古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

川俣粟嶋神社

 江戸から日光への行路は、五街道の一つとしての「日光道中」の他に、「日光脇往還」があり、この脇往還は、現在の国道122号線沿いに今でも残っている。この道路は、往古より奥州への行路として利用されていたが、日光廟の建立に伴い、江戸から日光への参詣道としても利用され、「日光脇往還」と称されるようになった。行田、佐野を経由することから、「行田通(道)」「佐野道(路)」とも呼ばれていた。
 この道路は、江戸日本橋~鴻巣までは中山道と重なり、鴻巣より行田(忍)-新郷-川俣-館林の4宿を経由し佐野(天明)に至り、佐野~日光までは例幣使道と重複する。このように、「日光脇往還」は、中山道と例幣使道の中継路としても機能していた。このため、この4宿を含む鴻巣~佐野間を「日光脇往還」と狭義の意味で称する場合もある。また、この間は「館林道」とも呼称されていた。
 現在明和町川俣地域を東西に二分している道路等が「日光脇往還」にあたり、道路沿いに川俣粟嶋神社は鎮座している。
        
             
・所在地 群馬県邑楽郡明和町川俣671 
             
・ご祭神 少毘古名命(推定)
             
・社 格 旧佐貫村鎮守・旧郷社
             
・例祭等 春祭 41415日 厄神除 714日〜16日 
                  
秋祭 10910
 国道122号線を羽生市から北上し、利根川に架かる昭和橋を越えた先の「川俣」交差点を右折、その後突き当たりの丁字路を再度右折し、利根川堤防方向に南下すると、右手に真新しい川俣粟嶋神社の白い鳥居が見えてくる。高架橋である昭和橋のすぐ下に社は鎮座しているので、一旦通過してから下の道に合流した後、引き返すような経路説明となる。
        
                
川俣粟嶋神社正面一の鳥居
『日本歴史地名大系 』「川俣村」の解説
 利根川左岸にあり、東は梅原村、北は大佐貫村、西は須賀村。日光脇往還が通る。利根川の渡し(富士見の渡)は元和二年(一六一六)の関東一六渡津の一つである(徳川実紀)。地名は利根川と文禄三年(一五九四)締切られた会の川が分岐していることに由来する。「館林城主記」によれば、慶長二年(一五九七)館林城主榊原康政により川俣村の堤ができたという。近世は初め館林藩領。寛文郷帳に田方一四九石九斗余・畑方二五六石余とある。

 社の一の鳥居があるこの道沿い両側には、嘗て「
川俣宿」という宿場町を形成していて、大いに栄えていたという。
 元々川俣集落は、南北に走る旧日光脇往還を挟んで、両側に家並みが密集して形成されていて、これは江戸時代に宿場であった名残である。江戸時代には、本陣、脇本陣、旅籠屋などの宿泊施設や、荷物の運搬に要する人馬などを継ぎ立てる設備を備え、更に、南端の利根川沿いに渡船場、船着場も存在し、日光脇往還の重要な宿駅としてのみならず、利根川の渡津、利根川水運の河岸としても栄えていた。川俣宿は、寛永20年(1643年)付の古文書に「船渡やお伝馬(人馬の継立)があるので、諸役(種々の雑税)を赦免する」とあるので、この頃は宿駅として成立していたものと推定される。
 
   一の鳥居から長い参道(写真左)を真っ直ぐに進むと、二の鳥居(同右)が見えてくる。
 明和町の多くの社は南向きで、利根川に向かって建てられているのに対して、川俣粟嶋神社は東向きとなっている。江戸時代に繁栄していた川俣宿の守護神としての位置づけであったと考えられる。
        
                    鬱蒼とした社叢林の中に鎮座する社
 川俣渡船場は、元和2年(1616年)に、江戸防衛のための関東16定船場(渡津)1つに指定されている。この16定船場以外での旅人の渡船は禁止され、定船場においては、特に江戸からの出女・負傷者・不審者の厳重な取締が行われた。寛永8年(1631年)、13年(1636年)にも同様の取締り規定が公示されており、川俣の渡しは江戸防衛のための拠点の一つで、とりわけ出女の取締りが厳重に行われた。また、利根川の対岸・埼玉県側に関所があったが、その公称は「川俣関所」「新郷・川俣関所」であり、この事実も川俣が江戸防衛のための拠点であったことを物語っている。なお、渡船場から富士が美しく見え、庶民からは「富士見の渡し」と称されていた。
       
              社殿の前に一際目立ち聳え立つ御神木の黒松(写真左・右)
         明和町保護樹林指定樹木 所有者 住所川俣70 氏名 
粟嶋神社
         高さ 25m 目通り 217㎝ 指定年月日 平成28年12月12日
 
  参道左側にある神楽殿らしき建物。     右側の狛犬の基盤には「郷社 粟嶋神社」と
                         表示された社号額が置いてある。
 
 川俣河岸(船着場)は、江戸初期より廻米(年貢米)や材木の津出しの拠点として機能していたと言われている。元禄3年(1690年)に、幕府は関東10か国125の河岸について各種の調査を実施したが、川俣河岸はその対象になっている。また、明和・安永年間(176480年)に幕府は、関東全般にわたる河岸問屋の調査を行い、河岸問屋株を設定した。川俣においては、市左衛門(藤野)と又右衛門(福田)の二人に独占権が認められ、運上金も定められている。この河岸問屋2軒は、領主から廻米運送世話給を受けており、その世話は弘化3年(1846年)年頃は館林領43ヶ村のうちの27ヶ村に及んでいた。幕末から明治初期において、川俣河岸は特に繁栄し廻漕店も増加し、明治13年(1880年)には、運船が736艘あって、近辺の河岸の中では最高であったと記されている。以上のように、江戸時代に繁栄を極めた川俣宿は、明治40年(1907年)の鉄道の開通等により、その役目を終え、現在に至っている。
        
