古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

柏合八王子神社

        
            ・所在地 埼玉県深谷市柏合725
            ・ご祭神 天照大御神・月読命・男五神(正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命
                 天之菩卑能命・天津日子根命・活津日子根命・熊野久須毘命)
                 女三神(奥津島比売命・市寸島比売命・多岐都比売命)
            ・社 格 旧村社(*大里郡神社誌)
            ・例 祭 大祭 419日 1019日
 柏合八王子神社は深谷市柏合地区に鎮座する。柏合地区は、東側にある「深谷市総合体育館(通称深谷ビッグタートル)」と、西側にある「深谷グリーンパーク」との間に位置する南北約1.4㎞、東西約1.2㎞の地区で、全体的にはなだらかな田園地帯が続く場所であるが、地区南側の標高が71m程に対して、そこから北方向に進むにつれて63m程に緩やかに下がっていく下り斜面の地形となっている
 柏合八王子神社は樫合常世岐姫神社の北東方向約800mの場所に鎮座していて、境内には「美しい村ふれあいセンター」がある。駐車スペースは以前ならば境内が広く、そこに停められたが、現在は駐車ができないので、西側にある深谷グリーンパークの駐車スペースに停めてから徒歩にて参拝を行った。
        
                                  柏合八王子神社正面
 
      一の鳥居は朱色の両部鳥居         一の鳥居のすぐ先にある二の鳥居
     
      参道を進むと左側に手水舎がある。            参道正面
                            解放感のある空間が広がる。
       
                  参道を進むと右側にご神木である杉の大木が聳え立つ。
        
                           拝 殿
        
                         境内にある「八王子神社本殿再建記念碑」
 八王子神社本殿再建記念碑
 当地は古くは武蔵国藤田庄柏合村字島の上と言う地名にあり、この神社の創建は元禄時(西暦1688年)頃である。当時は八王子明神社として祀られたと言う。現在の本殿は寛政十二年(西暦1800年)の建立である。(以下略)
 当神社の由来は天照大御神と須佐之男命に結ばれた誓約に依る男五神と女三神を合わせ祀り八王子を社号とした。
 その他に境内地には八坂神社、塞神社、天手長男神社、浅間神社、種痘神社が祀られている。五穀豊穣、家内安全、身体壮健等の神様として信仰が厚い。大祭は春四月十九日と秋十月十九日の年二回行われ、当地の氏子衆により「ささら獅子舞」が奉納される。
 このような歴史ある社殿も近年老朽化が甚だしく敬神愛郷の念厚い氏子崇敬者は社殿の護持に心を砕いていた。平成十七年本殿を建て替える気運が盛り上がり、氏子の総意で建設委員会を立ち上げた。三年後の完成を目標に計画を進めた。貴重な浄財を多大に寄進して戴いたので、社殿、末社、水屋を新設、玉垣、参道を改修し境内の整備を行った。
 ここに八王子神社竣工奉祝会の斎行をもって完成をみた。依って記念碑を建て関係者一同の芳名を刻んで永く記念とする。
 平成二十一年(西暦二〇〇九年)十月吉日(以下略)
                                      境内碑より引用
 境内碑に記されている「ささら舞」とは「柏合獅子舞」のことで、この獅子舞は深谷市の無形民俗文化財に指定されている。
 ささら舞は無病息災や豊作を祈願し奉納される江戸時代から続く伝統行事で、「ささら」とは、獅子舞のときにこすり合わせて音を出す木や竹製の楽器のことで、この楽器の名前が埼玉県を含めた北関東では獅子舞の別称にも使われている。
 柏合獅子舞は「法眼」「男獅子」「女獅子」の3頭からなり、4月中旬並びに10月中旬の八王子神社例大祭に合わせて奉納される。伝承によれば、深谷城の上杉氏が伝えたものと謂われていて、八王子神社の雨乞い神事の際に行う。
 
            社殿手前で左側には境内社が鎮座している。
左側には八坂神社(写真左)。右側の末社殿には浅間神社・天手長男神社・塞神社・種痘神社の四社が祀られている(同右)。

 八王子という地名は全国に存在する。元々八王子権現は近江国牛尾山(八王子山)の山岳信仰と天台宗・山王神道が融合した神仏習合の神であり、日吉山王権現もしくは牛頭天王(ごずてんのう)の眷属神である8人の王子(相光・魔王・俱魔良・徳達神・良侍・達尼漢・侍神相・宅相神であり、夫々の本地は釈迦・文殊・弥勒・観音・薬師・普賢・阿弥陀・地蔵)を祀った。

