古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

桶川稲荷神社

 江戸時代から桶川宿は染物や紅の原料となる紅花をはじめとする農作物の集散地兼宿場町として栄え、特に紅花は、幕末になると、山形の「最上紅花」に次いで全国で二番目の生産量を誇っていた
 当時は、街の至る所で紅花畑が見られたといわれている。桶川における紅花の生産は、天明・寛政年間(17811801年)に江戸商人がその種子をもたらしたことから始まり、「桶川臙脂(えんじ)」の名で全国に知られるようになった
 最上地方では7月に収穫するのに対し、気候が温暖な桶川ではひと足早い6月に収穫することができます。そのため、“早庭(場)「はやば」もの”とも呼ばれ、紅花商人に歓迎されたそうだ
 世情が安定した江戸後半は、江戸や大坂(現在の大阪)の大都市だけでなく地方の町も発展し、町人を中心とした消費生活が高まりつつ桶川臙脂の生産も急速に伸びていったという。遠方の商人も集まるようになると、富とともに文化ももたらされた。今も残る桶川祇園祭の山車の引き回しは京の都から、祭囃子は江戸から採り入れ、桶川で独自に発展した行事である。
 桶川稲荷神社には市指定文化財である一対の「紅花商人寄進の石燈籠」があるのだが、この石燈籠は、桶川宿とその周辺の紅花商人たちが、桶川宿浜井場にあった不動堂へ安政4年(1857)に寄進したものであり、明治時代となり、神仏分離策などの動きの中で、やがてこの稲荷神社へ移されたという。
         
             ・所在地 埼玉県桶川市寿21423
             ・ご祭神 宇迦之御魂命
             ・社 格 旧桶皮郷惣鎮守・旧村社
             ・例祭等 春の例大祭 4月第一土曜日 秋の例大祭 10月第一土曜日  
 加納氷川天満神社から一旦南西行し、国道17号線に合流後、桶川市街地方向に左折する。2.5㎞程進んだ「北一丁目」交差点を右折し、2番目の十字路を左折すると左手に桶川稲荷神社の境内、及び一の鳥居が見えてくる。
 駐車スペースは境内東側に綺麗に舗装された駐車場も完備されているので、そこの一角をお借りしてから参拝を開始する。
        
                  桶川稲荷神社正面
 「桶川」の地名の由来については諸説ある。最も有力なのは「沖側(オキガワ)」説で、「オキ」を「広々とした田畑」の意とし、その「方向(ガワ)」である「沖側(オキ-ガワ)」が転訛したとするもの。他にも、湿地が多い土地柄で、東に芝川、南に鴨川の水源があることから、「川が起こる」意で「起き川(オキガワ)」とする説などがある。この地名「オケガワ」が初めて文献に現れるのは観応3年(1352年)、足利尊氏が家臣にあてた下文(くだし-ぶみ)であり、そこには「武藏国足立郡桶皮郷内菅谷村(むさし--くに あだち-ごおり おけがわ--ごう-ない すがや-むら)」とある
        
                           鳥居の右側に設置されている案内板
        
                綺麗に整備されている境内
 桶川稲荷神社は旧中山道桶川宿の街道筋から、東側に少し入った閑静な住宅街の一角に鎮座する。社伝によると嘉禄年間(1225年〜1227年)に創建とされ、現在の桶川市と上尾市に跨る地域に比定される「桶皮郷」の惣鎮守として創建され、ご神体として宝剣を祀っている。時代は下り1668年(寛文8年)の宗源宣旨が当社内陣に残されていて、また1694年(元禄7年)に代官南条金右衛門が幕府に乞うて社地三反五畝が除地として許されていることから、江戸時代初期にはすでに祀られていたといわれ、1717年(享保2年)に神祇管領長上吉田家より正一位に叙せられている。「南蔵院」が別当寺であった。南蔵院は明星院を本寺とする真言宗の寺院であったが、明治初期の神仏分離により、廃寺に追い込まれた。南蔵院の僧侶は還俗して当社の神職となった。
 1873年(明治6年)、近代社格制度に基づく「村社」に列せられ、1907年(明治40年)の神社合祀により周辺の4社が合祀された。また時期は不明であるが、2社も合祀されている。現在は境内に本殿、幣殿、拝殿の他に、八雲社、雷電社、琴平社、阿夫利社が祀られている。
        
                              稲荷神社の大磐石
 
 稲荷神社の力石 民俗文化財(有形民俗) 昭和50年12月13日指定
 力石は、神社などの境内に置かれ、若者などがこれを持ち上げて力比べなどをしました。稲荷神社の力石は、長さ1.25m、厚さ0.4m、重さ610kgの雫のような形の楕円形で、力比べに使った力石としては日本一重いと言われています。表面には「大般石」の文字と、嘉永5年(18522月、岩槻の三ノ宮卯之助がこれを持ち上げたこと、続いて、ともに当時の桶川宿の有力商人であった石主1名と世話人12名の名が刻まれています。
 三ノ宮卯之助(18071854)は旧岩槻藩三野宮村(現越谷市)出身で、江戸へ出て勧進相撲をつとめ、江戸一番の力持ちと評判の力士でした。三ノ宮卯之助の名がのこる力石は、埼玉県内の他、千葉やかながわ、遠くは長野や兵庫でも確認されています。三ノ宮卯之助がこの力石を持ち上げた嘉永52月は、稲荷神社の大祭と考えられます。卯之助の怪力ぶりに、集まった観衆はさぞかし驚き、拍手喝采を送ったことでしょう。
                                    前出
案内板より引用
        