                    拝 殿
 創建時期、由緒等は不明。但し、社号額に郷社とあるので、格式の高い社であった事には間違いない。
 調べてみると、全国には淡島神社・粟島神社・淡路神社等、淡嶋神社系統の神社は日本国内に約1000社余りあるというが、群馬県明和町に鎮座するこの社もそのうちの一社なのであろう。なんでも、江戸時代に淡島願人(あわしまがんにん)と呼ばれる人々が、淡島明神の人形を祀った厨子を背負い、淡島明神の神徳を説いて廻ったため、淡島信仰が全国に広がったとの事だ。
 淡島神は住吉神の妃神で、婦人病にかかったため淡島に流され、そこで婦人病を治す誓いを立てたとする伝承もあるが、これは、淡島が住吉大社の社領となっていたことによる後世の附会と考えられている。このことにより、淡嶋神社は、婦人病を始めとして安産・子授けなど女性に関するあらゆることを祈願する神社となったという。

『明和村の民俗』によれば、「旧佐貫村の郷社。春祭は四月十四・十五日。獅子頭はあるが 、ササラ獅子舞をした覚えはない。七月十四日〜十六日に厄神除、獅子頭をかぶって村中回ったことがある。去年から納涼大会をする。秋祭は十月九日・ 十日で、食い祭りだった。以前から十月十日に祭るが、オクンチとはいわない。境内に琴平さま、天神さま、富士岳さま、三峯さま、その他の末社がある」
明治四十三年の洪水以前には獅子頭の黄色い布の中に四人も入って舞うササラがあった。獅子頭は三頭分ある。棒術使いがいて、一本使いのササラだった。井口、千津井、斗合田ではササラが盛んで、郵便局で記念スタンプも作った」との記述があった。

*追伸
明和村の民俗』川俣地域の一説に、気になる文書があったのでここに紹介する。以下の文面だ。
川俣の粟島様が粟の畑に逃げ込んだ時、粟の穂で目を突いたから、粟をつくってはいけないので、かわりにキビを作った。」
 片目伝説に出てくる文面が、この川俣地域にも存在する。何を意味しているのであろうか。

        
                           拝殿上部に掲げてある扁額       
        
 
  拝殿の向拝部、及び木鼻部には精巧な彫刻が施されている(写真上部、及び下段左・右)

 川俣粟嶋神社の祭事の一つに「厄神除け」がある。道路の東西から小学校五、六年生の男子が選ばれ、白衣を着て冠を付けた。祭り番が十軒ずつ代って当番になり、そこから男の子が出た。白衣を着た子が榊(さかき)に幣束を付けて持ち、手分けをして各戸を回る。「お祓いに来ました」といって座敷に上がり、座敷中を祓って回った。家の者はお賽銭として、お金をオヒネリにして上げた。額は二百〜五百円くらいだったが、各戸回ると、集まった金額の半分をその子供にくれた。八年ほど前から大人が出るように切り替えた。四組に二人ずつ八人が出て、四組で手分けして回る。最初リヤカー、今はトラックに太鼓を載せて叩きながら、村道を三回住復して後、毎戸を回ってお祓いする。神主も来て祝詞をあげ、午後回る。社寺総代(四人)の指示で祭り当番が働いた。以前は男が出たが、今は女性でもいい。賽銭は毎戸千円ずつもらい、集まった金額は祭典費にくり入れる。
 
  社殿左側には境内社(写真左)、石祠4基・及び猿田彦の石碑(同右)が祀られている。
               境内社や石祠の詳細は不明だ。

 当地には「禊・祓」の行事もあり、年二回、七月末と十二月末に人形を二尸一枚配る。神主が紙を切ってヒトガタを作り、世話人が隣組を通じて希望者に配る。ヒトガタには家族の名と年齢を書いて神主の所へ納めると、神主が拝んで、ミソカッパライをして利根川へ流し、厄を流した。以前は自分で川へ持って行って流した。その時、お跋いして、その幣束を丁字路(四っ辻ではない)のカドに立てるとのことだ。
 
 社殿手前で右側には合祀社や石祠・末社等が祀られている(写真左)。一番右側にある社は狐の置物があるので稲荷社である可能性があるが、その他は詳細不明。また境内一番北側にある塚上に祀られている社(同右)は『明和村の民俗』に載せられている富士岳(富士塚)であろうか。
        
              社殿から眺める長閑な境内の一風景 

『群馬県近世寺社総合調査報告書』粟島神社の項のよると、「創建年月不詳。社伝によると当神社は享保年間(171636)火災により本殿・拝殿及び由緒など焼失した。当社の創建は天正(157392)以前という。明治5年(187211月栃木県下第70戸籍区内10ヵ村の郷社に列した。同41年(1908)9月神明宮を合祀した」との事。また「東側に向いている拝殿から幣殿へと続き本殿(覆屋)が位置する。以前は南側の利根川の方から社殿に入っていた」という。


 

