古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

内ヶ島熊野大神社


        
                            ・所在地 埼玉県深谷市内ケ島650
                           ・ご祭神 伊弉冉命、速玉男命、事解男命
                           ・社 格 旧村社
                           ・例 祭 祈年祭 2月27日 例祭 4月15日 新嘗祭 12月5日

 内ヶ島熊野大神社は深谷市内ヶ島地区に鎮座する。内ケ島地区は群馬県道・埼玉県道14号伊勢崎深谷線が東境となり、南北にはそれぞれ小山川、国道17号バイパスが、西側は備前渠用水 矢島堰から東に600m程先にある南北に走る農道が境となっていて、東西南北と1㎞程の行政区域で、こじんまりとして纏まった地域である。
 国道17号バイパスを岡部方向に進み、「大塚」交差点を右折し、群馬県道・埼玉県道14号伊勢崎深谷線を北上するように進む。途中左側に地域の和菓子屋(西間堂本舗)さんがあるが、実父の月命日には必ずそこのお饅頭を購入する貴重な和菓子屋さんで、味も素朴で美味しく、値段も手ごろなので、立ち寄る機会があるならば、ぜひ購入して頂きたいと思う。
 因みに本店は県道に接していて店舗前には駐車場はないが、道路を挟んだ向かい側には新館があり、筆者はいつもそこの駐車スペースを利用している。
        
                            
 内ケ島熊野大神社正面

 内ヶ島熊野大神社は上記の和菓子屋さんを左手に見ながら北上し、すぐ先にある手押しボタン式信号のある十字路を左折、250m程進むと左手に内ケ島熊野大神社が見えてくる。
 
駐車スペースは、道路を挟んで北側に「内島自治会館」があり、会館前には適度な空間があるので、そこの一角に車を停めてから参拝を行う。
 
      内ヶ島熊野大神社鳥居           境内は手入れも行き届いていて、
                                   清楚な印象
        
                             拝 殿

 内ヶ島地区を開発したのは武蔵七党の猪俣党に属した内ヶ島氏であるという。内ヶ島氏は一ノ谷の合戦で平忠度を討取ったとされる岡部六弥太忠澄と同族の猪俣党岡部氏から五郎国綱の時にこの地に居館を構え内ヶ島氏を名乗ったとされている。
小野氏系図「岡部六大夫忠綱―五郎国綱―内島三郎忠俊―二郎兵衛尉盛忠―三郎景忠、盛忠の弟左近将監盛経(法名寂阿)、其の弟左衛門尉俊盛―新左衛門泰俊―五郎左衛門俊綱(弟六郎左衛門尉経俊)、俊盛の弟左衛門尉忠季―為忠」
畠山牛庵本の小野氏系図「岡部忠綱―内島五郎国綱―三郎忠俊」
吾妻鑑卷二十五「承久三年五月二十二日北条泰時十八騎を率いて京に先発す、随兵に内島三郎あり。六月十四日宇治合戦、敵を討つ人々に内島三郎、味方の討死する人々に内島七郎」。卷四十「建長二年三月一日、内島三郎が跡」。卷四十三「建長五年十月十一日、内島左近将監盛俊入道」
 内ヶ島熊野大神社の北側には、永光寺という寺院があり、平安期猪俣党の内ヶ島氏の居館跡と言われている。永光寺は内ヶ島五郎国綱が醍醐天皇(在位は897930年)の時代に当地に館を構え、紀伊国熊野権現の分霊を勧請し合わせて開基となった伝わる天台宗永光寺本堂。江戸時代の慶安2年には寺領として15石を幕府から下賜されている。
 内ヶ島館跡と永光寺
 平安時代の末、猪俣党の子国綱が、内ケ島五郎と称してこの地に住み、内ヶ島氏の祖となった。 内ヶ島氏館跡は、永光寺付近と言われ、近年まで遺構があったが、現在は残っていない。面積は約2町歩くらいと考えられる。
 地内の小字に西廓・東廓・南廓などの館跡に関連する地名が残されている。
 永光寺の開山は了慧法印、開基は内ヶ島五郎と伝えられる。
                                 永光寺現地案内板より引用