                                    拝 殿
   拝殿の前には一対の紅花商人寄進の石燈籠がある。この石灯篭も桶川市指定文化財。
 稲荷神社
 稲荷神社は、近郷の氏子や崇敬者により、鎮守として祀られています。かつて、この地は芝川の水源地帯で、高崎線の線路近くにあった湧水が中山道を横切ってこの付近を流れ、一帯は豊かな社が広がっていました。創建は長承3円(1134)とも嘉禄年間(12251227)ともいわれます。元禄6年(1693)に桶川宿の鎮守となり、明治6年(1873)に桶川町の村社となりました。約1,200坪の境内地には本殿、幣殿、拝殿、手水舎、神楽殿、社務所のほか、八雲社、雷電社、琴平社、阿夫利社が祀られています。また、かつての桶川宿の繁栄を偲ばせる文化財なども大切に守られています。
 紅花商人寄進の石燈籠 有形文化財(歴史資料) 昭和49年3月5日指定
 稲荷神社拝殿の正面にある一対の大きな石燈籠です。かつて中山道の宿場町だった桶川宿は、染物や紅の原料となる紅花の生産地としても栄えました。この石燈籠は、桶川宿とその周辺の紅花商人たちが、桶川宿浜井場にあった不動堂へ安政4年(1857)に寄進したものでした。明治時代となり、神仏分離策などの動きの中で、やがてこの稲荷神社へ移されました。また、不動堂は現在浄念寺境内へ移築されています。
 燈籠には計24人の紅花商人の名が刻まれており、桶川のほか、上尾や菖蒲の商人の名前もあります。かつての紅花商人たちの繁栄を伝える貴重な文化財です。
                                  共に前出案内板より引用
        
                    本 殿
 一間社流造りの本殿は、文化十四年(一八一七)に幕府の御用大工であった江戸の立川小兵衛という棟梁によって造営されたと伝える由緒あるものである。また、昭和四十三年には氏子崇敬者の総意をもって本殿の覆屋の解体復元が行われたという。
 
 社殿のすぐ左側に鎮座する境内社・雷電社    参道左側に並列して鎮座する境内社四社
                          一番社殿側に鎮座する阿芙利社
        
            阿芙利社の左側に祀られている境内社・八雲社
                    元市神          
 
 八雲社の左側に祀られている境内社・琴平社     琴平社の手前にある元白山社
                              現在は神楽殿
『埼玉の神社』によれば、「明治初年の神仏分離を経て、当社は明治六年に村社となった。一方宿の鎮守であった字西ノ裏の神明社は無格社となったため、明治四十年に字西ノ裏の白山社・字浜井の若宮社・字牛久保の稲荷社の三社の無格社と共に当社に合祀された。この時、字西ノ裏から白山社の社殿が当社境内に移築され、以後神楽殿に使用された。このほかに、明治九年に現在の西一丁目の加藤電気の辺りから雷電社が、又いつのころか桶川郵便局の西隣から浅間社が、同じく東和信用金庫の北隣から八雲社(市神)がそれぞれ当社境内に合祀された。中でも浅間社は昭和三十年ごろまで旧地に高さ二・七メートルほどの富士塚が築かれていた。この塚は、地元の富士講の人々が富士山に登拝の度に「黒ボク」と呼ばれる溶岩を一つずつ持ち帰り、これを積み上げたものであった。毎年七月一日には初山と称してその一年間に生まれた子供が母親に抱かれてこの塚に詣で額に神印を押してもらい、愛児の無事成長を祈願した」と、八雲社や白山社等の境内社に関しての記載がある。
        
                東側にも鳥居があり、鳥居の先にはご神木が聳え立っている。
             
                 桶川稲荷神社のご神木
        
                 東側駐車場からの風景


参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「桶川市HP」「Wikipedia」「境内案内板」等

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加納氷川天満神社

 加納氷川天満神社は埼玉県桶川市にある神社で、全国の天満宮の一つでありながら、氷川神社の分社の一つでもある。
 嘗ては菅原道真を祭る天満宮の一つとして「加納天満宮」という名前であり、当時の上加納村の鎮守であった。1868年に上加納村と下加納村が合併した際に下加納村の鎮守の氷川神社をこの神社に合社したことから氷川天満神社という特異な名称となったという。
 但し、元からこの地に天満社があったことや、江戸期に鎮守であった氷川神社よりも天満社のほうが信仰を集めていたことから、二社合殿となった今も、古くからの通称である「天神様」の名で親しまれている。
         
               
・所在地 埼玉県桶川市加納771
               
・ご祭神 素戔嗚尊 菅原道真公
               
・社 格 旧上加納村、下加納村鎮守・旧村社
               
・例祭等 例大祭 2月25日 春祭り 3月25日 ふせぎ 5月7日
                    夏越の祓 6月25日 新嘗祭 11月23日 大祓 12月25日
         
 小針領家氷川諏訪神社から南行し、埼玉県道311号蓮田鴻巣線との交点を右折、同県道を西行する。2㎞程過ぎると圏央道に達し、そこを更に北西方向に800m程進んだ先の路地を左折すると、進行方向右手に加納氷川天満神社の神明系の一の鳥居が見えてくる。
 実は県道をそのまま道なりに直進した最初の十字路を左折しても、道幅の狭い道路ながら同系統の鳥居が見える。上記に紹介した一の鳥居が南側にあり、このルートの先には中山道から続く「天神道」といわれる昔からある道につながっている。これに対して、もう一方の鳥居は東側にあり、この鳥居の先の参道は狛犬等があり、より社の参道らしさを感じる。専用駐車場もこの東側の鳥居から進むと近くにあり、この駐車場に停めたのち南側の一の鳥居に向かう。
         
             赤を基調とした両部鳥居である二の鳥居
 平安時代の貞観11年(869年)の創建と伝えられ、古くから近隣の人々に知られ、信仰されてきた。
 江戸時代には「木曾街道道懐宝図鑑」に掲載され、参拝者が後を絶たなかった。また境内の井戸の水で作った薬湯は多くの病気に効くといわれていたことから中山道を通る旅人が疲れを癒すために訪れたという。桶川宿から天神道と呼ばれる道がありその道を通って加納天神社に参拝する人がいたという。
 現在は二社の合殿となっているが、元は別々に祀られていて、加納天満社が現在地にあり、氷川社が今よりも1㎞ほど東方に離れた字宮ノ脇の地に鎮座していたという。その後、明治8年(1875)に上加納村と下加納村が合併し、この天満宮に下加納村の鎮守であった氷川神社を合祀したことから「氷川天満神社」と称するようになったとの事だ。
        
