古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

中江田町矢抜神社


        
             
・所在地 群馬県太田市新田中江田町1134
             
・ご祭神 経津主命 猿田彦命 埴山姫命 倉稲魂命 鎌倉権五郎景政
             
・社 格 旧村社
             
・例祭等 不明
    
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.2811831,139.2870552,18z?entry=ttu

 新田下江田矢抜神社が鎮座する下江田地域から北側に接して中江田地域があり、同名の社が鎮座する。上記神社とその東側にある最勝寺の間の道路を北上し、東武伊勢崎線、国道354号新田太田バイパスを越えた群馬県道312号太田境東線との交点である十字路を左折する。現在この県道は通称日光例幣使街道とも呼ばれているが、この県道を600m程進むと、進行方向右手に中江田町矢抜神社の社号標、その奥に木製の鳥居が見える。
        
          県道沿いにある社号標柱と、その奥に建つ一の鳥居
    写真では分かりずらいが、鳥居の正面には、自然石の庚申塔が祀られている。
              *追伸 参拝日 2023年7月26日
 日本歴史地名大系 「中江田村」の解説
 [現在地名]新田町中江田
 南西境を石田川が流れ、東は木崎村、南は下江田村、北は上江田村、西は高尾村。村域は木崎台地の南西部とその南西方の沖積地帯を占め、中央を東西に日光例幣使街道が走る。
 中世には新田庄に属し、仁安三年(一一六八)六月二〇日の新田義重置文(長楽寺文書)に「えたかみしも」とみえる。当村は下江田郷に含まれたらしく、文亀三年(一五〇三)頃同郷から分れたとも伝えられる。
 近世は寛永三年(一六二六)阿部忠秋領となり、阿部氏の転封・加増に伴い同一二年下野壬生藩領、同一六年武蔵忍藩領となる。
        
 一の鳥居から北上すると広い境内が見え、その正面には赤を基調とする二の鳥居が見える。

 新田下江田矢抜神社内にある「新田町指定天然記念物 矢抜神社の山椿」の案内板によれば、
「このあたりは中世新田氏の一族江田氏の所領で、江田郷と称した地でした。その後、南北朝の争乱で新田氏が敗れたため足利氏の支配に移り江田郷も分割され、当時中江田村森下にまつられていた矢抜神社を分社し、中江田と下江田の現在地へ勧請してまつったと伝えられ」
たという。
        
       陽光が差し込む境内に対して、社殿奥には緑豊かな社叢林が広がる。
この社叢林の中に「矢抜神社古墳(木崎町2号古墳)」といわれる古墳時代の円墳が存在している。
        
                     拝 殿
        
          拝殿向拝部及び木鼻部には精巧な彫刻が施されている。
   
     拝殿前に設置されている案内板             本 殿
 惣鎮守矢抜大明神神宮建立
 神亀5甲子年4月朔日(奈良時代 聖武天皇の時代)
 中江田村森下(現在の粕場 東武線のところ)
 万治元年(1658年)929日 中江田村と
 下江田村の分村により中枝村宿通り(当時)
 に転祭されたとある

 初代宮司 江田和泉守氏清より始まり
 現在 第49世代宮司

 矢抜さま 昔をしのぶ 神楽殿
 平安時代の武将、「平 景正」が戦いで矢が目にさ
 さり引き抜いてまで奮闘した伝説があります
 中江田の人々はこの偉業をたたえて「矢抜神社」
 と命名したと伝えられています
                                      案内板より引用
 中江田町矢抜神社のご祭神の一柱に「鎌倉権五郎景政( 景正)がいる。この人物に関しては、既に「上奈良豊布都神社」「高本高城神社」でも紹介しているが、平安時代後期の実在した武将であり、祖先は桓武平氏の流れであったという。
 父の代から相模国鎌倉(現在の神奈川県鎌倉市周辺)を領して鎌倉氏を称した。居館は藤沢市村岡東とも、鎌倉市由比ガ浜ともいわれる。また『尊卑分脈』による系譜では、景正を平高望の末子良茂もしくは次男良兼の4世孫とし、大庭景義・景親・梶原景時らはいずれも景政の3世孫とする。他方、鎌倉時代末期に成立した『桓武平氏諸流系図』による系譜では、景正は良文の系統とし、大庭景親・梶原景時らは景正の叔父(あるいは従兄弟)の系統とする。
 16歳の頃、後三年の役(永保3年〈1083年〉〜寛治元年〈1087年〉)に従軍した景正が、右目を射られながらも奮闘した逸話が「奥州後三年記」に残されている。
 鎌倉市坂の下に,彼をまつる御霊神社があり,〈権五郎さん〉の通称で親しまれているが,奥羽地方には,目を負傷した景政が戦場からの帰途に霊泉に浴してその矢傷を治したという,いわゆる〈片目清水〉の伝説を伝えるところが多く,また景政を神としてまつる風習が広くおこなわれている。柳田国男が説いた〈目一つ五郎〉の信仰で,〈五郎〉を〈御霊〉に付会したものだが,《吾妻鏡》によると,1185年(文治1)の夏から秋にかけて,鎌倉の御霊神社にしきりに神異があったことが記されており,その託宣が人々に崇められていたことが知られている。
 中江田町地域に鎮座するこの社の案内板には、伝説に関して、その奮闘ぶりを讃え「矢を抜く」⇒「矢抜」と命名したとのことだが、この人物は後に「御霊信仰」の神、または「一つ目信仰・古代鍛冶集団」の神とも併せ持つ神と変貌してもいる。この事項は良く知ってご祭神としているのであろうか。
        