 
    拝殿に掲げてある「熊野大神社」扁額               
社殿左側奥には境内社なのか、
                                                     神興庫なのか不明な建物あり。
 
  社殿右側奥に鎮座する合祀社、石祠群。    合祀社・石祠群の右並びに石碑、祠群が鎮座。
     資料が乏しく、詳細不明。      石碑は左側浅間神社、右側は
古峰神社と刻印。
        
                  社殿から境内を撮影

 時代は下り、内ヶ島氏は内ヶ島季氏のときに室町幕府の命を受けて飛騨白川郷へ入国し、鉱山から得られる収入で莫大な財を成し、帰雲城(かえりくもじょう、きうんじょう)を居城として戦国大名としての道を歩む。
 度々姉小路頼綱や上杉謙信などの侵攻を受けるが、その都度撃退に成功し、織田、豊臣の時代も巧みに渡り歩き、ついに天正
13年(1585)豊臣時代に大名として存続が許される。そして祝宴を翌日に控えた1129日に、白川郷一帯を天正大地震が襲い、帰雲城は山ごと崩壊し城下町も土砂に埋もれて領国ごと滅亡した。

 その時の被害は、埋没した家300戸以上、圧死者500人以上という。確証はないが、ここで紹介した内ヶ島氏は、猪俣党内ヶ島氏の末裔であったという説がある。
 この猪俣党内ヶ島氏説が正しいのであれば、悲劇的な結末となったことにより、北武蔵の小豪族が結果的に後代に名を残したという歴史の皮肉さを感じざるを得ない。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「
Wikipedia」「吾妻鑑」等

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矢島神明社

 矢島堰は、埼玉県最古級の農業用水路である備前渠用水の取水堰の一つである。この矢島堰は備前渠用水の開削時(約400年前)から存在する古い歴史を持つ堰であり、自然をうまく利用した技術で小山川の河道を一部利用して、上流からの流水を受け、下流に貯留する溜井方式の矢島堰を設け、堰上流地域の排水も利用する効率的な施設計画で当時の最先端技術である関東流(伊奈流)の水利技術が用いられていた。
 現在の備前渠用水路は、埼玉県本庄市大字山王堂地先の利根川の支川神流川・鳥川の両河川が利根川と合流した利根川右岸より取水し、堤外の河川敷を2,200mの導水路によって導水し、本庄市仁手地先の第3樋管より堤内に入る。その後南東方向に流路は進み、岡部町で一旦小山川に合流し、小山川を利用して1㎞程下流にある深谷市の矢島堰で再び取水。矢島樋門を経由して流路を変え、深谷市、妻沼町の潅漑地域を東へ流れ、妻沼町弥藤吾の観静寺堰において、福川へ流入している。またその末流は中川水系の北河原用水や羽生領用水にも繋がり、山地水源を持たない埼玉県南東部地域の水田の貴重な水源としても現在でも多大に寄与している。
        
             ・所在地 埼玉県深谷市矢島1003
             ・ご祭神 天照大御神
             ・社 格 旧村社
             ・例 祭 例祭 1019日
 矢島神明社は埼玉県深谷市西部の矢島地区に鎮座する。国道17号バイパスを岡部方向に進み、「矢島」交差点を右折する。埼玉県道355号中瀬普済寺線を300m程北上すると、左手側に「村社 神明社」の社号柱が見える。
 県道沿いに鳥居や旗ポールが見えるが、正確に言うと、境内社である「摩二天稲荷神社」のそれであり、左隣に矢島神明社が並列して鎮座している配置となっている。
 駐車スペースは社号標柱の先に社務所があり、駐車できるスペースが確保されており、そこに停めてから、参拝を行う。
 