参考資料「日本歴史地名大系」「明和村の民俗」「明和町の文化財と歴史」「Wikipedia」
   

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須賀菅原神社

 利根川と谷田川に挟まれた当町は、標高20m前後の邑楽低地とよばれ、江戸時代には3年に1度の割合で水害にあっており、多い年には34回も見舞われた。農作物の収穫がなく他からの救援を仰ぎ、堤防普請をつづける耐乏生活であった。
 元文元年(1736年)、当時の僧侶であった慶讃上人は度重なる利根川の洪水を憂い、自ら堤防の修理に当たり、二度と堤防が決壊することのないよう人柱となった。なお、上人は、四国西国188ヶ所巡礼地域がいつまでも栄えるよう願い、菅原神社(須賀)の鳥居を献上している(町指定史跡)。その鳥居には「天満宮 一天泰平四海静謐風雨順時五穀成熟万民豊楽社頭不朽威光倍増二世願望如意成就祈請如件 元文元丙辰裁九月吉日奉造立鳥居一基者 四国・西国・板東・秩父百八十八箇処巡礼供養也 天満宥泉寺法印慶讃」と記してある。
 このように、当町の歴史は水との戦いの歴史でもあるといえる。
        
            
・所在地 群馬県邑楽郡明和町大字須賀631
            
・ご祭神 菅原道真公
            
・社 格 旧村社
            
例祭等 春祭り 415日 秋祭り 1015
 明和町は群馬県の東南端、すなわちいろはがるたにいう「ツル舞う形の群馬県」の、ちょうど鶴の頭にあたる位置にある。利根川をへだてて対岸の埼玉県羽生市とは、長い交流の歴史がある。地形は東西約11㎞、南北約2㎞と東西に長く、総面積19.14㎢、標高20mで、高地と低地の差はわずか2mという平坦地である。総面積のうち56%を耕地で占め、土地が肥沃で、米どころとして知られている。
 町の名は、昭和三十年に旧千江田・梅島•佐貫の三か村が合併して、新しい村が誕生した時に、「明和」とつけられた。新しい村名は、当時「簡潔・明朗・新鮮•建設的」という基準を設けて、広く住民から募集し、応募総数215通の中から「明和」の二字が選ばれた。
 利根川と谷田川という一級河川にはさまれ、その上大小さまざまの用水路や排水路があって、低地に存在する明和町の歴史は、水との戦いの連続であった。江戸時代から3年に1度は水害に見舞われ、明治四十三年の利根川大洪水をはじめ、昭和20年代における3度にわたる水害に、村の人々は言語に絶する辛酸をなめてきた。現在は利根川の堤防が完成され、上流にダムができて水の調節ができるようになったので、水害についての心配はほとんどなくなったが、それは、長い間水との戦いに、幾多の水難を克服してきた先人の苦難と努力の結晶でもあろう。
 この須賀菅原神社にもその苦難の歴史を物語る痕跡が、至る所に残されている。
        
                                須賀菅原神社正面 
 大輪長良神社の西側脇にある道路を北行し、群馬県道368号上中森川俣停車場線を通り越した先にある丁字路を右折し、暫く道なりに進む。明和町の地形の特徴である高低差2m程しかない平坦地が周囲一面広がる中、正面にこんもりとした須賀菅原神社の社叢林が見えてくる。
 因みに当地名「須賀」は「すか」と読む。

『日本歴史地名大系』 「須賀(すか)村」の解説
 利根川左岸にあり、東は川俣村、北は大佐貫村、西は大輪村。天正一三年(一五八五)三月二七日の長尾顕長判物(青木氏蒐集文書)によれば、佐野宗綱との合戦に軍功のあった豊島彦七郎に「佐貫之庄須賀之郷之内ニ三千疋」を与えている。近世は初め館林藩領。寛文郷帳に田方一七七石九斗余・畑方一九九石九斗余とある。元禄郷帳では高八八一石一斗余で、旗本島田領などの八給となる。近世後期の御改革組合村高帳では高三九四石余で、旗本筒井・島田領の二給、家数四六。

  
  社の歴史の古さを物語る鳥居の社号額     鳥居に関しての案内板も設置されている。

 明和町指定史跡 菅原神社鳥居
 昭和五十六年四月七日指定
 所在地 明和町須賀六三番地
 この鳥居は元文元年(736)須賀の慶讃上人が献納したもので上人の祈願が柱に深く刻まれている。
 慶讃上人は度重なる利根川の洪水を憂い、人夫と共に堤防修理にあたり、遂には自ら人柱となられた。
 昭和五十六年十一月 明和町教育委員会

 
参道左側に祀られている九頭竜大権現・水神様  参道右側には道祖神・八坂神社が祀られている。
        
                   境内の様子
 社から南側、直線距離で360m程の利根川堤防の中段には、通称「奈良石」と呼ばれている高さ1m47㎝、幅1m3㎝の記念碑があるこの奈良石は文政年間の洪水のときに、被災民の救済と復興に尽くした、武州熊谷の下奈良村の富豪・吉田市右衛門の恩義に対し感謝の意を込め、その徳を永久に伝えるために須賀の人々が、天保13年(1842年)に建てたものであり、その由来が刻んである。
 奈良石の名称は、吉田市右衛門が名主を務めていた奈良村に由来している。碑文「いぬる文政六、七両度の洪水に利根川堤きれて当村の民家寺院も押流し田畑残らず砂入となりたれど場広なれば起し返すべき事自力に及がたく、地頭よりも手当施しに文政八年酉どし武州旛羅郡下奈良村の吉田市右衛門は志ある人にて多くの金銀を水難村々へ施しその事にかかれる老若男女へ麦など施して力を助られければ、としを追て起返りも多く成、百姓の本業をつとむる事も彼人の深き恩儀と後の世までも忘れざる為、石にゑりて立置くものなり」「天保十三壬寅年六月 須賀村宮亀年刻」。この碑文は、須賀村の統治者の一人であった、旗本・筒井紀伊守清憲(つついきいのかみきよのり)の撰文とされている。
        
