古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

萱場稲荷神社


        
             
・所在地 埼玉県深谷市萱場141
             ・ご祭神 稲荷神(推定)
             ・社 格 旧萱場村鎮守
             ・例祭等 初午祭 211日 春の大祭 410
                  萱場八坂祭り 7月末金曜日〜日曜日までの3日間
 深谷市萱場地域は、櫛挽台地の北端で、同時に荒川扇状地の未端にも位置する地域で、湧き水が豊富で古代より人が住み、六~七世紀古墳が多く築かれたという。また、この地域内を中山道が通り、またこれと並行して中道(萱場古道)が走るのだが、この中道は古代武蔵国が東山道に属した頃に整備された駅路といわれていて、古い時代から人々の開発の手が加えられていた地域であったのであろう。
 途中までの経路は宿根瀧宮神社を参照。同神社から「宿根」交差点を旧中山道方向に400m程進むと、進行方向左手に萱場稲荷神社の鳥居が見えてくる。
 社の北側には深谷市コミュティセンターである「くれよんかん」があり、そこの駐車スペースをお借りしてから参拝を開始した。
        
              中山道沿いに鎮座する萱場稲荷神社
『日本歴史地名大系』「萱場村」の解説
 櫛挽台地の北端にあり、東は東大沼村など、西は宿根村。深谷領に所属(風土記稿)。中山道分間延絵図などには茅場村とみえる。村内を中山道が通り、またこれと並行して中道(萱場古道)が走るが、中道は古代武蔵国が東山道に属した頃に整備された駅路といわれる。田園簿によれば田方二六石余・畑方九二石余、幕府領。国立史料館本元禄郷帳でも同領で、ほかに寺領(清心寺領)がある。天保元年(一八三〇)に一三二石余が忍藩領となる(忍藩新領高覚書)。南方の櫛挽野に二二ヵ村共有の入会秣場があったが、享保一五年(一七三〇)までに解体されており、櫛挽野(くしびきの)新田のうちに当村分の持添新田(幕府領)が成立している(新編埼玉県史)。
『深谷市自治会連合会HP』によると、嘗て榛沢郡萱場村だったが、明治2241日町村制施行により深谷町が新設された事により深谷町萱場と成ったとの事だ。
        
                   境内の様子
『新編武蔵風土記稿 萱場村 附持添新田』
 萱場村は本鄕の鄕藤田庄と唱、江戸よりの里數は前村と同じ、東は東大沼村、南は樫合村、西は宿根村、北は曲田村なり、東西四町南北十三町餘、家數二十五軒、中山道村の中程を東西に通ぜり、古は上杉氏の領分なりしが、御入國の後酒井讃岐守領分となり寛永三年若州小濱へ所替有てより御両領所となり、今も御代官支配せり、又村の坤の方櫛引新田の内に、当村持添の地あり、詳なることは人見村に出せり、この外當村の飛地二ヶ所、宿根村内にあり、
 稻荷社 村の鎭守にて、村持、

        
                参道左手にある「水天宮碑」
 この社の創建や由来に関して、『埼玉の神社』や『大里郡神社誌』等を調べてみたが、記述は全くないため不明。その中に在って、境内には『水天宮碑』があり、その内容を確認すると、「
農は立国の大本であり、耕作の工夫や水利灌漑の工作は農業を成り立たせるためには基本である。深谷町(当時)の西側に位置する当地は、田んぼを連ねること数町程で、土地の質も佳く、肥えているが、周囲には適当な河川がなく、用水の一溝もない天水頼みで、草木が茂って荒れた状態となってしまった。昭和元年十月に、当地の有志がこの惨状を憂い、翌二年三月に「北部揚水組合」を設立し、灌漑事業を行った。そして深さ二丈余(約6m)、直径三尺(約90㎝)、汲水には電力を用いた近代的な井泉(せいせん)が完成した。その澄水は田畑を潤し、収穫の秋には美田となり、農業を営む人々は人生を楽しむことができた。そこで、このような土建の恩人を追慕し、水天宮を祀った云々…」と載せている。決して創建等に係る関わる事項ではないが、この地域の歴史を知ることの出来る史料であることには変わりない。
        
