古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

大谷沢白髭神社


        
             
・所在地 埼玉県日高市大谷沢484
             ・ご祭神 猿田彦命
             ・社 格 旧上大谷澤村鎮守・旧村社
             ・例祭等 元旦祭 春祭り 415日 秋祭り(お九日) 1017
 高萩白髭神社から一旦西行し、「高萩東」交差点を左折、国道407号線を南下する。2㎞程進んだ「大谷沢」交差点を左折し、すぐ先にあるY字路を右斜め方向に進むと、進行方向右手に大谷沢白髭神社の一対の幟旗ポールが見えてくる。
 この幟旗ポール付近に若干の駐車スペースがあるので、そこに一時的に駐車し、急ぎ参拝を行った。地域のほぼ中央を旧日光脇往還、現在の国道407号線が南北に走っているにも関わらず、国道の近距離に鎮座する社周辺は田畑風景が広がる長閑な地帯である
        
             大谷沢白髭神社の一の鳥居と社号標柱
『日本歴史地名大系 』「上大谷沢村」の解説
 郷帳類には大谷沢村と記されることが多い。中沢村の南東にあり、東は下大谷沢村。北部を鎌倉街道が南東から北西へ、ほぼ中央を南北に日光脇往還が通る。長享三年(一四八九)四月二五日、下野国の渋垂小四郎は永享の乱中に押領された「武州高麗郡広瀬郷内大谷沢村」など八ヵ所に上る所領の安堵を求めて本知行の目録を作成、古河公方足利政氏から安堵の証判を与えられた(「渋垂小四郎本知行目録写」渋垂文書)。永正二年(一五〇五)二月一五日にも同文の本知行目録を作成して古河公方足利高基の証判を受けている(「足利高基袖判渋垂小四郎申状写」同文書)。
 
       社周辺の長閑な風景と完全に同化している社の参道(写真左・右)
        
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿 上大谷澤村』
 白髭社 村の鎭守なり、寶藏寺持、下同、
 神明社 山王社
 寶藏寺 辨日山辨陽院と號す、新義眞言宗、横見郡今泉村金剛院の末なり、本尊十一面觀音を安ず、開山開基詳ならず、


 白鬚神社(みょうじんさま)  日高市大谷沢四八四(大谷沢字宮)
 当地は第二小畔川と南小畔川に挟まれた農業地域である。
 社の創建は社記によると明徳年間と伝え、村鎮守であった。また、社蔵文書には、寛永一五年に村民金子惣兵衛が寄附した鰐口があったと記している。
 祭神は猿田彦命であり、村人は長く明神様の呼び名で親しみ、五穀の神として祭りを続けてきた。
 別当は真言宗弁日山弁陽寺で、神仏分離まで当社を管理していた。
 本殿は朱塗りの一間社流造りで江戸後期の建築であるが、覆屋は昭和四五年に改築されたものである。改築前の覆屋は草屋根で、傷むと「差し替え」と称して村人が麦藁を持ち寄り、修理を行っていた。
 境内社は、天神社・豊受社・山王社がある。このうち、天神社は古くからの末社で、他の二社は合祀社である。豊受社はお伊勢様と称し、大谷沢・馬引沢・中沢地区が祀る社で、字西原に鎮座していた。また、豊受社は山林を持っていたが、明治末期に社が合祀されたため、跡地は開墾され当社持ちの土地となった。しかし、これは戦後農地解放のため失った。合祀前の豊受社は、間口一間ほどの覆屋の中に小祠を置いたもので、毎年正月に幣束を新たにしていた。現在の石祠は跡地から移転されたものである。
                                  「埼玉の神社」より引用
        
                    本 殿
 当社の氏子区域は大字大谷沢全域となる。当地は急激な人口増加はみられないが、徐々に分家で増えている地域でもある。生業は農業が多く、米作を中心としておこなっている。
 当社は村鎮守として祀られ、氏子が五穀豊穣の祭りを行っている。祭典は質素で付け祭りもないが、豊作を祈る氏子の気持ちは強いという。
 
 社殿の左側に祀られている石祠群(写真左・右)。「埼玉の神社」において、石祠の末社は四柱配置されているのだが、ここには五柱ある。但し、一番左側の石祠は、基礎石垣部分の土の汚れが見られないので、つい最近祀られたと考えられる。残りの石祠は、左から山王社・天神社・神明社・神明社。
       
 社殿前の巨木(写真左)、また鳥居前の立派なイチョウの大木(同右)は、御神木かどうかは不明だが、周囲の風景とは違う雰囲気を醸し出していたので、撮影してしまった。
        
                  社殿からの一風景



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」等
 

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