       矢島神明社 正面鳥居         鳥居を過ぎて、南北に長い参道が続く。

 深谷市は大略として、国道17号バイパス南側を境として、北は妻沼低地面、南は櫛引台地面に分かれていて、矢島地区はその中で利根川中流域・妻沼低地に属している。
 矢島神明社の北東800m程先に備前渠用水・矢島堰がある。この備前渠用水路は、江戸時代初期に伊奈氏の関東流による工法によって開発されて以来、時代的背景や技術の進歩により改修が行われてきた。しかし現在においても、用排水系統、溜井による配水方法等、根本的な水利用形態は大きく変わることなく、現役でその機能は存続している。

 数百年後の未来まで継続して運用できる技術や英知には驚きを隠せない。嘗ては技術大国であった日本の素晴らしさを物語る施設ともいえよう。

『新編武蔵風土記稿・矢島村条』には矢島堰に関して以下のように記載されている。
・矢島村
「村内小山川十八間の堰あり、是を矢島堰と唱ふ、延寛年中水論のことありし時、官栽により富村にては此水を用いず、西田村堰より身馴川の水を引沃ぐ事になれりと」
・小山川

「村北を流、幅十間、堤あり、この川流の間に矢島堰あり」
       
                手水舎の右側に聳え立つご神木
        
             参道を挟んで手水舎の向かいにある「神明社造営記念碑」

 神明社造営記念碑
 神明社は郷土の産土神として、永く氏子の信仰の拠りどころであります。
この度、県道中瀬普済寺線の拡幅工事に伴い、平成十四年一月十一日境内土地四一四二平方メートル中七二八平方メートル並びに稲荷神社、鳥居、社務所、玉垣等の移転保障として埼玉県熊谷市土木事務所より、七二○○萬円を受領いたしました。
 氏子役員協議の上、同額にて歳月を経て老朽化しておりました、神明社本殿、拝殿、稲荷神社、鳥居、社務所を新築し併せて、幟旗、旗竿を新調し、富士嶽大神、十二祖大神、御嶽山をはじめ十余の末社を新たに合祀し玉垣ならびに外柵を設置したしました。
 誠に氏子の敬神の念篤く、郷土の発展と子々孫々の繁栄を守護されんことを願い、工事完成を記念して當碑を建立するものであります。
 神明社建設委員会 平成十五年十月十九日
                                      記念碑文より引用

        
                     拝 殿
 
   拝殿に掲げてある「神明社」の扁額                      矢島神明社 本殿

 矢島神明神社に隣接して境内社・摩二天稲荷神社が鎮座している。
 
  県道沿いにある摩二天稲荷神社の鳥居        境内社・摩二天稲荷神社
                       「摩二天」という社号の意味はなんであろうか。
 
摩二天神稲荷神社の裏に石祠、庚申塚、末社等が並んで鎮座する。左から十二祖大神、富士嶽大神、三笠山大神(写真左)。八海山大神、大黒天、青面金剛、庚申塔等(同右)
        
          上記写真左、右の写真の真ん中に鎮座する石祠、石碑等。
          左側手前には一心霊神・弘徳霊神。右側手前は不動明王。
 
     摩二天稲荷神社の鳥居近郊に鎮座する2基の石祠(写真左・同右)。詳細不明。



参考資料 「新編武蔵風土記稿」「Wikipedia」「本庄市HP」等

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針ヶ谷八幡大神社

 全国には様々な地名があるが、土地の地形や風土が由来となったものや、その土地に縁のあった偉人からつけられた地名、戦国時代の武将達が名付けた地名などもあり、由来は様々である。土地の地形や風土が由来となった地名の場合は、後世になってから何らかの形に変更されたものが多数あり、普段はあまり気にすることのない地名の由来だが、実はこういった地名には、先人達が後世に伝えたい大切なメッセージが込められているといえるのではなかろうか
「針ケ谷」という地名は、県内でも深谷市やさいたま市浦和区、県外では栃木県宇都宮市、千葉県長生郡長柄町などにも見られる。開墾地を示す地名に「墾(はり)」という古語があるが、これが「針」や「治」「張」などの文字に置き換えて使われている場合があり、当市の針ケ谷も平安時代前後に谷地(湿地)を開墾し切り開いた土地の意があるのかもしれない。
        