                
水天宮碑の並びに祀られている八坂神社の石祠
 当社には、
7月末の金曜日から日曜日までの3日間、「萱場八坂祭り」が行われている。
 この祭りは京都八坂神社で859年頃から、疫病が流行した時に厄災の除去を祈った事から、萱場でも古くから行われていた祭りである。
 初日は神官による神降ろしの儀を開催、神社総代、自治会役員、祭典幹事、青年部代表、子供会代表、中学校PTA代表が参加し式典を行い、八坂祭神にお神輿と屋台に降神頂き祭り中の安全を祈願する。夕方には恒例のお隣の宿根自治会から屋台が来て萱場自治会と叩き合いを行う。
 2日目の午前の部では子供神輿を行い、神輿を担ぐ。午後の第二部では神輿渡御と居囃子の饗宴をする。
 最終日は、早朝から青年部が集まり、神輿・屋台の準備を行い、隣の宿根自治会と合同祭を行 う。午前中は町内北地区への神輿渡御、夕方からは、町内南地区へ屋台巡行する。
        
                    拝 殿
 
社殿の左側に鎮座する境内社・石祠。詳細不明。         本 殿
  一番左側にあるのは神楽殿であろうか
        
                  社殿からの一風景

 萱場地域の東側で、JR高崎線の踏切を越えたすぐ正面に
浄土宗・石流山八幡院清心寺がある。起立は天文18年(1549 開基は上杉氏の重巨 岡谷(おかのや)加賀守清英が深谷領の守護として開山慶長10年(1605)、清英は万誉玄仙和尚を開基するとともに、 深谷領の守護として清心寺内に山城国石清水八幡宮を誘請したという。
 
当寺には、源平一ノ谷合戦で平忠度を討ち取った岡部六弥太忠澄が、平忠度を弔ったという供養塚がある。
        
                
石流山八幡院清心寺正面
        
                                     
清心寺本堂
『新編武蔵風土記稿』
 清心寺 下總國岡田郡飯沼村弘經寺末、石流山八幡院と號す、寺領八石は慶安二年御朱印を附らる、當寺の起立は天文十八年二月なり、開山萬譽玄仙慶長十年正月七日寂す。開基は上杉氏の老臣岡谷加賀守清英、法名は皎月院圓譽淸心居士、天正十二年十一月八日卒す、按に谷野村皎心寺もこの人の開基にして、そこの傳へには、元龜年中の卒といひ又過去帳に加賀守法名安仲皎心庵主十五日とも記せり、かくまちヽヽの傳へあるが上に、當寺に傳る所は卒年も法謚も差へり。い づれが正しきや、本尊彌陀を安ぜり、
 箱根權現社 束幣の像にて春日の作なり。相傳ふ此像は上杉謙信より、岡谷加賀守に附屬せしと云、
 鐘楼 寛政二年再鑄の鐘をかく、
 忠度櫻 本堂の艮にあり、梢まで高二尺ばかり、地づらより四本に分れたり。四本を合すれば一圍みに餘りたれど、分れし一枝は僅に二尺巡りにすぎず、花は薄紅にてしへなく、中に葉二枚ありと云、此木の下に忠度が墓とて古き五輪の塔立り、高三尺許、臺石に梵字を彫付たり、又側に青き板碑一基あれど、これも阿字のみ彫れり、相傳ふ岡部六彌太忠澄薩摩守忠度を討し、後其菩提の為に當所に墓を立、此櫻を植しと云、されど其頃植たる木とも見えず、後人忠度が櫻花の和歌の意により植しものなるべし、

 
  清心寺の山門を過ぎてすぐ左側にある        板石塔婆と平忠度供養塔
 「平忠度公墓」の標石と清心寺の案内板        どちらも深谷市指定文化財

 平忠度は平清盛の弟で文武の名将、平忠度が一の谷の合戦の後、岡部六弥太に討たれたが、頭髪を持ち帰った六弥太により清心寺に葬られている。平忠度の墓といわれるが、正しくは、源平一ノ谷合戦で忠度を討った岡部六弥太忠澄(おかべろくやたただすみ)が後に建てた供養塚である。土塀に囲まれた中に、質朴で重量感のある五輪塔と板碑が並ぶ。 板碑は、考古資料として市指定文化財である。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「深谷市自治会連合会HP」
    「境内記念碑文」等

