属する竹沢氏は、同郷を「名字の地」とする武蔵武士で、南北朝内乱のとき足利尊氏に従った竹沢右京亮はその一族と思われる。
『太平記』によれば、かつて南朝の新田義興に従ったことのある竹沢右京亮は、延文3年(1358)に畠山国清にそそのかされ、江戸高良や同冬長とともに多摩川の矢口の渡し(東京都大田区)で新田義興を謀殺したという。江戸時代中期にこの事件を浄瑠璃に翻案した福内鬼外(平賀源内のペンネーム)の『神霊矢口渡』は大当たりし、歌舞伎の台本にも転用された。そこでは竹沢右京亮は竹沢監物という名前の悪役として登場し、義興の亡霊に身を引き裂かれ最期を遂げるという役回りになっている。
 竹沢郷は、平一揆の乱ののち、竹沢氏から没収されて猪俣党に属する藤田覚能に宛行われたが、やがてその一部は鎌倉の円覚寺に寄進されて同寺領となった。
                                                「小川町編集発行 小川町のあゆみ」より引用
            
 一の鳥居を過ぎ、緩やかな坂を上ってき、石段を登った先には二の鳥居がある(写真左)。また石段の手前右側には「改築記念碑」がある(同右)。

「改築記念碑」の手前には平成二十三年(2011)記述の「郷土史案内」の立札もあり、そこには「この記念碑は大正八年(1919)に当熊野神社々殿が改築されたのを記念して設置されたもので、碑の正面には「閲額」(武蔵一の宮氷川神社宮司額賀大直氏)と経過を綴った碑文(撰文社掌根岸学丸氏)を掲げ、裏面にはこの事業に賛画された方々に加え、明治二十三年(1890)宿願の社殿新築がなされた折に尽力された人達をも刻するなど、万事にぬかりが見られず、そしていま……先人達が鎮守の社に掛けた思い・願いを伝えるこんも碑も時を経て百歳を迎えようとしています」と記載されている。
               
                                  木製の二の鳥居
                   
          二の鳥居のすぐ左側に聳え立つ「熊野神社の大スギ」

 町指定文化財 天然記念物 「熊野神社の大スギ」
 所在地 小川町
靱負三四一
 昭和三十八年三月十二日指定
 目通り四・三メートル 樹高約三三メートル
 昭和六〇年十二月二十五日 小川町教育委員会 熊野神社

「埼玉の神社」には「昔はもっと大きな杉が鳥居の脇にあり、指定木となっている杉と共に大切にされていたが、残念なことに太平洋戦争後間もなく落雷に遭い、枯死してしまった」という。
               
                  
靭負熊野神社境内 
 おそらく削平により平場にしたのであろう。右側の崖を見るとふと先人の方々の苦労を鑑みてしまう。
               
                                      拝 殿

 熊野神社(靱負三四三)
 靭負の熊野神社は、平安時代から鎌倉時代にかけて活躍した武蔵七党児玉党の一支族で、竹沢郷一帯を領した竹沢氏の館跡とされる場所に祀られており、境内には竹沢左近将監の供養塔と伝えられる五輪塔がある。熊野神社の創建の年代は不明であるが、神社に隣接する竹沢山雲龍寺には、後深草天皇に仕えた竹沢靭負が嘉元年間(一三〇三-〇六)にここに草庵を設けたことに始まるとの寺伝があることから、熊野神社の創建もこれと同時期と見る人もある。
 靭負では、熊野神社と雲龍寺が密接に関係していたため、いわゆる神仏分離令が出された後も、実態としてはなかなか分離が進まなかった。そのため、雹祈祷(春祭り)は雲龍寺の僧が祭りを行い、秋祭りは神職(地元にいないため飯田から呼んだ)が祭りを行うといった状況が明治二十年ごろまで続いていたという。
 熊野神社の社殿は、元来は南向きであったが、明治二十二年に拝殿を建築した際に立地上の理由から東向きに変えた。また、境内には昭和三十八年に「熊野神社の大杉」として町指定天然記念物になった老杉があるが、戦前はさらに大きい老杉が鳥居の脇にあった。
                            「小川町の歴史別編民俗編」より引用
 
       社殿左側(南側)にある五輪塔     社殿右側に鎮座する境内社・大山神社 天満宮
竹沢氏の祖である竹沢二郎行高のものといわれる。
               
               参道方向から見る靱負地区の眺め。
      先人たちはどうのような気持ちで現在の状況を思っているのであろうか。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「小川町の歴史別編民俗編」「小川町編集発行 小川町のあゆみ」
    「埼玉の神社」「Wikipedia」等
      



       


            



   





 

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