                    拝 殿
 社の創建年代や由緒は不明。但し、天神様の祭礼は春三月二十五日、秋十月二十五日だったが、その後、神主の都合で四月十五日と十月十五日に祭るように変った。祭りの際には赤飯を親戚とやりとりした。当日は集会所に神主や世話人が集まり、獅子舞の装束を付けて、ショウ.笛•太鼓をたたいて行列を組んで、オネリして天神様へ行った。昭和初めごろまでしていたが、戦争中に中止したという。現在は神社で式典をして終るとの事だ。
 
    社殿左側に祀られている合祀社         社殿奥に祀られている石祠
  左から豊受稲荷神社・神明宮・愛宕神社    長良大明神・羽黒神社、弁財天、妙儀神社
        
                    御嶽山
 
      社殿奥に並んで祀られている
諏訪神社(写真左)と雷電神社(同右)
       
                            社殿から眺める一風景

 ところで、昭和573月に編集された『明和村の民俗』によると、須賀地域では毎月「十四日念仏」が行われている。実際には毎月の十四日前後に行っている。真言宗関係の念仏で、その仲間たちも現在二十人以上もおり、かなり盛んである。梅原の法印様(長柄英信氏)が昭和三、四年頃、この地域へ来て教えた結果、盛んになったといわれる。もちろん、その前にもすでに行われていたという。また現在、後継者をつくるためにも意をそそいでいるという。
 流派は「金剛流」という。地区の宥泉に集まって行われている。まず本尊様に線香とローソクをあげ、「おさんせん」をあげてから念仏ははじめられる。鉦と鈴(れい)を使用する。このときの服装は特別には定められていない。
 経文はこの地方の出来ごと等を和讃として詠み込んだ地域性のあるものは見あたらなかったが、かなりのお題目をこなしているのが特長であるという。



参考資料「日本歴史地名大系」「明和村の民俗」「明和町の文化財と歴史」「境内案内板」等
 

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大輪長良神社

 大輪地域とその東側に接している須賀地域の間を流れる新堀川の一帯は、大輪沼と称し沼沢のある大湿地帯であった。ここが、新田、山田,西邑楽の悪水(農業排水)の溜まり場だったからである。雨の多い年には作物はほとんどとれない土地であった。この沼は谷田川による自然排水であったが、沼の口から赤生田橋(上江黒十二社橋)までの間は川幅が狭く、思うように水が流れなかったためであった。徳川綱吉公が寛文3年(1663年)館林城主となったときの大事業として、館林城の改築、矢場川のつけかえ工事、谷田川の拡張工事が行われた。しかし、延宝8年(1680年)の水害で大輪沼廻り7千石の田畑が冠水し、飢えに及んだので、農民達が大輪沼から利根川への悪水堀を願い出た。そこで、天和元年(1681年)、代官諸星伝左衛門は普請功者の三科甚五兵衛に大輪沼より利根川へ排出する方法を調査させた。須賀から排出する方法、梅原から排出する方法を検討したが、何れも勾配不足につき、他を考えることとなった。ところが、翌年になると館林領一帯が旗本に分割されたこともあり、悪水堀の願い出は中断した。
 その後も水害は年々増加したので、野辺、上三林、下三林、矢島・入ヶ谷、木崎、上中森、下中森、萱野、赤堀の村々(現大字)が協力して利根川への悪水堀を願い出たが、水盛の結果、利根川へ排出することは無理として却下となり、さらに嘆願を続けたが水下村々からの故障の申出もあり、また代官比企長左衛門になっても見通しが立たなかった。
 このように利根川への排出を種々検討したが、結果が思わしくないので、他の方法を考えるよう申し渡した。これにつき沼廻村々で相談したところ、谷田川は大輪沼口より赤生田橋までが川幅36間と狭く、これを12間に拡張すれば沼に水が溜まらないとの結論に達し、この案を上申した。長左衛門はこの案を手代集に精査させ、沼廻村々の申すとおりとの報告を受けた。この頃、元禄11年(1698年)に再び大洪水が起こり、大輪沼廻り、田方400町歩、畑方150町歩の収穫は皆無であった。長左衛門もこれでは捨ててはおけぬと決心して、谷田川筋を詳しく調べ、大輪沼から赤生田橋までの3,300間を川幅12間に広げ、土置場を3間とし、それより水下江黒、斗合田は出張計り切り広げるよう計画し、翌年に工事が開始された。
 谷田川拡張工事はわずか30日、矢島~板倉までの樋3ヶ所、橋6ヶ所の工事まで入れて、50日で完成したのである。工事に携わった人足は6万人、内12千人は64ヶ村の厚意による助人足であった。工事の様子は「沼廻り人足共は、多年之願故、身命にかけ出情いたし、助人足は沼廻り人足に遅れまじと面々村印にのぼりを立て、競り合い励み候事前代未聞の御普請」と「谷田川広伝記」に記されている。
        
             
・所在地 群馬県邑楽郡明和町大輪2072-1
             
・ご祭神 藤原長良公(推定)
             
・社 格 旧大輪村鎮守・旧村社
             
・例祭等 春祭り 415日 秋祭り 1015
 国道122号線にて利根川を越え、「川俣」交差点を左折し、群馬県道368号上中森川俣停車場線に合流、1㎞程西行した「大輪」交差点の手前の十字路を左折、南に下った利根川の堤防からすぐの場所に大輪長良神社は鎮座している。
        