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大塚島鹿島大神社


        
                  
・所在地 埼玉県深谷市大塚島1292
                              ・ご祭神 建御雷之男神
                  
・社 格 旧大塚島等六ヶ村鎮守・旧村社
            ・例祭等 歳旦祭 11日 例大祭 410日 八坂神社祭 728
                 御嶽神社祭 88日 秋祭り 113
 利根川右岸の沖積低地に位置する当地域は、今でこそ豊かな一大穀物地域で、農業に適する地帯であるが、かつて「四瀬八島」と称し、南西島・北西島・大塚島・内ヶ島・高島・矢島・血洗島・伊勢島と瀧瀬・小和瀬・横瀬・中瀬等の各地域は、利根川やその支流が幾重にも入り乱れ、たびたび氾濫と水難を被り、乱流している河川が、各地域を島のように孤立させてしまうこともあったという。現代の高度な技術がなかった当時、洪水の危険の高い湿地帯で当時の人々にとって開発するのに大変な苦労がしのばれよう。
 途中までの経路は伊勢方八幡神社を参照。この社から北行し、福川に架かる「田中橋」を越えて300m程進んだ丁字路を左折すると、大塚島鹿嶋大神社が進行方向右手に見えてくる。
        
                 大塚島鹿島大神社正面
『日本歴史地名大系』「大塚島村」の解説
 小山川右岸の沖積低地にあり、東は沖宿(おきじゆく)村・沖村、南は丈方(じようほう)川(福川)を境に伊勢方村、北は内ヶ島村。深谷領に所属(風土記稿)用水は備前渠用水を矢島堰より取水している。
             
              参道左手にある「神社改修記念碑」
 神社改修記念碑
 当鹿島大神社は武甕槌命誉田別命様が奉祀せられております天慶四年春三月字石畑と称する所に鎮座されその後明暦年間に現在の地に遷祀されたと伝えられております現在の御本殿ならびに上屋は享保元年に再建せられその後上屋は明治九年に改築されたと示されておりますその後幾度の修理を行ってまいりましたがここに至り尚また老朽化が著しくなり社殿保存のために改修が必要となりましたこの改修工事にあたり氏子各位の敬神の念篤き基に氏子総代ならびに各字役員の合議がなされ本殿上屋屋根ならびに境内社の屋根葺替をはじめ社殿修理境内ブロック塀の摂築神域の整備等に着手し昭和五十六年五月吉日起工し昭和五十六年九月十五日めでたく竣工したここに氏子並に関係各位の絶大な御援助御協力に対して衷心から感謝の意を表し併せてその大要を記し後世に伝える(以下略)
                                     記念碑文より引用
        
                    拝殿覆屋
 鹿島大神社  深谷市大塚島一二九二(大塚島字鹿島)
 当社の創建について、次のような口碑がある。天慶初年に平将門が下総に兵を挙げ、武蔵・相模を攻めると、各地の豪族も呼応して蜂起した。この時、当地の若者にも荷持ちとして応ずる者もあった。やがて将門は敗れ、荷持ちを解かれた若者は、故郷へ帰る途上、かつて出陣の折、無事帰還を祈った常陸国鹿島大明神に詣でて、報賽の上、分霊を請けて帰郷したところ、郷人は喜んでこれを祀った。時は天慶四年(九四一)三月であった。これが当社の創祀であり、往時の鎮座地は、現社地の北東四〇〇メートルの地で、石畑という所である。
 古くは、当社の氏子区域は、大塚島村・内ケ島村・戸森村・沖村・沖村中宿・田中村の六か村であった。このうち田中村に鹿島塚と呼ぶ地があり、昔、故あって鹿島明神社の神体を埋めたとの伝えがあって、この地より、大正三年三月に先の神体とおぼしき石棒が発見され現在内陣に納められている。
 当社が、現在の場所に移されたのは、明暦年間(一六五五〜五八)と伝えられている。この時に 氏子区域が変わり、現在の大塚島・起会(おき)・谷之(やの)となったという。
 現在の本殿は、明暦年間の当社移転に際しての建築といい、享保七年(一七二二)に修理された。拝殿を明治四十年に新設し、同四十二年に地内白山神社、沖宿の鹿島神社、谷之の八幡神社を合祀した。
                                  「埼玉の神社」より引用
        
