古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

伊勢崎神社

 律令時代、概ね広瀬川を挟んで東の「佐位(さい)郡」と西の「那波(なわ)郡」に分かれ、藤原秀郷の子孫で佐位郡に勢力を持つ渕名太夫兼行(ふちなたゆうかねゆき)は、1108年の浅間山の大噴火で荒廃した土地を再開発して「渕名荘」が成立した。藤原系渕名氏は、兼行の直系の子孫で下野国足利に勢力を持つ俊綱.忠綱父子が寿永内乱期に滅亡すると、鎌倉幕府の役人で京都から派遣された中原氏が渕名氏を継承する。一方、兼行の別の子孫は那波郡に勢力を持ち那波氏を称していたが源平合戦時、那波弘澄(広純)が源義仲に与して一族は衰亡し、中原氏の一族・大江広元が那波氏を継承した。伊勢崎市堀口町には「那波城跡」があり、鎌倉時代から戦国時代にかけて大江系那波氏の居城となる
 伊勢崎市の中心付近は、広瀬川が伊勢崎台地を侵食して崖を形成し、その崖が関東ローム層の赤土であったので、享徳四年正木文書に「上州赤石郷」の記載があり、中世においては「赤石郷」と呼ばれた。戦国時代には大江系那波氏の末裔・那波宗俊が崖上に「赤石城」を築く。1560年上杉謙信が三国峠を越えて上野国に進出すると、宗俊は北条氏に従って抵抗するが、赤石城は落城、本拠の那波城は囲まれて降伏する
 因みに赤石城には那波氏の一族である「赤石氏」も存在していた。赤石城落城後、一族は近村の飯土井村赤石城(現前橋市飯土井町)へ移った
 赤石城攻略の手柄により謙信から那波氏の旧領を与えられた上野国の戦国大名・由良成繁は、日頃から信仰していた伊勢神宮の御加護と考え、伊勢神宮に那波郡の一部を寄進し、赤石城内には「伊勢宮」を勧請する。やがて庶民の信仰の利便のため伊勢宮が城外に移されると、人々が集まって門前町を形成し「伊勢の前(さき)」と呼ばれて現在の「伊勢崎」の由来となったという。
        
             
・所在地 群馬県伊勢崎市本町211
             
・ご祭神 保食神 他27
             
・社 格 旧県社 創建 建保元年(1213
             
・例祭等 上州焼き饅祭 111日 春季例祭 415
                  
例大祭 1017日 ゑびす講祭 1119
  地図 
https://www.google.co.jp/maps/@36.3204857,139.1880026,14z?hl=ja&entry=ttu
 国道17号バイパス線を伊勢崎市方向に進路を取り、「上渕名上武道下」交差点を左折する。
但しこの付近の国道は高架橋となっているので、数百メートル手前で一旦高架橋から分かれる道に移動し、下った先の上記の交差点を左折しなければならないので、そこは注意が必要だ。交差点を左折後、群馬県道2号前橋舘林線に合流し、道なりに4㎞程進む「本町二丁目」交差点先の十字路を左折すると、すぐ右側に伊勢崎神社の正面鳥居が見えてくる。
 伊勢崎神社の正面鳥居前に10台程の専用スペースがあり、参拝は非常に楽である。街中にある社で社格は旧県社。
        
                                 伊勢崎神社正面
        
          正面鳥居の左側に設置されている「伊勢崎神社御由緒」
「伊勢崎神社御由緒」
 順徳天皇の御代の健保元年(一、二一三年)、三浦介義澄の創立したものと伝えられています。代々の赤石城主の崇敬厚く、明治に至って氏子持ちとなりました。大正十五年、旧称の飯福神社が稲荷神社をはじめ町内数社を合祀し、伊勢崎神社と改称されました。社殿は本殿・幣殿・拝殿からなり、本殿は嘉永元年(一、八四八年)の創建であり、幣殿並びに拝殿は昭和十一年(一、九三六)に造営されたものです。彫刻の緻密にして壮麗なことは氏子の誇りです
 御祭神 保食命(宇氣母智命)
 御神徳

 保食命は食物を初めとして産業を司る神で、人の生活上欠くことの出来ない神様です。記紀神話において、身体から食物や獣を生み出す記述があるように、物の成り出ずる力を備えています。
「衣食足りて礼節を知る」の通りで、一定の財産を持つことは人生においてとても大切なことです。家内安全・五穀豊穣・商売繁盛の神様として親しまれています。
                                      案内板より引用
「伊勢崎案内記」には、当神社に関して簡潔ではあるが以下の記載がある。
「伊勢崎町字裏町に在り祭神は宇気母智神保食命なり建保元癸酉年九月三浦之輔義澄の勸請せるものなりと云ふ古來より伊勢崎町の總鎮守なり」
        
                                 参道正面・境内の様子
 街中に鎮座しているためか、「伊勢崎神社の境内地は約700坪」と当社HPに記載されているように、「旧県社」の格式として社の規模は決して大きくはない。
 但し境内は程よく手入れもされていて、神楽殿や境内社、石祠・石碑等も決められた場所におさめられている。平日に参拝したわけであるが、参拝中も多くの参拝客がお参りしていて、地域の方々に親しまれている立派な社と言う印象を受けた。
       