             二の鳥居の前にある重厚感のある手水舎
 
       二の鳥居の右側に並んで設置されている案内板(写真左・同右)
 氷川天満神社と文化財
 この神社は「加納の天神様」として親しまれ、古くから近郷近在の人々の信仰を集めていました。江戸時代の天保2年(1841)刊行の「木曽街道懐宝図鑑」にもその名が記されており、参詣者が絶えなかったといいます。また、境内の井戸水を用いた薬湯は諸病に効くと有名であったことから、多くの参詣者が浸かってきました。この薬湯に使用した井戸は、ご神水の井戸として現在も境内地で水を湛えています。
 神社の縁起は、「宝徳2年(1450」正月24日の夜に社の森に光が差し、コウノトリが尊像を背負って飛来し、社に安置して飛び去った」というものです。その後の正徳2年(1712)正月、菅原道真を祭神として、上加納村の鎮守としたと伝えられています。明治8年(1875)に上加納村と下加納村が合併し、この天満宮に下加納村の鎮守であった氷川神社を合祀したことから「氷川天満神社」と称するようになりました。
 この神社には「天満宮」と記された木製の社号額があります。これは、梵語学者として有名な真言宗の僧・盛典(16621747)が加納の光照寺で修行中であった元禄元年(1688)に奉納したもので、現在は桶川市指定文化財に指定されています。表面は黒漆を塗り、縁を朱塗りにし、中央の「天満宮」の文字は金色に塗られています。裏には「江戸愛宕真福寺一代日向所生超然房性遍法印御自筆元禄元年辰十一月吉日武州足立郡鴻巣内加納村願主
釈盛典敬白」と刻まれています。かつては拝殿か鳥居に掲げられていたと考えられますが、現在は取り外され保管されています。

 氷川天満神社 御由緒  桶川市加納七七一
 □御縁起(歴史)
『埼玉県地名誌』によると、加納は中世荘園である深井荘の追加開墾地であるところから生じた地名である。地内には、室町-戦国期の加納城跡があり、岩槻太田氏の旗下木本氏が居城したと伝えられる。この木本氏の後裔が江戸期に上・下加納村の名主を務めたという。
 当社は二社の合殿となっているが、元は別々に祀られていて、天満社が現在地にあり、氷川社が今よりも一キロメートルほど東方に離れた字宮ノ脇の地(現在のタカハシプレス工業の敷地)にあった。『風土記稿』によると、氷川社は上・下加納両村の鎮守で、天満宮と共に真言宗光照寺が別当であった。一説にこの光照寺は、戦死した加納城主の長男が出家して城の近くに庵を設けたのに始まるという。
 神仏分離を経て、明治六年四月に、氷川社・天満社共に村社となった。次いで、明治四十年五月に氷川社と字本村の無格社八雲社を天満社に合祀したのを機に社名を氷川天満神社と改めた。天満社の方が合祀先に選ばれた理由としては、その周辺に有力者が居住していたことが挙げられよう。このときの御遷宮に際しては、氏子の各戸の庭先で「餅搗き踊り」を行うなど村を挙げて祝ったとの話が残されている。
 神仏分離後の祀職は、合祀を経たころまでは、地元の加藤周蔵が務め、その跡を桶川の稲山家が継いだ。更仁昭和初年からは地元の桜井家が継ぎ奉仕している。
 
     参道左側にある神楽殿              参道右側にある力石
         
                               力石のすぐ隣にある井戸
 嘗ては薬湯に使われたようだが、現在はその機能を果たしておらず、鯉などが放されている。
             またこの井戸はとても深いといわれている。
         
                     拝 殿
         
                   拝殿上部、向拝部等には細やかな彫刻が施されている。
 加納氷川天満神社には年2回の例大祭がある。2月の例大祭は「天神様のお祭り」と呼ばれ、嘗ては前日の晩に当社を中心に四里四方の小学生たちが地区ごとに年長者の家を宿として泊まり込み、そこで習字を行い、当日は朝早く銘々で「正一位関白太政大臣菅原道真公」などと墨書した旗を持ってお参りし、境内にある池の周囲にその旗を立てて、筆を池に投げ入れたという。
         
                                         本 殿
 一方、8月の例大祭は本来は氷川社の祭礼で、夜830分から9時にかけて当地の伝統芸能である「餅搗き踊り」が盛大に行われる。
この「餅搗き踊り」は祭礼のほかに、昭和30年ごろまでは氏子の中で七五三のお祝いや家の落成祝いがあると頼まれて行っていたとの事だ。 

  社殿左側に祀られている境内社・山王社    社殿左側奥に祀られている神武・明治天皇
                           遙拝所、並びに稲荷大明神
        
                          社殿から南側にある二の鳥居を望む
 
      因みにこちらは東側の鳥居(写真左)とその先の参道の風景(同右)
     こちらはこちらで落ち着いた雰囲気でもあり、個人的には好みである。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「桶川市HP」「Wikipedia」
    「境内案内板」等
 

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小針領家氷川諏訪神社

 桶川市・小針領家という地名は平安時代の荘園のゆかりの地域名という。小針は小さい荘園といわれていて、平安時代の開発を示す村名であると考えられていて、歴史の古い由緒ある地域名である。小針領家村は、元禄11年(1698)に小針領家村上分と下分に分かれていたようであるが、明治期に再び小針領家村に戻っている。
 桶川市の有形文化財で古文書である「旧小針領家村松川家文書」は、小針領家村上分の名主家の一つであった松川家に伝わるものである。小針領家は綾瀬川の源流があり、嘗てはこの排水に関して非常な不便があった地域であった。松川家に残る文書では、元禄7年(1694)の地検改正に係わるものが最も古く、その他、安永2年(1773)を始めとする綾瀬川排水関係のものが多くを占めている。また、文政7年(1823)の「備前堤一件」の文書は、当時の伊奈氏によって築かれた備前堤を巡って起きた治水に関する争いや訴訟の記録をとどめるものとして貴重であるという。
        