              
・所在地 埼玉県深谷市針ケ谷258-1
              ・ご祭神 品陀別命、比賣神、神功皇后
              ・社 格 旧村社
              ・例 祭 10月15日 例祭
 針ヶ谷八幡大神社は深谷市針ヶ谷地区西部に鎮座する。埼玉県道
75号熊谷児玉線を美里町方向に進み、針ヶ谷(中)交差点の次の信号はT字路になっていて、埼玉県道86号花園本庄線との合流地点となっているが、そこを右折。300m程北上し、3番目の十字路を左折する。道幅の狭い道路だが、民家一つない田園地帯を見ながら次の十字路を右折すると左側に針ヶ谷八幡大神社が鎮座する場に到着できる。
 実のところ、県道86号線から右折する細い道からでも、右前方に社の社叢を仰ぎ見ることができるが、鬱蒼とした社叢ではないので、初めて参拝する方には、ナビ等は必要ではないかと感じた。
         
                東向きに立っている一の鳥居
 鳥居は東向きに立っているが、実のところ社殿は南向きである。鳥居を過ぎて参道を進むと、一旦突き当たるので、そこを直角右方向に進む参道があり、その先に社殿は鎮座している構図となっている。
        
                         直角に曲がった先の地点で社殿方向を望む。
                 参拝日 2022年3月
 深谷市針ヶ谷地区は深谷市の北西の櫛引台地面に位置していて、現在は周囲を田園地帯が広がる長閑な地域であるが、縄文期から平安期の集落跡が報告され、古くから開けていた地域であることが知られる。また、地内に鎌倉街道が通り、「風土記稿」には「村内に一条の道あり、児玉郡本宿より比企郡小川村へ通ず、是に鎌倉古街道と云伝ふ」とあるように交通の要衝でもあったようだ。
*深谷自治会連合会・針ヶ谷自治体HPを参照。
       
      参道両サイドある夫婦松             大黒様と恵比須様  
   手入れも行き届いていて素晴らしい。       左側には兎もいて可愛らしい。
        
                       「祝御大典 本殿再興四百年記念事業」
 碑文
 当八幡大神社は、神社明細帳や武蔵風土記稿等に「山城国男山八幡宮を移し祀る。勧請年月不詳なれど、文明十一年建営修理。慶長元丙申年及び寛保二壬戌年社殿再興す」云々…とある。
 山城国男山八幡宮とは京都府八幡市の石清水八幡宮のことで、当八幡大神社の本宮である。
 昭和六十二年に、本殿の営繕及び外宇(覆屋)
の改築を行った際に、調査した処、本殿天井裏より棟札が発見された。「慶長元丙申年・奉勧請八幡大神宮鎮護所願主小林六大夫」と記されおり、記録の如く、今の本殿は慶長元年に再興された事が立証された。その際に文明十一年の「叩きの土台」も確認された。本殿が再興されてより数えて、平成七年が四百年目の記念すべき年に当たる。
 拝殿は寛保二年に再興したるが、寛政辰年七月に改築をしている。その後幾度が営業を行っている。しかしながら、拝殿並びに天満宮の老朽が激しく、使用耐え難き状態なれば忘急処置で凌んで来た。そこで八幡大神社四百年記念事業として、拝殿・幣殿・天満宮外宇の改築を目標として、平成三年より七年迄の五ヶ年計画で募金を行いたく立案し、平成二年十二月二十三日の総会の席上で満場一致の賛同を得た。計画に着手するや氏子崇敬者の敬神の念篤く、目標を越える多額の奉納計画書の提出を載く事が出来た。昭和の御代も平成に変わり、これを祝し御大典記念事業としての意味を含めて事業に着手した。(中略)
 工事は平成五年三月に始り、三月八日に天満宮地鎮祭、二十二日に上棟祭、四月十八日には拝殿・幣殿等を解体した。一部から次の様な記録が発見された。「奉建立寛政辰年七月 針ヶ谷村大笹木村金平造之」とあった。今から百九十七年前の事である。四月二十七日に天満宮への仮遷座祭及び地鎮祭と斎行した。五月二十二日には拝殿等の上棟祭と斎行した。又付帯工事や社頭の整備等も、役員や奉仕団の方々のご協力に依りの完成する事が出来た。十月十四日には、神社本庁より献幣使を迎えての正遷座祭を芽出たく斎行出来た。この年は皇太子殿下の御成婚と、伊勢神宮の第六十一回の式年遷宮に当たり、重ね重ねの奉祝てあった。
 以上概要を記し、先人達が精神の拠り所として此のお宮を守り伝え「敬神 崇祖」の立派な精神文化を残して下さった事に感謝しつつ、更に後世の人々に受け継いて戴く為に此処に是を建立す(以下略)
碑文より引用 *句読点は筆者が代筆
        