            参道正面左側に聳え立つご神木(写真左・右)
 現在伊勢崎神社が鎮座している地域名は「本町」であるが、嘗てこの地は「赤石」と称していた。この伊勢崎市の中心付近は、広瀬川が伊勢崎台地を侵食して崖を形成し、その崖が関東ローム層の赤土であったので、享徳四年正木文書に「上州赤石郷」の記載があり、中世においては「赤石郷」と呼ばれていた。
 伊勢崎神社の西側には広瀬川が南北に流れているが、その左岸堤防付近には「赤石稲荷」という小さい社が鎮座している。どうやら調べて見ると「金蔵院古墳(赤石山古墳、伊勢崎町第1号古墳)・径25m、高さ2.7mの円墳」上にある社という事だ。
 伊勢崎発祥の地『赤石』の名前を冠にした「赤石稲荷」。「赤石」という地域名はないようだが、このように伊勢崎神社周辺には「赤石」由来の社や建物等が散在しているのも面白い。
 
正面鳥居を過ぎ、すぐ参道左手に神楽殿がある。    神楽殿の並びにある手水舎。

 神楽殿と手水舎の間のスペースに祀られている   手水舎の奥には芭蕉句碑と銅製の御神燈。
        境内社・稲荷神社。          御神燈の下には石祠群が置かれている。
       
                                     芭蕉句碑 
               芭蕉句碑には「よく見れば薺花咲く垣根哉」の句が彫られている。
        
                     拝 殿
 伊勢崎神社
 伊勢崎神社は、群馬県伊勢崎市本町にある神社で、旧社名は飯福神社(いいふくじんじゃ)、通称は「いいふくさま」。旧社格は県社である。
 創建は建保元年(鎌倉時代)、三浦義澄(三浦介義澄)によるものと伝えられている。鎌倉時代末期の元徳元年(1329)に、国司である新田義貞が現在の地に移し、社殿を修理して、八坂神・稲荷神・菅原神の3神を合祀したという。地元・赤石城(伊勢崎城)城主からの信仰篤く、後に上杉謙信(輝虎)や由良信濃守成繁といった武将らも崇敬していたという。
 当初、境内地を含む地域一帯は赤石と呼ばれていたが、元亀年間(15701573年)に伊勢神宮(三重県伊勢市)の分霊を勧請合祀以来、伊勢崎の地名の由来になっている。その後江戸時代以降、当地の領主が代々、社殿の修繕や祭典執行を担い、明和9年には吉田家から正一位に叙されている。(中略)
 1873年(明治6年)に社格が村社に列し、1906年(明治39年)には神饌幣帛料供進神社の指定を受ける。1926年(大正15年)、近くにあった稲荷神社など数社が合併し、社名を飯福神社から伊勢崎神社へと改称。1941年(昭和16年)には社格が県社に列した。

 境内には明治9年(1876)に楊州庵半海社中が建立した「よく見れは薺花さく垣根哉」の芭蕉句碑がある。
                     「群馬県:歴史・観光・見所」「Wikipedia
」より引用

 伊勢崎神社は1873年(明治6年)に社格が村社に列し、1906年(明治39年)には神饌幣帛料供進神社の指定を受けている。同時期近郊の社である「下渕名大国神社」「倭文神社」「火雷神社」等は既に「郷社」であり、由緒も歴史も深く、格式も遙かにこの三社の方が高かったにも関わらず、最終的にこの三社は郷社で止まり、伊勢崎神社は1941年(昭和16年)に郷社を飛び越えて一気に県社に格上げされている。
        
                        拝殿上部に奉納されている木製のプロペラ
 この昇格の背景には何があったのであろうか。拝殿正面入口の上部には、戦時中、中島飛行機(富士重工業の前身)の社員が奉納した木製のプロペラが現在でもあるが、そのことと何か関連性があるのであろうか。
        
          
        
         建物全体に精巧な彫刻が施されていて見ごたえのある本殿
 伊勢崎神社の本殿は江戸時代後期の嘉永元年(1848)に再建されたもので、一間社、流造り、銅板葺き、建物全体に精巧な彫刻が施され特に壁面には中国の故事と思われる透かし彫りが見られる。因みに拝殿は木造平屋建て、入母屋、銅瓦棒葺き、正面千鳥破風、平入、桁行5間、正面1間軒唐破風向拝付き、外壁は真壁造り横板張り。幣殿は両下造(本殿と拝殿を切妻屋根で接続)、銅瓦棒葺、桁行1間、張間1間。
        