 因みに権現(ごんげん)とは、日本の神の神号の一つ。日本の神々を仏教の仏や菩薩が仮の姿で現れたものとする本地垂迹思想による神号である。権という文字は「権大納言」などと同じく「臨時の」「仮の」という意味で、仏が「仮に」神の形を取って「現れた」ことを示す。
        
                              柏合八王子神社 遠景

 近江国牛尾山は、古くは主穂(うしお)山と称し、家の主が神々に初穂を供える山として信仰された。牛尾山の山頂にあった牛尾宮は比叡山延暦寺の鎮守であった日吉山王権現21社の一つで、山王の王子である8人の眷属神が八王子権現として祀られ、千手観音菩薩を本地仏とした。また牛尾を忌みて、祇園精舎の守護神である牛頭天王が頗梨采女(はりさいにょ)との間に設けた8人の王子かつ眷属神が八王子権現との信仰も発展した。

 神仏分離・廃仏毀釈が行われる以前は、全国の八王子社で祀られたというが、明治維新の神仏分離・廃仏毀釈によって、日吉山王権現・牛頭天王(祇園信仰)とともに八王子権現も廃されたという。


参考資料 「大里郡神社誌」「Wikipedia」「
境内再建記念碑」等

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樫合常世岐姫神社

「常世」(とこよ・つねよ)とは、永久に変わらない神域で、別名「かくりよ」(隠世、幽世)とも言い、死後の世界でもあり、『古事記』や『日本書紀』等の日本神話で語られる「黄泉」もそこにあるとされている。対する人間世界が現世(うつしよ)とされている。常世の世界は『神々が現世に訪れる理想郷』とも言われ、日本文化の世界観において重要な存在とされているらしい。また「永久」を意味し、古くは「常夜」とも表記した。
 常世氏(とこよし)は、日本の氏族。系統は渡来系の古代豪族と、桓武平氏系統の加納氏流がある。
 渡来系の古代豪族として、燕王公孫淵の末裔を称する渡来系氏族で、染色技術者集団赤染氏の一族が存在していた。河内国大県郡を主な根拠地とし、鎌倉時代には当地の人々が幕府から「河内国藍御作手奉行」に任じられて染色技術を諸国で指導したという。但しこの常世氏は渡来系の古代豪族の中では少数派に属しているようで、文献等にもごく散発的にしか記録されていない。また本拠地とされる河内国大県郡に常世岐姫神社(大阪府八尾市)を祀られているが、同系列の分社は埼玉県内に数カ所のみ確認され、行田市荒木に所在する社と深谷市樫合にも所在する当社位である。
 一方桓武平氏加納氏流の武士集団である常世氏も少ないながらも存在する。陸奥国会津地方の戦国大名蘆名氏の同族。鎌倉時代に加納氏流の佐原盛時が耶麻郡常世邑(現在の喜多方市)の地頭職に補任され、次男の佐原頼盛が本貫として土着し、常世氏を名乗ったとされているが、歴史的な下限が鎌倉時代あたりと推測される。
        
              ・所在地 埼玉県深谷市樫合646‐2
              ・ご祭神 常世岐姫命(推定)
              ・社 格 旧村社(*大里郡神社誌)
              ・例 祭 不明 
 樫合常世岐姫神社は深谷市樫合地区に鎮座する。埼玉県道75号熊谷児玉線を美里町方向に進み、「グリーンパークパティオ」交差点前左側に常世岐姫神社が鎮座している。専用の駐車スペースも社に隣接した空間が県道沿いにあり、そこに停めて参拝を行う。
        
