古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

本郷土師神社

『日本書紀』によれば、垂仁天皇の時に、野見宿禰(のみのすくね)が出雲から300人余りの土師部(はじべ)を呼び、土で人馬やいろいろな器物を作り殉死を防いだことが記載されています。これが埴輪起源説と伝えられています。現在、「野見」や「土師」と呼ばれる地域には埴輪を焼いた窯が多数確認されています。10世紀ごろに成立したとされる『和名類聚抄』によれば、藤岡市域は緑野郡と呼ばれ、土師郷があったことが記されています。おそらく野見宿禰を祭神とする土師神社が鎮座する地域が土師郷と推定されます。祭神は野見宿禰(のみのすくね)で、上野国神名帳に正五位上土師大明神とあります。
 境内には市指定の土師の辻
(相撲壇)や歌碑「土師の杜」等があり、参道の脇には欅や杉の大木がそびえています。春祭りに太々神楽、秋祭りに獅子舞が奉納されます。また、平成13年に花馬、平成14年に流鏑馬が復活しました。
 *藤岡市公式HPより引用
        
               
・所在地 群馬県藤岡市本郷164
               
・ご祭神 野見宿禰
               
・社 格 旧郷社
               
・例 祭 秋祭り 10月第3日曜日
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.229473,139.0754979,16z?hl=ja&entry=ttu

 本郷椿社神社から北方向に十石街道沿いを1.3㎞程進むと本郷土師神社に到着できる。地図を確認すると、小林風天神社と本郷椿社神社との丁度中間に位置するようである。社の東には、埼玉県との県境の神流川が流れていて、肥土廣野大神社の西側、直線距離にして1㎞程しか離れていない。この肥土地区は元々上野国粶野郡村波爾(土師)郷内に属していた。神流川も今より東側の平野部を流れていたが、洪水等の災害により、流路が現在の場所に移り、元禄十四年(1701)から武蔵国に属するようになり、賀美郡肥土村に改称したという経緯がある。肥土廣野大神社のご祭神は野見宿禰の先祖と云われている天穂日命で、本郷土師神社と文化圏を共有する社と言えそうであり、古代の土師部の集団である出雲族の一族で、出雲から信州へ、そして東山道経由で上野国にたどり着いた一派と考えられている。
 というのも10世紀ごろに成立したとされる『和名類聚抄』によれば、藤岡市域は緑野郡と呼ばれ、土師郷があったことが記されている。因みにここでは「波爾之(はにし)」と註していて、嘗て「土師」は「波爾之」とも呼ばれていた。考察するに、おそらく野見宿禰をご祭神とする土師神社が鎮座する地域の多くは土師郷と推定されているのであろう。
        
               十石街道沿いにある朱の両部鳥居
 この社は「土師」と書いているので、「はじ」または「はに」と読むとばかり思っていたが、当社は「どし」と読むそうだ。古代の外来語起源の語であるかもしれない。地形や川の流れとの相対的位置関係等から見て,土師神社お鎮座地一帯には,古代においては,埴輪窯や関連施設等が存在した可能性が高い。土師神社の北東約150mのところには,本郷埴輪窯址の遺跡がある。
        
                                  長く続く参道
 100m程は有りそうな砂の参道。馬場になっているようで、流鏑馬などの神事が行われるらしい。
        
      参道を進むと右手に「土師の辻(相撲辻)」と呼ばれる相撲の土俵がある。

 土師の辻 
 所在地 藤岡市本郷一六四  
 所有者 土師神社
相撲辻とは、屋外で行った相撲の土俵とその場所を意味している。土檀(土俵)は伏せたすり鉢状で、高さ一六〇センチ、上円部径四九五センチ、基底部一三〇〇センチ、傾斜二二度、斜長四五〇センチを測る。
「日本三辻の一」と称される。他の二辻は摂津国(大阪)住吉神社と能登国(石川)
羽咋神社である。
明治以降は使用されていないが、それ以前は出世力士が披露相撲を行うのが例で勧進相撲が奉納されたが、幕内力士でなければ相撲檀に上がれなかった。
                                      案内板より引用
 
   参道を進むと正面に割拝殿があり。         割拝殿内部(天井部撮影)
        
                               参道左手にある神楽殿
 10月に行われる土師神社の秋祭りでは、地元では有名な伝統芸能が披露されている。古くから執り行われていた「獅子舞、花馬、流鏑馬」の伝統芸能で、一時期は継ぐ者がおらず、長らく中止となっていたが、それを平成13年ごろに復活させ、現在まで大切に守り継いでいるという。
        
                                        拝 殿
 
      拝殿に掲げてある扁額         拝殿手前左側には「相撲額」も設置
  「正五位上土師明神」と記されている。
 相撲額
 所在地 藤岡市本郷下郷一六四
 所有者 土師神社
 土師神社祭神野見宿禰は相撲の神様と仰がれていた。
 この境内にある相撲辻は日本三辻の一つと称され、古来出世力士はこの辻で披露相撲を行った。又勧進相撲も行われたがその折、祭神にお礼と相撲の上達を祈願して相撲額を奉納された。
 この相撲額はこれらを証するもので、文化史の上からも貴重である。
                                      案内板より引用
       