        社殿奥には小高い丘上となっていて、そこには幾多の石祠が祀られている。
 
    拝殿手前で左側にある神楽殿       境内にある「合祀記念」の石碑
                    合祀記念
             嚮者官發合祀之令也中江田郷當合祀者有
             五社迺請宮得其聽許而合祀於村社矢抜神
             社祭神經津主命猿田彦命埴山姫命倉稲魂
             命鎌倉權五郎景政而茲謹記其年月社號神
             名永傳于後記曰明治四十一年八月二十四
             日無格社諏訪神社祭神建御名方神境内末
             社秋葉神社祭神火産霊命無格社嚴島神社
             祭神市寸島比賣命境内末社愛宕神社祭神
             火産霊命無格社淺間神社祭神木花之佐久
               夜毘賣命宇迦之御魂命(以下略


参考資料「
日本歴史地名大系」「Wikipedia」「境内案内板」
    「新田下江田矢抜神社内・新田町指定天然記念物 矢抜神社の山椿の案内板」等

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大間々町塩原貴船神社

 みどり市(みどりし)は、群馬県東部(東毛地域)に位置する市で、2006年(平成18年)327日に、新田郡笠懸町、山田郡大間々町、勢多郡東村の21村が合併し発足し、平成の大合併において群馬県で新たに誕生した唯一の市である。また群馬県初のひらがな名の市でもある。
 地形は南北に長く、北部には足尾山地が連なり、その山塊に源をもつ渡良瀬川が市の北東から南東にかけて流れている。東町地区の主な地域はこの渡良瀬川に沿うように形成されていて、上流部には草木ダムが豊富な水をたたえ、首都圏に水を供給する役割を担っている。中部から南部にかけての地域は、渡良瀬川の清流がつくりだした「大間々扇状地」により形成されている。
 この大間々扇状地は、足尾山地に源を有する渡良瀬川が赤城山の南東部の麓で関東平野に達し、桐生市から伊勢崎市や太田市に達する地域に土砂を堆積して形成されている。
 扇頂部はみどり市大間々町付近。この旧大間々町(おおまままち)は源を日光の山並みに発する渡良瀬川が、赤城山の東麓をとおり関東平野に出て作った扇状地の要に位置する。
 大間々(おおまま)の「まま」とは、切り立った傾斜地崖「まま」のことで、町の面積の70パーセントが緑におおわれた緑豊かな場所である。嘗ては、足尾銅山から発掘された銅を運ぶ銅山街道(あかがねかいどう)の宿場町として、また絹や農作物の市場として栄えた町であるという。
 旧大間々町北部の塩原地域に鎮座する貴船神社は京都・貴船神社の分霊を祀ったとされ、例年県内一の20万人もの初詣参拝者が訪れるという信仰篤い社でもある。
        
            
・所在地 群馬県みどり市大間々町塩原785
            
・ご祭神 高龗神 大山祇神 大穴牟遅神
            
・社 格 不明
            
・例祭等 節分祭 21日-3日 例大祭 51
                 秋祭 
101日 他
 筆者が在住する埼玉県熊谷市からは、国道17号バイパス「西別府」交差点先の上武道路に合流し、利根川を越え群馬県に入り、伊勢崎方面に向かう。17㎞程進んだ「流通団地前」交差点を右折し、栃木県道・群馬県道39号足利伊勢崎線沿いに東行する。その後「流通団地東」交差点を左折、今度は群馬県道291号境木島大間々線を大間々町方面に北上し、国道122号線と交わる丁字路を左折、渡良瀬川を越えた直後の群馬県道257号線との交点にある丁字路を左折し、3㎞程同県道に沿って進むと大間々町塩原貴船神社正面に到着する。自宅からこの社まで40㎞程、途中でいくつか別件にて寄り道をしたが、1時間30分位で到着することができる。
        
                 大間々町塩原貴船神社正面
 参拝当日は残念ながら雨交じりの天候で、平日の為、他の参拝客は全くなし。雨の影響からか足尾山系には霧も発生していたが、
それが不思議と紅葉時期とのコントラストに絶妙に合い、また社周辺の鬱蒼たる森の目の前に立った時、自分の存在の小ささを実感したと共に、何万年という途方もない月日を通して熟成されて到達した日本人独自の「天地自然の法則」、つまり大自然を畏れ謹み崇めて神としてきた考え方に深く共感する次第だ。
 当たり前のことだが、人間は水がなくては一日たりとも生きられない。本来その水を育むものは豊かな緑、森林であり、日本の神様は「清浄」を最高としている。その清浄をもたらす根源は水である。
 その水の神様として高龗神を祀っている大間々町塩原地域に鎮座する貴船神社にやっと参拝することができた。感激もひとしおだ。
        
              大間々町塩原貴船神社 正面一の鳥居
       鳥居は石段に達するまでに3基見え、自然と厳かな気持ちにさせてくれる。
 当社は大間々町の中心から足尾街道の対岸を渡良瀬川に沿って遡上した地にある古生層の断崖上に鎮座し、赤城山の雄姿を仰ぐこともできるという。
 社伝によれば、天暦10年(956年)に関東地方が干魃に襲われた際、山城国の貴船神社(現在の京都府京都市左京区鎮座の貴船神社)から神霊を勧請して降雨と五穀豊穣を祈願したところ霊験著しく甘雨を得たため、渡良瀬川流域の山地に祀ったのが創まりで、江戸時代の寛文8年(1668年)に現在地に遷座したという。        
        
      参道を進む途中、左側には環境庁・群馬県が設置している社の案内板がある。
    社の創建に関して、国家省庁や、地方自治体のお墨付き頂いた看板にも見える。
          
                  案内板の左側には鳥居があり、その先には手水舎がある。
    この手水舎の奥から、斜面上に祭られている境内社群に向かう道があるようだが、
              正面参道に戻り、参拝を改めて行う。
        