                  樫合常世岐姫神社正面
『新編武蔵風土記稿』によれば、常世岐姫神社が鎮座する樫合村は大寄郷藤田庄と唱え、正保年間及び元禄年間の改には、隣村柏合を通じて一村とし、日根野長五郎知行とあり、今では樫合・柏合は別村で、発音は同じながら、文字は異にする、と謂う。更に「元禄の後、村内の半を裂て御料となしし頃、当村は元の字を用ひ、日根野が知行の方は、柏の字に書換しものなるべし」と述べているように、江戸中期分村したものであろう。
 嘗ては『八王子権現社』と言い、樫合・柏合村の鎮守であり、両村持ちであった。本地佛無盡(尽)意菩薩を安置しているという。
 本地とは、本来の境地やあり方のことで、垂迹とは、迹(あと)を垂れるという意味で、神仏が現れることを言う。究極の本地は、宇宙の真理そのものである法身であるとし、これを本地法身(ほんちほっしん)という。また権現の権とは「権大納言」などと同じく「臨時の」「仮の」という意味で、仏が神の形を取って仮に現れたことを示す。
        
                           鳥居及び正面参道
            平均標高74m程の櫛引台地面に鎮座している。

 日本では、仏教公伝により、古墳時代の物部氏と蘇我氏が対立するなど、仏教と日本古来の神々への信仰との間には隔たりがあった。だが徐々にそれはなくなり、仏教側の解釈では、神は迷える衆生の一種で天部の神々と同じとし、神を仏の境涯に引き上げようと納経や度僧が行われたり、仏法の功徳を廻向されて神の身を離脱することが神託に謳われたりした。
 しかし7世紀後半の天武期での天皇中心の国家体制整備に伴い、天皇の氏神であった天照大神を頂点として、国造りに重用された神々が民族神へと高められた。仏教側もその神々に敬意を表して格付けを上げ、仏の説いた法を味わって仏法を守護する護法善神の仲間という解釈により、奈良時代の末期から平安時代にわたり、神に菩薩号を付すに至った。
 
     社の入口左側にある石碑群          左から八坂神社・天手長男神社・浅間宮
                      これらの境内社は参道の左側に並んで鎮座している。
 
  境内社・浅間宮と並んで神輿殿が2基ある。      神楽殿か舞殿あたりだろうか。
        
                     拝 殿
 
           本殿並びに拝殿部との間には「修復之記」記念碑がはめ込まれている。
 修復之記
 敬神崇祖はわが国古来の伝統美俗である惟うに当社は天文四年創祀するところと伝えられはじめ八王子権現社として本地佛無盡意菩薩を安置した
 爾来幾星霜村民崇仰の的として栄えるところがあったが、徳川幕府の政事衰へ明治維新となるや神佛分離の掟によって八王子権現社を常世岐姫神社と改め今日に及んでゐる
 一方顧みるに社殿は草創以来茅葺のままであったが、元治元年奥宮を流造り鱗葺きとし拝殿を入母屋造り瓦葺に改めてその面目を一新し更に昭和六年には外宇を造って奥宮を安置し以ってその社容を整えるところがあった
 然るに昭和四十一年九月二十五日台風二十六号襲来風速四十米に樹齢三百有余年に及ぶ境内の大木三十数本倒木し為に奥宮外宇は倒壊し拝殿は損傷し昔日の面影を失うに至った
 よってここに奉賛会は大字の協賛により改修築をなすに当り伊勢参宮者より金拾七万六千円の浄財の寄贈あり其の芳名をここに記す
 昭和四十二年四月吉日 大字樫合常世岐姫神社奉賛会(以下略)
                                      案内板より引用

 
 社殿の至る所に奉納額等が掲示されている。    社殿手前右側に静かに鎮座する山神
 
            社殿の左右奥にはそれぞれ境内社・末社が鎮座する。
 社殿左側奥には末社群が鎮座する(写真左)。左から豊受大神宮・天照大御神・八幡大明神・天満天神宮・琴平神宮・稲荷大明神。
 社殿右側奥には左から蚕影神社・駒形神社石碑・その右側の境内社は不明(写真右)。
        

 当社の創建は、神伝によると、天文四年(1535)のことである。一方、草分けの江原晴松家の口碑によれば、先祖荏原主計守勝が元応二年(1320)当地に土着し八王子神を祀ったことに始まるという。
『風土記稿』に、当社は八王子権現社と載り「当村及柏合村の鎮守なり両村持」とある。古くは、当樫合と隣の柏合は一つの村であり、『風土記稿』が、更に「元禄の後、村内の半を裂て御料となしし頃、当村は元の字を用ひ、日根野が知行の方は、柏の字に書換しものなるべし」と述べているように、江戸中期ごろ分村したものであろう。このため、両地区は現在も「付き合い村」と称して親交があり、カタガシ(樫合)・シロガシ(柏合)と呼び合っている。この柏合にも、八王子神社があり「分村の時、樫合の八王子権現の祭神である八王子のうち、男神の五王子を柏合に移し、樫合は残った女神の三王子を祀っている」という。
 これを裏付けるように、当社の氏子は「女の神様で、ハツオサンサマ(八王子様)というお産の神である」と言っている。
                                  「埼玉の神社」より引用