                   社殿の奥に聳え立つご神木(写真左・右)
         
                     本 殿

 土師氏(はじうじ、はじし)は、「土師」を氏の名とする氏族で、天穂日命の後裔と伝わる野見宿禰が殉死者の代用品である埴輪を発明し、第11代天皇である垂仁天皇から「土師職(はじつかさ)」と土師臣姓を賜ったと言われている。
 この天穂日命は天照大御神と須佐之男命が誓約をしたときに生まれた五男三女神の一柱であり、天孫の父である天忍穂耳尊とは兄弟である。『古事記』『日本書紀』では、葦原中国平定のために出雲の大国主神の元に遣わされたが、大国主神を説得するうちに心服して地上に住み着き、
3年間高天原に戻らなかったという。一方、出雲の豪族である出雲国造が朝廷に参内して披露する『出雲国造神賀詞』の中では、きちんと任務を果たし、子の天夷鳥命らを天降らせたりして、大国主神に国を譲らせるのに功があったことになっている。また『日本書紀』でも一書(別伝)では、国譲りののちのこととして、大国主神を祭る神として指名されたりしている。
 天穂日命は天津神の中でも毛並の良い直系統に当たる神でありながら、上記のような二面性が生じている原因について確固たる説はないが、その背景となる状況を推測するならば、おそらくこの神は、元来出雲氏一族が祭っていた出雲の地方神であり、記紀神話ができ上がっていく過程で出雲地方を舞台とする神話が重要度を増し、膨れ上がっていくのに連れて、高天原の神として取り込まれるようになった可能性も否定できない。

             境内に祀られている石祠群(写真左・右)
       
                      社殿北側にも朱の鳥居が設置されている。


*本郷土師神社の北方150m程、十石街道沿いに「本郷埴輪窯址」がある。
       
 本郷埴輪窯址  国指定史跡
 指定日  昭和191113
 所在地  藤岡市本郷
 県内の埴輪生産については、太田地域と藤岡地域の2地域が一大生産地として知られています。藤岡地域では、神流川流域の本郷埴輪窯址と鮎川流域の猿田埴輪窯跡の2地点があります。このうち本郷埴輪窯については、明治39(1906)に柴田常恵氏により発見されました。そのあとの発掘調査により、5世紀後半から6世紀末まで操業していたことが確認されています。
 この窯址は昭和1819(19431944)に発掘調査が行われ、2基の窯址が発掘調査されました。このうち、もっとも依存状態が良かった1基が覆屋で保護され、見学することができます。
 窯の構造は全長約10メートル、幅1.8メートルの大型の登り窯で、窯の中から多くの埴輪が出土しています。
                                   
藤岡市公式HPより引用

なお文化庁はこの窯跡について、次のように解説している。

「丘陵の東南面傾斜地に營まれたるものにして二箇所ありて孰れも登窯の形式を示せり一は前部と後部との二分に分たれ前部は喇叭口状に擴がれり、後部は約30度の傾斜をなし長さ約135寸幅約4尺を有し略々圓筒状をなせる如く側壁及底床は堅緻なる粘土を以て構成せられたり、前部は長さ約18尺幅約6尺を有し約10度の傾斜をなし後部に近き区域は焚口部をなせるものと認められ埴輪馬を初め各種の形象埴輪破片等散乱せり、一は其の北方約13尺の位置に位し略々同様なる形式を示し後部の長さ約16尺幅約5尺あり前部の区域より埴輪圓筒破片、埴輪馬破片、埴輪武器破片等出土せり。 我国に於ける上代埴輪窯の構造を示すものとして価値あるものとす。」
                          「文化庁 文化遺産オンライン」より引用



参考資料「文化庁 文化遺産オンライン」藤岡市公式HP」「日本歴史地名大系」
    Wikipedia」等

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本郷椿社神社

 文覚(もんがく、生没年不詳)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武士・真言宗の僧。父は左近将監茂遠(もちとお)。俗名は遠藤盛遠(えんどうもりとお)。文学、あるいは文覚上人、文覚聖人、高雄の聖とも呼ばれる。
 摂津源氏傘下の武士団である渡辺党・遠藤氏の出身であり、北面武士として鳥羽天皇の皇女統子内親王(上西門院)に仕えていたが、19歳で出家した。
 京都高雄山神護寺の再興を後白河天皇に強訴したため、渡辺党の棟梁・源頼政の知行国であった伊豆国に配流される(当時は頼政の子源仲綱が伊豆守であった)。文覚は近藤四郎国高に預けられて奈古屋寺に住み、そこで同じく伊豆国蛭ヶ島に配流の身だった源頼朝と知遇を得る。のちに頼朝が平氏や奥州藤原氏を討滅し、権力を掌握していく過程で、頼朝や後白河法皇の庇護を受けて神護寺、東寺、高野山大塔、東大寺、江の島弁財天等、各地の寺院を勧請し、所領を回復したり建物を修復した。頼朝が征夷大将軍として存命中は幕府側の要人として、また神護寺の中興の祖として大きな影響力を持っていたという。
 藤岡市本郷地域に鎮座する椿社神社は、建久年間(119098年)に文覚上人が神明宮を創建したことに始まると由来碑には記している。
        