                  大輪長良神社正面
『日本歴史地名大系』 「大輪村」の解説
 利根川左岸に立地する。東は須賀村、西は下中森村(現千代田町)。永仁三年(一二九五)一二月二一日の関東下知状(長楽寺文書)によれば、大輪又太郎時秀が「佐貫庄上中森郷内」の田畠を太田彦三郎貞康に売却している。天正二年(一五七四)四月一三日の上杉謙信書状(志賀槙太郎氏所蔵文書)によると、北条氏政の軍勢に囲まれた羽生城(現埼玉県羽生市)の救援のため大輪に陣を張ったが、利根川が増水し、謙信は苦慮している。近世初めは館林藩領で、寛文郷帳に田方五八六石七斗余・畑方四三八石二斗余とあり、田方に「旱損」と注記される。

明和村の民俗』によると、大輪地域には「又太郎屋敷」伝説があり、それには「永仁年間に堀之内に大輪又太郎という殿様が住んでいたといい、城のような屋敷跡になっていた。後にできた家に崇りがあるというので、先達が来て泊り込んで拝んだ時、そこらを掘り返したが、何も出なかった。」と載せている。また、この大輪又太郎という人物は、鎌倉幕府の御家人佐貫氏の配下だともいう
        
                 鳥居を過ぎてすぐ左側に祀られている「五社大権現」の石碑
        
         参道を進むと、拝殿手前で向かって左側に合祀社として祀られている。
 左から、琴平・菅原神社、稲荷神社、厳島神社、神明社、羽黒様、熊野神社、諏訪神社、三島神社、菅原神社。嘗ては耕地ごとに神様を祀っていて、下新田は熊野神社、東新田は羽黒山、堀之内は誠訪社、馬御屋は三島社を祀ったとの事。
 明治四十二年に神社合併で合祠する前は、地域内に分かれていて、「一家(イッケ)」毎に祀っていた社と言う。旧暦915日に長良神社の秋祭りがあり、その祭りの後にイッケ毎に「小宮祭り」という祭りを行うという。
 小宮祭りはイッケの宮を祀る行事で、村祭りの後にするようにして、赤飯を炊いて祝い、近在の親戚と重箱で赤飯のやりとりをする。西浦組は五、六十軒あるが、大神宮(外宮・内宮)を旧暦915日に祀る。水道タンクの下に立派な社があったが、明治42年に長良神社へ合併した。
 下の衆は神社合併の時、三島・.天神とも残した。松本一家(イッケ)ではゴリョウ様とヒジリ(聖)様を祀る。いい伝えでは、兄弟三人で大阪を見限って、此処へ流れて来た時に、兄が大神宮、弟二人がゴリョウ様を祀ったという。個人持ちだが、イッケ四軒で祀るとの事だ。
 
 合祀社の先には数多くの庚申塔や石碑がある。  境内に聳え立つイチョウの古木
        
                                        拝 殿
 村社長良神社の春祭りは四月十五日、秋祭りは十月十五日で、神主が立ち合って、春は五穀豊穣を祈り、秋はお礼をいう。春秋の祭礼には長良神社の社務所から「御練り」の一行が出て、神社まで約百mを行く。御練りは神主二人、助手三人(村の人)、大太鼓1、小太鼓2、笛1、その他村の人が付いて行列をつくる。神楽や獅子舞はなかったが、秋祭りには万作踊りをした。大正初めごろまでやった。幟は長さ十m以上もある大きいのが二本あり、コウチで順番が決まっていて、柱を立てた。最近幟番は女性たちが出るので、柱が立てられない。その上、旗枠も道路拡張で片付けたものもあるの、幟を立てなくなった。幟竿の先には杉の枝に青い葉が付いたままさした。
 長良神社の棟に竜の姿を漆喰(しっくい)で作り付けてある。九末社を祀りこんである。
 長良神社氏子改帳明治六年四月二十日に作製した帳面がある。第七大区八小区上野邑楽郡大輪村一番〜六七七番まで記録してある。
 村社長良神社の春祭り(四月十五日)には、行列が出てオネリをする。長良神社は大輪の鎮守で、鳥居の内側に立てる大幟は館林藩儒山下雪窓(明治三十五年没)の揮毫による。
                                  『明和村の民俗』より引用
        
                社殿から参道方向を撮影
             雄大な利根川の土手が真近に見える。

  
祭礼は旧暦六月十日だったが、新暦七月十日・十一日になり、最近は七月の日曜日になった。子供のころは二階造りの山車だったが、その後、脇から買ったのが屋台で、一階造りで踊り場があり、屋根が付く。引綱二本付け村の子が全部たかって天王様から長良神社の間の道を、引き回した。祭世話人が世話をやき、消防部頭が親玉になった。舞子連がお囃子をしたり、ひょっとこ踊りをした。 戦前までしていた種目は三番叟、踊り、弥次喜多道中、ひょっとこ、狐踊り、おかめなど上手に演じた。
 笠鉢は八坂神社の祭礼には、上と下から一本ずつ笠鉢を作って立てた。祭りの前日に笠鋅作りに出て、色紙を使ってきれいに傘形に飾り付け、回りに竹ひごにさくら紙を巻いた花飾りを出した。上の行灯には「八坂神社天下泰平.五穀豊穣.村内安全」と四面に書いた。八坂神社の参道には灯籠を二十本も立てたが、灯籠には絵や川柳が書かれた。各家々でも家のカドに灯籠を立てたという。