参考資料 「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「Wikipedia」「社殿記念碑」等

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折之口八幡神社

 埼玉県の地形を概観すると、西に総面積の3/1を占める山岳地帯、そして東に残りの3/2を占める平野部(台地と低地)に大別することができる。山地周縁の山麓部にあたる県西部地域には、北から児玉、松久、比企、岩殿、高麗、加治、狭山等の各丘陵、そして本庄、櫛引、江南、東松山、入間、武蔵野等の各台地が分布している。
 埼玉県の北部に位置する深谷市は、地形的に南半分は櫛引台地、北半分は妻沼低地でほぼ2分される。櫛引台地は荒川によって形成された荒川扇状地が侵食されてできた洪積台地で、寄居付近を頂点として、西側の櫛引面と東側の一段低い寄居面、両地域に挟まれるように御稜威(みいず)ケ原面に分類される。標高は50mから100mで南西から北東に向かってなだらかに傾斜していて、この間を唐沢川や、藤治川が北流する。また台地上には、観音山(標高77m)、仙元山(同98m)、山崎山(同117m)等の独立丘陵(残丘)が存在する。
 櫛引台地は今の深谷市・寄居町にまたがる広大な範囲であり、『櫛引』という地名は江戸時代以前、人見村は櫛引郷を唱えていたことから、それ以前からあった地名であろう。 
        
              ・所在地 埼玉県深谷市折之口123
              ・ご祭神 品陀和氣命
              ・社 格 旧村社
              ・例 祭 祈年祭 4月15日 例祭 10月15日 新嘗祭 11月28日
 折之口八幡神社は櫛引台地面に鎮座している。進路の途中までは前項「境玉津島神社」と同じだが、そのまま道なりに800m程進むと、左側には折之口ふれあい公園があり、その公園の東側で隣接するように折之口八幡神社の正面鳥居がある。
 因みに北武蔵広域農道の北側には埼玉県道75号熊谷児玉線もほぼ並行して通っており、そこからのアプローチのほうが、短距離で社には到着するのだが、75号線からでは、昔の道が多いようで、道が入込み、筆者の説明能力には難しい為、南側北武蔵広域農道からの説明をさせて頂いた。
        
                                 折之口八幡神社 正面
 残念なことに、折之口八幡神社には由来を記した案内板や、書物、ホームページ等には詳しく書かれているものがない為、創建時期、由来等全く分からなかった。これだけの規模でありながら勿体ないことだ。
        
                 正面に伸びる参道と、その右側にある舗装されていない路面。
             参拝日も多数の車両が駐停車していた。
 
 参道の先にある石段と、高台上にある鳥居。  鳥居の社号額には何故か「稲荷大明神」と表記

 折之口八幡神社は櫛引台地の一段高い段丘上に鎮座している。
 櫛引台地は櫛引ヶ原台地とも書くが、荒川によって形成された広範囲の台地であり、南側は荒川で境され、花園地区で少なくとも2段の河岸段丘が見られる。台地面上には深谷市折ノロや人見で南西-北東方向の小谷が2本平行し、それに直交する櫛挽排水路がある他は目立った水系はなく、のっぺりしたローム層台地となる。
 
江戸時代に入るまで、櫛挽ヶ原は付近12ヶ村共同の「入会地」(いりあいち)として広大な秣場(まぐさば)だったが、雨期から秋にかけて野水が滞水する地域でもあった。秣場は、肥料や飼料にするための重要な草刈り場であり、大事に管理されてきた。時の経過と生活の変化により秣場を開発し耕地を増やそうとする開発派と、開発を阻止しようとする保守派との衝突が連続し何回となく繰り返されたという。
 