                    拝殿の扁額
 内陣に「鹿島大神宮太玉串」と記す神札が数体ある。これは『大里郡神社誌』に「往古より常陸国鹿島神社禰宜神主宮島家より毎年一回御神符奉献するを年中行事とす」とあり、これを指さすものであろう。
 この神札奉納は、神札の裏書に三月日とあるところから、現在の四月に行われている春祭り(例大祭)時に納められたと考えられる。
 また昭和四十年代まで春秋の祭りに神楽が奉納されていたという。この神楽は、正式には「大塚島太々神楽」といい、神職を中心として大塚島地域内の有志によって相伝されていた。
 曲目は「岩戸開」「氷の川」「相生」「種蒔」「天長田」「美保崎」「諏訪海」「三韓征伐」「湯探」「男山」「御井」等であった。笛方を失ったために上演不可となっているが、練習会場である家には、今も太鼓・神楽面・採物である鍬・鋤・刀・弓、そして臼などが保管されている。
 
      社殿の向かって左側奥には、「要石」と呼ばれる磐座(写真左・右)
 要石は、地震を抑えると称される石といい、これを称する石は各地の神社に見られる。なかでも、茨城県鹿嶋(かしま)市の鹿島神宮の境内にあるものが著名である。直径25㎝、高さ15㎝程の丸い石で、頭の部分がわずかに窪んだ形をしている。地中に深く根を張っているといわれ、古来、地震をおこすナマズの頭を抑えているとの伝説をはじめ、数々の俗信に結び付いている。
『鹿島宮社例伝記』には、鹿島の大明神が降臨したときにこの石に座ったとある。古くは御座(みまし)の石とよばれていたことからもわかるように、要石は元来、神の依(よ)りきたる磐座(いわくら)であった。
        
          社殿の向かって右側に祀られている境内社・御嶽神社
    境内社内部には、何十本もの御幣が飾っていて、その奥に合祀社が祀られている。
「埼玉の神社」には、御嶽神社を主に祀り、「八坂・稲荷・神明・浅間・手長男・稲荷・天神・白山・稲荷・琴平・白山・三峰」を合祀、と載せている。
        
                  静まり返った境内


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「日本大百科全書(ニッポニカ)」
    「境内記念碑文」等
 

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宿根瀧宮神社

 深谷上杉家は、室町時代に関東地方に割拠した上杉氏の諸家のひとつで、山内上杉家の上杉憲顕の実子である上杉憲英が庁鼻和上杉(こばなわうえすぎ)を名乗り、憲英の曾孫の房憲より深谷上杉と称した。憲英・憲光父子は、幕府から奥州管領に任じられた。
 戦国時期の深谷上杉家には、4人の宿老がいて、「岡谷加賀守清英」「秋元越中守景朝」「井草左衛門尉」「矢井伊勢守重家」という。
 鎮守府将軍源経基の子孫と伝える宿老筆頭の岡谷加賀守香丹は深谷城北辺の守りとして延徳3年(1491)に築いた皿沼城を子の清英にゆずってこの曲田城(まがったじょう)に隠居した。岡谷家譜によると、香丹は城内に僧自明和尚を招いて皎心寺を開いたといい、寺は曹洞宗で岡谷山と号しているのだが、この「岡谷山」は寺を建立した岡谷加賀守香丹からきていると思われる。
 この曲田城は現在の深谷市谷之地域で、宿根地域のすぐ北側に接していて、「埼玉の神社」によると、この地は岡谷加賀守香丹が当地の開拓に尽くし、明応5年(14966月、当地一帯が大干ばつに襲われた際には、香丹は直ちに領民に水利の向上を督励し、水源地として当社の辺りを選定し、広さ百余坪、深さ一丈余りにわたって掘ったところ、水が殊のほか湧きだし、耕地を潤したため、この湧水地に社殿を建て、瀧宮神社と命名したという。
        