参考資料「日本歴史地名大系」「明和村の民俗」「明和町の文化財と歴史」
 

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大佐貫長良神社

 親鸞は西本願寺、東本願寺で著名な浄土真宗の開祖である。承安3年(1173年)日野有範の子として京都に生まれた。9才で出家し比叡山で修行を続けたが、既成の教えに満足せず、29才の時、専修念仏を提唱し浄土宗を開いた法然の門に入った。やがて専修念仏が国家により禁止されると越後の国へ流罪となった。後に罪が許され京都に帰ろうとしたが、尊敬してやまなかった師、法然がこの世にいないことを知り、京都に行くのを諦め越後から信濃を通り常陸の国に向かった。当時鎌倉幕府が開かれ新興の地であった関東への布教もあったわけである。常陸へ行く途中、佐貫荘(大佐貫付近)に立ち寄り、建保2年(1214年)、この地で真の他力本願に目覚めたことが、親鸞の妻である恵信尼(えしんに)の文書に記されている。この後茨城県笠間の草庵で「教行信証(きょうぎょうしんしょう)」を著し、浄土真宗を立教開宗した。元仁元年(1224年)「(前略)三部経(さんぶきょう)げにげにしく千部読まんと候し事は、信蓮房(しんれんぼう 長男)の四の年、武蔵国やらん、上野の国やらん佐貫と申所(もうしどころ)にて読み始めて、四、五日ばかりありて、思かへして読ませ給はで常陸へはおはしまして候しなり(後略)」。
 恵信尼が末娘の覚信尼(かくしんに)にあてた書状である。
 親鸞が越後からの旅の途中、ここ佐貫まで来たとき、人々のために千部経を読もうと思いたったのであるが、ただひたすらに阿弥陀仏にすがる専修念仏を説いてきた自分が、自己の力によって人々を救おうというのは矛盾していることだと悟ったと書かれている。ここ佐貫こそ親鸞が真の他力本願を再認識した重要な土地なのである。
        
             
・所在地 群馬県邑楽郡明和町大佐貫97
             ・ご祭神 藤原長良公
             
・社 格 旧村社
             ・例祭等 春祭り 415日 秋祭り(お日待) 919
 大佐貫(おおざぬき)地域は群馬県邑楽郡明和町の中にある地域のひとつで、町内の西部に位置し、矢島地域の南側にあり、地域北部は工場や住宅地によって形成されているのに対して、南部、特に東南部一帯は長閑で広大な田畑風景が広がっている。
 途中までの経路は矢島長良神社を参照。同社から400m程南行すると、進行方向右手に大佐貫長良神社の鳥居が見えてくる。但しこの一の鳥居付近には適当な駐車場所はないので、社の西側に隣接する東光寺の駐車スペースを利用して参拝を行う。
        
            社号標柱のある大佐貫長良神社の一の鳥居
  一の鳥居は東向きであるが、社殿は南向きであるので、参道は途中右側へ直角に曲がる。
『日本歴史地名大系』 「大佐貫村」の解説
 東は中谷村、北は矢島村、南は川俣村・須賀(すか)村。村中を日光脇往還が通る。鎌倉時代末期と思われる足利氏所領奉行人交名(倉持文書)に大佐貫郷の名がみえ、南北朝期以後は鎌倉府の御料所となり、御家務料所として年貢三分の二を免除されていた。
 大佐貫の地名は伝承によると、鎌倉幕府の御家人佐貫氏が居住していたことによる。慶長一〇年(一六〇五)の大佐貫郷新開田畑年貢割付帳(薗田文書)は、同八年に造成した新田畑に対し年貢を割付けたもので、田方籾は一〇石六斗余、畠方代は一貫三一一文である。

 嘗て舘林から邑楽郡明和町一帯にかけての地域には、「佐貫荘」が広がっていた。「讃岐庄」とも「佐木荘」とも書き、郷名でも見える。
 この佐貫荘の起こりは1112世紀頃、豪族・佐貫氏が自己の所有地を被支配民に開墾させたことに始まる。邑楽郡は利根・渡良瀬の両川に挟まれた平地で、古来度重なる洪水の度に土砂が運ばれ、自然堤防の小高い丘陵ができた。そこに人々が居住し、荒廃地や原野を開墾して耕地を広げ、村落を形成したのである。このような開発には豪族の力を必要とし、豪族は人々を使役し、自墾地とした。佐貫氏は豪族の中で最も勢力が強く、豪族らの中心的存在であったと考えられている
 
        西方向に伸びる参道          北方向に曲がる地には赤い両部鳥居と
                            幾多の庚申塔がある。
 藤原北家小黒麻呂流、ないしは同家秀郷流の流れをくむといわれる佐貫氏は、『尊卑分脈』によれば、淵名兼行の孫成綱がはじめて佐貫氏を称したといい、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて登場する佐貫広綱は、「吾妻鏡」などによると、上野国佐貫荘(現群馬県邑楽郡明和町大佐貫)出身の武将で、足利重光の子であり佐貫綱照の養子であるともいわれている。史実によれば、治承4年(1180年)5月、以仁王の挙兵にあたり、平家方の同族である足利忠綱の軍勢に属して以仁王・源頼政の追討に加わり、『平家物語』「橋合戦」に初めてその名が出てくる。その後、源頼朝に臣従して鎌倉の御家人となり、養和元年(1181年)720日、鶴岡八幡宮宝殿上棟式典で源義経・畠山重忠と共に大工に賜る馬を引いている。
 承久3年(1221年)、後鳥羽上皇が北条鎌倉幕府を倒すために兵をあげたが幕府は朝廷を打ち破った(承久の乱)。このとき佐貫一族も宇治川で参戦したが、その時の手負いの人々の中に佐貫右衛門六郎、同八郎、同兵衛太郎、佐貫太郎次郎等の名前が出てくる。
        