              
・所在地 埼玉県桶川市小針領家762
              
・ご祭神 素戔嗚尊 建御名方神
              
・社 格 旧小針領家村鎮守・旧村社
              
・例祭等 祈年祭 2月中旬 春祭り 45日 例大祭 914
                   
日待 1015日 新嘗祭 11月下旬
 倉田氷川神社から一旦高架橋を南側に抜け、すぐ先の路地を右折し細い農道を進む。倉田地域同様に南北に長い小針領家地域は、地形上地域南部は大宮台地上にあるそうなのだが、この場所は元荒川流域に近いため、低地帯となっていて、田畑風景の中に豊かな雑木林も所々にあり、長閑な日本の原風景を見ているような心持で気持ちも不思議と和む。
 その農道を250m程進むと、進行方向右手に小針領家氷川諏訪神社の赤い両部鳥居が見えてくる。
        
            小針領家氷川諏訪神社正面の赤い両部鳥居
『日本歴史地名大系』 「小針領家村」の解説
 舎人(とねり)新田の南東にあり、南部は大宮台地上、北部は元荒川の低地を占める。備前堤が台地の先端から北東埼玉郡高虫(たかむし)村へ延びている。田園簿に領家村とみえ、田一二八石余・畑一一二石余、岩槻藩領。延宝八年(一六八〇)の家数四〇(うち本百姓二〇)、人数二四六(「岩付領内村名石高家数人数寄帳」吉田家文書)。元禄七年(一六九四)の検地で上田五町八反余・中田七町八反余・下田四町五反余・下々田一二町九反余の計三一町二反余。畑方は上畑一〇町二反余・中畑一一町三反余・下畑一三町二反余・下々畑四町三反余・屋敷一町五反余の計四〇町七反余、高四六九石余となっている(「検地帳」川家文書)。
        
              入り口付近に設置されている案内板
 氷川諏訪神社 御由緒  桶川市小針領家七六二
 □御縁起(歴史)
 小針領家は、小針村からの分村で、初めは単に領家村と称した。その地名から中世に荘園の領家職が居住したことを物語る。慶安二-三年(一六四九-五〇)の『田園簿』に領家村として記されているため、これ以前に小針村から分村したと思われる。その後、小針村は貫文年間(一六六一-七三)に小針内宿村・小針新宿村に分村した。各村が分村する以前からの小針村の惣鎮守は小針内宿の氷川社(明治四十年に羽貫の八幡社に合祀し、小針神社となった)で、文永元年(一二六四)の創建と伝える。
 当社の創建については、中世の荘園の鎮守として祀られたとも考えられるが、江戸初期に小針村から分村の際に本村の鎮守を勧請したとするのが妥当であろう。『風土記稿』小針領家村の項には、「氷川社 村の鎮守なり、薬師寺持、末社 荒脛社、疱瘡神社、太子堂」とある。
 明治初年の神仏分離により薬師寺は廃寺となり、当社は明治六年に村社となった。大正十五年には、境内の諏訪社を本社に合祀し、社号を氷川諏訪神社と改め、本殿の改築と幣殿・拝殿の新築を行った。同年の「神社合祀社号改称之記」の碑には、合祀以前から氷川・諏訪両社の草葺の同型社殿が並立していたと記されている。現在は覆屋内に両社の本殿があり、氷川社には往時の本地仏十一面観音像が安置される。(以下略)
                                      案内板より引用

        
           境内は思った以上に広く手入れも行き届いている。
 正面の鳥居は赤を基調として目立っているが、境内に入ると、程よい寂れた感が風情を醸し出している。

 氷川諏訪神社の創建年代は不明。所在地である「小針領家」の由来となった荘園の鎮守として創建された説、江戸時代初期に小針村から「領家村」として分村した際に鎮守として創建された説の二通りが推測される。江戸時代までは「薬師寺」が別当寺であった。薬師寺は明治初期の神仏分離により、廃寺となる。
 1873年(明治6年)の近代社格制度に基づく「村社」に列せられ、1907年(明治40年)の神社合祀により境内にあった「諏訪社」を合祀した。その際に「氷川諏訪神社」に改称したという。
        
                    拝 殿

      拝殿上部に掲げてある扁額               本 殿
        
               拝殿前の参道右手にある「土俵」
「桶川市HP」や市が配信している「You Tube」等で確認すると、この土俵上において無形民俗文化財である「小針領家のささら獅子舞」を奉納しているようである。
 この小針領家のささら獅子舞は北埼玉郡種足村(現加須市騎西)から伝えられたとされているが、その由来については定かではない。しかし、獅子舞用具が保存されている長持ちのうちで最古のものの蓋裏には享保4年(1719)の墨書きがあることから、今からおよそ280年前には小針領家で獅子舞が舞われていたと考えられる。
 天下泰平、五穀豊穣、悪病退散を祈願する勇壮な舞は、嘗て「領家のささら」と近郷でも親しまれていたが、昭和34年(1959)を最後に一度途絶えた。しかし、平成11年(1999)に復活へ向けた活動が開始され、困難を乗り越え、平成14年(2002)には旧埼玉県立民俗文化センター主催の民俗芸能公演への出演を果たし、復活した。
 演技は獅子舞と棒使いで構成されている。役割は、大獅子、中獅子、女獅子の3頭の他、舞の先導役である天狗、花笠、笛方、棒使いがある。獅子舞の前に、舞の場を清めるための棒使いの演技が行なわ、棒使いでは、木太刀を使った「一打ち」や、六尺棒を使った「四人棒」などの演技が主に行なわれる。獅子舞には、若者の舞う「草神楽」と熟練者の舞う「正神楽」があるという。
 嘗ての獅子舞の伝承者は、氷川諏訪神社の氏子男子に限られ、獅子役などは代々世襲で氏子長男とされ、厳密に守られてきた。現在では老若男女の区別なく、多くの人が獅子舞を支えている。主に4月と9月の氷川諏訪神社の祭礼で披露されており、子ども達による棒使い、獅子舞も披露された。40年の時を超えて復活した獅子舞は、現在も着実に伝承の道を歩んでいるとの事だ。

