古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

舞木長良神社

『日本歴史地名大系』「舞木(まいぎ)村」の解説
 [現在地名]千代田町舞木
 南を利根川が流れ、東は赤岩村、西は古海(こかい)村(現大泉町)、南は武蔵国幡羅郡葛和田(くずわだ)村(現埼玉県大里郡妻沼町)、北は新福寺(しんぷくじ)村・福島(ふくじま)村。貞観年中(八五九〜八七七)舞木氏の所領に由来する村名とされる(邑楽郡町村誌材料)。地元の伝承によれば、舞木村はもと中島村といい、貞観年中藤原長良がこの地に本拠を定め、武蔵国羽生(現埼玉県羽生市)の猪熊森高を討った際、春日社前で榊に祈り、帰陣の時にこの榊が空に舞上がり、中島に落ちたので舞木村と改めたという。応安七年(一三七四)下野小俣(現栃木県足利市)の鶏足(けいそく)寺二九世尊誉は「舞木駒形堂」で仏事を行っている。
『日本歴史地名大系』での、地元の伝承によれば、舞木長良神社の地域名「舞木(まえぎ)」の由来が伝わっている。貞観年間(85977年)に藤原長良が武蔵国羽生の猪熊森高を攻める際、春日社前で榊に四垂を掛け戦勝祈願を行った。その後、猪熊との戦いに勝利し再度訪れた時、榊が空中に舞い上がり隣地の中島村に落ちた。そこで中島村を舞木村と改めたという。
        
             
・所在地 群馬県邑楽郡千代田町舞木267
             
・ご祭神 藤原長良公(推定)
             
・社 格 旧村社
             
・例祭等 不明
         *追伸 「群馬県近世寺社総合調査報告書」による当社の例祭日
           元旦祭、節分祭、春・秋例大祭、夏祭(7/14)現在は当日に近い日曜日
  
地図 https://www.google.com/maps/@36.2138679,139.4306178,16z?hl=ja&entry=ttu
 瀬戸井長良神社から利根川沿いに通じる栃木県道・群馬県道足利千代田線を2㎞程西行すると、三叉路となるので、そこを左斜め方向に200m程も直進すると右手側に舞木長良神社の大きな朱塗りの鳥居が見えて来る。すぐ南側は利根川の堤防が東西に広がる地だ。
        
                  
舞木長良神社正面
 舞木長良神社北東方向近郊には「舞木城址」があり、現在は小さな公園になっていて、その遺構等は全くみえない。昭和44年までは小学校があったようだ。住宅地の中にポツンとあるので、あまり目立たないが、その公園内には「藤原秀郷公誕生之地」と刻まれた石碑がある。
 舞木城址 所在地 千代田町舞木五一
 舞木城は、面積およそ三ヘクタール、周囲に土居と溝〇をめぐらせた平城で、藤原秀郷が承平年中(九三一〜九三七)に築城したと伝えられ、その後享禄年間(一五二八〜一五三一)まで秀郷の子孫が居城していたという。また舘林盛衰記には、享禄の頃赤井照光が大袋城(現在の館林市羽附)から舞木城へ年始の道すがら子狐を助け、その狐の導きによって舘林城(尾曳城)を築いたと記され、舞木と舘林とのつながりを浮き彫りにしている。
 この地は明治四十二年に小学校の敷地となり、昭和四十四年には、小学校の移転により「たわら住宅団地」が造成され現在に至っている。(千代田町教育委員会より掲示)

また
『千代田町HP』には藤原秀郷に関して以下の内容を紹介している。
 藤原秀郷
 平安中期東国の豪族藤原秀郷(俵藤太)(たわらのとうた)は、藤原北家房前の子左大臣魚名(さだいじんおうな)(川辺大臣)より三代下った村雄(むらお)(下野権大掾河内守)(しもつけごんだいじょうかわちのかみ)の子で、出生は舞木・赤岩他多説がある。
 成人して弓の名人となりその豪勇伝説はあちこちに残っている。主なものは、「三上山の百足(むかで)退治」と、「平将門(たいらのまさかど)の乱」の平定(天慶三年)である。
 その功により下野国押領使から從四位下野守(じゅうしいしもつけのかみ)(武蔵守も兼務)に任官し、功田も賜った。又、築城にも才能を発揮し、下野国唐沢山城が有名である。
 当地の伝承は「赤城山の百足退治」と舞木城の築城である。舞木城址は永楽小学校の敷地として六十年間使用された後、現在は「俵団地」としてその名を留め、一角に顕彰碑が建っている。秀郷の子孫は各地に亘り分布しているが、当地でも「秀郷流」を名乗ってその拡大をはかり、先の「小黒磨流」と複雑に絡み合いながら佐貫荘を維持した。
 藤原秀郷に関して幾多の伝承・伝説があるため、逆に史実としての人物像がかすんでしまっているのも確かで、謎の多き人物であることには違いない。この舞木の地が秀郷生誕の地であることも決して否定はしないが、客観的な事実として受け止めるには、まだ十二分な照明はされていないように見える。但し秀郷の子孫である藤原秀郷流の佐貫氏やその一族である舞木氏がこの地に存在していたことは、事実である。
        
