古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

増尾白山神社


               
             
・所在地 埼玉県比企郡小川町増尾32
             
・ご祭神 白山権現(菊理媛命、伊弉諾命、伊弉冉命)
             
・社 格 旧村社
             
・例 祭 天王様71415日 例祭101819

 上小川神社から国道254号線を西方向に進み、「相生町」交差点を直進し、埼玉県道11号熊谷小川秩父線に合流後600m程直進する。「小川消防団第二分団第一部」の小さな建物が進行方向右側に見えるので、そこを過ぎた直後のT字路を右折すると正面に増尾白山神社が見えてくる。市街地を通る為、県道から参道に曲がる道が少し分かりにくい事、また目標となる小川消防団第二分団第一部の建物も小さいので、移動時も周囲の状況を確認しながら安全に走行して頂きたい。今回ナビのありがたさを十分に思い知った次第だ。
 社の東側隣には長晶寺、その寺の南側には増尾公会堂があるので、そこの駐車スペースを利用して参拝を行った。
               
                             斜面上に鎮座する
増尾白山神社

 増尾地域は小川盆地の西南部に当たる。南北を丘陵に挟まれ、中央を槻川が流れる。当社の鎮座地である中条は、中城の意とされ、『風土記稿』増尾村の項に「古城蹟 村の東小名中条にあり、四方二町許の地にて、から堀の蹟所々に残り、又櫓の跡なりとて小高き所あり(中略)土人の伝へに猿尾太郎種直が居城なりといへど、何人の枝属にて、何の時代の人と云ことは伝へざれば詳ならず」と記し、城郭跡があったことを伝えている。       
            
            社号標柱       町指定天然記念物「白山神社の大カシ」
                              の標柱
               
                        鳥居を過ぎると、急な石段あり。
              石段が急で境内が狭いため、拝殿の正面写真が少し撮りづらい。
               
                     拝 殿

 白山神社(増尾三二)
 増尾の白山神社は、穴八幡古墳などのある八幡台の麓に鎮座しており、増尾の鎮守として信仰されてきた。境内には推定樹齢四〇〇年という樫の大樹があり、特に信仰や神木としての伝えはないが、昭和五十七年ごろから注連縄を張るようになった。
 社伝によれば、白山神社は大塚の大梅寺の開山である円了禅師が勧請した社で、加賀国(現石川県) の白山権現を禅家擁護の霊神として建治二年(一二七六)二月に遷座し、大梅寺の末寺で神社に隣接する増尾山長昌寺が神社の管理を行ってきたという。『新編武蔵風土記稿』には「今も大梅寺にて社務を司どれり」とあるが、白山神社は大梅寺と関わりの深い神社であることから、形式上は本山である大梅寺の管理下に置かれていたものと推測される。
 神仏分離によって、白山神社は明治三年に長昌寺と分離され、同四年に村社となった。氏子からは「白山様」の通称で親しまれており、諸願成就の御利益があるという。また、境内にある八坂神社は、元は白山神社と合殿であったが、昭和五十四年に社殿を新たに造営して別に祀るようになったもので、健康を祈願する参詣者が多い。
                                                        「小川町の歴史別編民俗編」より引用
           
            
白山神社の大カシ(小川町指定天然記念物)
             
 町指定天然記念物の大カシは、増尾地域内に鎮座する白山神社の石段の上、社殿の左手前に立っている。
 目通り5.3m、樹高約20m、推定樹齢700年のカシの大木。空洞が上部まで突き抜けていて、内部は真っ黒焦げの状態。老木でありながら樹勢は盛んであるようだ。
 小川町の天然記念物(1963312日指定)
               
                             拝殿上部の立派な彫刻
                 
                       拝殿左側に隣接している境内社・八坂神社。

 小川町大塚地域には「中城」と呼ばれる城跡がある。この中城跡は、中世の土豪猿尾(ましお)氏の居館跡(中城跡)とされていている。当地増尾は貞享4年(1687)まで「猿尾」と書き慣わしていた(新編武蔵風土記稿)とされ、中世の書には「麻師宇(ましう)」と記されていた。当地は、万葉集研究の基礎を築いたとされる仙覚律師が著した「万葉集註釈」に記載される「文永六年三月二日、於武蔵国比企北方麻師宇郷書写畢、仙覚在判」の地とされている。

〇新編武蔵風土記稿増尾村条
「古城蹟は村の東小名中条にあり、四方二町の地にて、から堀の蹟所々に残り、又櫓の跡なりとて小高き所あり。その辺今は杉の林となりたれど、城蹟のさま疑ふべくもあらず。土人の伝へに猿尾太郎種直が居城なりといへど、何人の枝属にて何の時代の人と云ふことは伝へざれば詳ならず」
武蔵志
比企郡青山村(小川町)、当村下村に古城・山上にあり。猿尾太郎と云人居しと云。古城下路傍に青石塔あり、康永二年十二月日の逆修と見えたり。橋供養塔青石銘に正慶二年四月二日・猿尾太郎種直有罪縛死の筵に居刻云々とあり」

 上記のように伝承では鎌倉時代の地元の豪族・猿尾太郎種直の居城跡とされ、学僧・仙覚律師がこの城で「萬葉集註釈」を文永6年(1269)に完成させたとも伝わっている。
               
                              拝殿から鳥居方向を撮影。

 但し今までの発掘等の結果では、鎌倉時代に遡る遺構・遺物は発見されておらず、現在残っている遺構は、明らかに戦国時代のもので、現在でも単郭ながら折れの有る高い二重土塁や空堀、櫓台などを見る事ができる。
 中城は、鎌倉街道山辺ノ道を見下ろす台地の先端に位置し、鎌倉街道山辺ノ道は八王子から飯能を経由して上州へと向かう古道である。そしてこの街道は戦国後期には、鉢形城大手口と滝山城、小田原城を結ぶメインルートとなった為、後北条氏にとって大変重要な道であったようだ。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「武蔵志」「小川町の歴史別編民俗編」「埼玉の神社」等
     
               

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