                          石段の様子
 石段の真ん中付近には4基目の鳥居があり、そこを越えるともうすぐ境内が見えてくる。この石段の両脇にも豊かな木々が生い茂げり、森の中で浄化された空気を体いっぱいに吸いこむと、体の隅々まで清められたかのようなすがすがしさに包まれるような気持ちになるから不思議である。
        
                     拝 殿
               
                                         案内板
(但しこちらは入り口付近に設置されている案内板。境内にもあるが、内容はほぼ同じなのでこちらを紹介する)
 貴船神社由緒
 ●創立
 平安時代の天暦十(九五六)年、東国(関東地方)がひどい干ばつに襲われたとき、山城国(京都)の貴船神社の祭神が、古来より祈雨・止雨祈願の神として信仰されてきた高おかみ大神で、その分霊を奉り降雨と五穀豊穣を祈願したところ、それがかなえられたので、関東平野の最北端、渡良瀬川流域の山地に祭られ、現在地に建立されたのは、江戸時代の寛文8(一六六八)年といわれています。
 ●御祭神
 御祭神は高龗大神のほか、大山祇大神、大穴牟遅大神が合わせてまつられています。
 高龗大神(たかおかみのおおかみ)
水の神さまで国土を永遠に湿潤にして草木の生育をたすけ、人々の生活を豊かにする。雨をともなう龍神としての信仰があり、特に雨乞いの神として崇められてきた。
 大山祇大神(おおやまづみのおおかみ)
 山々の精霊を統括支配し、五穀豊穣をもたらす神。
 大穴牟遅大神(おおなむちのおおかみ)

 国土を治め、守護し、人々の病めるのを治し、不幸を救う神。
 外数神

 ●御神徳
 貴船大神は、関東地方を干ばつから守り、古くから水の神さまとして信仰されてきました。人類をはじめ地上に生育する全ての生物は一として水の恩恵を受けないものはありません。ですから貴船大神を崇敬し、その御神徳に浴すことは、衣食住の安全、即ち生活の保証を得ることになり、家内安全、商売繁盛、水の浄化力から厄除の神、また水の力は願い事を成就させるとして心願成就の神、そして交通安全の守護神として篤く崇敬されています。
 ●貴船信仰
 貴船の神は開運の神・心願成就の神として信仰されています。貴船神社の「きふね」は、昔は「気生根」とかかれ、水は気の生ずる根源であり、生命の原動力である気が蘇ると元気が出て運が開け、願い事を成就できるという信仰です。水神の鎮まる貴船神社に参拝すると、気力が生じて願い事を成就できることから縁結び、恋愛成就の神としても知られています。 このように貴船の神は、衣食住の源である水を司る神、その水の源である雨をもたらす神として、また開運・心願成就の神として人々の崇敬をうけてきました。
                                      案内板より引用


      拝殿に掲げてある扁額         境内には小さいながらも手水舎あり。
        
              貴船神社境内から石段を下るその一風景
        
     石段には踊り場が数カ所あり、その右手の先には境内社群が祀られている。
   赤い鳥居の先には境内社があり、その周りにも古そうな石祠が並んで祀られている。             

 案内板の記載によると、昔「貴船」は「気生根(きふね)」と書かれ、水は気の生ずる根源であり、生命の原動力である気が蘇ると元気が出て運が開け、願い事を成就できるという信仰であるという。そのことから、縁結びや開運、心願成就の神様としても広く信仰されている。
人が事成す時は、やはり「気」は必要なのだ。そのことを改めて感じさせてくれたことに対して感謝をしながら、この厳かな雰囲気の社参拝を終えることができた。


参考資料「みどり市HP」「旧大間々町HP」「貴船神社公式HP」「
Wikipedia」
 

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三波川惣社姥神社及び三波川琴平神社

 三波川(さんばがわ)は、群馬県藤岡市三波川を流れる利根川水系の一級河川である。流域は全域が群馬県藤岡市に含まれる。東御荷鉾山の東麓に源を発し、東流する。東御荷鉾山から伸びる二つの尾根からの水を集め、下久保ダムの調整ダムである神水ダムの堰堤直下で神流川と合流する。
 上流部は主に山林であり、スギの人工林と落葉広葉樹林からなる。主に深い渓谷からなり、妹ヶ谷不動の滝を始め、落差数m程度の滝がみられる。所々やや平坦になり、数戸〜十数戸程度の集落と畑地が開ける。 桜山の登口のあたりから中流部となる。中流部から下流部では、河川自体は深い渓谷の下を流れる。周辺の植生は杉林、落葉広葉樹林に加え、照葉樹林がみられるようになる。崖の上は比較的平坦に広がるようになり、畑地やみかんの果樹園として利用され、一部に水田もみられるようになる。また、親水公園として小平河川公園が整備され、水遊びやバーベキューを楽しむことができる。
 三波川は白亜紀の海底堆積物が変成作用を受けた三波川変成帯の模式地となっており、緑色の変成岩である三波石を産出する。昭和中頃まで庭石として採取されたため、河川環境が破壊された。1993年(平成5年)以降三波川に石を戻す会の手により石が戻され、徐々にヤマメなどが棲息する環境が回復しつつある。
 嘗てこの地域は古墳時代、神流川との合流点左岸、および流域の上ノ山台地の上にそれぞれ古墳が築かれていて、昔から発達していた地域でもある。また平安時代には、三波川流域を含む奥多野や神流川の対岸、城峯山周辺に平将門の乱に関係する伝承が多く残っているロマン溢れる地域でもある。
        