 また小針領家のささら獅子舞の用具等一式も市の有形民俗文化財に指定されていて、獅子舞用具が保存されている長持ちのうちで最古のものの蓋裏には享保4年(1719)の墨書きがあり、昭和34年に獅子舞が一時中断されるが、それ以降も氷川諏訪神社の祭礼では「虫干し」と称して獅子頭を社前に並べていたため、用具の保存は良好な状態を保っているようだ。
 
    境内東側に祀られている太子社             境内東側外れに祀られている庚申塔
  中に彩りが鮮やかな太子様が祀られている。
 
         境内に祀られている境内社(写真左・右)。詳細不明。
『新編武蔵風土記稿』小針領家村の項には、「氷川社 村の鎮守なり、薬師寺持、末社 荒脛社、疱瘡神社、太子堂」とあり、荒脛社や疱瘡神社が祀られているのであろう。
       
                    境内の一風景
     
            鳥居の手前に一際聳え立つ巨木(写真左・右) 
                      注連縄等がないので、ご神木ではないようだが、
              それでも正面の鳥居が小さく見えてしまう程の迫力ある存在感だ。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地舞体系」「埼玉の神社」「桶川市HP」「Wikipedia」
    「境内案内板」等

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倉田氷川神社

 埼玉県越生町にある松渓山法恩寺は、古くから地域の人々に親しまれてきた真言宗智山派の寺院である。寺伝『法恩寺年譜』には、「松渓山法恩寺は天平10年(738)に東国遊行中の行基が開創したが、しばらくは荒廃して寺山と呼ばれていたという。その後越生氏一族の倉田基行夫妻が、現れ来た天竺僧とともに、紫雲棚引く古井戸の中から、行基が奉じた5尊の仏像を見つけた。夫妻は草堂に仏像を祀り、出家して瑞光坊、妙泉尼と名乗った。建久元年(1190)、この地を訪れた源頼朝は二人の話に感銘を受け、土地と田畑を寄進し、基行の甥の越生次郎家行に命じて堂塔伽藍を建立させた」と伝える。
『法恩寺年譜』に登場する倉田孫四郎基行は武蔵七党の一派である児玉党越生氏に属する平安時代末期から鎌倉時代初期に活躍した武将である。この越生氏の一派である倉田氏が現桶川市倉田地域に館を構えていたという。
 但し異説もあり、『新編武蔵風土記稿 越生郷 今市村』の小名に「倉田」が存在し、そこには「村の西南によりてあり、按に法恩寺年譜錄に云、倉田孫四郎基行は當郡の刺史兒玉武藏守惟行の家弟たるにより、後倉田の邑に退隠すと、倉田はもし此地のことにや、されど隣郡足立に、倉田村あれば、彼村なりしも又知べからず」「其後文治年中當所の令たりし、倉田孫四郎基行と云者出家して瑞光坊と號し、其妻を妙泉尼と稱せしが、当寺再興のことを右大將頼朝へ願ひしかば、頓て越生次郎家行に仰せて、堂塔以下舊の如く造営ありしと、時に建久元年のことなり」と解説され、倉田基行の本拠地は越生内にあったのではないかともとれる解説が記載されている。
 さて真相はいかなることであろうか。
        
              ・
所在地 埼玉県桶川市倉田881
              ・ご祭神 素戔嗚尊
              ・社 格 旧倉田村鎮守・旧村社
              ・例祭等 例大祭 48日 祇園祭 714
 倉田氷川神社の鎮座する桶川市倉田地域は、同市東部にあり、大宮台地上に位置する。北本市・宮内氷川神社の参拝後に向かった社ではあるが、移動経路がやや複雑であるので、ここでは久喜市菖蒲町上栢間に鎮座する神明神社、並びに天王塚古墳からのルートにて紹介する。
 神明神社並びに天王塚古墳南側に走る埼玉県道77号行田蓮田線を、概ね南東方向に進み(途中同県道12号川越栗橋線が経路途中にあるが)、首都圏中央連絡自動車道(圏央道)を通過したのち、元荒川に沿って東行する。同県道はその後一旦南行してすぐに綾瀬川に沿って東行するのだが、そのまま南行し、新幹線高架下に沿って左折し250m程進むと、左手に倉田氷川神社の鳥居が見えてくる。
 周囲には適当な駐車スペースはないが、人通りのない高架橋下の道路でもあり、社の社叢林と道路に面した迷惑のかからない場所に一時的に停めてから参拝を開始した。
        
                 倉田氷川神社正面
『日本歴史地名大系』 「倉田村」の解説
 小針領家(こばりりようけ)村の南、大宮台地上にある。東・南は小針新宿(こばりしんじゆく)村(現伊奈町)・上(かみ)村(現上尾市)。蔵田とも記される(天正一九年一一月日「徳川家康朱印状」明星院文書)。南北約八〇メートル・東西約一五〇メートルの平地林のなかに浅い空堀をめぐらした館跡があり、倉田孫四郎の館跡と伝えられる。倉田孫四郎基行の名は「報恩寺年譜」にみえ、南北朝期「倉田之邑」に隠棲したとある。現岩槻市勝軍寺蔵の金剛界西院初夜作法奥書に、天文二二年(一五五三)二月一八日「賜武州足立倉田明星院御本書写畢」とある。天正一九年(一五九一)伊奈忠次は小室村(現伊奈町)の無量寺閼伽井(あかい)坊屋敷に陣屋を置くにあたり、同坊を「倉田明星院」へと移らせた(同年六月六日「伊奈忠次替地手形」明星院文書)。
                
