高萩神明山王神社・下高萩新田八幡神社
・所在地 埼玉県日高市高萩2035-4
・ご祭神 大日孁貴尊
・社 格 旧下高萩下組産土神
・例祭等 神明講 1月10日
編集上の失敗談を一つ。実は、高萩白鬚神社の後にこの社を参拝したのだが、パソコンに画像を送る際に、間違って先に大谷沢白鬚神社や田木高根神社の画像を編集してしまって、後で気が付いた次第である。それゆえに社紹介の順序がかなり前後してしまったことを深くお詫びした次第である。
高萩白鬚神社から埼玉県道15号川越日高線を東行し、首都圏中央連絡自動車道の高架橋を潜った先の丁字路を左折、JR川越線の踏切の先にある小畔川に架かる「中田橋」を越え、下高萩公会堂先の丁字路を左折すると高萩神明山王神社が見えてくる。
社とはいっても、鳥居のない規模は決して大きくはないが、名称が「神明」「山王」と格式が高そうな名称に惹かれて今回の参拝を決めていた次第だ。
集落に囲まれた中心部に鎮座する地域の鎮守様という第一印象。今時珍しく舗装されていない道の脇に路駐し、急ぎ参拝開始する。
高萩神明山王神社正面
『日本歴史地名大系』 「下高萩村」の解説
高萩村の東にあり、東は笠幡村(現川越市)。小畔川が東へ流れ、その南方を北東流してきた支流が東部で合流する。高麗郡川越領に属した(風土記稿)。宝永四年(一七〇七)に高萩村から分村した(天保五年「高萩村明細帳」武蔵国村明細帳集成)。だが天保郷帳に村名はみえない。前出高萩村明細帳によれば枝郷下高萩村は高七一石余、反別一九町七反余。延享三年(一七四六)から天保三年(一八三二)まで三卿の田安領(「田安領知村高記」葛生家文書など)。
拝殿覆屋
神明山王神社 日高町高萩一七(高萩字猿ヶ谷戸)
当地は小畔川上流に位置し、高麗郡のうち、川越領に属した。初めは、高萩村と称していたが、享保四年に分村して下高萩村となった。また、当地の鎮守は、白鬚神社で、当社は下高萩下組の産土神(うぶしなのかみ)として祀られている。
『風土記稿』に、神明社と山王社は分かれて載り、両社共に「村持なり」とある。
山王社は、『山王宮・東照宮』と刻まれた石祠で、元和二年の建立である。この社の創建については、当地が川越領であったことから、江戸を意識して建立したものと考えられる。
神明社の創建は、山王社の創建より年代が下り、おそらく当地が分村した享保年間のころと思われ、五穀を守護する神として祀られたものと考えられる。祭神は大日孁貴尊で、村人の信仰心が厚いために、当地においては未だに大きな旱ばつや水害にみまわれたことがないという。
社名が神明山王社となったのは、昭和四〇年ごろで、山王社を神明社の境内に合祀してからである。山王社のもとの鎮座地は、当社から二〇メートルほど離れた小畔川北側の竹林の中であった。合祀の理由は、従来、神明社正面には参道がなかったので、これを設けるために氏子持ちの土地と山王社境内地を交換したためである。
「埼玉の神社」より引用
旧下高萩村において、氏神という鎮守社として白鬚神社であるのに対して、当社は産土として氏子の方々から親しまれている。このため、宮参り・帯解き・新嫁参りなどの氏子の参詣は、当社を詣でてから白鬚神社に参でるのが習わしであったという。
社殿の右隣に祀られている天神社 社殿の東側には覆屋があり、左から
庚申塔、山王宮・東照宮が祀られている。