石段上の鳥居を過ぎると比較的広い境内が広がる      参道左手にある手水舎
 
  社殿手前で左側にある合祀社。詳細不明。   社殿の左側奥に鎮座する境内社。詳細不明。   
        
                                         拝 殿
 徳川幕府は新田開発を積極的に推進したが、本田畑の障害にならない範囲内で行う本田畑(古田畑)中心主義だった。八代将軍徳川吉宗は、幕府の財政難克服のため新田開発を政策の柱として大幅な転換を図り、享保11年(1726)には、幕府の力によって櫛挽ヶ原の入会秣場も解体され、新田開発への道を歩むことになった。しかしながら流下能力が十分な河川や排水路が無い事から、毎年のように雨期に停滞する野水による湛水被害が多発し、また往時の秣場的林地に戻ってしまったと考えられている。
 
                                   本殿(写真左・右)                         
    建物全体は拝殿と本殿を幣殿でつなぐ、所謂「権現造り」の形態を持つ社殿となっている。
        
                  社殿の隣には境内社を保管している社あり。名称分からず。
 
   合祀されている四社。付随品等で春日神社、稲荷神社、八柱神社、稲荷神社と推測。            
       これだけ立派な社殿が鎮座されているにも拘らず詳細不明なのは残念。 
        
                           境内の東隅に並列されている庚申塔等 
 ところで拝殿右脇に掲げてある「社殿改修碑」と思われる板碑には多くの氏子、地域の方々の寄附が実名で記載されているが、「大澤(大沢)」と「向井」、それに続くのが「大谷(おおたに・おおや)・大屋(おおや)」、それらの苗字が特に多いのに気づく。
        

大澤(大沢)…深谷城主上杉氏憲の末子憲詮は大沢内匠照重の養子と成り、是より大沢と改める。其の子忠貢であり、代々内匠を襲名したという。
大沢家墓碑
「慶長二年、榛沢郡折野口住人、俗名大沢内匠盛真」「元和三年、折野口村、大沢内匠憲詮
「中祖大沢盛真十三代胤・六左衛門改名大沢岩太郎藤原栄真、明治三年」
新編武蔵風土記稿折之口村条
「観音寺の境内に法華経千部供養塔あり、武州榛沢郡折口住人大沢兵庫盛重、元和十年三月二十一日と記す」
・観音寺略縁起(慶応三年記)
「上杉憲盛卒して後、上杉の景絶ゆ、氏政関東を押領し、之に依り家臣皆分離す。中に五十有余士有り、其の内、清水・大沢・向井・塚田・其外朋友の士、当村観音の精舎に集合し、面々の行く末を考ふ」
嘉永五年笠原文書…折之口村名主大沢徳次郎

○向井…向井の地名は各地に見られる。「井戸」や「泉」に由来するものではなく、「向かい」の当て字がほとんどという。
・折ノ口村慈眼山観音寺(廃寺)略縁起
「上杉憲盛卒して後、上杉の景絶ゆ。北条氏政関東を押領し、之に依り家臣皆分離す。中に五十有余士有り、其の内、清水、大沢、向井、塚田、其外朋友の士、当村観音の精舎に集合し、面々の行く末を考ふ」
・三ヶ尻村幸安寺慶応二年権田門人碑…「折ノ口向井孫太郎」
・用土村明治十三年仙元碑…「折之口村向井元次郎・向井勘次郎・向井荘助」

○大谷(おおたに・おおや)低地より高い段丘や台地面に入り江状谷があることから「大谷」と名付けられたという。一般に「~谷」という名字は、西では「~たに」、東では「~や」と読む傾向が強い。
上野台村光厳寺天保十一年供養塔に上折ノ口村大谷善三郎。神道無念流宮戸村金井宇一郎文久三年起請文に折之口村大谷清三郎秀幸。人見村明治二十八年清水定義筆子碑に折之口・大谷清十郎・大谷忠平

大屋…低地より高い段丘や台地上の土地につける地名
榛沢郡大谷村(深谷市)は天正七年白石村上田文書に半沢郡大屋村と見える。隣村の人見村・境村・折之口村等に大屋氏多く存在する。
長寿院寛政八年八幡守護…大屋吉左衛門。神道無念流宮戸村金井宇一郎起請文…慶応二年・折之口村大屋島太郎・大屋長十郎