                    鳥居の左側に建つ社号表柱
 神社を見て回っていると、気になる社号標柱が多く存在する。社号標の「社名」の上に表記されていた「社格」はセメント等で塗りつぶされているのだ。
 明治時代以前の「神仏習合」により、複雑化した神社も「神仏分離令」の名のもと再編成を実施。その後第二次世界大戦の終わりまで、「近代社格制度」という新たな制度を制定し、『延喜式』に倣って新たに神社を等級化し、同時に神社を政府の管轄下に置き、保証や支援を行っていた。
 昭和21年(1946年)22日、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の神道指令により神社の国家管理が廃止されると同時に廃止。GHQの干渉を恐れ、石の社名標の社格が刻まれた部分をセメントで埋めた神社が多かった。その後セメントを除去した社名標もあるが、現在でもそのままのものも多い。
 今日でも「旧社格」などの名称で神社の格を表す目安とされることがあり、今後もこのまま塗りつぶしたままで良いのかと思うこの頃だ。
        
              正面入り口付近に設置されている案内板
 氷川神社御由緒  桶川市倉田八八一
 □御縁起(歴史)
 倉田の地内には、南北約八〇メートル、東西約一五〇メートルの平林地の中に空堀をめぐらした館跡があり、倉田孫四郎の館跡と伝えられている。倉田孫四郎基行の名は「報恩寺年譜」に見え、南北朝期「倉田之邑」に隠棲したとある。館跡の北西隅には倉田孫四郎の氏神であったとされる神明社がある。また館跡付近には多数の板石塔婆があり、特に南方約一〇〇メートルの明星院には六七基の板石塔婆が集められている。ちなみに、同院は室町初期の創建とされる真言宗の古刹である。
 当社はこの館跡の北東二五〇メートルほどの地に鎮座しており、その方角から推して、館の鬼門除けとして祀られたとも考えられる。『風土記稿』倉田村の項には「氷川社 村の鎮守なり、村民持下同じ、末社 天王社、稲荷社、疱瘡神社」と記されている。
 本殿には、正徳三年(一七一三)の本殿棟札、享保十八年(一七三三)に神祇管領吉田家により正一位に叙された際に拝受した幣帛・宗源宣旨・宗源祝詞・更に万延元年(一八六〇)に「倉田村願主星野美恵女」により奉納された神鏡などが納められている。この中で棟札には「遷宮導師別当明星院廿五世尊盛」の名が見え、明星院が別当であったことがわかる。
 神仏分離を経て当社は明治六年に村社となり、同四十年に加納の氷川天満神社への合祀司令が出されたが、昭和十八年に取り消された。(以下略)
                                      案内板より引用
        
            高架橋のすぐ北側にありながら静まり返った境内
 参道から拝殿に通じる途中には境内社が数社あるのだが、その境内社までの道がしっかりとしたアスファルトで舗装されているので、歩きやすくなっている。
 
       境内社・第六天神              境内社・天皇神社
        
                                      神楽殿
 倉田地域には「倉田の祇園祭」と呼ばれるお祭りがあり、古い伝統を伝える行事として貴重なものであるという。毎年7月14日に近い日曜日に、氷川神社の氏子54軒の家々をまわって、疫病退散と五穀豊穣を祈願する祇園祭が行われている。
 祭り当日の朝、倉田氷川神社に合社されている八雲神社を地区の共有地にある仮小屋(現倉田集会所脇)に移す。ここ神輿とともにまつられた後、村まわりが始まる。
 村まわりの一行は、神霊をうつした「牛頭(ぎゅうとう)」と呼ばれる幣串を先頭に、天狗、獅子頭、山車(だし)持ち、万燈の順で進む。この行列に、軽トラックにそれぞれ乗せられた神輿と囃子方が続く。氏子の家々をまわる途中、13カ所の休憩所で合流し、飲食をともにする。収穫されたばかりの小麦で作られた饅頭もこのときに振る舞われる。
 昭和30年代までは各家の室内には茣蓙が敷かれ、村まわりの一行は土足のまま縁側から入って室内を通り抜けたといわれている。
        
                                        拝 殿
「桶川市HP」によれば、当地域には無形民俗文化財に指定されている「倉田の囃子」がある。HPの解説をそのまま引用する。
 倉田の囃子(無形民俗文化財)
 倉田のお囃子は、江戸神田囃子松本流を継いでいます。江戸後期の頃は、いわゆる古囃子という初期のお囃子が伝えられていたようですが、現在伝承されているものは明治の頃に足立郡菅谷村(現上尾市菅谷)から習ったものと伝えられています。
 楽器は附太鼓(小太鼓)2、玉太鼓(大太鼓)1、スリガネ1、笛15人囃子で、屋台囃子、昇典、神田丸、鎌倉、四丁目(しちょうめ)、矢車(やぐるま)、ひょっとこ囃子、道中(どうちゅう)の8曲が演奏されていました。このうち昇典と道中は「静か物」と呼ばれます。現在は屋台囃子を主に演奏しています。なお、この屋台囃子は10の曲に分かれています。
 4月と10月の倉田氷川神社の祭礼や、714日の村廻り、71516
日の桶川祇園祭などで演奏され、お祭を盛り上げています。
        
          拝殿の左側に祀られている境内社・稲荷神社、疱瘡神社
        
                       社殿から見る参道の様子。
              鳥居の先に新幹線の高架橋が見える。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「日本歴史地名大系」「桶川市HP」
    「桶川市歴史民俗資料館 民俗資料展示 解説シートHP」「Wikipedia」
    「境内案内板」等
               