              
・所在地 群馬県藤岡市本郷1867
              
・ご祭神 豊受姫命
              
・社 格 旧村社
              
・例 祭 春祭り 49日 秋祭り(神嘗祭)1019
     地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.2222895,139.0707343,16z?hl=ja&entry=ttu

 小林風天神社から一旦北上し、国道254号線に合流後左折、その後高架橋手前を左斜め方向に進み、八高線の踏切を越えてすぐの「十石街道」に交わる十字路を左折し、暫く旧街道沿いを南方向に進行する。
 この「十石街道」は、新町宿で中山峠から分かれ、藤岡宿で下仁田街道と交差し、鬼石・万場を経て神流川沿いを遡り、十石峠を越えて信州佐久地方に至る街道である。山中の難道ではあったが、信州・武州を結ぶ脇往還として重要な役割を持っていたという。この十石峠は寛永8年(1631)白井関所が設けられ中山道の脇住還として多くの人々に利用されてきた。当時、信州から日に十石(約1500㎏)の米が馬によって運ばれて来たことから十石峠と呼ばれるようになったという。
 昔の街道であるので、道幅は狭いが、田畑風景の中にも民家も並ぶ通りを暫く進むが、2㎞程南下すると、進行方向左側は相変わらずの平坦な地形が続くが、右側は数メートル程度ではあるが高台(テラス)となっており、それが街道沿いに暫く続き、その高台が街道から離れる地点に本郷椿社神社は鎮座している。
 本郷椿社神社参道入口の西側には「藤岡市防災公園」があり、そこの駐車スペースに車を停めてから参拝を開始した。
 
     街道にある社に通じる石段      石段を登り終えると社号標柱と鳥居が見える。
        因みに「椿社神社」と書いて「つばきもりじんじゃ」と読む。
 
        本郷椿社神社 正面鳥居        鬱蒼とした林の間に一筋に伸びる参道

 本郷椿社神社が鎮座する藤岡市「美九里(みくり)」地区は、藤岡市の中心地区である「藤岡」地区の南西にあり、東西に長い地区である。この地区は明治22年の町村合併の際に、根岸・本郷・川除(かわよけ)・牛田(うした)・神田(じんだ)・矢場・保美(ほみ)・三本木(さんぼぎ)・高山の9村が合併してできた「美九里村」が基になっている。「美しい九つの里」が合併したことと、平安時代に置かれていた 高山御厨(たかやまのみくりや)の「みくり」の部分をとって現在の名称になったといわれている。
        
                                     拝 殿

 平安時代末には、武蔵国秩父出身の高山氏がこの地に居住していたが、東国を支配した源義朝は1131年に伊勢神宮に寄進してこの地に「高山御厨」(みくりや。荘園の一種)を成立させ、高山氏に管理を任せた。藤岡市本郷の「椿杜(つばきもり)神社」付近は「御厨の里」と呼ばれており、高山御厨の中心地だったと考えられている。その後、高山氏は木曽義仲や源頼朝に従軍し、子孫の高山重栄(しげひで)は1333年の新田義貞の鎌倉攻めに参陣して武功を立て、新田十六騎に数えられた。
 藤岡では、昔から農家の副業として養蚕、製糸、織物が一貫して行われ、その絹は「藤岡絹」「日野絹」と呼ばれて、桐生の「仁田山絹」と並び称された。江戸時代には十石峠街道と信州姫街道が分岐する藤岡宿が成立して絹の集積地となって「十二斎市」(月に12回の「絹市」)が立ち、諸国の呉服問屋が絹の買い付けなどを行う「絹宿」を出店して、上野国一の取引量を誇って賑わったという。
 高山御厨を管理した高山氏の子孫で、1830年に藤岡市高山に生まれた高山長五郎は、先祖伝来の屋敷を壊して蚕室を建てて研究を行い、明治16年に、通風を重視した田島弥平の「清涼育」と温湿度管理を調和させた「清温育」という飼育方法を確立した。
 椿社神社は建久年間(119098年)に文覚上人が神明宮を創建したことに始まるという。その後、天正3年(1575年)高山吉重が再興したとされる。元は隣村にあたる神田(じんだ)に鎮座していたが、現在地へ遷座する際に椿社神社と改めている。
 