                                    二の鳥居
        
                     拝 殿
      
         拝殿上部に掲げてある扁額              拝殿内部
        
                               本殿覆屋
 社の多くは鬱蒼とした社叢林に覆われていて、やや湿度が高く、樹木の間からこぼれ出る零れ光が、より一層神秘性を醸し出す心理的及び環境的な要因ともなっている。
 その点針ヶ谷八幡大神社の境内は、本殿奥にある社叢林以外はお日様の光を浴びた明るい境内で、境内周辺の環境整備もしっかりとしていて、二の鳥居から社殿までの参道周辺には玉砂利も敷かれ、しかもしっかりとならしてあり、見た目も良く、晴れ晴れとした気持ちで参拝を行うことができた。
 玉砂利を踏みしめて歩く事がほとんどない昨今、何か新鮮な気持ちにもなるから不思議だ。
 
      社殿手前左側にある神楽殿        神楽殿の右側に鎮座する境内社・神明社
            
                本殿左奥に聳え立つご神木
           本殿奥周辺にはご神木・社叢林を含む空間がある。
 
       石祠群。詳細不明            本殿右奥にある富士塚
        
                          社殿右側に鎮座している境内社・天満宮
        
                                     天満宮内部

 後になって知ったことだが、4月から5月にかけて咲く「ツツジ」や「藤」が綺麗な所で知られる社との事だった。立派な藤棚もあり、写真を見るとなるほどその通りかとも感じた。ツツジの時期も綺麗だそうだ。成程「明るい社」と感じたのは、このような綺麗な花々を見出る為に必要な空間でもあったわけだ、とも思った次第だ。
 来年こそはこの見事なツツジや藤の花を堪能したいものだ。
        
                      境内周辺を撮影
                            玉砂利もしっかりとならされている。


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今泉浅間神社

                  
                ・所在地 埼玉県深谷市今泉51
                
・ご祭神 木花咲耶姫命
                ・社 格 不明
                ・例 祭 不明
 今泉浅間大神社は埼玉県道75号熊谷児玉線を美里町方向に進み、「本郷駐在所」交差点を過ぎて、藤治川を越えた「本郷農産物直売所・緑花センター岡部」がある手押し信号のある十字路を左折し、道幅の狭い道路を南方向に700m程進む。この道路を挟んで進行方向左側は藤治川流域の田園風景が広がり、右側は民家が所々連なったりするが、その後緑深い丘陵地の先端部が見え、その入り口付近に今泉浅間大神社の奉納のぼり旗柱ポールや、案内板等が見えてくる。
 地図を確認すると、この今泉地域の西側は、森やゴルフ場があり、河輪神社や関浅間神社が鎮座する諏訪山も近隣にあり、古墳も多数ある古くから開けた場所であるようだ。
               