              
・所在地 群馬県藤岡市三波川114
              
・ご祭神 石凝姥命
              
・社 格 不明
              ・例祭等 不明
 国道462号線沿いに鎮座している鬼石神社。一旦国道に合流後、南方向に進路を取り、群馬県道177号会場鬼石線.との交点である「三杉町」交差点を右折する。県道とはいっても決して道幅は広い道路ではない。「三杉町」交差点から県道合流後、暫くの間は民家も立ち並ぶ中で走行しているが、そのうちに山道の中での道路の両側、特に進行方向右側は急傾斜の斜面が続き、「急傾斜地崩壊危険区域」の看板も見える地域。時折民家が進行方向左側にポツポツと見える中で心寂しさも過る中で車を県道に交わる交差点から800m程進むと、辺りは明るく開け、民家が立ち並ぶ場所に到達し、その右側高台上に三波川惣社姥神社の鳥居が見えてくる。
 因みに「姥神社」は漢字通り「うばじんじゃ」と読む。
        
              県道沿いに鎮座する三波川惣社姥神社
『日本歴史地名大系』には 「三波川村」の解説が載せられている。
 [現在地名]鬼石町三波川
 東御荷鉾(ひがしみかぼ)山(一二四六メートル)の東、神流川支流の三波川が東西に貫流し、北は高山村・多胡郡上日野(かみひの)村・下日野村(現藤岡市)、東は浄法寺(じようぼうじ)村・鬼石村、南は甘楽郡譲原(ゆずりはら)村・保美濃山(ほみのやま)村・坂原(さかはら)村、西は同郡柏木村(現万場町)と接する。地質は大部分が古生層三波川式変成岩類で、随所に美しい結晶片岩の露頭がみられる。
 天文二一年(一五五二)北条氏康が関東管領上杉憲政を敗走させた後の三月二〇日、北条氏は「三波川谷北谷之百姓」の在所帰住を令する。その朱印状(飯塚文書)は「北谷百姓中」に宛てられ、三波川流域は北谷(きただに)と称されていた。永禄六年(一五六三)武田信玄との申合せによって北条氏から安保氏に与えられた地に「北谷村」がある(同年五月一〇日「北条氏康・氏政連署知行宛行状」安保文書)。のち長井政実が上杉氏から武田氏に服属して北谷の実権を握り、三波川の飯塚氏に知行宛行・安堵をしている。同九年七月一日には本領「北谷大なら馬助分」八貫文と同所抱分二貫文などの安堵の判物(飯塚文書)を与え、天正六年(一五七八)二月一二日の判物(同文書)で近世には当村の枝村となる琴辻(ことつじ)の知行高を一貫五〇〇文に定め、同八年七月二日にも「大奈良」三貫文などの安堵の判物(同文書)を出している。
 戦国期には飯塚氏や根岸氏など「北谷衆」とよばれる土豪がいた(天正一三年三月二一日「北条氏邦朱印状写」同文書)。同一四年に「北谷之郷」の検地が北条氏によってなされ、本増ともに一〇三貫一七六文の年貢高となり、増分は二三貫文余あったが、うち一一貫文余が免除された(同年一〇月一九日「北条氏邦朱印状」同文書)。同一五年八月二三日に「北谷百姓中」に宛て、当年秋の穀物すべてを箕輪(みのわ)城(現群馬郡箕郷町)に納めるように令し(「北条氏邦朱印状」同文書)、同一七年八月二九日には飯塚氏に北谷年貢銭で黄金と綿をそろえ納めるよう令している(「北条氏邦朱印状」同文書)。

「日本歴史地名大系」に記されている「飯塚氏」や「根岸氏」は嘗て「北谷衆」とよばれる土豪であり、児玉郡御嶽城主長井政実の家臣でもあった。
「飯塚氏」
 〇飯塚馨文書
天正六年二月十二日、琴辻一貫五百文赦免手形、飯塚弾正忠殿、政実花押(長井)」
「天正六年七月一日、知行方、本領北谷・武州安保等を宛行う、飯塚和泉守殿、政実花押」
「天正十三年三月二十一日、御蔵銭五貫文を預け漆を調進させる、北谷衆飯塚六左衛門・同源七郎・根岸忠右衛門、北条氏邦朱印」
「根岸氏」
三波川飯塚文書
「天正十三年三月二十一日、北条氏邦は、北谷衆に御蔵銭五貫文を預け置き、その代物として漆を調進せよと命ず。北谷飯塚六左衛門・同源七郎・根岸忠右衛門・北谷衆中」
       
                           石段上には新しい神明鳥居が立つ。
       
                                      拝 殿
        創建等は不明。但し大同年間(80610年)の創建とも云われる由緒正しい社。
 
      拝殿に掲げてある扁額               本 殿
 三波川惣社姥神社のご祭神は「石凝姥命(いしこりどめのみこと)。通常伊斯許理度売命と表記されることが多い神である。この神は、日本神話に登場する天津神系の女神で、作鏡連(かがみづくりのむらじら)の祖神、天糠戸(あめのぬかど)の子とされている。『古事記』では伊斯許理度売命、『日本書紀』では石凝姥命または石凝戸邊(いしこりとべ)命と表記されている。
 日本神話において、太陽神である天照大御神が建速須佐之男命の度重なる乱暴(田の畔を壊して溝を埋めたり、御殿に糞を撒き散らす等)に怒り、天岩戸に引き篭り、高天原も葦原中国も闇となり、さまざまな禍(まが)が発生した。
 そこで八百万の神々が天の安河の川原に集まり、対応を相談する。その際に神々がとった行動の一つとして、鍛冶師の天津麻羅を探し、伊斯許理度売命(石凝姥命)に、天の安河の川上にある岩と鉱山の鉄とで、八咫鏡(やたのかがみ)を作らせたという。