                 本殿裏にある西の鳥居

 伊勢崎市といえば、「織物」で有名な地だ。特に銘仙(めいせん)は、平織した絣の絹織物で、鮮やかで大胆な色遣いや柄行きが特徴の、独特の先染め織物である。
 本来は、上物の絹織物には不向きな、屑繭や玉繭(2頭以上の蚕が1つの繭を作ったもの)から引いた太めの絹糸を緯糸に使って密に織ったものを指し、絹ものとしては丈夫で安価でもあった。幕末以降の輸出用生糸増産で大量の規格外繭が生じた関東の養蚕・絹織物地帯で多くつくられ、銘仙の着物が大正から昭和初期にかけて大流行した。伊勢崎、秩父に始まり、これに、足利、八王子、桐生を加えた5か所が五大産地とされている。
 元々は、主に関東や中部地方の養蚕農家が、売り物にはならない手紬糸を使用して自家用に作っていた紬の一種であった。江戸時代中期頃から存在したが、当時は「太織り(ふとり)」「目千(めせん)」などと呼ばれ、柄は単純な縞模様がほとんどで、色も地味なものであったという。
 明治になって身分制度が改まり、一般庶民に課せられていた衣料素材の制限がなくなると、庶民の絹に対する憧れも相まって、日常着においても絹物が主流となった。また、女性の社会進出が進んだものの、服装においてはまだ和装が圧倒的に主流であり、社会の洋風化に追いついていなかった。このため、女学生や職業婦人などの外出着や生活着として、洋服に見劣りしない、洋風感覚を取り入れた着物である銘仙が広く受け入れられることとなった。
 当初は平仮名の「めいせん」であったが、1897年、東京三越での販売にあたって「各産地で銘々責任をもって撰定した品」ということで「銘撰」の字を当て、その後、「銘々凡俗を超越したもの」との意味で「仙」の字が当てられて「銘仙」となったという。
「伊勢崎銘仙」は五大産地の中では最大の生産量をもち、銘仙の中では高価な部類に入る。併用絣の技法を用いた、鮮やかな多色遣いによる手の込んだ柄が代表的で、1950年代には、一反の中に24色の糸を使用したものもあったようだ。1975年に伝統的工芸品に指定されている。
 大正から昭和初期にかけて、銘仙生産量は全国の半分を占めるまでに至り、伊勢崎銘仙の黄金期と呼ばれるまでとなったが、戦後、生活様式の欧米化により和装から洋装へと変化していく中で、需要が減退し徐々に売り上げや生産量が減少し、その生産者も減っていくことになる。
 時代の流れで和装から洋装が主流となる中でも、織物工業組合(織物協同組合)主導のもと新技術の開発や後継者問題に取り組むなど銘仙文化を継承していく活動が行われ、その活動の功績により、伝統工芸品としての高い評価を受けながら伊勢崎銘仙は現在に至っている。
 織物工業組合(織物協同組合)のもと、銘仙文化の承継活動が行われてきたが、生産者の高齢化や後継者問題は困難を極め、銘仙の新たな製造については現在危機的状況にある。毎年「いせさき銘仙の日」のイベントでは、現存する銘仙を着用したファッションショーの開催や、銘仙の生地を再利用して手さげ袋や名刺入れなどの小物に加工して販売しているという。
 伊勢崎神社の御朱印帳やお守り袋と御内符(おんないふ:神様の御利益があるお札)、御朱印の用紙にもこの伊勢崎銘仙を使用している。大切な地域の宝物であり、後世に残してほしいものだ。


参考資料「伊勢崎風土記」「伊勢崎案内記」「伊勢崎市役所公式HP」「群馬県:歴史・観光・見所」
    「伊勢崎神社HP」「Wikipedia」「境内案内板」等
      

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新田大根神社


           
            
・所在地 群馬県太田市新田大根町407
            
・ご祭神 宇迦之御魂神
            
・社 格 旧大根村鎮守 旧村社
            
・例祭等 春祭 43日 秋祭(大祭) 1118
                *参拝日 2023726
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.3168428,139.2795175,16z?hl=ja&entry=ttu

 大根地域は、太田市北西部に位置し、大間々扇状地藪塚(やぶづか)面の扇端部とその南方の沖積地を占めている。因みに「大根」と書いて「おおね」と読む。この大根という地名由来としては、中世・新田庄に属していた頃は「嘉応二年(一一七〇)の新田庄田畠在家目録写(正木文書)に「あふねの郷 田三町二反四十五たい 畠八反 在家一う」、西迎(さいごう)寺(現長野県下水内郡豊田村)の延慶三年(一三一〇)四月二〇日の阿弥陀仏像背銘には「上野国新田庄青根郷 大檀那義季・見阿」とあり、当時は「青根」「あふね」「相根」等表記されていたようだ。
 また「吾妻鏡」承久三年(一二二一)六月一八日条に記す宇治川の合戦で負傷した上野武士の一人に青根三郎の名がみえる。
        
 新田上江田勝神社の東側に群馬県道69号大間々世良田線が南北方向に通っているが、「やすらぎ団地」交差点を左折し、上記県道沿いを暫く北上する。1.5㎞程先の丁字路を左折すると進行方向左手に「ほたるの里公園」が見えるが、その公園を直進した400m程先に新田大根神社の境内が見えてくる。
       
           拝殿前に真っ直ぐに伸びる欅のご神木(写真左・右)
        
              境内に設置されているご神木の案内板
 大根神社の大欅の由来
 大根神社の大欅は神社本殿に向かって左前に在り、樹齢は定かではないが、古老の口述に依ると、三十年以前にこの大欅を買いつけに来た業者の説によれば、当時でも推定三百年は経過しているとのことであった。
 現在、根回り八・五メートル、目通り五・五メートル、主幹は真っ直ぐに伸び、太い枝は三、四本であったが、一本は落雷によって落下したしたものの樹勢は益々旺盛で、春の芽吹きの頃、幹に耳をつけると大量の水を吸い上げる音が聴きとれるとの言い伝えもあります。
 大根神社は、大根、大の六〇〇戸の住民の守り本尊としての氏神であり、その社の御神木である 大欅は戦時中、大欅の長寿に肖りたいとの思いから、召集され戦地に赴く兵士が秘かに欅の皮を剥がし、軍服に忍ばせて出征したとの話題も伝えられています。
 平成十七年 三月 新田町観光協会
                                       案内板より引用
        