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境玉津島神社

 衣通姫は、記紀にて伝承される女性で、『日本書紀』では衣通郎姫(そとおしのいらつめ)、『古事記』では衣通郎女・衣通王(そとおりのみこ)と表記される。大変に美しい女性であり、その美しさが衣を通して輝くことからこの名の由来となっている。木花咲耶姫命、光明皇后、小野小町と並び、古代における有数の美女と名高い女性の1人と言われ、和歌に優れていたとされていて、和歌三神の一柱としても数えられる。
 『古事記』には、允恭天皇皇女の軽大郎女(かるのおおいらつめ)の別名で登場し、同母兄である軽太子(かるのひつぎのみこ)と情を通じるタブーを犯す。それが原因で允恭天皇崩御後、軽太子は群臣に背かれて失脚、伊予へ流刑となるが、衣通姫もそれを追って伊予に赴き、再会を果たした二人は心中するという衣通姫伝説が残されている。物語は歌謡を含み、逆らいえない愛を生きた運命の人として美しく姫を語っている。 
        
              ・所在地 埼玉県深谷市境81-2
              ・ご祭神 衣通姫命
              ・社 格 旧村社
              ・例 祭 祈年祭 4月29日 例祭 10月19日 新嘗祭 11月23日      
 境玉津島神社は深谷市境地区に鎮座する。埼玉県道69号深谷嵐山線を南下して旧川本町方向に進み、『折之口』交差点を右折する。北武蔵広域農道に入り、800m程進むと、進行方向左側前方向に動物病院、コンビニエンスが道を隔てて向かい側にある信号のある交差点にぶつかるので、そこは右折。北上するように約500m道なりに直進し、最初の信号のある十字路を右折し、100m程進むと、左側に境玉津島神社の社号標柱及び、その境内が見えてくる。後で地図を確認すると、鎮座している場所は深谷市立藤沢中学校の南、東に進むと深谷花園温泉花湯の森の施設入口前が道沿いにある。
 正直深谷地区は自分のテリトリーと思っていたが、「境」という地区もこの社参拝によって知ったし、自宅からあまり遠くない場所(それでも車で15分程かかるが)にこのような広い境内のある社が鎮座しているとは、思いもしなかった。やはり世間は広いものだ。
 駐車場は境内参道脇に比較的広いスペースが確保されている。
        
                                境玉津島神社正面
               夕方からの参拝ゆえにやや画像が暗い。
        
                            入り口付近に設置されている案内板
玉津島神社
社名「玉津島」は、県域では珍しくその本社たるべき社は和歌山県和歌山市和歌浦町に鎮座する。衣通姫命が祀られている。
創建は明らかにできないが、別当を努めた真言宗不動山明王院大聖寺を開山した実裕が寛永九年(一六三二)に入寂していることから、既にこのころには当社も祀られていたと思われる。
当社は境の鎮守としてはもちろん、安産の神として古くから信仰されていて、祈願成就の証として柄杓を奉納する風習がある。
境内にある境内神社は
天手長男神社 道祖神社 八坂神社 御嶽神社
平成十二年十月 深谷上杉顕彰会
                                      案内板より引用
 
  道路からもやや離れたところにある鳥居   鳥居前で一礼、長い参道の先に社殿が見える。
 衣通姫を祀る神社では、古くから朝廷の崇敬を受けた和歌山県和歌の浦に鎮座する玉津島神社が有名である。古来玉津島明神と称され、和歌の神として住吉明神、北野天満宮(近世以降は北野社に代わって柿本人麿)と並ぶ和歌3神の1柱として尊崇を受けることになる。玉津島神社由緒略記によれば、当初、稚日女尊のみを祀っていたが、その後稚日女尊を崇拝する神功皇后を併せ祀り、光孝天皇のご病気を平癒させた衣通姫を御勅命により合祀したとの記載がある。
 仲哀天皇の皇后息長足姫(神功皇后)が紀伊半島に進軍した際、玉津島神の加護を受けたことから、その分霊を祀ったのに始まるという。玉津島は古くは「玉出島」とも称された。神亀元年(724年)2月に即位した23歳の聖武天皇は、同年10月に和歌の浦に行幸してその景観に感動、この地の風致を守るため守戸を置き、玉津嶋と明光浦の霊を祀ることを命じた詔を発したのが、玉津嶋の初見であるという。『和漢三才図会』では、弱浦(わかのうら)という名を改めて、明光(あか)の浦とした時、衣通姫尊が示現して歌を詠んだ。
 立ち帰り又も此の世に跡たれん名も面白きわかの浦浪
『和歌山県神社誌』では、第五十八代光孝天皇の夢に出現し上記の歌を詠んだとある。以来、衣通姫尊が玉津島神社の主祭神の位置になり、住吉、人丸と並んで、和歌三神と呼ばれるようになったという。
        