               本殿内部を撮影(写真左・右)

 拝殿手前左側に祀られている境内社・石祠群  正面鳥居の右側に祀られている「道祖神」等

 伊斯許理度売命・石凝姥命(いしこりどめのみこと)の神名の名義について、「コリ」を凝固、「ド」を呪的な行為につける接尾語、「メ」を女性と解して、「石を切って鋳型を作り溶鉄を流し固まらせて鏡を鋳造する老女」の意と見る説があり、鋳物の神・金属加工の神として信仰されている。 
       
                                 拝殿からの一風景

 三波川惣社姥神社から県道を5㎞程西行すると、「三波川琴平神社」に到着する。同じ三波川地域に鎮座する社でもあり、実のところこの社を散策するのが今回の目的の一つでもあった。
 しかし、昨今の「クマ出没」件数の多さ、加えて怪我・死亡事故等のテレビ等の報道もあり、現実この県道を走らせている途中にも「クマ出没 注意」との看板も設置されており、今回は遠目からの撮影にて終了させて頂いた。
 また残念なことにインターネット等で紹介されていた「アーチ形の赤い橋」は既に撤去・解体されていた。写真でも分かる通り、端を設置した際の基礎部分だけが残り、在りし日の情景を思いふけるのみである。
        
               三波川琴平神社を対岸より撮影。



参考資料「日本歴史地名大系」「埼玉苗字辞典」「Wikipedia」等

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鬼石神社

  藤岡市鬼石町区域は市の南部に位置し、東西に約10.7km、南北約5.3km、面積は約52.5k㎡で、その8割程度が山林に覆われている。地形は、西端部にある東御荷鉾山を頂点とした褶曲山地であり、この谷間を三波川が流れている。 また、西は神流町、東と南は神流川を県境として埼玉県と接し、清流と緑の山並みに囲まれ、潤いと安らぎのある豊かな自然に抱かれた地域である。200611日に藤岡市へ編入された為消滅した
 古くは尾西と称した。「上毛風土記」「上野志」には鬼子の名も見られる。
 この地域名の語源は諸説あり、「昔々、御荷鉾山に住んでいた鬼が人里へ下りてきては田畑を荒らし、人々に危害を加えていた。困り果てた村人は、旅の途中で立ち寄った弘法大師に退治を懇願。大師が読経し護摩をたくと、鬼はたまらず大きな石を投げ捨てて逃げ去った。その石の落ちた場所が鬼石町と伝えられ、石は鬼石神社のご神体として、今も町民の信仰を集めている」
『上野国志』では「昔弘法大師が御荷鉾山に住む鬼を調伏した折鬼の持っていた石を放り投げ、その石の落ちた場所が鬼石であると伝える。また一説には古来御荷鉾山から山中・三波川・鬼石・秩父にかけて鬼の太鼓ばちと呼ばれた石棒などの石器の用材が産出され、鬼石がその製造地・集散地であったことによるともいわれる」
 またアイヌ語の「オニウシ」(樹木の生い茂ったところ)に由来する説などがある。
        
             ・所在地 群馬県藤岡市鬼石7221
             ・ご祭神 磐筒男命 伊邪那岐命 伊邪那美命
             ・社 格 旧郷社
             ・例祭等 夏祭 71415日に近い土日曜日
 国道462号線を西行し、神流川に架かる「神流橋」を越え、最初の信号のある「浄法寺」交差点までは前項「浄法寺丹生神社」と同じだが、この交差点を左折する。
 交差点は左折するが、道路は国道462号線のまま旧鬼石町方向に進路をとる。この国道は通称「十石峠街道」ともいい、中山道新町宿(高崎市新町)から神流川(かんながわ)に沿って藤岡、鬼石、万場、中里、上野、白井(しろい)の各宿を通って上信国境の十石峠(じっこくとうげ、標高1351m)を越えて信州に入り、佐久を経て下諏訪宿で中山道や甲州街道に合流する街道である。
 十石峠の名の由来は、山が川に迫る神流川沿いの地域は平地が少なくて米作りができないため、信州から1日十石(約
1,500㎏)の佐久米が「十石馬子唄」を唄う馬子によって上州に運び込まれたことによると言われている。
        
                   鬼石神社正面
 神流川の流れを左手に見ながら南北に通じる国道462号線を暫く進むが、「諏訪」Y字路の交差点で右方向に変わり、神流川と離れる。ここから旧鬼石町市街地内に入る。「諏訪」交差点から南に行くこと500m程で右手の高台上に鬼石神社の赤い鳥居が僅かに見えてくる。
 境内に入る為には、一旦正面鳥居の石段附近を過ぎてからすぐ先にあるT字路を右折して、鬼石神社の裏手に回り、社殿と神楽殿の間に数台分の駐車スペースが確保されているので、そこに移動してから参拝を開始した。
        