                     拝 殿
 
  境内に並んで設置されている「
皇太子殿下行啓90周年記念・大根神社の沿革」(写真左)と、「大根神社改築記念碑」(同右)。皇太子殿下行啓90周年記念・大根神社の沿革」記念碑によるこの社の由来としては、創立は不詳ではあるが、創建は古く秋葉様又は稲荷神社と称して、新田公一族である綿打太郎為氏以下氏義氏頼等の崇敬厚いお宮であると伝えられ、新田氏衰退後も大根村の鎮守様として地域の住民を始め多くの人々の崇敬をうけてきたという。
 明治四十一年十月二十六日、許可を得て本社境内の末社秋葉社及び字矢太神の無格社、矢神社、字一丁畑無格社雷電神社同境内末社稲荷神社、諏訪神社、字大宮村社、赤城神社を合併して村社大根神社と改称した。
 大正四年八月二十四日更に許可を得て同村大字大上ノ町村社赤城神社、境内末社秋葉社、大山祇社を合併して大根、大、両地区の鎮守となる。
 大正七年十月十八日(明治三十九年勅令第九十六号)神饌幣帛料供進神社として指定されている。

 大根地域は、太田市北西部に位置し、大間々扇状地藪塚(やぶづか)面の扇端部とその南方の沖積地を占める。その扇端部の標高60mの地点を中心として多くの湧水が見られ、矢太神水源(やだいじんすいげん)は、これらの中でも最も豊富な水量を誇っている。
 現在、周辺は「ほたるの里公園」として整備されており、公園北西側に湧水点が、またこの湧水点の南側には東西15m、南北80mの沼(矢太神沼)がある。
 湧水点では湧水が砂を舞い上げる自噴現象を観察することができ、この地点には「ニホンカワモズク」という、貴重な紅藻類が生息している。これはかつてこの地が海であった時代に陸に閉じ込められたものが、次第に環境に適応して現在の姿になったと考えられていろという。
 仁安3年(1168)の「新田義重置文」(長楽寺文書、国重文)は、「空閑の郷十九郷」を頼王御前(世良田義季)の母に譲ることが書かれた古文書で、新田荘が開発された様子を知ることができる。ここには「上江田・下江田・田中・小角・出塚・粕川・多古宇(高尾)」などの郷名が書かれている。これらの郷は石田川水系に立地していることから、新田荘の開発に石田川の水が利用されたことが分かる。矢太神水源は石田川の源流であり、新田荘の開発に湧水地の水が利用されたことを証明する貴重な史跡である。
 矢太神水源は平成12111日国の指定史跡[遺跡地]に指定されている。


参考資料「
日本歴史地名大系」「太田市公式HP」「おおた観光サイト」「境内案内板・碑文」等
 

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赤堀町八幡宮


        
              
・所在地 群馬県太田市新田赤堀町341
              
・ご祭神 品陀和気命(応神天皇)
              
・社 格 旧村社
              
・例祭等 大祭1015日 中祭1115日 小祭415
                  (15日に一番近い日曜日とする)
                  *参拝日 2023年7月23日
   地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.2907735,139.2926919,17z?entry=ttu 

 中江田町矢抜神社から一旦南下し、群馬県道312号太田境東線に合流後左折する。この県道は通称日光例幣使街道とも呼ばれ、江戸時代の脇街道の一つで、徳川家康の没後、東照宮に幣帛を奉献するための勅使(日光例幣使)が通った道である。例幣使とは、天皇の代理として、朝廷から神への毎年のささげものを指す例幣を納めに派遣された勅使のことであり、その例幣使が日光へ詣でるために通ったことから、つけられた呼び名である。街道は西国の諸大名の日光参拝にも利用され、賑わうこととなったという。
 県道合流後、暫く東行し、「新田木崎町」交差点を左折する。同県道311号新田上江田尾島線を道沿いに北西方向に1.4㎞程進んだ丁字路を右折すると、ほぼ正面に赤堀町八幡宮の社号標柱が見えてくる。
        
                  赤堀町八幡宮正面
『日本歴史地名大系』「赤堀村」の解説
 木崎台地の北東部を占め、西は上江田(かみえだ)村、南は中江田村、南東は木崎村、北東は反町(そりまち)村。北西から南東に元禄期(一六八八―一七〇四)以降の銅山(あかがね)街道が走る。
 中世には新田庄下江田村に属し、新田世良田家から岩松家に相伝された。正和二年(一三一三)一二月二一日付の妙阿売券(新田氏根本史料)によると、「新田庄下江田村赤堀」内の在家一宇・田三町四反小が一七〇貫文で、江田頼有の孫岩松政経の妻妙阿の手から由良景長妻紀氏に売却されている。売却された田・在家には同月日付の坪付注文(同書)が残されており、「木崎境 きさきさかい」「つかた」「ふけた」「はらつくり」等がみえる。この地は、のちに紀氏の父で娘の名字を借りて買得したという大谷道海によって、長楽寺(現尾島町)の三尊・本尊に寄進された(嘉暦三年一一月八日「大谷道海寄進状案」長楽寺文書)。
        
        道路沿いにある社号標に対して左方向に向いている鳥居、及び参道
 現在の群馬県道311号新田上江田尾島線は、江戸時代『銅山街道(あかがねかいどう)』と呼称されていた。この街道は、下野国(栃木県)足尾銅山から渡良瀬川沿いの渓谷を下り、上野国(群馬県)笠懸野(大間々扇状地)を経て、利根川沿いの河岸までを結ぶ街道である。
 道筋は現在の国道122号・群馬県道69号大間々世良田線・群馬県道311号新田上江田尾島線に相当しており、水沼(黒保根町水沼)で根利道(群馬県道62号沼田大間々線・群馬県道257号根利八木原大間々線)と、深沢(大間々町上神梅)で大胡道(群馬県道333号上神梅大胡線)と、木崎(新田木崎町)で日光例幣使街道(群馬県道312号太田境東線)と接続していた。
 幕府直営の足尾銅山で精錬された御用銅を江戸へ運ぶために整備された街道である。慶長15年(1610年)に足尾山中で銅が発見、幕府直轄機関である「銅山奉行」を設け、慶安2年(1649年)に街道を整備して各宿に銅蔵を置いたと伝わり、延宝・天和年間(1673年〜1684年)の頃が足尾銅山街道の最盛期であり、毎年35万貫から40万貫までの銅が運ばれたという。
        