                                      拝 殿
『新編武蔵風土記稿』によると、「境村」は「坂井」とも書いていた。
 村の鎮守である玉津島神社は安産の神として古くから信仰されていて、当社が女神(衣通姫命)を祭神とすることから起こったものであるようだ。底を抜いた柄杓を奉納して祈願すれば、無事出産できるといわれており、家庭で出産していたころは、近隣の村からの参詣者が相次ぎ、多いときには1ヶ月に150
本もの柄杓があがったという。
 
    
社殿左側に鎮座する道祖神社。       道祖社の右隣には蚕影神社が鎮座。
   金物の草鞋が額代わりについている。
 
         境内社 天手長男神社            社殿手前左側には天王宮が鎮座。
        
                     御嶽塚
 塚の頂には御嶽山国常立実尊・八海山國狭槌尊・三笠山豊斟尊と摩利支尊天碑が建てられていて、その他にも多くの石碑が並ぶ。

 ところで『新編武蔵風土記稿』によると境村の小字には不思議と「鍛冶屋」が存在する。南側には「上原」地区と接し、上原地区の東側には「長在家」地区があり、この長在家、上原両地区にはどちらも小字『下原』がある。この下原という地名は、この地域は世間ではあまり知られていないようだが、嘗て室町時代から江戸時代まで続く武州唯一の刀工群である下原鍛冶の一拠点だったという。
 長在家地域はこの武州下原鍛冶が現八王子地域に移住する前に一時居住し、鍛刀した地域と言われている。何より下原鍛冶に関連した地域、居住した地域にはみな「下原」という字が存在していることは注目に値する。この長在家地域を含めた荒川中流域両岸は、平安時代後期から畠山氏の所領であり、鍛冶製造が発達した一大根拠地と言われている。武州下原鍛冶がこの地にある時期一定期間移住する理由はここにあったと考える。
        
                                   静かな境内
 境地区は、まさに長在家、上原地区に均衡する地域であり、小字「鍛冶屋」の存在こそが、「下原鍛冶」の根拠地とはいかないまでも、鍛冶に携わった一族の居住地域だった可能性が高いと筆者は愚考する。
 



参考資料「新編武蔵風土記稿」「精選版 日本国語大辞典」「Wikipedia」「和歌山県神社誌」
    
「境内案内板」等
       

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本田坂上神社

        
             
・所在地 埼玉県深谷市本田4898-1
            
・ご祭神 大己貴命 豊城入彦命 宇迦御魂命 菅原道真公 
                                
軻遇突智命 天照大御命
            ・社 格 旧村社
            
・例 祭 例祭415日 秋例祭1014日
 本田坂上神社は深谷市本田南地区に鎮座する。埼玉県道69号深谷嵐山線を埼玉県農林公園方向に南下し、県道81号熊谷寄居線が交わる「本畠駐在所」交差点をすのまま道なりに南下し、900m程進むと「歩車分離信号」との標識のある信号のある十字路に到達し、そこを左折する。暫くするとY字路(実際は変則的な十字路)となり、右斜め前方向の細い道を300m程進むと、本田坂上神社が鎮座する場所が左側に見える
        
                 本田坂上神社 正面 
 本田坂上神社は、畠山重忠に仕えた本田次郎近常が、祖先俵藤太の信仰していた赤城神社を祀ったと伝えられている。創建当時は現在地より西側にあった「本田館」内に祀ってあったという。江戸期には赤城社と称し、本田村上本田地区の鎮守として祀られていた。
 因みに「坂上」は「かかがみ」ではなく、「さかうえ」と読む。
 
           南向きの鳥居正面を撮影         参道の先には社殿が鎮座する。
 本田坂上神社から西側に500m程西側、埼玉県道69号線から西に行った「上本田公会堂」の西に約100m進むと、道路に面して『本田館跡』の説明板が建てられている。この本田館跡は荒川右岸の江南台地の南緩斜面に築かれた居館跡。土塁、空堀残存している。
 この本田館跡は埼玉県選定重要遺跡に指定されている。
        