                  
今泉浅間大神社正面
                
                                  入口左側にある案内板
 浅間神社
 所在地 岡部町大字今泉五一番地  祭神  木花咲耶姫
 沿革
 創立年代は明らかではないが、古くより大字今泉の鎮守として崇敬されている。西暦一九〇八(明 治四一)年には、字大明神より稲荷神社を転居し合祀されている。大字今泉の地は、江戸時代以前は、榛沢郡藤田郷(現在の寄居町)を本拠とする藤田氏の勢力下におかれていたと考えられており、字大明神にある高取山は、この藤田氏が当地方を治めた頃、この山に登り稲作の豊凶を見定め、石高を計り年貢を取ったため山の名がここに起因していると伝えられている。江戸時代に入ると、徳川家康の家臣菅沼小大膳定利の領地となる。菅沼小大膳は後に、上州(現在の群馬県)吉井藩主となり、西暦一六〇三(慶長七)年死去した。
                                                                                                                  案内板より引用
        
              思っている以上に石段は角度があり、鳥居を撮影するのも苦労した。
 
 丘陵地に鎮座していて、石段を登る。途中、灯篭があり、テラス上に平らに馴らしている場所もある(写真左)。その後石段を登るわけだが、両側の路面を掘り込んだ断面も見ることができ、少しワイルドな気分となった。
        
        石段を登り終えると、やや横長の広い空間があり、社殿・境内社が鎮座している。
        
                社殿の奥に鎮座する境内社。
   正面はガラス張りとなっていて、中に境内社・本殿が祀られている。写真撮影はせず。
            案内板に記されている稲荷神社かもしれない。
        
                                   藤治川流域付近撮影
 武蔵七党の一派である横山党・猪俣党には「今泉氏」が存在していたが、榛沢郡藤田庄今泉村より起っているという。小野系図(畠山牛庵本)に「藤田能国―伊与僧都(今泉)」との記載があり、藤田氏がこの地を治めていた時期には、今泉氏もその配下として勢力下にあったのであろう。     

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山崎天神社


          
                                             ・所在地 埼玉県深谷市山崎134            
                  
・ご祭神 菅原道真(推定)
                  
・社 格 旧村社
                  
・例 祭 不明 
 山崎天神社が鎮座する「山崎」という地名。地域名より発祥した在名であり、この地域に土着した山崎氏が存在した。この一族は、武蔵国那珂郡(現在の埼玉県児玉郡美里町の猪俣館)を中心に勢力のあった武士団で武蔵七党の一つ、小野篁の末裔を称す横山党と同族である猪俣党の一派で、榛沢郡山崎村から出た一族であると云い、『新編武蔵風土記稿』にも以下の記述がある。
・新編武蔵風土記稿山崎村条
「按に当国七党(武蔵七党)内猪俣党に、山崎国氏・同三郎光氏といえるものあり。殊に隣村桜澤に三郎光氏を祭りしと云う八幡社もあれば、是等当所に住し、在名をもて名とせしなるべし」
・同桜沢村条
「山崎八幡あり。或説に猪俣党山崎三郎左衛門尉小野光氏の霊を祀れり、由って此の神号ありと云ふ、近郷山崎村は此光氏の旧蹟にや、福泉寺の持」

 その他にも小野氏系図には「藤田好兼―山崎五郎左衛門国氏―三郎光氏―小三郎行氏」。上尾市の山崎達郎家系図に「山崎五左衛門国氏―三郎光氏―小三郎行氏―宗左衛門貞氏―五左衛門氏兼―四郎太夫氏長―五太夫氏清―刑部丞氏弘―掃部勝氏―三郎太夫氏忠―内蔵允頼忠(相州に赴き北条氏綱に仕へ戦功多し)―氏頼―氏行―氏光(北条氏に仕へ、天正十八年小田原落城の後、松平上総介忠輝に仕へ采地五百石を賜る)―友氏(上州前橋の酒井忠清に仕ふ)―友重(酒井氏に仕ふ)、弟友之(植村土佐守忠朝に仕ふ)―友寛(松平元重に仕へ、長州萩に移る)」と見える。
          