                          境内の様子。参道右手にある「赤堀会館」
 
境内左手に設置されている「赤堀獅子舞」案内板       拝殿左手に鎮座する
                            境内社・
八坂神社、菅原神社
 新田町指定重要無形文化財 赤堀獅子舞
 指定  平成九年三月三十一日
 所在地 新田町赤堀三四二
 赤堀獅子舞は、およそ三百年前の元禄年間に成立したと伝えられている。法眼(ほうがん)・雌獅子(めじし)・雄獅子(おじし)と呼ばれる三頭の獅子が笛と唄に合わせて勇壮に舞う姿は、本物の獅子の動きを思わせるものである。昔から塗り替えることをいましめられている三体の獅子頭は、それぞれ異なった表情に作られている。
「法眼」は長(おさ)としての風格を持ち、「雌獅子」は優しさ、気品を、「雄獅子」は雄としての荒々しさを持っている。この特徴は舞の中でも表現され、おそれ、おののきや雌をいたわる優しい仕草も見られる。これは他の獅子舞には見られない特徴であり、専門家の間でも高く評価されている。
 毎年、十月中旬の秋祭に赤堀八幡宮で実施されている。
平成十二年三月 新田町教育委員会
                                      案内板より引用

        
                     拝 殿
        
                          社殿右側に設置されている案内板
赤堀八幡宮
一、御祭神 品陀和気命(応神天皇)
  南無八幡大菩薩とも呼ばれる源氏の神。武家の崇敬弓矢の神
一、御神徳 五穀豊穣 天下泰平 四海静穏 家内安全等
一、例 祭 大祭十月十五日、中祭十一月十五日、小祭四月十五日
      (各十五日に一番近い日曜日とする)
御由緒
建久年中(一一九〇~一一九八年)京都の石清水八幡宮より、新田義貞が勧請した。
別当瑠璃山大方坊薬王寺(大方坊四三九番地に二反壱畝廿九歩の土地を保有、現在は上江田分)は、新田氏族江田兵部大輔行義公(一三三〇年代活躍。鎌倉攻めに参戦している)江田郷(赤堀は江田郷の内)に住し、これを管理する新田氏累代の崇敬社となった。本村の乾の方向(北西)にあったが、安永年間(一七七二~一七八〇年)の間に廃絶し、その後現在の地に建立された。天明四年(一七八四年)名主
役場で火災が発生し一社の記録が焼失したが、獅子頭のみ焼失をまぬがれた。(中略)
木崎の村々の出現と変遷
嘉暦三年(一三二八年大谷道海寄進状)長楽寺三尊本尊に寄進の中に(下江田村内赤堀在家壱間等)新田義貞根本資料のなかに正和二年(一三一三年)の売券があるが、ここでは年号の下限が参考になるので省略した。ここでは赤堀は村として独立していない。日記の中では村になっている何時頃からか。   「長楽寺永禄日記」より
旧別当瑠璃山大方坊薬王寺と末社八社
行義公は赤堀本郷地区を中心として村づくりをするための礎として建立した。南無八幡大菩薩(仏に救われたいと言う願いをかける)武運長久、息災延命、天長、地久、安穏等を願い新田氏族江田、赤堀領民が神仏を信仰することにより、救われたいという願いをかけるとともに領主領民が一体となってこの地の繁栄、無事で長続きするよう願い建立したのではないか。
                              平成二十六年十月吉日 宮田晃和
                                      案内板より引用
   
         
           本 殿                                 社殿右手に鎮座する           
                             境内社・塞神社・神明宮・石神社
        
                                社殿から見た境内の一風景


参考資料「日本歴史地名大系」「太田市HP」「境内案内板」等

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上江田町勝神社

「江田郷」は新田庄内の郷の一で、現在の上江田・中江田・下江田一帯の南北に長い地域であった。仁安三年(一一六八)六月二〇日の新田義重置文(長楽寺文書)で、新田義重から庶子の義季の母に譲った空閑郷々一九ヵ郷のうちに「えたかみしも」とみえる。
新田義季(にったよしすえ)は平安時代末期から鎌倉時代初期頃にかけての武士・御家人。得川氏・世良田氏の祖。のちに徳川家康が清和源氏を僭称する際に松平氏の遠祖とみなされる。新田義重の四男として誕生。新田義兼の同母弟といい、新田一門でも地位はかなり高かったと言い、父・義重からは上野国新田郡(新田荘)世良田郷を譲られ、世良田郷の地頭となった。これにより世良田と称したともいわれる。また新田郡得川郷を領有して、得川四郎を称したとされる。
 世良田郷を支配する新田氏流世良田氏の一族に江田行義を輩出する。『太平記』によれば元弘3年(1333年)5月、惣領家の新田義貞の挙兵に従い、鎌倉の戦いにおいて同族の大舘宗氏と共に極楽寺坂方面の大将を務めたとされている。
 上江田地域には、鎌倉攻めに従軍した江田行義(えだゆきよし)が住んでいた「江田館跡」があり、昭和22年に県史跡第1号として指定、さらに平成12年に新田荘遺跡として国史跡に指定されていて、ほぼ築造された当時の姿をとどめている貴重な館跡という。この江田館跡」の北側近くに旧村社である上江田町勝神社は鎮座している。
        