              
・所在地 埼玉県深谷市宿根1
              
・ご祭神 伊邪那岐命 伊邪那美命
              
・社 格 旧宿根村鎮守・旧村社
              
・例祭等 歳旦祭 11日 春祭り 410日 秋祭り 113
                   
大祓 1224
 深谷市街地から旧岡部町方向に国道17号線を進行、丁度東西方向に流れる同国道が、旧中山道と交わり、再度分離する「宿根」交差点の北側に宿根瀧宮神社は鎮座している。因みに、この社の住所は宿根一。この宿根地域の北側にありながら、中山道という重要街道沿いに鎮座していることから、地域の中心地となる場所に位置する社ともいえよう。
        
                  宿根瀧宮神社正面
『日本歴史地名大系』 「宿根村」の解説
 宿之根などとも記す。櫛挽台地北端、上唐沢川左岸に位置し、東は萱場村、西は岡部村(現岡部町)。深谷領に所属(風土記稿)。村内を中山道が通る。もと宿根新田が別村であったが、元禄(一六八八―一七〇四)以降に宿根村に高入れされた。田園簿によれば、宿之根村は田方二四石余・畑方二〇五石余、野銭永八九五文、宿之根新田は畑のみ一〇一石、野銭永一貫二五〇文で、両村とも幕府領。
        
            すっきりと整備されている参道、及び境内
             
                             境内入口付近に聳え立つご神木
     ご神木の近くに「宿根総鎮守 龍宮神社御由緒」の掲示板が設置されている。
               残念ながら撮影できなかった。
        
       参道右側に設置されている「宿根総鎮守 瀧宮神社社殿造営記念碑」
 宿根総鎮守 瀧宮神社社殿造営記念碑
 当神社は、今を遡る五ニ〇年前の明応五年六月(一四九六年)、大旱ばつ時にこの地を掘りしとき、湧水激しく田畑潤し、領民大いに喜び、神様のお恵みとして明応七年社殿を建て、瀧宮神社と奉称して鎮座された。このときより今日に至るまで、宿根地域の守護神・心のよりどころとして先人より護り継がれてきた
 明治五年に建立された前社殿は一四四年を経過、老朽化甚だしく、再建が近年の心願であった。よってこのたび地域住民のご安泰を願い、ご神恩に感謝申し上げ、益々のご加護あらんことを祈念して、平成二十六年十一月に社殿造営委員会を確立し、新社殿造営の運びとなった。
 ここに、趣意に賛同する多くの皆様から多大なるご奉賛を賜り、社殿新築および末社と参道の整備を行い、遷御をもって完成をみた。
 本事業にご奉賛賜った皆様に感謝の誠を表し、記念碑にご芳名を刻して後世に伝える。
 平成二十八年(二〇一六)十二月吉日(以下略)
                                     記念碑文より引用
        
                    拝 殿
 瀧宮神社  深谷市宿根一(宿根字東通)
 宿根は、櫛引台地の北端部にあたり、その地名は「スキのネ」の転訛といわれ、「スキ」は石混じりの土、「ネ」は台地の意だという。
 当社の裏手には、昭和六十一年まで一〇〇坪ほどの湧水を利用した溜池があり、御手洗(みたらし)池あるいは、ひょうたん池と呼ばれていた。この湧水は、地内に点在する小由(こよし)・鮒林(ふなばやし)・大古端(おおふるはた)の湧水地と共に当地一帯に広がる十八町歩の水田を潤す水源であった。
 創建は、この湧水とかかわりがあり、社名の瀧宮も、これにちなんで名付けられたものである。
社伝によると、当地は応永二十三年(一四一六)関東管領上杉憲房の所領となり、後にその重臣岡谷加賀守香丹の治めるところとなった。香丹は、延徳三年(一四九一)に隠居し、長子清英にその跡を譲ったが、その後も身を費やして当地の開拓に尽くした。明応五年(一四九六)六月、当地一帯が大干ばつに襲われるや、香丹は直ちに領民に水利の向上を督励した。水源地には、現在当社のある辺りを選定し、広さ百余坪、深さ一丈余りにわたって掘ったところ、水が殊のほか湧き出し、耕地を潤した。歓喜した領民は、明応七年(一四九八)妻沼の聖天宮の神をこの遊水地に勧請したという。
 ちなみに、聖天宮は古代、利根川右岸に広がっていた女沼に坐す水神を祀っていたという伝承がある。
                                                                     「埼玉の神社」より引用
 