                   境内の様子
 元弘3年(1333年)、北条鎌倉幕府は新田義貞によって滅ぼされ「建武の中興」が行われたが、すぐに破綻し、僅か2年後には足利尊氏が反旗をひるがえし、京都の北朝と吉野の南朝の二つの朝廷が並存する南北朝時代という王権の完全な分裂状態に陥る。建武21211日、足利尊氏は新田軍を箱根・竹ノ下の戦いで破った際、佐野・佐貫・山名氏等は足利方で活躍する。
 その後、南北朝から室町時代にかけて続く戦乱の世に、佐貫荘も分断され、佐貫氏も衰退、徐々に赤井氏、富岡氏に権力が移っていく。
 佐貫氏は一族の氏神に長柄神社を崇拝していたが、徐々にその信仰は在地庶民の中に浸透し、地域(村)の守護神として祀られるようになる。そして佐貫荘内には長柄神社(長良神社)がまつられ、現在も邑楽郡の東・南部に存在し信奉を集めているという。
        
                    拝 殿
『明和村の民俗』
 大佐貫の長良様は古く、千代田村に鎮座する瀬戸井の長良様は、ここから分社したものといわれている。長良神社の祭典は、春祭りが四月十五日、秋祭りが九月十九日で、ナカノクンチにお祭りをしている。秋祭りのことは、お日待といっている。このときには、村からわきへ嫁に行った娘たちを呼んだり、親戚へ赤飯 (重箱に入れて)を配ったりしている。よそへ出たものは、お土産をもって、お客さんに来た。泊りこみでお客にきた。よそへ出た人は、お日待によばれてくるのが楽しみであったという。
 また、昔は天王様は七月十日〜十二日に祀り、笛を吹いて毎戸を廻り、祭り当番は若衆二十人位でやった。ここの天王様は女性であるという。
 
        拝殿に掲げてある扁額          拝殿内部に飾られてある奉納額等
 
  社殿奥に祀られている境内社・石祠等    境内右側奥に祀られている石祠等
  一番左側の石祠が猿田彦大神以外は不明     一番右側手前は道祖神の石祠 
        
               社殿の西隣にある十一面観音堂

 大佐貫の観音様の縁日は十七日。八月十日が賑やか。もとは旧七月十日が縁日であった。ここの観音様は、十一面観音で、子育てと安産の観音様として知られている。身持になると、観音様のおさご(御散供)といわれる神や仏に参ったとき供える米,または祓(はらい)や清めの目的でまき散らす米を借り、これをお産の前に食べた。安産のあとおさごを倍にして返してきた。ここのお守りを受けていって、五ヵ月目の腹帯をしめるときに、腹帯の中にまきこんだ。また、さらしも借りていった。これをまいたものを一丈借りて、一反(三丈)かえ た。なお、嫁にきたものは、二日目にムラまわりをするが、このとき、神社へお参りをしたり、観音様へお参りしたりしたという。
        
                社殿から見る境内の一風景

 また、この地域の「薬師送り」は、戦前まではあった。年寄の人が、白い手甲に脚胖をつけ、白装束で、菅笠をかぶり、「南無遍照金剛」と言いながら、歩いて廻ってきた。村々では、大師様(弘法様)を寺に飾っておいた。そこへ寄ってお参りをしたものである。村の人(寺世話人)が出ていて、廻って来た人を接待した。おにぎりを飯台に一杯つくっておいて、お参りに来た人をもてなした。これは、三月二十一日一日だけ。このことを、大師めぐりとか、大師送りといった。弘法大師を信仰する人たちが廻ってきたもの。子供達は、その人たちがまわってくると、「大師だ」といって、その行列のあとをついていったりした。この行列( 一行)は館林の普済寺を出発した。明和村関係では、新里­中谷⇒大佐貫矢島⇒青柳の順であったという。



参考資料「日本歴史地名大系」「明和町の文化財と歴史」「明和村の民俗」「Wikipedia」等

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矢島長良神社

 群馬県邑楽郡明和町矢島地域は邑楽郡明和町の西北部谷田川右岸の位置にある。この地域は、古くから開発されてきた地域である。というのも、昭和333月谷田川中小河川改良事業と併せて行われた明和村土地改良区の事業の際に発見された「矢島遺跡」は、縄文時代から古墳時代までにわたり当時の人たちが暮らす貴重な遺跡や遺物が多く発見されており、文化的価値が非常に高い遺跡として知られている。この遺跡は国道122号線を中央に挟み、西側に2か所、東側に1が所の合わせて3ヶ所にある。当時の明和村教育委員会が最初に現地を試掘調査したあと本調査が実施され、明和村立明和西小学校の児童による遺物採集の協力もあり、多数の深鉢、壷、貝輪状土製品、石器等が採集され、縄文時代中期末から古墳時代に及ぶ複合遺跡であることがわかった。その後、昭和59年千葉大学考古学研究室の麻生優氏により、前回の遺跡付近を発掘調査したところ、縄文時代晩期の住居跡と平安時代の住居跡などが発見された。
 平成元年、
2年と東京電力が送電線の鉄塔を立てることになり、その予定地を明和村教育委員会が試掘調査をしたところ、縄文時代晩期のさまざまな遺物が発見された。その後、本調査である発掘調査をした結果、縄文時代中期から晩期にかけての土器や石器等の多彩な遺物を採集することができた。その後、同教委は幾たびも発掘調査を行った。主なものをあげれば、平成144月矢島遺跡の隣接地に東京ガスの輸送導管を埋設する事業を行うことになり、その事前試掘調査をした後に本調査の発掘をした。遺跡からは、縄文時代中期後半から晩期にかけての土坑(人為的竪穴)、深鉢、土器破片、炉の跡、石器類等の遺物が採集できたという。
        