                   境内の様子
 藤原秀郷流佐貫氏一族に舞木氏がいた。上野国邑楽郡佐貫庄舞木村(千代田町)より起ったという。元々佐貫荘(現・群馬県館林市周辺)は、藤原秀郷流の佐貫氏が拠った土地であったが、室町時代以降は佐貫氏庶流である舞木氏が支配しており、15世紀前半には舞木駿河守持広が登場する。この舞木駿河守持広は岩松満純(持国の伯父)の追討では、被官の赤井若狭守とともに参加し、永享の乱で活躍した。
『国立国会図書館デジタルコレクション 鎌倉大草紙』
 応永二十三年(1417)千葉介兼胤岩松治部大輔入道天用両人は禅秀のむこなれば不及申、渋河左馬助舞木太郎児玉党には大類・倉賀野・丹党の者ども其外荏原蓮沼別府玉井瀬山甕尻、甲州には武田安芸入道信満には禅秀の舅なれば最前に来る(中略」 
 応永二十四年(
1418
)卯月二十八日、禅秀聟岩松入道天用は禅秀が残党を集め上野国岩松に蜂起しけるを舞木宮内丞馳向合戦してこと/\く追散しお天用を生捕にして鎌倉へ奉りければ五月十三日瀧口へ引出首をはねられけり
 その後、永享12年(1440年)結城合戦では結城方にくみし、山内上杉家の家宰・長尾忠政(忠綱の子)により謀殺され舞木氏は没落、代わって上野赤井氏の赤井照光が舞木佐貫一族を打倒し庄頭の地位を得る。しかし舞木氏は決して滅亡したわけでなく、足利鑁阿寺文書にも「弘治二年(1556)舞木兵庫太夫景隆花押。永禄三年(1560)舞木兵庫太夫定綱花押」等の書状が今でも残っている。
        
                    拝 殿
       瀬戸井長良神社と同じく、拝殿は利根川に対して正面を向いている。
 瀬戸井長良神社の項において、説明を既にしているが、藤原北家房前の子真楯(またて)の孫冬嗣(ふゆつぐ)の嫡男長良について、千代田町にはこんな伝承がある。赤岩の東隣、瀬戸井北の大沼に大蛇が棲んでいて、利根川に水を呑みに現れたり、ときどき娘を攫ったりして村人を苦しめていた。「都から長良様という偉いお方が桐生にお出でになっていなさる。」と、人伝てに聞いた里人は、長良に大蛇退治を頼みこんだ。長良は、御殿女中(ごてんじょちゅう)で弓の名手のおさよ殿に大蛇の両目を射させ、なおも抵抗する大蛇を刀で十八切りにし、頭を瀬戸井に、その他を近郷に分け与えた。これに感激した里人は長良様を祀(まつ)るようになった。「十八長良」の由来である。
 舞木長良神社もこの「十八長良」の一社と推測され、瀬戸井長良神社から勧請して、当地に鎮座したと考えられる。
        
                    本 殿
 本殿は、虹梁の渦と若葉の単純な絵様や蛇腹の支輪、象の木鼻、内部の撥束、中備の蟇股の彫刻などに18世紀中期頃の様式を非常に良く残している貴重な建物である。
 藤原長良公祭祀の長良神社は、群馬県邑楽郡近郊に多数存在し35社にもおよぶ。この地域で長良様の信仰が非常に厚かったことがうかがえる。伝説から生まれた「十八長良」は瀬戸井の長良神社をはじめとした18の長良神社で、本社もその一社であり、藤原長良信仰において歴史的にも重要な神社である。
        
   拝殿左側前方には不思議な巨石があり、その巨石の奥には境内社二社が祀られている。
 この巨石は元からここにあった物であろうか。かなりの大きさだ。ご神体ともいえそうな貫禄ある外観だ。奥に祀られている境内社は、左側は不明。右の境内合祀社は 左から水天宮・戸隠神社。
        