    拝殿の手前で左側に祀られている          拝殿左側に祀られている
       八坂神社の石祠                       
富士浅間神社の石祠

     社殿の奥に設置されている       掲示板の奥には規模は縮小されているが、
    「宿根瀧宮神社の池の由来」の案内板      地域の耕地を潤した池が今でもある。

 宿根山神社の項でも載せているが、この宿根地域は『郡村誌』に「水利不便にして時々旱に苦しむ」とあるように、水利の整備されるまでは旱損の地で、雨乞いが重要な行事とされていたという。昭和三十年ごろまでは、日照りになると、群馬県の榛名神社から「お水」を頂いて来て、当社の神前に供え、雨乞い祈願を行っていたとの事だ。
 宿根瀧宮神社の池の由来
 深谷上杉氏四宿老の一人、岡谷加賀野守源香丹が、皿沼城から曲田城へ移り住んだ明応五年(一四九六)六月の大旱魃の時、貯水池を掘ったところ現在のこの場所よりまさに滝のごとく水が湧き出てきたので、この不思議な様を見て神様のお恵みお導きとして、社殿を建て瀧宮神社と奉称しておまつりしました。
 尚、古文書によれば当時の池の大きさは百坪余り(三百三十平方m)深さ丈余り(三m三㎝)と記されています。以上の事から名の由来の池を保護し、先人の遺徳を残すものです。
 二○○七年 七月 宿根自治会 記
                                      案内板より引用

        
            社殿右側に並列して祀られている石祠四基
          左から
天手長男神社・古峰神社・菅原神社・稲荷神社

 この末社の祭事に関して、728日に行われる八坂神社のお祇園は、子供が中心となって行う祭りで、幣束を先頭に、神輿が村内を巡行し、無病息災を祈る。また、1119日の天手長男神社の火防祈願は、弘化三年(一八四六)の本庄宿大火の際に当地も類焼したのを機に、火防の神で有名な寄居町小園の壱岐天手長男神社を勧請して始められた祭事と伝えている。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「Wikipedia」
    「境内記念碑・案内板」等

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宿根山神社


        
             
・所在地 埼玉県深谷市宿根8262
             
・ご祭神 大山祇神
             
・社 格 旧宿根村鎮守・旧村社
             
・例祭等 春祭り 410日 厄神除け 71日 八坂祭 727
 JR高崎線の南側を走る市道沿いに約3kmにも渡って続く「コスモス街道」。その街道と、埼玉県道265号寄居岡部深谷線が交わる「成徳高校(東)」交差点を県道沿いに南西方向にして550m程進むと、進行方向右側に宿根山神社が見えてくる。
        
                  宿根山神社正面
 宿根地域は上唐沢川左岸の台地に位置する。地域名は「スキのネ」の転訛で、「スキ」は小石と砂混じりの土、「ネ」は岡・台地の意という。『郡村誌』にも「地味黄色淡黒鬆(しょう)土にして或いは砂礫を錯(まじ)ゆる者あり」と記している。
 かつて宿根は、本村である宿根地区と新田である中通地区の二つの村組(むらぐみ)に分かれる。このうち、中通地区の一八〇戸が当社の氏子である。
 
     すっきりと整備された参道       境内に設置されている「山神社改築記念碑」
 山神社改築記念碑
 当社の創立は享保十四年(一七二九)に山の神(大山祇神)を祀る社として崇られた。当時の社地は現在地より西南方に二・五キロメートル程離れた畑地の一画にあり明治十四年に従来の社地から当所に遷座された。
 その後社殿は長い歳月を経て破損甚だしく今度伊勢皇大神宮御鎮座二千年を記念し敬神の念厚い氏子崇敬者多数の寄進により大改修を行なう。
 平成八年十月二十七日復元竣工遷座祭が厳かに斎行された。
 茲に山神社改築記念碑を建立し概要を記して後世に伝う。(以下略)
                                     記念碑文より引用
        