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上日出谷氷川神社

 江川は鴻巣市、北本市、桶川市、上尾市を流れ、流域面積約 17km2、流路延長約 5km の荒川に注ぐ一級河川である。流域には豊かな自然が残っており、サクラソウをはじめとした多くの湿地性動植物が生息・生育している。また、江川流域は、埼玉県の中でも遺跡が多く分布する地域であり、縄文の時代から住み良い地域であった。
 近代では、台地からの湧水や伏流水に頼った昔ながらの水田耕作が昭和 40 年代まで行われていたが、中流域及び上流域において土地改良事業が行われた結果、安定した農耕が可能となった。その後、上流域の台地や北本市付近は急速に開発が施され、流域の市街化率は平成 6年度で 42.3%に達している。
 江川はもともと農業用水路であったことから、沿川には水田が広がっていて、沿川は主に水田利用。左岸側に位置する上日出谷地域周辺は市街化が進んでいるが、それに対して右岸側は主に畑や緑地が広がっている。
 行政側も、この江川を境として東側(そこからJR高崎線までの間)を「桶川西地区」、西側を「川田谷地区」と分けている。「桶川西地区」の管轄内である上日出地域は近年の土地区画整理事業により、宅地化が進み、日常生活に必要な公共施設、医療・福祉施設と広域的交通網を生かした商業施設などを集約した「地域生活拠点」を形成している。
 同時に、地域の西側に広がる江川周辺の農地をふくむ身近な自然は、市民農園や生産者と消費者のネットワーク化、雑木林の管理のためのボランティア活動などの農業の活性化と農地・雑木林の保全のための市民参加の支援活動を展開し、緑の風や美味しい空気の供給地と、せせらぎと緑が息づく身近な生態系を次代に伝えようとの試みも行われているようだ。
 この江川とその北側にある舌状台地の先端に位置しているのが上日出谷氷川神社である。行政側もこの社を「まちつくりに生かした地域資源」と捉えていて、この社を含む江川東側の斜面林を江川流域と一体的に捉え、緑の連続的な保全とその活用策を検討しているという。
        
              
・所在地 埼玉県桶川市上日出谷13
              
・ご祭神 素戔嗚尊
              
・社 格 旧上日出谷村鎮守・旧村社
              
・例祭等 歳旦祭 11日 春祈祷 315日 祇園祭 714
                   
お日待 1015日 新嘗祭 1128
  
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0003919,139.5397969,18z?hl=ja&entry=ttu
 上日出谷地域は、南北に広い川田谷地域の東側で、JR桶川駅の西側辺りにあり、近年の土地区画整理事業により宅地化が進んだ地域である。その南西方向で、南北に流れている江川とその北側にある舌状台地の先端に鎮座しているのが上日出谷氷川神社である。
 途中までの経路は北本市・石戸八雲神社を参照。埼玉県道33号東松山桶川線を1.3㎞程南東方向に進み、「セブンイレブン桶川山店」のすぐ先の丁字路を右折する。首都圏中央道路を越え、更に南下し、「日出谷小学校」を左側に見ながらその先にある「日出谷小学校入口」交差点を右折する。因みに首都圏中央道路を越えて暫く進むと、民家が立て込んでいながら昔ながらの道幅の狭い道路となるので、対向車や人との接触には注意が必要だ。
「日出谷小学校入口」交差点を右折し、すぐ先にあるホームセンターの丁字路を左折。そのまま道なりに600m程南下すると信号のある十字路になり、そこを右折してすぐ左側に曲がる路地があり、その先に上日出谷氷川神社の赤い鳥居が見えてくる。
 但しここは正面ではなく、一旦南下して正面鳥居まで移動しなくてはいけない。因みに正面鳥居周辺には駐車スペースはない。車はここの一角に停めてから徒歩にて移動する。
        
       
 南側に移動して正面入り口に到着、ここが正面となる。地形を確認すると、社が鎮座している地は、舌状台地の先端に位置し、南・西・東の三方を低地に囲まれ、正面鳥居からは三方向の広大な田園風景を拝むことができ、地形上でも目立つ場所に鎮座している。
 嘗て「白旗山」と呼ばれる小高い場所には氷川神社が建っていて、明確な遺構はないが社殿裏に土塁の痕跡のような地形にも見える。
        
 正面鳥居から見た南方向の風景。なだらかな斜面となっているのがわかる。低地面の水田の平均標高は11m程で、社が鎮座している台地面・社殿付近が19m程であるので、比高差は最大で8mから9m程。なだらかな斜面であるので、そこまでとは一見思えない。
 川田谷と上日出谷の境を北から南に向かって流れる江川を中心に幅400m程の谷津となり、湿地帯ないしは深田が広がっていたものと推測される。江川に合流する手前の水路は元々氷川神社の東側から流れていたようだ。したがってこの氷川神社の台地は、おそらく以前は東西を自然の谷津で挟まれた南北に細長い地形であったものではなかったかと思われる。
        
                     傾斜の緩やかな上り斜面で、両側が樹木に覆われた
                         深い緑の参道を抜けると明るい境内となる。

 この社は南側の落ち着いた社叢林に包まれた正面入り口と、近代的な住宅が立ち並ぶ北側の鳥居付近では見る風景が全く違い、別世界のような感覚にとらわれる。
 但し面白いことに、この鬱蒼とした南側の参道を越えた先に広がる陽光を浴びた境内、加えて程よく整備された境内の先にある北側の鳥居までの間に、不思議な融合反応が発生し、周辺の現代的な建物と違和感なくとけこんでいる。これも何千・何万年という悠久の歴史が作り上げた日本という世界から見ても稀有な国の風土が自然と備わってきた包容力というものなのであろうか。
 この国の特異な魅力は、古いものと新しいものが共存し、互いに影響を与え合う独自の文化風景にあろう。
        