                                 社殿左側に並ぶ石碑群
 左から金刀比羅宮・庚申供養塔・道祖神・不明・不明・雷電宮・不明・石仏・権現・弁財天。実は後列にも石祠三基あるのだが、この石祠の詳細は不明。
 権現と弁財天の間には「権現・弁財天の遷宮 舞木権現地区の区画整理にともない、町田〇宅(舞木二一四)に奉られていた権現・弁財天を長良神社境内に移転した。平成十六年九月吉日 権現地区 氏子一同」と刻まれている石碑がある。
              
      社殿の右手には石碑が六基あり、一番左側には「神域整飾記念碑」がある。
                  「神域整飾記念碑」
           千古の歴史とともに奉安しこの地に鎮座まします長
          良明神は盛運なり このたび利根川改修に当り〇舞木
          地先利根堤防の拡張が計画され昭和四十八年三月神域
          の整備を計ることとなった 神殿並びに境内の整飾と
          〇か活用について神社総代等鳩首協議を重ねた結果永
          く祀る歴史の尊厳を基調とし恵まれた環境を考慮し境
          内を将来に託す子供達の良き運動の場とすることに決
          した 国の補償費四百万円をあて昭和四十八年十月着
          工同五十年十月完工〇此の間工事の掌に当る一同の献
          身的奉仕による計画実践督励によって社殿神徳の高揚
          に努めここに斯くの如く感性を見たのである 壮麗な
          る社殿と明るく崇高なこの神域こそ利根河畔に当村氏
             の生活の拠点たることを念じて之を記す
                   江沢卓郎撰並書
       
        左側三番目にある大黒天の線刻画碑   右端の石碑は御嶽山大神御璽
        
    石碑群の右手には祭祀用の用具がある殿であり、中に神興舎が保管されている。



参考資料「国立国会図書館デジタルコレクション 鎌倉大草紙」「日本歴史地名大系」
    「千代田町HP」「埼玉苗字辞典」「舞木城址 案内板」「Wikipedia」「境内石碑文」等
    

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瀬戸井長良神社

 藤原長良(ふじわら ながら/ながよし)は、平安時代初期から前期にかけての公卿。藤原北家、左大臣・藤原冬嗣の長男。官位は従二位・権中納言、贈正一位、太政大臣。
 家督は同母で次男の良房が継いでいるとはいえ、名門藤原北家の長男という毛並の良さからか、高潔な人柄で、心が広く情け深い一方で度量もあった。弟達に官途で先を越されたが、何のわだかまりもなく、兄弟への友愛は非常に深かった。士大夫に対しても常に寛容をもって接し、貴賎に関係なく人々に慕われた。仁明天皇の崩御時には、父母のごとく哀泣し続け、肉食を断って冥福を祈念したという。
 不思議な事に、藤原長良は、加賀権守(834年)、相模(権)守(843年)、讃岐守(846年)、伊勢守(850年)と幾多の国守に任命されているが、上野国の国主を務めたという事実は無く、またその国守に任命されている場所も、ほとんどが西日本であり、唯一相模(権)守のみ。またこの翌年承和11年(844年)に従四位上・参議に叙任され、公卿となっているので、たとえ相模国に赴任したとしても、せいぜい1年程度しかいなかったことになろう。
『日本歴史地名大系 』には「長良神社」の解説を載せている。
 瀬戸井(せどい)の西端、字宮下(みやした)にあり、祭神は藤原長良。この地方がしばしば乱れたとき、藤原長良が鎮撫したという。帰京して没したが、その恩徳を慕い神として祀るようになった。当社は貞観一一年(八六九)邑楽郡赤岩(あかいわ)城主赤井良遠が勧請し、社殿を造営、遷宮の式を行い郡中総鎮守としたのが祭祀の始まりといわれる。
 長良神社は邑楽・新田両郡一帯に二八社存在しているが、長柄(ながら)神社と同一とみる、つまり長良は長柄の誤りとする説もある。
『日本歴史地名大系 』によると、「東国平治の為、当地に下向し、衆庶を憐み仁恵を施し 任満ちて帰京」したとするが、現実の史実にそのような官歴はない。何とも不思議な社である。
        
