古里兵執神社
地形的にみると、古里地域やこの地域の南部で手白神社が鎮座する吉田地域は比企丘陵内にあり、滑川がその地域から南東方向に流れている。この地域の滑川は上流部で川幅も小さいが、谷幅(川の両側の水田を含む範囲)が広く、両側は山に囲まれているが沖積台地と言われる標高の高い平坦な地も多い所でもある。
この古里地域のなだらかな丘陵地の一角に兵執神社は鎮座している。
所在地 埼玉県比企郡嵐山町古里766
御祭神 武甕槌命
社 格 旧村社
例 祭 10月18、19日 例大祭(兵執神社獅子舞)
古里兵執神社は埼玉県道11号熊谷小川寄居線を小川町方向に進み、古里交差点を右折、そこから約200m位でY字路にあたり、Y字路の角付近に兵執神社の社号標石があり、そこをまっすぐ進み、丘の中腹付近に兵執神社が道路沿いで右側に鎮座している。ちなみに「兵執」と書いて「へとり」と読む。社殿の丘の下で、参道に向かって右側には社務所があり、そこには駐車スペースがあったので、そこに停めて丘の下の社号標石から参拝を行った。
埼玉県道69号深谷小川線とのY字路の間にある社号標石(写真最上部)、そこから真っ直ぐ進むと一の鳥居(同中央)があり、そこをまた丘を登るように進んでいくと境内(同下部)になる。境内までの参道がまた変に気持ちが良く、急ではなく、長さもそこそこの勾配のある参道を歩くと何となくハイキング気分にさせてくれるものだ。
町指定 民俗文化財 兵執神社獅子舞
指定 昭和三十七年九月一日
所在 兵執神社 嵐山町大字古里字中内出七六六
時代 江戸時代
毎年十月十八、十九日(近年はこれに近い土曜日、日曜日)の秋季例大祭に疫病除けや豊作を祝い古里の氏子によって獅子舞が奉納されています。
子の獅子舞は,太鼓に文政年間(一八一八年頃)の記載があったことなどから江戸時代にはすでに舞われていたと考えられます。
獅子舞の役は、順に(一)万灯【一番上に榊と花、その下に灯籠、その下に竹ヒゴに花がつけられ、水引が下がった柱状のもの 二、三十人】 (二)法螺貝【一人】 (三)金棒つき【二人】(四)先連【柏木を打つ 一人】(五)棒司い【獅子が舞を奉納する前に庭を清め、四方を固める 四人】(六)花笠っ子【獅子の演目中にササラと称する竹製の楽器を擦り合わせる 四人】(七)仲立ち【ひょっとこ 一人】(八)獅子【ホウガン(男獅子)・女獅子・男獅子 三人】(九)笛吹役者【十人】で構成され、棒使い・獅子役に限っては小学生からはじめ、満八歳で交代になるそうです。
奉納は、はじめに社務所前庭で初庭を舞い、次に役の順番で列を整え街道下りをして前の道路まで降り、神社参道の鳥居をくぐり社殿に向かいます。社殿の西庭では二の庭を舞い、東庭では三の庭を舞います。
演目には、初庭で舞う堂浄古根古・女獅子かくし、二の庭で舞う場均し・隠平掛り・花掛り・三の庭で舞う駆け出し、神楽があります。
案内板より引用
参道の左側には天神社 天神社の奥には駒形大神の石碑
参道の右側には左側から八坂社、愛宕社が並び(写真左)、八坂社、愛宕社の参道の向かい側にも境内社がある(同右)。左から白山神社・小女郎神社、日枝神社、山神社、そして八幡神社。そして八幡神社の奥にポツンと明敵大神社の石碑があるが今回写真の紹介は省略。
境内社の散策が終了し、参道に戻ると、また一段高い場所があり、その上に社殿が見えてくる。
拝殿覆堂
拝殿内部 社殿の右奥にある鎌倉稲荷
この滑川の源流域の沖積地を見下ろす大字古里の丘陵上には、古里古墳群が点在している。6世紀後半を中心に築造された古墳群で、当時は78基の円墳が存在したとされて言われているが現在は52基の存在が確認されている。この古里古墳群は10カ所の支群に分かれていて、埴輪をもつ6世紀代の古墳から横穴式石室をもつ7世紀代の古墳へと年代の幅がある。石室の石材にはこの地域の基盤を構成する凝灰岩の切石が用いられている。岩根沢には町内唯一の横穴墓も発掘されている。その東端は埼玉県道11号線に沿って塩古墳群と隣接しているようで、その関係が注目されている。
古里兵執神社 参道の風景
今回参拝した古里兵執神社は、まさに平地を見下ろす丘陵地の一角に鎮座する社で、古里地区を一望できる要衝の地にある。社からこの風景を見ているうちに、ふと近郊に存在する古墳群の埋葬者たちは、どのような感慨をもって今の風景を眺めているのだろうかと、何となく思いに耽った面持ちとなった。