南新宿久伊豆神社
・所在地 埼玉県蓮田市南新宿783
・ご祭神 大己貴命
・社 格 旧新宿村・城村両村鎮守 旧村社
・例祭等 春祭り 4月8日 秋祭り 11月28日
下閏戸伊夜彦神社から一旦東行し、旧国道122号線に合流後右折する。その後、埼玉県道3号さいたま栗橋線と交わる「関山(北)」交差点を左折、同県道を北上し、「西新宿2丁目」交差点を右折した同県道145号白岡停車場南新宿線の南側にある「上島公園」の道を隔てた反対側に南新宿久伊豆神社は静かに鎮座している。
南新宿久伊豆神社正面
久伊豆神社には珍しい石段上に鎮座する社
南新宿地域は、蓮田市の東部に位置していて、かつては新宿村といっていたが、明治12年に郡内の他の新宿村と区別するために南新宿村と改められたという。
この南新宿村は、明治22年に黒浜村と合併、黒浜村大字南新宿となり、昭和29年には新たに成立した蓮田町の大字となった。この南新宿地域の中にあって元荒川沿いにある低地は元水田地帯であったが、昭和30年代になると農家が減少し、土地区画整理事業の対象地域となって都市基盤整備が行われ、昭和48年には、当地から分離して大字西新宿となった。
そのため当社の氏子区域は、現在の南新宿のみとなる。氏子数は約150戸であり、総代は染谷・請野・上宿・下宿の四つの村組から一名ずつの計四名が、任期四年で神社運営に当たっているという。
鳥居の左側に設置されている案内板
「南新宿の久伊豆神社」 蓮田市南新宿七八三二
蓮田市には七つの久伊豆神社があり、すべて元荒川流域のみに分布しています。これは舟での運搬が深く関係しており、川の流れに沿って土地が開発されていったからではないかと思われます。したがって、「久伊豆」の神は、農作の神、水の神としての性格を持ち、稲作の信仰として祭られたと考えられ、当時の村の鎮守様であるなど、それぞれ個性的な歴史を持っています。
この「南新宿の久伊豆神社」は、各講地、上宿・下宿・染谷・請野の各講地から選出の氏子総代・各講地二名、任期二年 神社総代・各講地一名で構成され、年間祭事を運営しております。
案内板より引用
旧新宿村・城村両村鎮守であり、旧村社の格式の割りにやや小規模な社
拝 殿
『新編武蔵風土記稿 城村』
久伊豆社 城觀寺の持、當村及新宿村の鎭守なり、末社 稻荷 〇第六天社 同持
城觀寺 新義眞言宗、足立郡倉田村明星院の末、東光山と號す、本尊阿彌陀、 〇阿彌陀堂 同寺の持
久伊豆社 蓮田市南新宿七八三(南新宿字染谷)
鎮座地の南新宿は、かつての新宿村で、明治十二年に郡内の他の新宿村と区別するために南新宿村と改められた。口碑によれば、地名の由来は、岩槻城主が当地を訪れた際、岩槻城と宿(白岡町篠津)を結ぶ岩槻道沿いに立ち並ぶ集落を見て名付けたものであるという。
当社は、この集落の西の外れに鎮座し、境内の南端は大字城(旧城村)との境に接している。『風土記稿』城村の項に「久伊豆社 城観寺の持、当村及新宿村の鎮守なり、末社 稲荷」とあるのが当社である。別当の城観寺は足立郡倉田村(桶川市倉田)真言宗明星院末で、東光山と号した。当社が城村の項に記されたのは、城観寺の所在が城村であったためであろう。当村及び城村は、いずれも江戸中期まで岩槻城付の村で、岩槻道を通じて城下との結び付きも強かったことから、当社は江戸初期には既に岩槻城の鎮守であった久伊豆神社の分霊を当地に勧請し、両村の鎮守として創建されていたと思われる。
神仏分離後、城観寺は廃寺となり、当社は新宿村の鎮守として明治六年に村社に列した。
現在の社殿は、明治三十九年に再建されたもので、昭和三十年には傷んだ箇所の改修が行われた。また、境内にはかつて樹齢二千年ともいわれ、樹高三〇㍍の偉容を誇る杉の御神体が聳えていたが、昭和五十四年に落雷に見舞われ、著しく衰えたことから伐採された。
「埼玉の神社」より引用
境内に祀られている稲荷大神
当社は江戸期を通じて新宿村・城村両村の鎮守であったが、当地では別に稲荷神社を祀り、村内の安全や五穀豊穣を祈願していた。当社が新宿村の村社に列せられてからも今でも稲荷神社は当地の鎮守として信仰されている。そのため、当社の初詣は、最初に稲荷神社、次に当社の順で参拝するのが習わしとなっており、総代は、南新宿自治会館に詰めて参拝者と新年の挨拶を交わし、お神酒を振る舞う。
また、7月14日は「宮薙(みやなぎ)」と称して、四つの村組のうち請野と染谷が当社を、上宿と下宿が稲荷神社を、それぞれ清掃すると「埼玉の神社」には載せている。
稲荷大神の北側隣にある神木跡(写真左)と、手前に設置されている
「為後日記之」の碑(同右)
為後日記之
此所に在りし御神木は杉の大木にて樹齢
約二〇年と云れ目通三米余樹高三十米に
て一本にて伸長し其の偉容は近隣の目標
とされ当久伊豆神社の象徴として南新宿
氏子の信仰の的で有ましたが昭和五十四
年八月不慮の落雷に見舞れ枯化状態とな
り止なく昭和五十五年一月人々に惜まれ
伐採其の優美の姿を消しましたしたがっ
て其址に代の木を植て在り日の面影を偲
び後世に傳るため之を記します
昭和五十五年一月吉日 一九八〇年(以下略)
参考資料「新編武蔵風土記稿」「さいたまの神社」「ウィキペディア(Wikipedia)」
「境内案内板・記念碑文」等