          神楽殿           神楽殿の近くに展示されているある瓦等
       
                         境内に設置されている「椿社神社」案内板
 由緒
 椿杜神社は、豊受姫命を主祭神として、本郷上郷(神明・波家田・道中郷)・川除・牛田の鎮守として祭っています。豊受姫命は稲や穀物の神で、本社は伊勢の豊受大神宮にあります。今から約九百年前、平安時代の天仁元年(1108)秋に浅間山が大爆発を起こして大量の火山灰を降らせ、上野国内の田畑が全滅状態になる大被害をうけました。この災害から復興するため緑野郡高山郷の東にあたるこの地方は、神の加護も願って天承元年(1131)伊勢の国の伊勢神宮(皇大神宮 内宮、豊受大神宮 外宮)の神領となって、高山御厨と呼ばれました。御厨というのは、伊勢神宮を祭る為の食料や布などを用意する御料地(荘園の一種)のことで、国税などは免除されます。上野国内には九ヶ所ほどできましたが、高山御厨は最も早く、最も広い二百八十町歩もの水田があり、毎年四丈布の白布十反と雑用料として十反をそれぞれ二宮に納めていました。そのため各地に伊勢神宮の分霊を祭る神明宮の社が建てられ、「神明様、大神様」と呼ばれて、その土地の祭場になり(供物を収納する倉庫にもなり)ました。高山御厨は秩父氏系の高山、小林両氏が地頭職を分割して支配に当り、鎌倉時代には高山庄(荘園)に発展して緑野郡の平坦地の大部分が含まれるようになりました。両氏共鎌倉幕府に仕える御家人となって活躍し、鎌倉街道も整備されました。戦国時代の天正三年(1575)に、高山遠江守吉重が神田字神明に鎮座する豊受大神宮の社を再興し、光明寺に守らせ、高山氏は永く神社の鍵領かりをしていました。江戸時代に東方の本郷字大神裏(現在地)に移転して、椿杜神社と名称を改めました。明治二十二年(1889)に、近在の九つの里が合併した時、御厨の事故に因んで美九里村の名が付けられました。明治四十二年(1909)には積木神社(牛田)、瓶酒神社(川除)、稲荷神社(波家田・道中郷・牛田)、琴平宮(波家田)、若宮八幡宮(牛田)、及び各末社九社等を合併し、祭神十一柱を併せ祭る村社となって、現在の形が整えられました。神社の建物は本殿(神明造り・板倉様式・中に正殿)、幣殿(相の間・向拝)、拝殿が続き西側に合祀社、北側に末社石宮、南東に社務所・手水舎、南西に神楽殿、南参道に神明鳥居・石灯籠・石段、北参道にのぼり旗台などが配置されています。境内はツバキ、カシ、スギ、ヒノキ、ウメ等が植林され、北に稚蚕飼育所の建物があります。祭礼行事は、春祭りの四月には豊作祈願、秋祭りの十月(神嘗祭)夜は土器奉置式(モリコボシ)の神事が行われ、神穀を七十五膳の土器に盛って神前に供えます。伝説「神明縁起」では、鎌倉時代の建久年間(11901198)に文覚上人が伊勢神宮を勧請されたと伝えています。
                               「椿社神社の由来」碑から引用
        
                     本 殿
        
                    拝殿の左側には境内社群が並んで鎮座されている。
 明治42年(1909年)に椿社神社に合祀された本郷上郷(神明・波家田・道中郷)・川除・牛田等各地の神社が保存されている。合祀された神社は「椿社神社の由来」碑文によると「積木神社(牛田)、瓶酒神社(川除)、稲荷神社(波家田・道中郷・牛田)、琴平宮(波家田)、若宮八幡宮(牛田)、及び各末社九社等を合併し、祭神十一柱を併せ祭る」と記載されている
 
         社殿の奥に鎮座する境内社・石祠、石碑群(写真左・右)


参考資料「藤岡市役所 企画部 地域づくり課 文化国際係HP」「一般社団法人群馬県測量設計業
     協会HP 上州の街道」「自衛隊群馬地方協力本部 本部長の群馬紀行」「Wikipedia」等

 
  