                                 山崎天神社正面
 山崎天神社は榛沢新田二柱神社北側に接する東西に伸びた道路を西行する。その後突き当たりを左折し、畑の中の道を暫く南下する。藤冶川を渡り、上越新幹線の高架の下を通り山崎の交差点の信号を右折すると手前左側方向に社は鎮座している。

「新編武蔵風土記稿」山崎村の項には「天神社 村の鎮守なり、熊野稲荷を合祀す、地蔵院の持 下六社 持同じ 熊野社 大神宮 雷電社 山神社 諏訪社 辨天社」と記述されていて、その後明治40年代に村内の神社を天神社に合祀したという。
         
             参道途中、左側には梅の木々が実をつけていた。
             さすが天神社の面目躍如ということであろうか。
 
  社の参道東側に隣接する真言宗智山派天神山薬王寺地蔵院(写真左)。そして地蔵院の脇には「天神山薬王寺地蔵院緣起」という境内碑(同右)がある。

 天神山薬王寺地蔵院緣起
 当天神山薬王寺地蔵院は真言宗智山派に属す 本庄栗崎の宥勝寺を本寺とし 本尊は薬師瑠璃光如来なり 当山は基を遠く慶安年間に権大僧都盛傳和尚の開山とされ 永きに渡り当地を見守り 無量の利益を施し給う 当山旧本堂は大正十四年第十四世秀慧和尚により建立せられしより以来た風雨に耐え今日に至ると雖も如何せん 腐朽甚しく荘厳消磨し 遂に手を加うるの術無きに至る また本尊薬師瑠璃光如来 地蔵観音両菩薩 並びに両祖大師の尊像も 幾多の星霜を経て破損に及ぶ 小衲本より浅学菲才の身なれば師跡を継承すれども朽ちた堂宇を再建する才あらず 日々の檀務に明け暮れ想い起こししは 今は亡き先々代英覚和上の堂宇再建の悲願なれども 住職拝命よりこのかた空しく時を過ごせり(中略)地元の善男善女の信援 更には有縁無縁法界万霊の冥助の賜なり ここに縁起を誌し この法縁に深甚なる感謝の念を捧げ 本尊聖者の威光倍増を願い 両祖大師並びに当山祖師先徳の恩顧に報いむ 願わくは当山を篤き信仰の場として子々孫々護持されんことを 重ねて乞う 国家安穩 萬民豊楽 興隆佛法 寺門隆昌 伽藍安穏 檀信健勝 二世安楽 乃至法界 平等利益(以下略)
                                      境内碑より引用
             
 参道の途中に聳え立つ巨木(写真左・右)。紙垂等はないし、ご神木ではないようだが、参道両側にある樹木の中でも幹は太く、雄々しいその姿に感動し、思わず写真を撮ってしまった。
        
       山崎天神社の参道は右方向・Ⅼ字に曲がり、すぐ先に社号標柱や鳥居がある。
              時々社に見かける配置構造だ。
 ところで参道が北方向で途中右に90度曲がるという箏は、この社は西向きの社という箏になる。         一説では西方向の延長線上には太宰府天満宮が鎮座する場ともいう。
           