             
・所在地 群馬県太田市新田上江田町1070
             
・ご祭神 (主)長佐男命 
                  (配)火産霊命 木花咲屋姫命 大物主神 疱瘡神 

                     
建御名方神 速須佐之男命 菅原道真公 宇迦之御魂神
                     ・社 格 旧村社
             ・例祭等 不明
                          *追伸 参拝日 2023年7月26日
    地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.2988606,139.2872972,17z?entry=ttu

 中江田町矢抜神社の西側には群馬県道69号大間々世良田線が南北方向に通り、その県道を2.2㎞程北上する。「やすらぎ団地」交差点の一本手前の丁字路を左折して、350m程道なりに直進すると進行方向右手に上江田町勝神社の鳥居が見えてくる。
 因みに「勝」と書いて「すぐる」と読む。変わった社名だ。
 社の西側隣には「すぐる公園」があり、駐車スペースもしっかりと完備されているので、そこの一角に車を停めてから参拝を開始した。
        
                                 上江田町勝神社正面鳥居
『日本歴史地名大系』 「上江田村」の解説
 [現在地名]新田町上江田
木崎台地の北端部とその周囲の沖積地にあり、西境を石田川が南流する。北は金井村、東は赤堀村、南は中江田村・高尾村、西は上田中村。銅山(あかがね)街道が南北に走り、当村中央で東南へ折れ木崎宿方向へ向かう。元禄(一六八八―一七〇四)以前は真っすぐ南下しており、両経路の分岐点には、承応年間(一六五二―五五)頃とみられる安山岩製三面六臂の青面金剛像の庚申塔が立つ。
仁安三年(一一六八)六月二〇日の新田義重置文(長楽寺文書)に空閑郷々一九ヵ郷の一として「えたかみしも」とみえ、庶子らいわう(義季)の母に譲られている。建治三年(一二七七)一二月二三日の尼浄院寄進状案(同文書)には「上江た」とみえる。新田義重の根本私領の一つで、世良田家流に伝領されていった(→江田郷)。世良田頼氏の一子満氏、世良田義有の子行義はともに江田氏を名乗った。
 *一九ヵ郷…「上江田・下江田・田中・小角(こすみ)・出塚(いでづか)・粕川・多古宇(高尾・たこう)」等。
        
                 南北に長い舗装されていない参道 
              参道の両側には桜の木々が数多く並ぶ。 
 上江田町勝神社の南側には「江田館跡」があり、「太田市HP・新田荘の成立と発展」には以下の記載がある。
 木崎台地の西端部に立地しています。新田荘を代表する館跡で、昭和22年に県史跡第1号として指定されましたが、平成12年に新田荘遺跡として国史跡に指定されました。 堀之内と呼ばれる部分は、東西約80m、南北約100mの方形で、堀がほぼ全周し、この内側には土塁が巡らされています。南辺と東辺の二ヵ所では堀が切れ、虎口(こぐち)が造られています。堀の東辺と西辺には、「折れ」があります。周囲には黒沢屋敷、毛呂屋敷、柿沼屋敷と呼ばれる曲輪があり、戦国時代に城郭化されたと推定されます。築造年を示す史料はありませんが、反町館跡と同様、鎌倉時代から南北朝時代の築造と推定されています。鎌倉攻めに従軍した江田行義(えだゆきよし)の館であったと伝えられ、その後戦国時代には金山城主横瀬(よこぜ)氏の家来・矢内四郎左衛門(やないしろうざえもん)が館を拡張して住んだと伝えられています。北側の土塁には、「義貞(ぎていさま)様」と呼ばれるお宮があります。この時代の平城は通常堀が埋められたり、中に建物が入ったりして形が変えられてしまいますが、江田館跡はほぼ築造された当時の姿をとどめている貴重な館跡です。 
        
    参道途中右手の林に隠れて「村社勝神社合併」及び「新築落成記念碑」がある。
        
                                       拝 殿 
        
                  拝殿に掲げてある「勝神社の由来」と記してある案内板
 勝神社の由来
 享和二年壬戌(一八〇二年)三月吉日付の由来記によれば概ね次の通りである。
 記
 伊予国(現在の愛媛県)の領主である勇将河野四郎通信は若い頃から豊後国(現在の大分県)の宇佐八幡宮を深く信仰し、たびたび参拝をしていたが老年になり遠い豊後国まで行くことができなくなったので居住地の近くにある勝山と云う所に宇佐八幡宮を祭り熱心に拝礼を重ねた。この四郎通信の誠心が神に通じ河野一族は繁栄を続け、やがてその勢力は四国を領有し瀬戸内海をも制圧し遠く中国地方の数か国まで掌中に入れた。
 当地方を領有していた新田太郎義重公(八幡太郎源義家の孫)は宇佐八幡宮を懇望され当江田郷に宮を勧請する。勝山より移し奉る故に勝大明神と崇め奉る。
「右のような内容の由来書が当村千吉良家に保存されていたのを坂庭氏が見たのであるが由来書は現在行方不明である。この由来書が発見されない場合勝神社の由来が不明になる恐れがあるので、氏子のために記す。後日この由来書が出て来たら詳細に伝えてもらい度い」とある。
 今度享和二年の由来記を再現しこれを後世万代に伝え当社、氏子各位の益々の繁栄隆盛を祈願するものである。(以下略)。
                                      案内板より引用