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小林風天神社

 赤城颪(あかぎおろし)とは、群馬県中央部(赤城山)から東南部において、冬季に北から吹く乾燥した冷たい強風をさす。群馬全域では「上州空っ風(じょうしゅうからっかぜ)」と呼ばれる
 大陸のシベリア高気圧から日本列島に向けて吹いてきた風は、群馬・新潟県境の山岳地帯にぶつかることで上昇気流となり、日本海側に大雪を降らせる。山を登る時は湿潤断熱減率で温度が低下し、山を越えて吹き下ろす時は乾燥断熱減率により暖かく乾いた風となって吹き降ろす。このフェーン現象が赤城颪の要因である。群馬県太田市、同伊勢崎市の郊外では、赤城おろしにより畑地の砂が巻き上げられ空を黄色く染める光景が多く見られる。
 日本列島に到来する寒波により、歩くのが困難になるほどの強風となり、電車の遅延が生じる事もある
 赤城山方面から吹き降ろすことからこう呼ばれる。上記の理由により赤城山以北では「空っ風」であり「赤城颪」とは呼ばれない。
 かかあ天下(かかあでんか)、雷とともに群馬県の特徴を現すものとされ、「空っ風」と読むことで
3つを合わせて「群馬の3K」と呼ばることがある。因みに上毛かるたでは、「雷(らい)と空っ風、義理人情」と詠まれている。
 群馬県では有名な「上州の空っ風」を祀っているのであろうと推測される社が、藤岡市小林地域に鎮座する小林風天神社である。
        
              
・所在地 群馬県藤岡市小林838
              
・ご祭神 級長津彦命 級長津姫命
              
・社 格 神撰幣帛供進指定社
              
・例 祭 春季祭典 319日 秋季祭典 1019
    地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.2384948,139.0880828,17z?hl=ja&entry=ttu
 藤岡市北部小林地域に鎮座する小林風天神社。長浜皇大神社を一旦南下して国道254号線に合流後右折する。国道を西行して神流川に架かる「藤武橋」を過ぎると群馬県となり、最初の「小林」交差点を左折する。その後すぐ先には十字路があり、そこを左折すると右側前方に小林風天神社の社叢林が見えてくる。
 社に隣接して北側には小林公会堂があり、そこの駐車スペースをお借りして、参拝を行った。
 
      
小林風天神社の社号標柱           鳥居は社号標柱の先にある。
 旧上野国緑野(みどの)郡小林村。すぐ東側には田んぼや畑が広がり、更に奥には神流川の土手が見える。「風天神社」という神社名から当初「風からの災害を防ぐためから、冬は上州の空っ風赤城おろしから作物を守る」意味と取られがちであるが、「風による疫病を防ぐ」更には「神流川の水害から人々や作物を守る」という広義な意味も含まれると筆者は解釈した。
       
                      鳥居の先で右側に聳え立つご神木
        
                参道の先には社殿が鎮座する。
 日本神話における「風の神」は文字通り風をつかさどる神で、古代中国では風伯(ふうはく)といい、つねに雨の神「雨師(うし)」とともに、丙戌(ひのえいぬ)の日に西北で祭るという慣行があった。
『古事記』や『日本書紀』に記された神話の中では、シナツヒコが風神とされている。『古事記』では、神産みにおいてイザナギとイザナミの間に生まれた神であり、風の神であるとしている。『日本書紀』では神産みの第六の一書で、イザナミが朝霧を吹き払った息から級長戸辺命(しなとべのみこと)またの名を級長津彦命という神が生まれ、これは風の神であると記述している。
『古事記』では、神産みにおいてイザナギとイザナミの間に生まれた神であり、風の神であるとしている。『日本書紀』一書六では、伊弉諾尊の吹き払った息が風神、級長戸辺(しなとべ)命となり、その別名を級長津彦(しなつひこ)命としている。「級長津彦」の方はヒコとあるので、『古事記』と同じく男神であるが、「級長戸辺」のベは女性を意味する語と解されるので、女神と考えられる。
 シナツのシは、ニシ・ヒムカシ・アラシなどに同じく、風を意味する言葉と考えられる。『日本書紀』の「級長津彦命」の表記を参考に、ナを長いの意と捉え、シナを風の長いことの意とする説がある。ツは助詞で、ヒコは男性の意とされる。また、シナツをシナト(風な処)と考え、風の吹き起こる処と解する説もある。シナトは、六月晦大祓祝詞に「科戸の風の天の八重雲を吹き放つ事の如く」とある。トは、単なる場所の意ではなく、入口のすぼまって奥行きに広がりのある場所を指すとする見方もあり、シナトを風の吹き起こる大元の戸口と解する説もある。
        
                                      拝 殿
『太平記』の記述として、(元寇の際)伊勢神宮の風宮に青い鬼神が現れ、土嚢(※風袋のこと)から大風を起こしたとあり、少なくとも室町時代には風神のビジュアル(風袋を持った青鬼)が確立していたことがわかる(※風袋に関して、大陸渡来であることは別項「風神雷神図」に詳しい)。このような鬼神型の風神は、青鬼の姿で表現される一方で、遠くヘレニズム文化から伝播したと見られる風袋(※これをふいごのようにして風を起こす)を背負った様式で描かれる。俵屋宗達の風神雷神図屏風はその代表的なものである。また、このような風神は雨の神と密接に関係しており、雨を呼ぶ稲妻を司る雷神は、風神と対をなす存在となっている。
 また平安時代の歌学書『袋草子』、鎌倉時代の説話集『十訓抄』には、災害や病気をもたらす悪神としての風神を鎮めるための祭事があったことが述べられていて、奈良県の龍田大社では74日に風神祭りが行われている。