                      「本田館跡」南側の道路沿いに設置された案内板
 埼玉県選定重要遺跡(昭和四十四・十二・二十四指定)
 本田館は鎌倉時代から室町時代にかけて築かれたと思われる。
 本田氏は畠山重忠の重臣本田次郎親恒(近常)の後裔と伝えられ、戦国時代本田長繁の代に深谷上杉氏憲に属した。その頃この館を拡大したと思われる。
                            『川本町教育委員会説明板』より引用
        
                     拝 殿
       
              拝殿手前で左側にある「新築記念碑」(写真左)と同碑裏面(同右)
新築記念碑
当社は明治四十四年上本田赤城神社黒の谷稲荷神社後鷹の巣愛宕神社の財産等合併して坂上神社と改稱して現在に及ぶ 社殿は旧赤城神社を使用せしも甚しく老朽せる建物となりたるため神社基金並に愛宕神社持寄りの山林を売却して財源となし氏子中相計り本年二月總工費四五○萬円にて着工し同年十月竣工せり
昭和四十六年十月十五日建之
                                        碑文を引用

        
                  拝殿からの佇まい
 男衾郡本田村坂上神社伝に「藤原秀郷は此地に祠を立てゝ赤城神社を祀りたりと云い伝う。今猶俵薬師と云えるあり、秀郷の裔某此地に住し社殿を営みて村の鎮守となし、地名を氏として本田次郎近常と呼べりという。近常館跡及び末裔今尚存す。明治四十四年社号を坂上神社と改称す」との本田次郎近常に関連した記述がある
 本田次郎近常(親恒)(?~1205)
 平安時代末期から鎌倉時代初期に活躍した武蔵武士。幼名は鬼石丸。
 現在の深谷市川本地区にある「本田」を名字の地とし、畠山重忠の側近として活躍した。「平家物語」「源平盛衰記」などの合戦記には、そのほとんどが畠山重忠の乳母子(めのとご)・榛沢六郎成清の名と併記されており、近常と成清が重忠に信頼された側近であったことがわかる。
 平家との戦いでは、一の谷の戦いに参加した際、平清盛の孫・平師盛を討ち取っている。
 畠山重忠が北条氏の謀略によって二俣川(現在の神奈川県横浜市旭区)で討死した際も近常はともに戦い、重忠の死を知って自害した。
                                深谷市ホームページより参照

 本田氏の祖は平姓の高望王の子・平良文(村岡五郎)の子孫である。良文の孫・兄の平将恒(常)系が秩父、畠山氏となり、弟の平忠恒(常)系が千葉、本田、村上系となる。本田親恒の五代前の祖・恒親(常親・常近)は安房国押領使をつとめ、安房国長狭郡穂田郷を本拠地とし穂田氏と称し、恒親の孫・親幹は武蔵国本田郷へ住み開墾し、「本田姓」となった。下総国の領主である千葉常胤と本田近常(親恒)は元をたどると同族でもあり、石橋山の戦いでは、一旦は平家方に味方した畠山氏を、源氏方に鞍替えさせたのも、本田近常が畠山家の家老№1の立場であった事、重忠の目付け役でもあり、頼朝が石橋山の敗戦後、房総を経て、勢力を巻き返せた立役者のひとりである千葉常胤とは深い関係であり、常胤を介して、頼朝方参陣に至ったのだろう。勿論北条家と婚姻関係であったことも見過ごせない 。

 本田氏と千葉氏との関係は上記に説明した通りだが、実は畠山氏とも千葉氏は深い関係でもあり、畠山重忠の父・重能の女姉妹(祖父・秩父重弘の娘)が千葉常胤の妻である。常胤の妻は畠山重忠の叔母である。千葉常胤の子・胤正は畠山重忠の従兄弟にあたる。
 
              社の南側を流れる吉野川(写真左・右)

 本田坂上神社の南側には荒川支流である吉野川が流れている。現在の吉野川の流域は江南台地内にあり、赤浜地区付近が源となり、鹿島古墳群西側で荒川と合流する狭い河川であるが、かつての吉野川は和田吉野川と密接な関係があったようだ。地元では逆川とも呼ばれている。

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