 案内板に登場する「河野通信」は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての伊予国の武将で、伊予国(愛媛県)の在庁として有力な武士団を構成した。源頼朝をはじめとする反平家勢力が挙兵した治承・寿永内乱の際は,いちはやく源氏方に立ち、その功績によって鎌倉殿源頼朝に直接臣従を許され,所領を安堵された。文治5(1189)の奥州合戦に従軍、正治1(1199)の梶原景時排斥に参加するなど鎌倉に常駐。その奉公を賞されて,建仁3(1203)伊予への帰国に際し、守護に属さず国内の近親・郎従を統率する権限を与えられている。
 更に北条時政の婿となり、幕府の権威を背景として伊予国内に勢力を拡大したが、承久の乱で京方に立ったため奥州平泉に流され、配所で没したという。
 
      境内社・柊稲荷神社             境内社・八坂神社
        
            柊稲荷神社の並びに祀られている石祠群等。中央の石塔は「大山祇神」 

「勝神社の由来」に新田家と直接関係のない河野通信の事を記しているのであろう。確かに新田義重と河野通信は同じ年代に生きた者同士ではあるが、四国・伊予国と関東・武蔵国とはかけ離れた場所に位置し、両者の関わったエピソード等も筆者が調べた限りにおいて皆無だった。
 だからといって新田家と伊予国には、特別な関係が存在することも確かであったようだ。
 元弘の乱において北条家が滅亡し、後醍醐天皇を中心とする「建武の新政」が3年程で挫折し、足利尊氏を中心とする「武家方・北朝」と、天皇新政を維持しようとする「宮方・吉野朝」が60年間、熾烈を極める戦いを各地で行う南北朝時代初期、宮方の中心人物の一人であった新田義貞の元には伊予国・河野一族から土居通増・得能通綱が共に摂津等の各地で足利の大軍と戦っている。後に、新田義貞が皇太子尊良親王を奉じて越前に赴くとき、この両氏も従ったが、土居通増は越前の荒乳の山中において大吹雪の中に戦死し、得能通綱は福井県の金ヶ崎城において尊良親王が自害されたのでこれに殉じた。
 新田義貞戦死後、新田家は弟義助を中心として一時的に越前国を掌握したが、其の後室町幕府軍に敗れて越前から退いた。吉野の後村上天皇の行宮に参内した後、中国・四国方面の総大将に任命されて伊予国に赴く。当時、伊予国は南朝の根拠地のような有様で、義助は桜井の国分寺に入り、その後、周桑郡の世田城によって、新田氏族である大館氏明を前衛として、伊予の土居氏・得能氏を指導する。一時は勢力をふるい、讃岐の武家細川勢に対して攻撃しようとした直後、伊予国府で突如発病し、志半ばで病没した。
 義助か亡くなると、阿波国の細川頼春は、伊予を攻略した。世田城に拠った大館氏明の城兵は、優勢な細川勢を、よく防いだが、糧食の欠乏に苦しみ1342(興国3)年9月、氏明は戦死をとげた。
        
                                  社殿からの風景
 新田義助の子義治は、里見氏の所領がある越後波多岐荘や妻有荘に向かい、義貞の次男義興、三男義宗らと合流して東国で活動するようになるが、その後の詳しい消息は不明である。伝承では山崎荘(現在の伊予市大平)に来て没したともいい、義治を祀った「新田神社」もあるそうだ。

 南北朝時代、多くの新田氏族は北は青森、南は九州鹿児島と、日本各地に赴き、転戦を重ねていた。筆者の勝手な推測ではあるが、その一族のだれかが伊予国で河野氏との接点を持ち、故郷の新田庄に帰還した際にその話を持ち込み、武士としても縁起の良い「勝」を冠した社を建てたのではなかろうか。

 因みに新田氏発祥の地である群馬県太田市と、脇屋義助が病没した地である愛媛県今治市は、2002年に姉妹都市提携を結んでいる。 


参考資料「日本歴史地名大系」愛媛県生涯学習センター 双海町誌」「Wikipedia」
    「太田市HP・新田荘の成立と発展」「境内案内板」等
   

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中江田町矢抜神社


        
             
・所在地 群馬県太田市新田中江田町1134
             
・ご祭神 経津主命 猿田彦命 埴山姫命 倉稲魂命 鎌倉権五郎景政
             
・社 格 旧村社
             
・例祭等 不明
    
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.2811831,139.2870552,18z?entry=ttu

 新田下江田矢抜神社が鎮座する下江田地域から北側に接して中江田地域があり、同名の社が鎮座する。上記神社とその東側にある最勝寺の間の道路を北上し、東武伊勢崎線、国道354号新田太田バイパスを越えた群馬県道312号太田境東線との交点である十字路を左折する。現在この県道は通称日光例幣使街道とも呼ばれているが、この県道を600m程進むと、進行方向右手に中江田町矢抜神社の社号標、その奥に木製の鳥居が見える。
        