           鬼石町市街地を見守るような西側高台に鎮座する社
『日本歴史地名大系 』「鬼石村」の解説
 [現在地名]鬼石町鬼石
 北は浄法寺(じようぼうじ)村、西は概して山地で三波川(さんばがわ)村に隣接。東と南とは神流川を隔てて武蔵国渡瀬(わたらせ)村と上・下の阿久原(あぐはら)村(ともに現埼玉県児玉郡神泉村)に相対する。東部を南北に十石(じつこく)街道が通じ、南部で武州側・山中谷(さんちゆうやつ)・三波川村の三方面に分岐する。永禄二年(一五五九)の「小田原衆所領役帳」に垪和又太郎「七拾貫文 鬼石」とある。同六年五月一〇日に武田信玄との申合せによって「鬼石村」は北条氏から安保氏に与えられる(「北条氏康・氏政連署知行宛行状」安保文書)。その後、高山氏に与えられたらしく、検討の余地があるとされる元亀元年(一五七〇)一二月二七日の武田信玄判物写(「高山系図」所収)で鬼石の替地として若田(わかた)郷(現高崎市)を高山山城守に与えている。「甲陽軍鑑」伝本には「おにのつら」「鬼面」とも記している。また年月日未詳の小田名字在所注文写(熊野那智大社文書)には「おにす」とある。
 地形を確認すると、上流域にある神流湖からの神流川の流路が東方向から北方向に変わり、神川町上阿久原地域の北端で再度真東方向に変えながら、左方向に大きくカーブするように突出部を形成する、その左岸にできた河岸低地と低地西側にある高台の間に鬼石市街地は形成されている。
 旧十石峠街道沿いには大きな伝統的な商家建物や、土蔵造りの商家建物も見られ、古い町並みが今なお残る懐かしい地域でもある。
        
                                  創建時期 不明
           御祭神 磐筒男命 伊邪那岐命 伊邪那美命の三柱
 江戸時代には鬼石明神と称し、元禄十六年(1703)宣旨をもって正一位を授けられ、明治になって鬼石神社と改称し、郷社に列せられた。
 鬼石神社の御祭神筆頭である「磐筒男命」は「イワツツノオ(イハツツノヲ)」と読み、日本神話に登場する神で、『古事記』では石筒之男神、『日本書紀』では磐筒男神と表記されている。
『古事記』の神産みの段でイザナギが十拳剣で、妻のイザナミの死因となった火神カグツチの首を斬ったとき、その剣の先についた血が岩について化生した神で、その前に石析神・根析神(磐裂神・根裂神)が化生している。『日本書紀』同段の第六の一書も同様で、ここでは磐筒男神は経津主神の祖であると記されている。『日本書紀』同段の第七の一書では、磐裂神・根裂神の子として磐筒男神・磐筒女神が生まれたとし、この両神の子が経津主神であるとしている。      
        
                                  拝殿に掲げてある扁額
        
                 拝殿向拝部の龍の彫刻
 
    向拝部の両端に位置する木鼻部位にも見事な彫刻が施されている(写真左・右)
 拝殿は正面3間、側面2間、入母屋瓦葺、1間向拝付き平入で軒は二軒半繁垂木とする。彫り物は水引虹梁に絵模様、上に龍、獅子鼻が彫られている。建築様式から、建造年代は江戸末期、19世紀後期とみられている。
        
            拝殿左側には御神木の切り株が残っている。
 樹齢
500年と思われる程の径幅が大きな大杉があったそうだが、平成259月の台風18号の際の強風で倒木したそうだ。但しその際に、本殿や南側に祀られている境内社群には一切被害が及ばない場所に倒れていたという。ご神木が自らの意思で安全な場所に倒木したのであろうか。
        
                                      本 殿
 本殿は一間社流造、1間向拝付銅板葺屋根で身舎は丸柱、向拝柱は角柱とする。浜縁浜床四方高欄付の大床を廻し、脇障子を付ける。向拝水引虹梁は浮彫の梅が彫られ、中備に龍の彫刻で、虹梁先には正面に獅子、側面に獏の彫刻が付く。全体に花鳥の彫刻で満たされている。
 建造年を証明する棟札は不明であるが、建築様式から、19世紀初めの建造と推定される。

 ところで、ご神体は鬼が御荷鉾山から投げたといわれる「鬼石」と呼ばれる石が本殿床下にある。
 本殿を左方向からぐるっと回る。すると「鬼石」の名前の由来となった石が本殿の床下にあるという札が貼ってある。但し遠間から見る為筆者には暗くてよく見えなかった。

 鬼石町北西部には古くから地元の方々の信仰の山である「御荷鉾山(みかぼやま)」が聳え立つ。通常は西御荷鉾山(1,287m)と東御荷鉾山(1,246m)の二峰を指すが、東西の御荷鉾山とその間にある標高1191mのオドケ山を加えて総称することがある。その三つの峰「三株」「三ヶ舞」が「みかぼ」山の由来という説もあるらしい。また日本武尊(やまとたけるのみこと)東征の折、この山を越えるとき、鉾を担われた伝説から、この字が当てられたともいう。古来より地元の人々の信仰の山で毎年428日の山神祭には神流町・万場を挙げて賑やかに山登りが行われている。
 西御荷鉾山の山頂付近は大の字に刈り込まれている。これは昔麓の村で疫病が流行し、西御荷鉾山の不動尊に平癒祈願したところ疫病が治まったため、大願成就を記念してかり出されたとのこと。
 東西の御荷鉾山の間の峠を投げ石峠といい、麓の町を鬼石という。昔、御荷鉾山に棲んでいた鬼を弘法大師(空海)が退治したとき、鬼が石を投げて逃げた。この石を投げたところを投げ石峠と呼び、石が落ちたところを鬼石と呼ぶようになったという。
 なお、弘法大師が登場しない伝承もあり、この場合鬼は御荷鉾山を一晩で富士山より高くしようとし、それに失敗して石を投げることとなっている。

境内は社殿から左方向、つまり南側に敷地が広がり、そこには幾多の境内社が祀られている。
 
 拝殿左側に祀られている境内社・石祠等(写真左・右)右側の写真の石祠・石碑は八坂神社。
        
                        境内一番南側に祀られている境内社 
       神明調の社殿造りであることから「護国神社」の類かもしれない。 
        
                        社殿左側奥に祀られている境内社・合祀社
                     中央に神明宮(春日大神・天照皇大神・八幡大神)
                   中央左隣に琴平神社・天満宮・神虫除神社・疱瘡神社
                  中央右側隣が稲荷神社・秋葉神社・猿田彦神社・三峰神社
 
