古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

上閏戸愛宕神社

 「閏戸」という地名は、湿地や湧水地を意味する古語「うるい(湿)」と、港・津や場所を表す「つ/と(津・処)」が結びつき、 「湿地の湧水地・水に潤う場所」 を指す地名として生まれたとされている。
 この地名由来を証明するように、綾瀬川と見沼代用水に挟まれる当地域は農地を中心に水と緑の豊かで長閑な田園風景が今もなお残っている。
『日本歴史地名大系』 「上閏戸村」の解説
 蓮田台地の中央部にあり、元荒川の右岸、綾瀬川の左岸に位置する。西は同川を隔てて足立郡大針村(現伊奈町)、南は中閏戸村。古くは閏戸郷に属したという(風土記稿)。永仁二年(一二九四)一一月一一日伊賀光貞は父頼泰から「ひきの郡之内うるうとの村」などを譲られ、元亨二年(一三二二)一〇月二九日幕府より外題安堵を受けた(永仁二年一一月一一日「伊賀頼泰譲状案」飯野八幡宮文書)。「うるうとの村」は比企郡とあるが、当地と考えられる。
 古くは上・中・下の閏戸村、貝塚村・根金村・根金新田村の地域を含み閏戸村と称した(風土記稿)。寛永七年(一六三〇)岩槻藩阿部氏の検地があった(同書)。

        
             
・所在地 埼玉県蓮田市閏戸2935
             
・ご祭神 伽具土命
             
・社 格 不明
             
・例祭等 秋祭り(閏戸の式三番) 10月第2土曜日
 蓮田市閏戸は、蓮田台地の中央部に位置し、西は綾瀬川を隔てて伊奈町、東は元荒川を隔てて白岡市に接する南北に長い地域である。江戸時代には閏戸村と呼ばれていて、岩槻藩領に属し、その広大な村域は、元禄11年(1689)以前は上閏戸村・中閏戸村・下閏戸村・貝塚村・根金村・根金新田村の6つの村に分かれていた。因みに「閏戸」と書いて「うるいど」と読む。
『新編武蔵風土記稿 上閏戸村』
「當村古へは上中下の三村及び貝塚・根金・根金新田の村々を合して一村となし、たゞ閏戸村とのみ呼ぶて岩槻城に附せし地なりしを、元禄十一年旗下の士に分ち賜りし時、分村して今は六村となれり」
 この地内は、かつて北から上閏戸・中閏戸・下閏戸の三地区に分かれ、下閏戸は伊夜彦神社、中閏戸では久伊豆神社、上閏戸では愛宕神社すなわち当社を祀っている。
        
                 上閏戸愛宕神社正面
 南北に長い閏戸地域にあって、北部に当たる国道122号線と埼玉県道77号行田蓮田線が合流する「閏戸」交差点の西側奥で、上閏戸自治会館に隣接した塚上に閏戸愛宕神社は鎮座している。
        
              塚らしき盛り土の上に鎮座する社
 愛宕神社  蓮田市閏戸二九三五(閏戸字湿気)
 伽具土命を祀る当社は、木深い林に覆われたおよそ二メートルほどの盛り土の上に鎮座している。こぢんまりしたその本殿には、白幣一体を奉安している。また、本殿の左手には「稲荷社」の石祠、右手には「辨天社」の石祠がそれぞれ祀られており、いずれも「明治十一寅八月閏戸村中セハ人斎藤又市」と刻まれている。当社の盛り土と並ぶように上閏戸自治会館(昭和六十年三月建設)の大きな建物がある。その正面には二二畳敷の舞台を併設しており、十月十四日の秋祭りにはこの舞台で県指定無形民俗文化財の「閏戸の式三番」が奉納される。
 口碑によれば、当社は宝永年間(一七〇四-一〇)に秀源寺の僧が愛宕明神を祀ったのが始まりで、その時に五能三羽の舞を復活したという。これが、現在の「閏戸の式三番」である。
 江戸期には、閏戸は上・中・下の三か村に分かれていて、当社は『風土記稿』上閏戸村の項に秀源寺持ちの愛宕社として載る。また、当社の一〇〇メートルほど北にある秀源寺は、もと蒼梧寺と号し、大源派であったが、中古火災によって全山を焼失した。その後、絶えていた法灯を、伊奈備前守忠次の家人、富田吉右衛門が主人忠次(慶長十五年・一六一〇年没)追福のため再興し、忠次を中興開基とし、本寺であった秩父郡下吉田の清泉寺第二世長山賢道に請うて中興開山とした。
 明治三十年に当社は秀源寺と共に焼失したが、後に再建された。
                                   「埼玉の神社」より引用
 
  社殿の左側に祀られている稲荷社の石祠    社殿の右側に祀られている辨天社の石祠
        
      上閏戸自治会館の駐車場付近に設置されている「閏戸の式三番」の案内板
 
 埼玉県指定無形文化財 閏戸の式三番
 昭和30111日指定
 毎年、十月十四日の暁に行われる、この日は鎮守愛宕神社の秋祭り〇ある。以前は九月十四日に行われてきたが、農作業が多忙なため変更されたものである。
 式三番というのは能楽の翁(おきな)のことで、たいそうめでたい曲である。翁と千歳(ちとせ)と黒い面をつけた三番叟とが、次々に出て舞うもので初めに翁が演じる儀式的な舞を、あとで三番叟がわかり易く説明する意味で、くだけておもしろく演じて見せる、謎の文句のなかにも天下泰平・国土安穏・護国豊穣を祈る意味がこめられている。閏戸の式三番は、秀源寺の僧が宝永年間(17041710
)に愛宕神社を祀り、その時に五能三番の舞を復活したものだと伝える。普通、式三番は能楽系統のものであるが、この閏戸のものは、歌舞伎系統の古い形が伝承されたものであろうといわれている。三番叟の舞のなかには種蒔き、烏(からす)飛び、叶書き等の名称が残り、古い舞いのテを伝えており、大勢の囃子方(はやしかた)が鼓を打ちながら、つねに「ハンヤアンヤ」という掛け声で舞うところなど、いかにも農村の三番叟らしい素朴な感じが溢れている。三番叟の舞は芝居や万作などいろいろ各地に存するがこのように村の神事芸として式三番を伝承するところは、全国的にもめずらしい(以下略)。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「
蓮田市HP」「埼玉の神社」
    
「境内案内板」等

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