          県道沿いにある社号標柱と、その奥に建つ一の鳥居
    写真では分かりずらいが、鳥居の正面には、自然石の庚申塔が祀られている。
              *追伸 参拝日 2023年7月26日
 日本歴史地名大系 「中江田村」の解説
 [現在地名]新田町中江田
 南西境を石田川が流れ、東は木崎村、南は下江田村、北は上江田村、西は高尾村。村域は木崎台地の南西部とその南西方の沖積地帯を占め、中央を東西に日光例幣使街道が走る。
 中世には新田庄に属し、仁安三年(一一六八)六月二〇日の新田義重置文(長楽寺文書)に「えたかみしも」とみえる。当村は下江田郷に含まれたらしく、文亀三年(一五〇三)頃同郷から分れたとも伝えられる。
 近世は寛永三年(一六二六)阿部忠秋領となり、阿部氏の転封・加増に伴い同一二年下野壬生藩領、同一六年武蔵忍藩領となる。
        
 一の鳥居から北上すると広い境内が見え、その正面には赤を基調とする二の鳥居が見える。

 新田下江田矢抜神社内にある「新田町指定天然記念物 矢抜神社の山椿」の案内板によれば、
「このあたりは中世新田氏の一族江田氏の所領で、江田郷と称した地でした。その後、南北朝の争乱で新田氏が敗れたため足利氏の支配に移り江田郷も分割され、当時中江田村森下にまつられていた矢抜神社を分社し、中江田と下江田の現在地へ勧請してまつったと伝えられ」
たという。
        
       陽光が差し込む境内に対して、社殿奥には緑豊かな社叢林が広がる。
この社叢林の中に「矢抜神社古墳(木崎町2号古墳)」といわれる古墳時代の円墳が存在している。
        
                     拝 殿
        
          拝殿向拝部及び木鼻部には精巧な彫刻が施されている。
   
     拝殿前に設置されている案内板             本 殿
 惣鎮守矢抜大明神神宮建立
 神亀5甲子年4月朔日(奈良時代 聖武天皇の時代)
 中江田村森下(現在の粕場 東武線のところ)
 万治元年(1658年)929日 中江田村と
 下江田村の分村により中枝村宿通り(当時)
 に転祭されたとある

 初代宮司 江田和泉守氏清より始まり
 現在 第49世代宮司

 矢抜さま 昔をしのぶ 神楽殿
 平安時代の武将、「平 景正」が戦いで矢が目にさ
 さり引き抜いてまで奮闘した伝説があります
 中江田の人々はこの偉業をたたえて「矢抜神社」
 と命名したと伝えられています
                                      案内板より引用
 中江田町矢抜神社のご祭神の一柱に「鎌倉権五郎景政( 景正)がいる。この人物に関しては、既に「上奈良豊布都神社」「高本高城神社」でも紹介しているが、平安時代後期の実在した武将であり、祖先は桓武平氏の流れであったという。
 父の代から相模国鎌倉(現在の神奈川県鎌倉市周辺)を領して鎌倉氏を称した。居館は藤沢市村岡東とも、鎌倉市由比ガ浜ともいわれる。また『尊卑分脈』による系譜では、景正を平高望の末子良茂もしくは次男良兼の4世孫とし、大庭景義・景親・梶原景時らはいずれも景政の3世孫とする。他方、鎌倉時代末期に成立した『桓武平氏諸流系図』による系譜では、景正は良文の系統とし、大庭景親・梶原景時らは景正の叔父(あるいは従兄弟)の系統とする。
 16歳の頃、後三年の役(永保3年〈1083年〉〜寛治元年〈1087年〉)に従軍した景正が、右目を射られながらも奮闘した逸話が「奥州後三年記」に残されている。
 鎌倉市坂の下に,彼をまつる御霊神社があり,〈権五郎さん〉の通称で親しまれているが,奥羽地方には,目を負傷した景政が戦場からの帰途に霊泉に浴してその矢傷を治したという,いわゆる〈片目清水〉の伝説を伝えるところが多く,また景政を神としてまつる風習が広くおこなわれている。柳田国男が説いた〈目一つ五郎〉の信仰で,〈五郎〉を〈御霊〉に付会したものだが,《吾妻鏡》によると,1185年(文治1)の夏から秋にかけて,鎌倉の御霊神社にしきりに神異があったことが記されており,その託宣が人々に崇められていたことが知られている。
 中江田町地域に鎮座するこの社の案内板には、伝説に関して、その奮闘ぶりを讃え「矢を抜く」⇒「矢抜」と命名したとのことだが、この人物は後に「御霊信仰」の神、または「一つ目信仰・古代鍛冶集団」の神とも併せ持つ神と変貌してもいる。この事項は良く知ってご祭神としているのであろうか。
        
        社殿奥には小高い丘上となっていて、そこには幾多の石祠が祀られている。
 
    拝殿手前で左側にある神楽殿       境内にある「合祀記念」の石碑
                    合祀記念
             嚮者官發合祀之令也中江田郷當合祀者有
             五社迺請宮得其聽許而合祀於村社矢抜神
             社祭神經津主命猿田彦命埴山姫命倉稲魂
             命鎌倉權五郎景政而茲謹記其年月社號神
             名永傳于後記曰明治四十一年八月二十四
             日無格社諏訪神社祭神建御名方神境内末
             社秋葉神社祭神火産霊命無格社嚴島神社
             祭神市寸島比賣命境内末社愛宕神社祭神
             火産霊命無格社淺間神社祭神木花之佐久
               夜毘賣命宇迦之御魂命(以下略


参考資料「
日本歴史地名大系」「Wikipedia」「境内案内板」
    「新田下江田矢抜神社内・新田町指定天然記念物 矢抜神社の山椿の案内板」等

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