                        拝 殿
  創建時期等を記した案内板はなく、帰宅後の編集でも参考資料がほぼ見当たらなかった。
                      
                              拝殿手前、左側にある社日神
 社日神の基礎部分はコンクリート製であるが、この基礎部分はかなり高さがあり、また入り口にあった灯篭2基の基礎部分もかなりの高さであった。思うに山崎天神社の鎮座場所は、志戸川とその支流である藤治川の合流地点から南側で、それ程遠くない場所であるため、河川氾濫対策として、このように基礎部分を補強し、ある程度の高さに積み上げているのではないだろうか。あくまで筆者の勝手な推測ではあるが。
                  
                  社殿左側にある富士塚
 塚の頂には仙元大日神があり、左側には青面金剛の石碑、右側には詳細不明な2基の石祠が両脇を固める。
        
                             社殿奥、左側に鎮座する境内社群
 
 境内社は天神社の拝殿の左後ろにあり、合殿で左から、天照皇大神、稲荷神社、諏訪神社、三社権現神社が祀られている。
        
                                 社殿から鳥居方向を撮影

 嘗て山崎天神社の隣の旧名主の新井家は、代々寺小屋の塾を開き、村内また隣村の児童を教育したという。
榛沢郡の新井氏は「和名抄」に「榛沢郡新居郷」と記載があり、新井は新居、荒井とも書く。嘗て此の氏は埼玉県第一位の大姓であり、関東地方北部特有の名字で、埼玉県北部から群馬県東部、栃木県西部に多いとされている苗字で、新井姓の約半分は埼玉と群馬にみられる。
出自も多くあり、
・武蔵七党、丹党榛沢氏、横山党・猪俣氏、児玉党からの系統
清和源氏・新田氏流、武田氏流、足利支族・一色氏流からの系統
その他(桓武平氏畠山氏流、藤原秀郷流、高麗氏族等)
に大きく分かれている。

 その中の清和源氏新田氏流新井氏は、同郡人見村に移住して深谷上杉氏の支族に仕え、後に深谷領東方藩松平康長に仕えたという。
新井氏系図
「新井兵庫義豊は、永享十年将軍義教公より御教書を贈る、上杉憲実に持氏追討すべきの由なり。三浦介時高・今川上総介・小笠原政康ら、鎌倉に発向す、この時の旗頭にて、進んで先鋒討死す。翌十一年、上杉家に小次郎を召され、思し食に感じて、黄金十枚を贈る、法名寛恭了得大禅定門。のち小田原北条家滅亡の後、小笠原家に所縁ある故に扶助を賜ひ、年老の後、榛沢郡藤田郷萱刈庄山崎村に蟄居す」
大里郡神社誌
「山崎村天神社に隣接せる旧名主新井茂重郎の家は、正保以前より地頭加藤牛之助の地行所にして、其の子孫亀之助及び音三郎等、代々寺小屋を開く」
        
                   山崎地域の田園風景

 余談となるが、江戸中期の学者、詩人、政治家である新井白石は、榛沢郡の新井氏と同じ清和源氏・新田氏流の末裔であったようだ。
・新田族譜
「新田義房―覚義(上野国新田郡新井村に住し、新井禅師と称す)―朝兼―義真(応永二十三年討死)―義基(二郎、仕小山下野守)―武義(次郎兵衛尉、住武州、仕人見屋形上杉六郎憲武)―勝広(刑部丞、仕上杉左衛門太夫憲晴)―広恒(刑部、去山善休)―広成(刑部、天文十年生、万治三年十二月死、百二歳)―半無生(住上州厩橋)、弟広道(新井勘解由、赴常陸多賀谷家)、其の弟広方(刑部、十左衛門、仕真田家)、其の弟某(次郎兵衛、仕松平丹波守康長)―某金兵衛―某金兵衛、兄某次郎兵衛」
同家譜には新井勘解由広道―余四正済―君美(白石)との記載あり。

 不思議な縁で、山崎天神社の考察から、江戸時代
中期の学者、詩人、政治家である新井白石との関わりまで話が発展してしまった。まあ筆者としては、これ位の脱線は許容範囲だし、これだからこそ神社参拝やその土地の歴史考察は面白いわけなのだが。
 

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