万光寺氷川神社
・所在地 埼玉県比企郡吉見町万光寺82
・ご祭神 素戔嗚尊 伊勢大神
・社 格 旧萬光寺村鎮守・旧村社
・例祭等 元旦祭 春祭り 5月初午日 秋祭り 10月15日
吉見町万光寺地域は下銀谷地域の北東に位置し、且つ隣接している地域である。また下銀谷稲荷神社に接している道路を南下し、すぐ先のT字路を左折すると、左側に万光寺氷川神社の鳥居が見える。距離にして100m程しか離れていない。
南向きに鎮座する万光寺氷川神社
荒川と市野川の間の低地帯に位置する場所にひっそりと鎮座している。標高図を確認すると、万光寺地域の平均標高は12m~13m程だが、社は16m程。社殿は1m程の高台か古墳の上に建てられているが、社殿の裏はさらに石垣が基礎となっていて、また一段高くなっている。恐らく自然堤防の縁にあるのであろうと推測される。
規模は決して多い区はないながら、何とも趣のある社の一の鳥居
一の鳥居のすぐ先には石製の二の鳥居がある。 二の鳥居の上部にある社号額
鬱蒼とした林の中、参道の先に拝殿が高台上に鎮座する。
『新編武蔵風土記稿 萬光寺村条』において、「往昔當村に萬光寺と云寺ありし故に村名起れりと云、されど村名正保の改には見へず、元禄の改に始て裁す(中略)吉見用水を引て耕植し、また天水を湛て助水とす、」と記載がある。
荒川と市野川の間の低地帯に位置し、河川の氾濫地帯であるにも関わらず、一度飢饉等の干ばつ用に天水を溜める対策も講じなければならない当時の方々の苦労を感じてしまう記述である。
また小字に「墓ノ前」とあり、これも「萬光寺跡なり、たまゝ墓碑など掘出せしことありと云」と書かれていて、嘗て萬光寺というお寺があったが、今は既に廃寺となっていて、その面影すら残ってなく、ただ「墓碑」が偶然掘り起こされて、元禄年間に村の名前となったという。
拝 殿
『新編武蔵風土記稿 萬光寺村条』
氷川社 村の鎮守なり、神體は丸き青石にて圓經一尺許、面に永和六年二月廿八日凌佛建立の数字を彫れり、古き勸請なること知べし、
土人の語に今田中村の高負比古神社、御所村の横見神社と當社とを合せて、横見郡三社と唱ふと、されど彼二社はともに式内の神社にして、當社は永仁六年勸請といふ、其の年代遙に下りたれば、並べ稱すべき社にはあらざるべし、
氷川神社 吉見町万光寺八二(万光寺字前方)
荒川と市野川の間の低地帯に位置する当地は、大麦・小麦・大豆などを主とした畑作地域として開発され、その地名は、昔、万光寺という寺があったことに由来する。しかし、万光寺自体については、『風土記稿』でも「小名 墓ノ前 万光寺跡なり、たまたま墓碑など掘出せしことありと云」と記しており、かなり早い時期に、既に廃寺になってしまっていたことが分かる。
この、万光寺の鎮守である当社の創建は古く、永仁六年(一二九八)に武蔵国一の宮の氷川神社の分霊を祀ったことに始まるという。
『風土記稿』には、当社の神体について「丸き青石にて円径一尺許、面に永和六年二月廿八年凌仏建立の数字を彫れり、古き勧請なること知べし」との記事がある。この「丸き青石」は下方約三分の一が欠けてしまっているものの、現在も本殿内に大切に安置されており、その中央部に浮彫りにされている仏像の姿も見える。
延宝二年(一六七四)、当社は宗源宣旨を以て正一位の極位を受け、田甲村(現吉見町田甲)の高負此古神社(現高負彦根神社)・御所村(現吉見町御所)の横見神社と共に、「横見郡三社」と呼れて榮えた。当時、当社は隣接する真言宗万光寺と共に栄えた。当時、当社は隣接する真言宗万蔵の持ちであったが、神仏分離によって同寺の管理を離れ、明治四年に村社に列した。
「埼玉の神社」より引用
拝殿の手前に祀られている二基の稲荷社(写真左・右)
『新編武蔵風土記稿』では、江戸時代、万光寺の村内には当社のほかに二社の稲荷社(共に宝永六年九月建立の石祠)と神明社があり、いずれも万光寺の持ちであった。しかし、稲荷社は小規模な社であったため、幕末あたりの年代に当社の社殿の両側に安置されるようになり、神明社も明治四十年六月に当社の本殿に合祀した。
当社のご祭神が素戔嗚尊・伊勢大神の二柱となっているのは、神明社を合祀したためであるという。
万光寺氷川神社の東側に隣接してある地蔵像と、板碑群(写真左、右)。
参考資料「新編武蔵風土記稿」埼玉の神社」等