              陽光が差し込み、広々とした境内 
『日本歴史地名大系 』での「上日出谷村」の解説によれば、天正18年(1590)9月7日の伊奈忠次知行書立(「牧野系譜」京都府舞鶴市立西図書館蔵)に「ひてや」とあり、古くは下日出谷村と一村であったが、慶安3年(1650)牧野信成の死により采地が分割された際、上・下二村に分れ、上日出谷村は牧野永成領となったという。
 
   社殿に対して左側手前に建つ社務所        社務所の並びにある手水舎
        
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿 上日出谷村』
 神社 氷川社
 村の鎮守なり、社邊松杉生茂れり、其圍み一丈餘の古松あり、金松と云、由来は知らず、斧斤を加ふれば必災あり、下日出谷村知足院持、下四社同、
 山王社 愛宕社 天王社 七所社
        
             北側の鳥居の傍に設置されている案内板
 氷川神社 御由緒  桶川市上日出谷一三
 □御縁起(歴史)
 上日出谷と下日出谷は、元は一村であったが、慶安三年(一六五〇)に当時この地を領していた牧野信成の死によって領地が分割された際、上下二村に分かれたものと推測される。当社は、この上下の日出谷の境に位置し、『風土記稿』上日出谷村の項にも「村の鎮守なり、社辺松杉生茂れり、其囲み一丈余の古松あり、金松と云、由来は知らず、斧斤を加ふれば必災あり、下日出谷村知足院持」と載っている。ちなみに、この記事に見える「金松」は、本殿の後方にあった神木のことと思われるが、既に枯死しており、今では根株を残すのみである。
 当社の創立の時期は明らかではないが、こうした江戸時代における境内の状況や、別当であった知足院は正応年間(一二八八-九三)創立の真言宗の古刹と伝えられることなどから、鎌倉時代末期から室町時代にかけての創立ではないかと思われる。また、本殿には表に「正一位氷川大明神幣帛」裏に「寛政七年(一七九五)八月三十日神祇管領卜部良具」と墨書された神璽筥が納められている。
 台地の先端に位置し、南・西・東の三方を低地に囲まれた当社の杜は、遠方からもよく望見できる。かつては鳥居の右手に「氷川様の池」と呼ばれる広さ一〇畳ほどの湧水池があり、渇水時には、新しい水がよく湧き出すようにと神職が祈願した後に村中総出で池の水を掻い出して雨乞いをしたが、これも台地上の天水場ゆえの苦労話である。(以下略)
                                      案内板より引用

      拝殿に掲げてある扁額               本 殿

      本殿奥に祀られている合祀社(写真左)、及び境内社・駒形神社(同右)
 合祀社は、左から、庖蒼社・三社稲荷社・天神社・七所神社・日枝社・愛宕社が祀られている。
        
   社殿と合祀社の間に聳え立つ巨木周囲にある礎石らしき石が気になり、とりあえず撮影。
       後日社の参考資料を確認すると、この場所が古墳であったことを知る。
 自分自身の直感力を信じて良かったと、つくづく感じた次第だが、その時はやや自信がなかったのか、近距離からの1枚のみで、もう少し広範囲に撮影したほうが良かったと少し反省もしている。

 氷川神社裏古墳は、直径約19m 、高さ約1mの円墳で、墳丘を囲む浅い周溝も合わせると直径約25mになり、日出谷地区で確認されている古墳時代終末期で唯一の古墳である。桶川市指定有形文化財・考古資料。
 南側に開口する横穴式石室が発見されており、石室は凝灰岩の切石により構築されていて、これは複室構造切石積石室と呼ばれる桶川市域で特徴的な構造の石室である。
 氷川神社裏古墳から出土した遺物のうち市指定文化財となっているのは、古墳の石室及び「墓道」と呼ばれる石室入口付近から見つかった鉄製品17点と須恵器5点。
 鉄製品では馬具(鋏具・飾金具・釣金具)、太刀、刀装具、刀子、鉄鏃、不明鉄製品が発見され、馬具と武器の良好なセット関係として特筆される。須恵器は平瓶、長頸瓶、台付埦、フラスコ瓶が出土している。これらは出土位置から墓道に置かれたものであり、瓶類を中心にした副葬品と考えられる。
 これらの出土品から 、氷川神社裏古墳は7世紀前半代の築造と考えられ、出土品個々の歴史性・希少性もさることながら、荒川左岸の古墳時代終末期の様相を知ることのできる貴重な資料といえよう。
        
                              社の北側に建つ鳥居
 また氷川神社の裏手で、北側鳥居付近周辺にかけて「宮遺跡」と呼ばれる古墳時代中期の遺跡も発掘されている。この宮遺跡は、西側に江川の谷を望む標高20m前後の台地上に存在する。この宮遺跡ではこれまで4回の発掘調査が行われ、古墳時代中期の住居跡が18軒、古墳時代後期の住居が1軒発見されているという。

 嘗て埼玉県南部域において、桶川市域は開発が最も早く、湧泉(ゆうせん)を中心とする制御の容易な小河川が初期の段階では農耕に適していたことがうかがわれる。
 江川両岸には幅200500m程の谷を形成し、東西にヤツデ状の支流が分かれ、更には台地に刻まれた谷部に発達した湧水泥炭地である「樹枝状谷」が発達したため、市内ではもとより大宮台地でも初期の農耕集落が出現していた可能性が強い。
 江川は弥生時代中期以降の農耕の蓄積の上に、最も早く有力な首長を登場させた、県内では有数の文化の母なる川であったといっても過言ではない。


*追伸として
 余談ではあるが、筆者の妻の実家は桶川市・上日出谷地域である。この数十年間、不定期ながらも実家には顔を見せに行くので、周辺地域も含めてかなり熟知していたつもりだったが、この地域に氷川神社があったことはつい最近まで知ることはなかった。灯台下暗し、とはこのことであろう。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」桶川市都市計画マスタープランPDF
    「桶川市 江川流域づくり推進協議会PDF」「北本デジタルアーカイブスHP」
    「桶川市HP」「境内案内板」等

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