       境内社・五角注の社日神          拝殿右側に祀られている境内社
        
                                       神楽殿
     拝殿前方右手には神楽殿がある。この楽殿は切妻銅板屋根、唐破風で妻入り、
           軒は半繁垂木で、虹梁に絵模様で彩色されている。
          建築様式から建造年代は
19世紀中期とみられている。
 毎年7月の中旬に開催される夏祭りは、勇壮な屋台囃子と屋台巡行で知られ、「関東一の祭り囃子」と言われている。
 鬼石夏祭りの始まりは、江戸時代の後期、当時は、「鬼石祇園祭り」の名称で、花車と言われる万灯型の笠鉾3台が、揃って鬼石神社に登上したそうだ。文政7年の棟札が鬼石神社に残されている。
 明治18年以降、人形が飾られる形の組み立て式の山車が引き出されるようになり、昭和になると屋根つきの屋台が作られ、昭和45年に相生町が屋根つきを新造して5台となり、現在の姿になった。昭和50年に祇園祭の名称が、宗教色があるとの理由で「鬼石夏祭り」に変更された。
 5台の屋台によるお囃子は、関東一と言われている。また、勇壮な新田坂(シンデンザカ)の駆け上がりは、祭りの見どころの一つとなっている。地区ごとに独自の調子を持つお囃子と、屋台の屋根に若者が上がり、高速で引き回す勇壮な姿には大きな拍手と歓声が寄せられる。また、二日目の本祭りの夜には、おまつり広場で笛や太鼓の技とお囃子の音色を競い合う「寄り合い」が行われる。「寄り合い」」では、各町内で受け継がれてきた独自のお囃子の打ち回しの後、5町一斉の乱れ打ちが行われ、お祭りが最高潮を迎える。
 尚4月の第2日曜日に鬼石神社太々神楽が奉納される。
        
            正面鳥居から参道、及び町市街地方向を望む。


参考資料 「上野国志」「日本歴史地名大系」「藤岡市鬼石商工会HP」「Wikipedia」等

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浄法寺丹生神社

 上野国神名帳(こうずけのくにじんみようちよう)は、上野国(現在の群馬県)が奉幣していた国内の神社を書上げた登録簿で、国内神名帳の一つ。貫前神社(富岡市)の一宮本、総社神社(前橋市)の総社本、「群書類従」所収本などの写本が伝わる。いずれの写本も上野国内の鎮守、各郡ごとの神名の二部より構成されているが、神名表記や神社数、郡の配列など多少の出入りが認められる。総社本は奥書によると、永仁六年一二月二五日に神主赤石氏中清が「正本の如く」筆写した写本を、貞和四年・弘治三年に二度にわたり写し直したものである。総社本にのみ浅間大明神が書上げられた背景には、おそらく写本成立直前に起こった弘安四年の浅間山噴火の影響があったに相違ない。同本を例にとると、郡別記載部には、碓氷一五、片岡一四、甘楽三二、多胡二五、緑埜一七、那波一八、群馬東郡一四五、同西郡一六九、吾妻一三、利根二一、勢多二三、佐位一二、新田一五、山田一二、邑楽一五の計五四六社(神社名を記したもの二四一社)が確定されている。
 その上野国神名帳・緑埜(緑野)郡十七社の中に「従三位 丹生大明神」と記されていて、これが当社・浄法寺丹生神社といわれている。
        
             
・所在地 群馬県藤岡市浄法寺1259
             
・ご祭神 高龗神 罔象女神
             
・社 格 旧村社
             
・例祭等 例祭(太々神楽) 49日に近い日曜日
 国道462号線を西行し、神流川に架かる「神流橋」を越え、最初の信号のある「浄法寺」交差点を右折する。群馬県道・埼玉県道13 前橋長瀞線合流後600m程北上すると進行方向左側に「広厳山般若浄土院浄法寺」「佛教大師金色尊像」の看板が見え、そこから更に100m程行った十字路を左折すると、左側に浄法寺丹生神社の正面鳥居が左手に見えてくる。
 社の東側には道路を挟んで「藤岡市第七十五区平公民館」があり、駐車スペースも確保されているので、そこの一角をお借りしてから参拝を開始した。
        
                          浄法寺丹生神社 正面鳥居と社号標柱
                  珍しい北向きの社
『日本歴史地名大系 』には「浄法寺村」の解説が載っている。
 [現在地名]鬼石町浄法寺
 東境を神流かんな川が北流し、東は武蔵国新宿(しんしゆく)村(現埼玉県児玉郡神川村)、北は保美(ほみ)村(現藤岡市)、西は高山(たかやま)村(現同上)・三波川(さんばがわ)村など、南は鬼石村と接する。東部を十石(じつこく)街道が南北に走る。村名は浄土院浄法寺による。
 応永二五年(一四一八)三月三〇日に関東管領上杉憲実が長谷河山城守の押妨から鎌倉明王(みようおう)院領として安堵した地に「浄法寺内平塚牛田岩井三ケ所」がある(「関東管領家奉行人連署奉書」明王院文書)。しかし岩井は現吉井町内に比定され、地域的に浄法寺の内とは考えがたい。あるいは上杉憲方に永徳二年(一三八二)に安堵した地の再安堵状である明徳四年(一三九三)一一月二八日の足利義満下文(上杉家文書)にみえる「浄法寺土佐入道跡」、また康応元年(一三八九)八月一六日の明王院への大石重能の打渡状(明王院文書)にみえる「浄法寺九郎入道跡平塚・牛田・岩井」につながるものと思われる。

