菅谷神社
嵐山地方は鎌倉街道上道上の交通の要衝で、中世に比企地方が光彩を放ったのは、当時の幹線道路である鎌倉街道上道(かみつみち)によるところが大きいといわれている。この道は比企郡内を縦貫していて、南下すれば武蔵国府、さらに進めば鎌倉、逆に北上すれば、児玉、藤岡から信州または越後へ達することが出来た。つまり、比企は当時の交通の要衝に発展したということになり、戦国時代に城郭が多数築かれた理由も、この鎌倉街道を監視または支配するためであったと考えられている。
そういう意味で、嵐山町に源義仲、畠山重忠という歴史的に見ても重要な人物を同時期に2名も輩出したことの意味は大変大きい。埼玉県民はこのことをどのくらい知っているのだろうか。
所在地 埼玉県埼玉県比企郡嵐山町菅谷608
主祭神 大山咋命 保食命亦名稲倉魂命 素盞鳴尊 市杵島姫大神 畠山重忠命
社 格 旧村社
例 祭 10月17日
菅谷神社は埼玉県道69号深谷嵐山線を嵐山方向に進み、国道254号と接する1つ手前の交差点を左折すると、右側約100m位先に社が鎮座する。入口の手前に若干車が駐車できるスペースがあったのでそこに駐車し、参拝を行った。地理的には武蔵嵐山駅の南方向、菅谷小学校の北西に位置している。
菅谷神社の入口付近を撮影 境内に建つ鳥居
畠山重忠の舘,菅谷館の北方にある。
由 緒
祭神 大山咋命 保食命 菅原朝臣道真公命 須佐之男命 畠山重忠命
由緒 本社大山咋命は元日枝神社なり是は畠山重忠年十七才にして治承四年十月武蔵国長井の渡しの頼朝の御陣所に参し頼朝公に属して先鋒の将となり各地の戦争に大に軍功あって此の菅谷の地を賜り依て此に新城を築き居住となし武運長久の守護神として近江国日吉山に鎮座なす(現今滋賀県滋賀郡坂本村官幣大社日吉神社此の御分霊は日本国中即ち三府弐拾県の内に五百社之あり其の一社の内の御分社)日吉山王権現の御分霊を畠山重忠請願に依建久元年九月十九日に奉遷勧請す故に日吉山王大権現と称せしを明治四年神社取調の節村社に列せられ社号を日枝神社と改称す是より本社境内に須賀神社及秩父神社の二社ありしを以て左に列記す須佐之男命は須賀神社と称して創立不詳なれども本村成立と同時に勧請せしものと伝う
参道の風景 社殿から撮影
嵐山町菅谷神社社叢ふるさとの森
平成四年三月三十日指定
身近な緑が姿を消しつつあるなかで、埼玉らしい豊かな緑を私たちの手で守り、次代に伝えようと、四季折々の風情に富んだ菅谷神社の杜が「ふるさとの森」に指定されました。
この神社は、源頼朝公に菅谷の地を賜った畠山重忠公が、武運長久の守護神として近江国日吉山の日吉山王権現の御分霊を請願して建久元年(一一九○年)に、日吉山王大権現として奉還勧請し、明治期になって日枝神社、さらには、菅谷神社と改称されたものです。
社の周囲はスギ林で、四季をとおして人々の憩いの場として親しまれていますが、この中でもひときわ大きなスギの御神木は、町の保護樹木にも指定されています
拝 殿
本 殿
当社は畠山重忠が、武運長久の守護神として建久元年(1190年)に近江の日枝神社から勧進し「日吉山王大権現」と称していた。明治4年に村社に列格すると、日枝神社、さらには菅谷神社と名称変更したという。
神社向い側に菅谷公園があり、その中の池に厳島神社が祀られている。