            
・所在地 群馬県邑楽郡明和町矢島14501
            ・ご祭神 藤原長良公 火産霊命 彌都波能売命 
                 菅原道真公 大山祇命 他八柱
            ・社 格 旧村社
            ・例祭等 春祭り 415日 夏祭り(天王祭) 715
                               秋祭り 1015日。(*それぞれ15日に近い日曜日) 
 国道122号線を北進し、「川俣駅入口」交差点で右折、群馬県道361号矢島大泉線を100m程進んだ十字路を左折し、「矢島公民館」が見えるすぐ先の十字路右手に矢島長良神社の正面鳥居が見えてくる。前出矢島公民館の駐車スペースをお借りしてから参拝を行う。
       
                  矢島長良神社正面
『日本歴史地名大系』「矢島村」の解説
 谷田(やた)川右岸にあり、東は南大島村、南は大佐貫村。村中を日光脇往還が通る。尭雅僧正関東下向記録(醍醐寺文書)によると、永禄三年(一五六〇)尭雅が上州佐貫遍照寺に逗留している。遍照寺は矢島村にあった寺である。天正一八年(一五九〇)榊原康政が館林に入封すると、遍照寺一三世宥円の徳を慕い、館林城に近い新宿村(現館林市)に遍照寺を移した。現在も遍照寺の地名が村北部に残る。近世は初め館林藩領。寛文郷帳に田方四九四石四斗余・畑方一六八石三斗とある。天和二年(一六八二)の分郷配当帳には旗本山田・植村・井上領の三給となる。
        
                   境内の様子
        鳥居から社殿に向かう参道は、若干上り坂となっているようで、
      更に社殿前には石段があり、周囲より一段高いところに鎮座している。
             
                石段上にある「御大典記念碑」
『御大典記念碑』
 村社 長良神社
 祭神 藤原長良公 火産霊命 彌都波能売命 菅原道真公 大山祇命
       宇迦之御魂命 素戔嗚命 市杵島姫命 大海津見命
       久那戸神 八衢比古命 八衢比売命 木花開耶姫命
 御本社長良神社ノ沿革ヲ〇フルニ其由緒古クシテ舊記ニモ見エズ口碑二依レバ長良神
 社ハ瀬戸井村長良神社ノ分祀ナリト云フ而シテ文政六七年以前二ハ字大宮二在リシガ
 須賀村破堤ノ際荒蕪野地ト爲リ氏子参拝二不便ナル爲字北谷二輔祀セリ其後神社合祀
 ノ令二依リ明治四十二年縣ノ許可ヲ〇〇字北谷二祭祀セル村社長良神社及境内末社水
 神二社稲荷神社愛宕神社富士嶽神社〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇
 神社字遍照寺無格社長良神社及末〇稲荷神社道祖神愛宕神社厳島神社〇〇〇〇〇〇〇
 格社清瀧神社字南谷厳島神社ヲ〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇
 合祀シ後二長良神社ト改稱セリト云(以下略)                       記念碑文より引用
        
                    拝 殿
 
   拝殿左側に祀られている根本山神       社殿奥に祀られている石碑三基
                      出羽三山社、食行霊神・角行霊神、磐長姫命

 根本山(ねもとさん)は、栃木県と群馬県に跨がる山で、標高1,199m。
 栃木県佐野市飛駒町と群馬県桐生市梅田町五丁目・みどり市東町沢入に跨がる。桐生市梅田町の最高峰である。桐生川の最上流部に位置する。中腹に根本山神社があり、江戸時代に山岳信仰の対象として庶民の信仰を集めた。江戸時代には信仰により多くの参詣者が訪れ、根本山の周辺地域には根本山への里程標「根本山道標」が設置され一部現存している。
 根本山の山気に浴して山霊を鎮魂することで神通力を得、心身の苦難を排除できるという民間信仰であり、江戸時代には参詣案内書が発行され、関東から東北方面にかけて広く信者が集うほどの盛んな講に発展したという。

 ところで、明和町矢島地域には、「御影田(みかげだ)」という地名に関しての伝説があり、『明和町の文化財と歴史』には「富士山供養塔」との名で紹介されている。どちらも話の内容は同じであるので、後者の話を全文紹介したい。
「富士山供養塔」
 矢島地区旧国道を横切る佐貫排水路の脇に高さ1m15㎝、幅35㎝の富士山供養塔が立っており、傍に植えた松が覆うように茂っている。昔、北国から富士登山を行う一行があった。
 その中に一人の年寄りがいたが、寄る年波に身体も意の如く動かず、ただお参りしたい一念で旅立ちはしたものの、一行より遅れて矢島村に差し掛かった時には、もはや力もつきはてて路傍に倒れてしまった。無念のあまり遠く富士を望んだところ、不思議にもその一念が通じたのか、水田の水面に鮮やかに富士山の霊姿が写り、有り難く伏し拝みながら遂に息絶えたと伝えられている。その後、人々はこれを非常に哀れみ、その弔意から路傍の一里塚に富士山供養の碑を建てて一句を刻んだと言われている。
 今でもこの地を御影田と呼んでいる。
「昔此の田に富士の影写りしかばふじの雲裾ひきあげて田うゑかな 翁(せいおう)

        
                境内より鳥居方向を撮影



参考資料「日本歴史地名大系」「明和町HP 明和の昔ばなし」「明和町の文化財と歴史」    
        「Wikipedia」「境内記念碑文」等
                

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