 疫病神としての風の神は、空気の流動が農作物や漁業への害をもたらし、人の体内に入ったときは病気を引き起こすという、中世の信仰から生まれたものである。「かぜをひく」の「かぜ」を「風邪」と書くのはこのことに由来すると考えられており、江戸時代には風邪の流行時に風の神を象った藁人形を「送れ送れ」と囃しながら町送りにし、野外に捨てたり川へ流したりしたという。江戸時代の奇談集『絵本百物語』では、風の神は邪気のことであり、風に乗ってあちこちをさまよい、物の隙間、暖かさと寒さの隙間を狙って入り込み、人を見れば口から黄色い息を吹きかけ、その息を浴びたものは病気になってしまうとされる。また「黄なる気をふくは黄は土にして湿気なり」と述べられており、これは中国黄土地帯から飛来する黄砂のことで、雨天の前兆、風による疫病発生を暗示しているものといわれる。西日本各地では、屋外で急な病気や発熱に遭うことを「風にあう」といい、風を自然現象ではなく霊的なものとする民間信仰がみられる。

 一方仏教界において風天は天部の一人で、十二天・八方天の一に数えられる。風を神格化したもので、インドのヴァーユが仏教に取り入れられたものであり、また名誉・福徳・子孫・長生の神ともいう。仏教では、西北方の守護神。形象は、腕は2本で甲冑を着て片手に旗のついた槍を持ち、風天后・童子を眷属とするものがある。両界曼荼羅や十二天の一尊として描かれるほかは、単独で信仰されることはあまり見られないようだ。
 
      拝殿に掲げてある扁額           扁額の左側にある由緒額
 拝殿に飾られている『由緒・御神徳』には「五風十雨豊作守護神」「運命延長守護神」と書かれている。
「五風十雨(ごふうじゅうう」とは世の中が平穏無事である喩えである四字熟語。五日ごとに風が吹き、十日ごとに雨が降るという意から、それぐらいの間隔で雨や風となるのが農作業など自然環境でもバランスが良いとして、世の中が平和や天候が良い喩えとなるのが「五風十雨」である。
 
    社殿の左側にある石碑、石祠等       社殿の右側には稲荷大神が鎮座。  
真ん中の石碑には「猿田彦大神」と彫られている。


参考資料「精選版 日本国語大辞典」「三省堂 新明解四字熟語辞典」「Wikipedia」等
       

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樋越神明宮

樋越神明宮の春鍬祭は、寛政10年(1798)にはすでに行われていたようです。この祭りはその年の豊作を予祝して行う田遊びの神事で、毎年2月11日に神明宮で行われます。神明宮の拝殿で祭典が行われた後、榊や樫の枝に餅をつけ、鍬に見立てたものを持った「鍬持(くわもち)」が拝殿の前でくろぬりの仕草などをし、祭典長の禰宜(ねぎ)が頃合いを見て「春鍬よーし」と叫ぶと、一同が「いつも、いつも、もも世よーし」と唱和します。これを3回繰り返すと、持っていた鍬を投げ、観衆が鍬を奪い合います。とった鍬を家に飾っておくと、養蚕があたり、また、一緒にまかれた稲穂のついたままの初穂を拾った人の家は、豊作間違いなしといわれています。
春鍬祭は平成14年2月12日に国の重要無形民俗文化財に指定されました
                                                  玉村町 ホームページより引用
所在地    群馬県佐波郡玉村町樋越412-1
御祭神    大日孁貴命
         豊受姫命 (配祀神 十四社)
社  挌    旧村社
例  祭    2月11日 春鍬祭  11月28日 例大祭
                                                                                            
         
 樋越神明宮は玉村町役場から北に進み、群馬県道24号高崎伊勢崎線の福島交差点を右折、そして福島橋南交差点を左折して利根川を渡り、最初の交差点(福島橋北)を右折する。道なりに真っ直ぐ進み、2㎞弱で森下交差点を左折すると左側に樋越神明宮のこんもりとした社叢が見える。
 丁度正面から神社を左回りで回り込んで来た関係で、駐車した場所は神社の裏の境内。しかも駐車場がないようなのでこの裏の境内に駐車し参拝を行った。

      県道沿いにある比較的新しい鳥居               鳥居の傍にある社号標石
         
                                                         拝殿前にある(三)の鳥居
                  実際には二番目なのだが三の鳥居には理由がある。

    三の鳥居を過ぎてすぐ右側にある神楽殿            神楽殿の隣にある案内板

神明宮・春鍬祭の由来と行事

神明宮の創立と位置
 長寛年号(1163~1165)頃、玉村御厨の中心として祭られていたもので、樋越古神明砂町にできた神社であり、安元年間(1175~1177)足利忠綱により再興され寛保二年(1742)の台風に依り大洪水が出て約五○○メートル位南に流され、現在の神人村神明原に位置しております。
 現在の所在地名は、玉村町樋越四一二-四になります。