 朱を基調とする木製の両部鳥居が2基参道に並び(写真左・右)、氏子の方々奉納と思われ燈篭も数多く設置されている。参道の回りにある植樹も綺麗に剪定されて、日頃から地域の方々がこの歴史あるお社を如何に大事にしているのがこの雰囲気でも伝わってくる。
       
                     拝 殿                      
         御祭神は神川町・上阿久原丹生神社と同じく高龗神 罔象女神。
         「上野国神明帳」に記載がある由緒正しい社であるが、創建等の詳細は不明

Wikipedia」にはこの社に関して以下の説明を載せている
 丹生神社(藤岡市浄法寺)
 丹生神社(にうじんじゃ)は、群馬県藤岡市の神流川沿いにある神社。祭神は高龗神、罔象女神の二神。旧社格は村社。
 平安時代の上野国神名帳に緑野郡「丹生明神」として記載される古社である。
 浄法寺の開祖「最澄」が当時の比叡山に倣い、丹生都比売神を祀ったことが起源とされている。
 浄法寺の字塩、八塩地区よりに鉱水が出ている所があった。神流川沿いは鉱石が採れる地域で、当社以外の丹生神社も多数存在する。社名の起源は、『丹』が土または鉱石、『丹生』が鉱石が取れる場所の意味とされている。
 上毛野君稚子は、当社に戦勝祈願後、天智天皇2
年に唐・新羅連合軍に勝利した。帰国後、後に御神体となった魚籃観音を奉納した。なお、魚籃観音は、近世に盗難にあい、現存していない。
        
                                  拝殿上部の扁額
Wikipedia」での説明の中に登場している「上毛野君稚子(かみつけの きみ わかこ)」は、飛鳥時代の地方豪族であるが、その当時、皇族以外滅多に名乗れない「君」の称号を受けていることから、国内でもかなり有力な勢力であったことは確かである。
 この人物が登場する時代は、国内外でかなりの激動の時代であった。
 大陸では長らく混迷を極めていた分割時代は「隋」国によって統一され、其の後「唐」国に取って変わる。「隋」時代から半島計略は行われていたが、「唐」国もその方針は継続され、高句麗征伐を行ったが、そこは失敗したため、矛先を半島内部に変える。当時朝鮮半島は「新羅・百済・高句麗」の3国がしのぎを削って争っていたが、その3国でも「新羅」国は最も弱小であった。そこで新羅国は唐国と同盟し、自ら臣下となることにより、唐国の援助を受けてから次第に強大となり、ついに660年百済国を滅ぼした。
 百済国と同盟関係にあった当時の倭国(日本国)は、百済国再興を目指す元有力貴族である「鬼室福信」からの要請を受けて、当時倭国内に人質としている豊璋(ほうしょう)王子と5,000名の兵をつけて朝鮮半島の鬼室福信のもとへ送り、その後王位につけた。
 そして天智28月(66310月)に朝鮮半島の白村江(現在の錦江河口付近)で行われた百済復興を目指す日本・百済遺民の連合軍と唐・新羅連合軍との間での戦争がおきる。
 当時倭国軍3派の中の主勢力である第2派に属し、その中でも前軍という、まさにこの軍団の主力を担っていた人物が上毛野君稚子であった。
 
社殿右手奥に祀られている境内社・天照皇大神宮  天照皇大神宮の並びに祀られている境内社
 大神宮の左側奥にも石祠があるが詳細は不明   群と、その間にある「丹生神社改築記念碑」
       
             社殿の傍に聳え立つご神木(写真左・右)
        
                                       神楽殿
『日本書紀』巻第二十七
「天智天皇2年(663年)3月 前将軍(まへのいくさのきみ=第一軍の将軍)上毛野君稚子(かみつけの きみ わかこ)、間人連大蓋(はしひと むらじ おほふた)、中将軍(そひのいくさのきみ=第二軍の将軍)巨勢神前臣訳語(こせのかむさき おみ をさ)・三輪君根麻呂(みわ きみ ねまろ)・後将軍(しりへのいくさのきみ=大三軍の将軍)阿倍引田臣比羅夫(あへのひけた おみ ひらぶ)、大宅臣鎌柄(おほやけ おみ
かまつか)を遣(つかは)して、二万七千人(ふたよろづあまりななちたり)を率(ゐ)て、新羅(しらぎ)を打たしむ」
 と記されていて、その後6月にはこの倭の軍団は「新羅の沙鼻岐奴江(さびきぬえ)、二つの城(さし)を取る」功績をあげている。
 但し当初の勝利もつかの間、2か月後の828日まずは海上戦である「白村江」での戦いにおいて「百済遺民・倭国」の連合軍は「唐・新羅連合軍」に完敗し、その前後にあった陸上戦もまた唐・新羅の軍は倭国・百済の軍を破り、ここに半島での戦いは幕を閉じる。

 上毛野君稚子はこの一連の戦いでの詳細な記録はないので、どのような働きをしたのか、そしてどうなったのかは、残念ながら不明である。それならば「Wikipedia」に記されている「当社に戦勝祈願後、天智天皇2年に唐・新羅連合軍に勝利した。帰国後、後に御神体となった魚籃観音を奉納した」というが、この説文の真偽の程はともかくとして、上毛野君稚子がなぜわざわざこの地に「魚籃観音」を奉納する理由があったのであろうか。
 少なくとも上毛野君稚子が、この地域に何かしら関係する人物である可能性を暗に仄めかしているようにも思えるのだが…。しかし現時点でこれ以上の勝手な考察は控えたいと思う。



参考資料「日本書紀」「日本歴史地名大系」「Wikipedia」等
 

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