                    拝 殿
 山神社(やまのかみ)  深谷市宿根八二六-二(旧宿根字拾三墳)
 氏子所蔵の享保十六年(一七三一)「山神社取極メ議定書」には、当社の創建について次のようにある。
 宿根村と宿根新田の人々は、猪・山犬による被害から逃れるために山の神の奉斎を切望していたが、当時新規の寺社祭礼等が禁じられていたため、念願かなわずにいた。折しも享保十四年(一七二九)櫛引野原の検地が行われたことから、役人に山の神の奉斎を願い出たところ、期せずして社地の選定が認められた。早速、本村と新田が相談の上、古来より小名を「山の神通り」と称する地の一画に社地を定め、祠を建立して山の神を祀った。
 別当は真言宗正応寺であった。当社と正応寺との関係については、氏子所蔵の「山之神社地面伐木についての一件(閏五月五日)」の中で「神体入替神酒灯明法楽正応寺二而相勤諸懸り等モ正応寺ゟ(より)差出」と記されている。また、弘化三年(一八四六)に類焼した正応寺を再建するため、同寺持ちの山の神社地面の松雑木等を伐採し普請木として充てたことも述べられている。
 明治初年の神仏分離により当社は正応寺の手を離れ、明治七年に村社となった。次いで、十四年には従来の社地から当所に遷座した。
 旧社地は現在地から西南方に二・五キロメートルほど離れた畑地の一画にあり「奥の院」と呼ばれて雑木林の中に今も小さな祠が残されている。
                                  「埼玉の神社」より引用
 また、享保十六年の「山神社取極メ議定書」では、当社境内地について氏子の間で取り決めがなされ、「右の場所雑木出来候ても上木の儀は申すに及ばず枝葉下草等にても修復祭礼の入用の外隈りに(みだりに)刈り取り苅り取り申さず候定」とある。これは、新田開発による燃料や肥料の需要増大に伴う濫伐から当社境内を保護することを目的としたものであろう。
        
                    本 殿
 当地は『郡村誌』に「水利不便にして時々旱に苦しむ」とあるように、水利の整備されるまでは旱損の地で、雨乞いが重要な行事とされていた。昭和三十年代に行った雨乞いは、群馬県の榛名神社から頂いた「お水」を神前に供え、境内の立木の頂に梵天を立て、氏子一同で太鼓をたたきながら雨雲の到来を祈った。この時は、暫くして雨が降り、お湿り祝いをしたという。
 
   本殿の左側奥には遙拝所の石碑と             本殿の右側奥に祀られている
    八坂社の石祠が祀られている。            弁財天・天神社の石祠
        
                  社殿からの一風景



参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「境内記念碑文」等
                  

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伊勢方八幡神社


        
             
・所在地 埼玉県深谷市伊勢方316
             
・ご祭神 誉田別命
             
・社 格 旧伊勢方村鎮守・旧村社
             
・例祭等 四方拝 11日 春祭り 410日 祇園祭 72728
                  
秋祭り 113日 大祓 1225
 普済寺愛宕神社から一旦北上し、国道17号線に戻る。「普済寺」交差点を右折し、深谷市街地方向に東行すること1.2㎞程、旧中山道が宿根地域で合流する変則的な十字路を左折する。その後、850m程北上した丁字路を左折すると、周囲は伊勢方地域集落となり、暫く進むと、その正面方向に伊勢方八幡神社が見えてくる。地図を確認すると、埼玉県立深谷高校の北西部にあたる。
        
              伊勢方集落の中央に鎮座する鎮守様
『日本歴史地名大系』 「伊勢方村」の解説
 小山川と上唐沢(かみからさわ)川とに挟まれた沖積低地に位置し、東は谷野(やの)村、西から南は岡部村(現岡部町)。岡部領に所属(風土記稿)。戦国期に深谷上杉氏の支配下に入り、上杉氏は深谷城築城の頃、当地に仮城を築いて居住したという。この城は伊勢方城あるいは曲田(まがつた)城・谷之(やの)城ともよばれ、後年上杉氏の重臣岡谷香丹が皿沼城(上敷免地内)を長子清英に譲って曲田城に退老、天文四年(一五三五)城内に皎心寺(谷之地内)を創建したという(「重修岡谷家譜」群馬県館林市立図書館蔵)。
        