春鍬祭の動機
 樋越古神明砂町の神明宮跡地は、天明三年(1783)の浅間山大噴火による土砂等によってその跡地は原形もわからないほどになってしまいました。樋越の耕作者神明宮跡地の神田・十箇所(一反歩)を掘り起こし、整地をして水を引き入れ、水田として稲作をしました。その神田から収穫した稲穂を、樋越の耕作者が作頭となって毎年献上したことが、現在の春鍬祭例大祭の始まりと言われています。
 寛政十年(1798)から現在まで毎年実施されており、今年で二百有余年になる伝統文化であります。

神明宮の御由緒記
 樋越の古神明砂町は、当時那波郷里の一角に属した大社であり、神官が十数人居た。
 祭日が現在の二月十一日になったのは、明治六年(1873)に暦が太陽暦に変わった頃に定められたと言われています。

神明宮の氏神(祭神)と祭典について
 大日孁貴命(内宮)
 豊受姫命 (外宮)と致し、配祀神は十四社を祀る。
 伊勢大神宮の御分霊を奉祀せるものにして高倉天皇の御代、安元年間藤原秀郷の末裔、足利又太郎忠綱が之を再興し、鎮座地を樋越神人村八王塚にして年々二月十一、長田狭田の式、併せて、抜穂の式、として古神明砂町に神田一反歩を有していた水田より献上した」と伝えられている。
 又、秋祭も十一月二十三日と決められ、現在も新嘗例祭として続けられている。

神明宮の鳥居の配置について
 第一鳥居は、武州賀美郡勅使川村字天神にあります。
   現在は、丹生神社になっています。
 第二鳥居は、玉村町南玉に礎石があります。
 第三鳥居は、現在の神明宮参道入口にあります。

重要無形文化財指定への経緯
 春鍬祭は、その伝統と祭事の内容が高く評価されて、
 昭和四十六年四月玉村町より、重要無形文化財の指定を受ける。平成十二年三月群馬県より、重要無形文化財の指定を受ける。平成十四年二月国の文化庁より重要無形文化財の指定を受ける。

 この度、神明宮本殿改修にあたり、神明宮の歴史を記し記念とする。
 平成二十三年一月二十三日
                                                          案内板より引用


 案内板の説明では、一の鳥居は現神川町丹生神社にあり、二の鳥居は玉村町南玉地区に礎石のみあり、三の鳥居だけが現樋越神明宮にあるということだ。

        
                            拝       殿
           
                             本      殿
  樋越神明宮が鎮座する玉村町の町名の「玉」という名にも何かしら曰くがありそうだ。この「玉」は武蔵国内にも「埼玉」「児玉」「玉井」等の地名や「玉敷」「前玉」「などの古社名など、昔からの由緒ある地名として県北を中心にして数多く存在する。実はこの樋越地区の近郊にも「南玉」(なんぎょく)地区があり、やはり「玉」で共通する地域である。樋越地区は利根川と利根川支流である藤川が合流する地域であり、ある説によると水に関連している地名というが、実はハッキリとは判明していないのが現状だ。

 また「樋越」の「樋」は「ヒ」と読み、本来の字は「火」と言っていたようだ。古事記には(熯)速日神を(樋)速日神とあり、熯(ひ)=樋であり、熯速日神は火をつかさどる神であることから、樋も火に関連した言葉であろう。つまり、「樋越」とは「火を起こす」という意味ともなり、川辺の砂鉄を製鉄する鍛冶集団がこの地にいたことを示す地名なのではあるまいか。

       社殿の左側奥にある境内社群        同右側にも境内社が磐座らしき石を挟み16社ある。
                       
                             境内の様子



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角渕八幡神社

 安達氏は鎌倉時代幕府を支える有力御家人の一人で、藤原氏魚名流と称していた。 
 家祖である安達藤九郎盛長は平治元年(1160年)の平治の乱に敗れ伊豆国に流罪となった源頼朝の従者として仕え、頼朝の挙兵に伴い各地の坂東武士団の招集にあたり、鎌倉幕府の樹立に尽力した功労者の一人で、幕府成立後には上野奉行職、三河守護などを歴任する。頼朝死後剃髪・出家し「連西」と名乗ったが、頼家が将軍になると老臣の一人として幕政に加わっていたという。正治2年4月26日(1200年6月9日)に死去。享年66。生涯官職に就く事はなかった。
 安達氏の本来の氏は「足立氏」で、盛長晩年にこの「安達氏」と名乗ったという。
所在地    群馬県佐波郡玉村町角渕2075
御祭神    誉田別命
社  挌    不明
例  祭    4月15日(春季例祭) 7月第2土・日曜日(夏祭り)    
         10月15日(例大祭)