1月20日に行われる唯一の祭事である神明講は、豊作を祈る祭りである。この日、境内には当番が藁で葺いたお仮屋を二社造り、中に幣束を祀る。神饌は当番が蒸した赤飯で、神前に供えるとともに、お仮屋にも榊の葉に載せて供える。なお、参詣者には一箸ずつ神前の赤飯がお供物として分けられる。1月20日に藁でお仮屋を建てる意味は、氏子を豊かにするために外へ働きに出かける神明様が籠もる社であるといわれている。因みに、二つのお仮屋のうち、一つは東を向き、一つは西を向いており、これは、恵比須講の送迎行事(朝恵比須・宵恵比須)の変化したものと考えられるという。
また神明講当日は、氏子の家では恵比須講があり、恵比須棚から恵比須様を奥座敷に下ろしてきて祀る。供え物は、朝が御飯・味噌汁・さんま、昼が赤飯におはぎ、夜がそばというように御馳走を作り、働きに出かける恵比須様に家業繁栄を祈るという。
【下高萩新田八幡神社】
・所在地 日高市下高萩新田101
・ご祭神 誉田別命
・社 格 旧村社
・例祭等 例祭 4月15日
高萩神明山王神社の北西側には下高萩新田地域があり、この地域にも八幡神社が鎮座している。この地域は江戸期・享保年間に高萩村の新田として開発された。氏子は四軒ながら、現在まで善村民という形で、また社格も旧村社として守り継がれ、当社を「八幡さん」と敬愛を込めて呼ばれているという。
但し、実際に参拝してみると、道を隔てて南側には団地が立ち並び、狭い境内に一基の鳥居と小さな社殿のみ。また適当な駐車スペースもないため、一時的に路駐し、すぐに手を合わせて即座に出発するという忙しさでもあった。
下高萩新田八幡神社正面
『日本歴史地名大系 』「下高萩新田」の解説
下高萩村の北にある。東は笠幡村(現川越市)。享保一〇年(一七二五)検地を受けて成立した幕府領の新田。化政期の家数八(風土記稿)。
『新編武蔵風土記稿 高萩新田村』
高萩新田は本村の北にあたりし地なり、四境、東は笠幡村、西南は本村、北は三ッ木村なり、戸數八軒、この新田享保十巳年萩原源八郎檢地して、貢税を定めしより御料所にて、今御代官川崎平右衛門支配せり、
下高萩新田八幡神社社殿
八幡神社(はちまんさん) 日高市下高萩新田一〇一(下高萩新田字熊野)
下高萩新田は、享保年間、高萩村の新田として開発された。江戸末期では戸数八戸であったが、のち新田村となり、明治二二年高萩村の大字となるまで、わずか四軒で行政村を形成していた。
古くは当所の中央部にある墓地の南側に集落があったと伝えられ、元屋敷の耕地名がある。現在、最北部には旧来からの四軒が居住し、南部に昭和三十九年から入居が始まった日高団地が広がるが、その他の土地は畑となり、武蔵野の名残ともいえる雑木林が所々に残っている。
当社は日高団地に面した雑木林の中にあり、本殿は一間社流造り見世棚(みせだな)で、内陣には白幣を祀り、祭神は誉田別命である。
現在の拝殿は昭和二五年に建て替えられた。それ以前は藁葺きで七尺四方のものであったという。建て替えた拝殿は、当初杉皮葺きであったが、現在トタン葺きとなっている。また、鳥居は昭和四一年に奉納されたものである。
祀職は、氏子の平井家が携わっていたと伝えられるが、同家は二度の火災に遭っているため、古記録が一切失われ、当社に関する資料も現存していない。明治五年に村社となり、以降は、三島神社の社家が務めている。
「埼玉の神社」より引用
当地は住宅急増地域であるのも関わらず、氏子が旧来の四軒のままでいるのは、この四軒が当地開発時からの氏子でもあり、古くからの結びつきが強く、行政的にも一体となっていたため、本家・分家の関係こそないが、一家に近い付き合いを行っていることから、ここで祭る神は氏神のように大切にされているためであろう。
因みに、其の四軒とは、「平井家」「田中家」「島村家(本家)」「島村家(分家)」という。
参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」等