               伊勢方八幡神社 正面一の鳥居
       
              鳥居の左側に設置されている案内板
 伊勢方八幡神社は、1186年(文治2年)、岡部忠澄が八幡大菩薩を勧請して創建したのだと伝えられる。室町時代には、深谷上杉氏が深谷城を築城する際、この地に仮城を築いたとも伝えられ、この仮城は字田中あたりで、今でもその地は「元屋敷」と呼ばれている。この仮城に、守り神として千形神社が祀られている。伊勢方の地名は、伊勢神宮の御師との関連からともいわれ、江戸時代には、岡部藩の安部氏が八幡大明神像を安置して信仰し、以後伊勢方村の鎮守として村人から信仰されたという。
 その後、明治五年に村社となり、大正十一年に社殿を再建した。近年では、昭和四十八年に伊勢の御遷宮を記念して社殿の修復を行っている。
        
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿 伊勢方村』
八幡 村の守なり、岡部六請なりと云、村持、
壘跡 村の北三反許の處を云、今は陸田となれり、相傳ふ古へ上杉氏深谷城築立の頃、當所假城を構て居住ありしより上杉假城と云、

 八幡神社  深谷市伊勢方三一六(伊勢方字堀南)
 伊勢方の地名についての伝えは特にないが、恐らく伊勢の御師にかかわるものであろう。

当地は、室町中期、上杉氏が深谷城を築城したころ、その仮城を構えて居住した所であると伝えられる。元の伊勢方の集落は、この仮城のあった字田中の辺りといわれており、今にその地を「元屋敷」と呼んでいる。
 当時の伊勢方の戸数は八戸、鎮守は現在当社の境内社となっている鹿島神社であった。氏子はこの鹿島神社を、隣村の大塚島にある鹿島大神社にかかわる社であると語っている。『大里郡神社誌』鹿島大神社の項には「元の氏子田中村(伊勢方の小名田中のこと)に鹿島塚と称する地ありて、昔鹿島(大)神社の御神体を埋め奉りし地と伝ふ」と記している。いつごろ伊勢方の集落が南方の現在地に移って来たかは不明であるが、この移住により鎮守が鹿島神社から当社八幡神社に移ったことが考えられる。
 社記によると、当社の創建は文治二年( 一一八六)のことで、岡部六弥太忠澄が平家追討の戦を終え、領地普済寺に帰るとすぐに、領内西谷(後の伊勢方村)に八幡大菩薩を勧請したという。
 その後、江戸期に入るまで当社の事歴は明らかでなく、元文二年(一七三七)に至り御霊代(みたましろ)を調整して神霊を奉斎した記事が載せられている。内陣には、この時に納められたと思われる同年記銘の騎乗の八幡大菩薩像が安置されている。
 この時、奇しくも神体は消失を免れ、氏子の邸宅に安泰であったことを伝えている。社殿の再興は天保九年に行われ、この時の棟札には「当領主岡部之城主安部摂津守殿」「遷宮導師歓喜山円通密院弘賢」の名が見える。
『風土記稿』は「八幡社 村の鎮守なり、岡部六弥太勧請なりと云、村持」と載せている。
明治五年に村社となり、大正十一年に社殿を再建した。近年では、昭和四十八年に伊勢の御遷宮を記念して社殿の修復を行っている。 
                                  「埼玉の神社」より引用
 
      社殿奥に祀られている八坂社       八坂社の左側奥に祀られている浅間神社
        
             社殿の奥で、道路側に祀られている天神社(左側)・鹿島社(同右)。
        
            社の北側で、道路を挟んだ場所にある公会堂
  この公会堂は、昭和九年まで阿弥陀堂があり、古くから村の集会の場となっていたという。
         どこか懐かしさを感じられる、昭和の香りが漂う建物である。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「大里郡神社誌」「埼玉の神社」等

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