                            
  玉村八幡宮から国道354号に戻り、下新田交差点を右折し、群馬県道40号藤岡大胡線を南方向に進み、角渕交差点を左折するとすぐに角渕八幡宮が見えてくる。この角渕八幡神社は玉村八幡宮の元宮で、その創建は建久6年(1195)8月、源頼朝の家臣で上野奉行安達藤九郎盛長が鎌倉鶴岡八幡大神の別御霊(わけみたま)を勧請し奉斎したのに始まるという。
  角渕地域は利根川支流烏川のすぐ北側に位置し、水陸交通の要地で早くから開け、中世の戦火に焼かれるまでは、薬師堂をはじめ塔楼数棟、栄華をほこったといわれていて、安達藤九郎盛長がその地域の支配御家人に指示し、この地に勧請したものと考えられる。

        
鳥居から正面の社殿を撮影                鳥居の左隣にある案内板

角渕八幡宮
 
鎌倉時代の初め、建久4年(1193)源頼朝が那須野で狩りをした帰りに角渕で休み、烏川の風景が鎌倉の由比ヶ浜に似ているというので、後に奉行として上野国に入った足立盛長に命じて鎌倉の鶴ヶ岡八幡宮の分霊を勧請せしめたのが、角渕八幡宮のはじめといわれ、中世の戦火に焼かれるまでは、薬師堂をはじめ塔楼数棟、栄華をほこったといわれている。
 その後に建てられた社殿は、応永18年(1411)に関東管領畠山満家、永正4年(1507)に白井城主永尾憲景の家来対島入道が修理をした。
 後に、江戸時代の初め、関東郡代伊奈備前守忠次が滝川用水をひいて新田開発に成功し、慶長15年(1610)に荒廃した角渕八幡宮の社殿を玉村の上新田を下新田の境に移築修造し玉村八幡宮と名を改めまつった。
   現在の角渕八幡宮の本殿は、一間社流れ造りで、江戸時代後期の建造である。
                                                          案内板より引用

      拝殿の手前左側にある大神宮         大神宮の奥にある石祠二基、その右側にも八坂                                                                                                                                                                      社の石祠がある。
                                  
                             拝     殿

                             本      殿

  角淵八幡宮が鎮座する「角淵」という地名の由来は以下の通りだ。
 貞観(じょうがん)4年(862)の10月から翌11月にかけて天災や不吉なことが続いていた。そこで、国司は神官に命じて火雷神社(玉村町下之宮)において神事を執り行わせようとし、その際、副使としてこの地を治めていた武士那波八郎廣純(なわはちろうひろずみ)を同行させた。神官が、斎戒し注連を結んで四方を祈祷し、神前に幣帛を奉り、神鏡を捧げて祈祷を行っていた7日目、怪物が姿を現し、神鏡を奪おうとした。那波八郎廣純は刀を振ってその首を切り落とした。このとき、怪物の折れた角を川に投げ、後に淵になったところが、現在の玉村町「角渕」であり、切った手を捨てたところが玉村町「上之手」(神の手)であるという。
 この地域には蛇神伝説や龍神伝説が数多く存在する。「角淵」の「淵」も河川に関連する地名であることは明白で、利根川流域に存在する玉村町の地形から「那波八郎伝説」や多くの河川に関係する伝承・伝説が作られたのだろう。


 角渕八幡宮には庚申塚や水神や猿田彦大神等の石塔が非常に多い。写真左側には角渕八幡神社本殿修復記念碑がある。また社殿奥にはズラッと並んだ境内社が存在する(同右)。左から古峯神社(倭建命)、戸隠神社(天手力雄命)、熊野神社(伊邪那岐命、伊邪那美命、櫛御気野命)、石神社(布都御魂命)、稲荷神社(倉稲魂命)。

角渕八幡神社(角渕八幡宮)本殿修復記念碑
 当神社は玉村八幡宮の元宮です。元来角渕地区は水陸交通の要地で早くから開け、源頼朝が狩をして那須野から鎌倉へ帰る途中、角渕に休み、烏川の風景が鎌倉の由比ヶ浜に似ていた為、建久六年(1195)、上野奉行安達藤九郎盛長に命じ、鶴岡八幡宮の別御霊を勧請したと伝えられています。
 八○○年以上の歴史の中で盛衰を繰り返して来ましたが村人は鎮守様として敬い、親しみ、守って来ました。
 現在の本殿は、氏子と近郷の崇敬者が発起人となり、天保二年(1831)に改築が為され、その後幾度か修復してきましたが近年、特に老朽化が進み調査の結果、歴史ある本殿を、末永く後世に伝える為には、銅板葺きの屋根や回廊等の大修理が必要で、工事を行うことが決定しました。
 玉村八幡宮の御力添えと、氏子(二○○世帯)を中心に角渕村民一同協力し、力を合わせ、平成二十二年十二月十五日無事竣工しました。
 平成二十三年十月吉日
                                                          記念碑より引用


                                                                                                  
                                                                                                           

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