古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

西城天満神社


        
             
・所在地 埼玉県蓮田市西城181
             
・ご祭神 菅原道真公・面足命・訶志古泥命
             
・社 格 旧村社
             
・例祭等 春祭り 422日 例祭 725日 秋祭り 123
 南新宿久伊豆神社の西側にある埼玉県道3号さいたま栗橋線との交点「西新宿2丁目」を左折し、同県道に合流、1㎞程南下すると、「城」交差点の西側角に西城天満神社が見えてくる。
        
                  西城天満神社正面
『日本歴史地名大系』「城村」の解説
白岡台地の中央部西端にある。元荒川の左岸に位置し、北は新宿(しんしゆく)村、西は同川を隔てて下閏戸村。村内に元荒川の枝流があり古川と称されるが、村内で再び元荒川に合している。小名の丸城(まるじよう)は一名を城といい、古くは城のあった所と伝える。寛永五年(一六二八)岩槻藩阿部氏の検地があり(風土記稿)、田園簿によれば同藩領で、田高七石余・畑高六〇石余。延宝八年(一六八〇)の家数一五(うち本百姓一〇)、人数一一五(「岩付領内村名石高家数人数寄帳」吉田家文書)。
『新編武蔵風土記稿 城村』
 小名 丸城 一に城と云、四方沼田なり、古へは城ありし處なるべし、されど何人の居し事を傳へず、此邊に廣さ八反程の所水殊に深き沼あり、向山屋鋪 城に對しての名なるべし、
 久伊豆社 城觀寺の持、當村及新宿村の鎭守なり、末社 稻荷 〇第六天社 同持


「埼玉の神社」の解説によれば、かつては、周囲が23m程もあった大杉が56本も茂り、鬱蒼とした社の境内であったというが、時の流れにつれて周囲の環境も変化し、とりわけ、昭和42年の埼玉県道さいたま栗橋線の開通による変化は大きく、県道敷設の為当社の参道は半分以下となり、社殿の南側にあった沼も埋め立てられた。更に、区画整理によって昭和50年頃には杉の大木も伐採され、本来あった社の景観も失われたという。
        
           境内に設置されている社の由来等を刻印した碑
 天満神社
 歴史
 口碑によれば、天満社は京都の北野天満宮から勧請したという
『風土記稿』城村の項では、明治六年に天満社が村社になっており本来は現在地から百米ほど北西に祀られており現在地に第六天社があった
 大正二年に無格社であった第六天社へ天満社を合祀したことにより村社天満神社とし崇拝された。
 昭和二十一年二月宗教法人となり、天満神社と改称される。
 信仰
 天満社の祭神であった、菅原道真公と第六天社の祭神であった面足命・訶志古泥命の三柱が当社の祭神であるが、既に天満天神の信仰が定着しており、入試祈願の絵馬が数多く掛けられる。
 四月二十二日の春祭りは、氏子から「神社の祭礼」と呼ばれている
 なお、昔農作業の関係で別の日に祭りをしたことがあったが、その年には、雹が降って作物に大被害があったため、以来この日以外に春祭りを行った事はない(以下略)
        
                    拝 殿
 天満神社(だいろくてんさま)  蓮田市西城一-八一(城字柳原)
 城は、源平時代に戦に敗れた七人の落武者が住み着いて開発したと伝えられる古い歴史を持つ村で、小島・斎藤・内田・岩崎・山田・野口・宮澤の七家が、その七人の落武者の子孫であるといわれている。地内には市指定史跡にもなっている室町時代の平山城跡があり、「城」の地名は、この城にちなんだものではないかと推測される。
 元来、この城の地内には、久伊豆社・大六天社・天満社の三社があった。そのうち久伊豆社が城村及び新宿村の両村の鎮守であったが、城で祀っていくことが困難になったため、いつのころか新宿村に譲渡されたと伝えられる。『風土記稿』城村の項では、久伊豆社と第六天社の二社だけ載り、天満社の名が見えないにもかかわらず、明治六年に天満社が村社になっていることを考えるなら、久伊豆社が新宿村に譲渡されたのは化政期(一八〇四-三〇)以降のことであり、その代わりに、新たな村の鎮守として天満社が勧請されたものと想像できる。口碑によれば、天満社は京都の北野天満宮から勧請したという。
 村社であった天満社は、本来は現在地から一〇〇㍍ほど北西に祀られていて、現社地には元々は『風土記稿』に載る第六天社があった。ところが、大正二年に無格社であった第六天社へ天満社を合祀したことにより、大六天社は天満神社と改称され、村社となった。天満社よりも第六天社の方が境内が広かったことも考慮した合祀であった。
                                   「埼玉の神社」より引用
        
                    本 殿
 面足(オモダル)命・訶志古泥(カシコネ)命は、日本神話に登場する兄妹神であり、『古事記』では兄を淤母陀琉神、妹を阿夜訶志古泥神、『日本書紀』では兄を面足尊、妹を綾惶根尊(アヤカシキネ)と表記する。天津神であり、神武天皇は直系8親等で7代目の子孫にあたる。
『古事記』において神世七代の第六代の神とされ、兄淤母陀琉神が男神、妹阿夜訶志古泥神が女神である。オモダルは「完成した(=不足したところのない)」の意、アヤカシコネはそれを「あやにかしこし」と美称したもの。つまり、人体の完備を神格化した神である。
 また淤母陀琉神は「淤母」は「面」、「陀琉」は「足る」と解して、名義を「男子の顔つきが満ち足りていること」とし、文脈や阿夜訶志古泥神との対応、また今日に残る性器崇拝から男根の様相に対する讚美からの命名と考えられる。阿夜訶志古泥神は「阿夜」は感動詞、「訶志古」は「畏し」の語幹、「泥」は人につける親称と解し、名義は「まあ、畏れ多い女子よ」とし、淤母陀琉神と同様の理由で、女陰のあらたかな霊能に対して恐懼することの表象と考えられる。中世には、神仏習合により、神世七代の六代目であることから、仏教における、欲界の六欲天の最高位である「第六天魔王」の垂迹であるとされ、特に修験道で信奉された。明治の神仏分離により、第六天魔王を祀る寺の多くは神社となり、「第六天神社」「胡録神社」「面足神社」などと改称したという。
 
  社殿左側に祀られている天神社・庚申塔など    社殿右側にも庚申塔が祀られている。
        
              本殿奥に聳え立つイチョウの大木
              蓮田市の保護樹林に平成2年6月指定


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」
    「ウィキペディア(Wikipedia)」「境内案内板」等

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