西久保町大雷神社
「仁和寺法金剛院領目録」に同荘の名前があり、同院の創建が大治5年(1130年)であることから、その前後に仁和寺領として成立したとみられている。秀郷流の藤原兼行(淵名兼行)が「淵名大夫」の異名で呼ばれており、彼もしくはその子孫である藤姓足利氏が開発に関わったとみられている。また、付近にある女堀(未完成)の開削にも関わったとする見方がある。足利氏の没落後、中原季時や北条実時(金沢実時)が地頭を務めたが、霜月騒動を機に支配権が金沢家から北条得宗家に移った。得宗家は被官の黒沼氏を淵名荘に派遣したが、西隣の新田荘を支配する新田氏と境相論を起こしている。後に両者は協調に転じるが、元弘3年/正慶2年(1333年)に新田義貞が黒沼彦四郎を処刑したことを機にこの関係に終止符を打った。室町時代に入ると、室町幕府によって領家職が走湯山密厳院に寄進されるが、現地の武士である大島氏(新田氏系)や赤堀氏(藤姓足利氏系)、守護の上杉氏などの勢力が強く、本家である仁和寺・領家である密厳院の上級支配権は有名無実と化していった。なお、同荘に属する赤石郷が戦国時代に由良成繁によって伊勢神宮に寄進され、後に「伊勢崎」と呼ばれるようになった。
西久保町大雷神社は、平安時代の中頃、足利又太郎兼行が淵名荘を領有するに当たり、「雷電宮」として社殿を造営したことに始まると伝えている。
・所在地 群馬県伊勢崎市西久保町3-859
・ご祭神 大雷命 高龗命 大山祇命
・社 格 旧赤堀十二郷総鎮守 旧郷社
・例祭等 元旦祭 春季例祭 4月5日 秋季例祭 10月5日
国道50号を桐生から前橋方面に向かと「西久保」交差点がある。主要地方道伊勢崎大間々線が交わっている。その昔、あかがね街道の桐原宿にあかがね街道大原宿方面と伊勢崎街道の分岐点があり、伊勢崎方面に進んだ道である。西久保町大雷神社は西久保の交差点から400m程伊勢崎方面に向かった東側に西久保町大雷神社は鎮座している。
現在は市町村合併で伊勢崎市西久保町となっとぃるが、当社はかつての赤堀十二郷の総鎮守であった。
西久保町大雷神社正面一の鳥居
『日本歴史地名大系』 「赤堀郷」の解説
秀郷流藤原氏の末裔で、のちに東上野の有力国人に成長する赤堀氏の本拠地。文和二年(一三五三)七月一三日の足利尊氏下文(赤堀文書)によると、赤堀三郎左衛門入道が代々の証文に任せて「上野国赤堀郷、同貢馬石村」などの地頭職を安堵されている。この時期の赤堀氏は二流があったが、東上野における反上杉勢力の一翼を担っており、宇都宮氏・新田氏などと結んでいた。享徳の乱で「深須・赤堀・太胡・山上」など東上州が戦場となった時にも(享徳四年三月一五日「足利成氏書状写」正木文書)、初期には足利成氏方に参じていたが、時綱の子政綱はのち上杉方に転じた(年欠一〇月一七日「足利成氏書状」穴沢吉太郎氏所蔵文書)。
『日本歴史地名大系』 「赤堀町」の解説
佐波郡の北端に位置。東は新田郡笠懸村、北は勢多郡新里村・粕川村、西は前橋市、南は伊勢崎市・東村。東方を早川・岡登用水が、西方を粕川が支流鏑木川・蕨沢川・桂川を集めてそれぞれ南流する。赤城山の南麓、渡良瀬川がつくった扇状地の西端にあたり、小丘陵地と畑地が広がる。国道五〇号が中央を東西に通る。西半部には古墳群が分布し、南方には女堀の跡が残る。近世は勢多郡の磯村、新田郡の間野村を除き佐位郡に属し、御改革組合ではほとんどが伊勢崎の組合に属した。
参道途中にある二の鳥居
二の鳥居の先の参道右側に土俵が見える。4月の例祭時には、子供相撲なども行われるようだ。
三の鳥居の先の石段上には社殿が見えている。
旧赤堀の総鎮守で、旧郷社の社格らしく重厚な雰囲気がある拝殿
当社の創立・沿革として、平安時代の中頃、藤原秀郷5世の孫、鎮守府将軍頼行の弟の足利又太郎兼行(藤姓足利氏)が淵名荘を領有するに当たり、社殿を造営し鎮座式を行ったのに始まると伝える(雷電宮)。後に淵名氏が滅亡し由良氏の領地となり、元弘3年(1333)新田義貞が鎌倉幕府追討の 挙兵の際、当社に戦勝を祈願したと伝える。さらに 元亀2年(1571)領主の崇敬篤く、市場に鎮座していた当社を現在の西久保に遷座したという(『赤堀村誌』『伊勢崎佐波の神社誌』)。
本殿覆屋
この覆屋の中に納められている本殿は、『赤堀村誌(下)』によると、建造年代として「寛政10年(1798)12月領主加納氏、本殿・拝殿共に改築し、更に昭和5年(1930)に今の本殿様式に改築した。」とある。昭和3年(1927)の改築前の古写真に以前の拝殿(覆屋)が写り、内部に当本殿があったものと思われる。腰から胴、軒廻りまで嵌め尽くされた彫刻の数々や装飾性を見ると、江戸後期の神社建築の様相を伝えるが、極彩色が組物以外のすべての部材に施されており、素木造が流行する前の江戸後期の建築として、その建築様式から、18世紀後期の建築と推定する。棟札等の古資料が無く工匠は不明との事。
拝殿左側にある鳥居
並んで石積上にはたくさんの末社石宮が立ち並ぶ(写真左・右)。
境内の一風景
社の創立は平安時代中期まで遡り、時の領主が雷除けや農耕神として雷電宮を祀り、その後も領主の篤い信仰により守られてきた古社である。そして何よりもその装飾性の高さが目を惹く。軸部を構成するほぼ全ての直線材には、網代や紗綾紋、組亀甲など、さらに身舎丸柱にはグリ紋の地紋彫が施される。また腰から胴、軒廻りに多くの彫刻が嵌め込まれ、その全てが極彩色で彩られる。彫刻の細やかさだけでなく、彩色も手が込み、古くから覆屋で守られ良くその色味を残す。建造年代のさらなる究明を含め、江戸後期の当地における神社建築の装飾性の高まりや変遷を探る上で貴重な建物であるとの事だ。
参考資料「群馬県近世寺社総合調査報告書-歴史的建造物を中心に-神社編」
「日本歴史地名大系」「ウィキペディア(Wikipedia)」等