            
・所在地 群馬県邑楽郡千代田町瀬戸井7971
            
・ご祭神 天照皇大神 藤原長良公
            
・社 格 旧佐貫荘宮付十二ヶ村総鎮守邑楽郡長良社本宮・旧郷社
            
・例祭等 不明
  
地図 https://www.google.com/maps/@36.203088,139.4433439,16.25z?hl=ja&entry=ttu
 行田市の「利根大堰」を北上し、群馬県に入り「上中森」交差点を左折する。栃木県道・群馬県道38号足利千代田線を2.3㎞西行すると、県道から少し離れた奥に見える社叢林と共に瀬戸井長良神社の石製の鳥居が見えてくる。
 正直一見派手さはない。しかしながら旧郷社の格式が示すように、県道から見ても社叢林は奥まで広がり、社全体の規模は大きく感じる。周囲には社の看板があるわけでもなく、時にお約束事ではないが、登り旗等で意識的に自らの存在をアピールする様子もない。それでいてその地にしっかりと根付いているような風格や存在感を漂わせているような重厚感ある社である。
        
                                 瀬戸井長良神社正面
      鳥居の右側に社号標柱が建ち、その手前には「猿田彦太神」の石碑がある。
         社殿は南向きで、鳥居の目の前には利根川の堤防が見える。
『日本歴史地名大系 』「瀬戸井村」の解説
 南に利根川が流れ、東は上五箇(かみごか)村、西は赤岩村、南は武蔵国埼玉郡酒巻村・北河原村(現埼玉県行田市)、北は赤岩村・萱野(かやの)村。休泊(きゆうはく)堀の用水が赤岩村から当村の中央を東流して上五箇村に入る。「吾妻鏡」に記す宇治橋渡河にみえる藤原秀郷の後裔佐貫広綱の子瀬戸井五郎が当村に住したと伝える。天正一二年(一五八四)六月一四日の北条氏直宛行状(原文書)は、小泉城(現大泉町)の城主冨岡氏の所領を示しており、そのなかに「館林領之内」として瀬戸井がみえる。近世は初め館林藩領。正保元年(一六四四)から寛文元年(一六六一)までの大給松平氏が藩主の期間は幕府領。
        
                               真っ直ぐな参道が続く。
     以前の参道の両側には桜並木となっていたようだが、今は伐採された模様。
千代田町 HP」には、藤原北家房前の子真楯(またて)の孫冬嗣(ふゆつぐ)の嫡男長良について、千代田町にはこんな伝承がある。赤岩の東隣、瀬戸井北の大沼に大蛇が棲んでいて、利根川に水を呑みに現れたり、ときどき娘を攫ったりして村人を苦しめていた。「都から長良様という偉いお方が桐生にお出でになっていなさる。」と、人伝てに聞いた里人は、長良に大蛇退治を頼みこんだ。長良は、御殿女中(ごてんじょちゅう)で弓の名手のおさよ殿に大蛇の両目を射させ、なおも抵抗する大蛇を刀で十八切りにし、頭を瀬戸井に、その他を近郷に分け与えた。これに感激した里人は長良様を祀(まつ)るようになった。「十八長良」の由来であるという。
        
       拝殿までの参道左側には途中三本の脇道があり、境内社や石碑等が祀られている。
 一番手前の脇道に祀られている「御嶽三柱大神」、その両側にはそれぞれ「豊斟渟尊・国狭槌尊」「天御中主神」の石碑が祀られている。
「御嶽三柱大神」なる神はともかく、天之御中主神・豊斟渟尊・国狭槌尊は日本神話における「天地開闢(てんちかいびゃく)の際に高天原に生まれた別天津神(ことあまつかみ)、並びに神代七代のうちの二柱の神である。
 
 その先に祀られている境内社。詳細不明。   一番先に祀られている「千勝大神」の石柱
本来は二社あったのであろうが、今は右側のみ。
 
   境内社・石碑等の先にある神楽殿         境内に設置されている由緒板
        
                                   拝 殿
                  主 神 天照大神
                  御祭神 藤原長良公
          藤原長良嘗て東国平治の為め 当地に下向あり 衆庶を
         憐み仁恵を施し 任満ちて帰京後薨去し 貞観十一月三月
         十八日大和国春日神社の末社に列祀す 時に上野の住人赤
         井良遠なる者 長良公の餘徳を慕い之を本国に勧請せんと
         浴し 其の旨を奏聞しけるに叡感浅からず 即ち上野国佐
         貫荘本村に社殿造営の勅許あり 因りて翌年九月九日遷宮
         式を行なう 爾来佐貫荘の人民一向に信仰して宮附十二ヶ
          村の総鎮主とす 其の後文明年間より分社するもの多く
                             之を邑楽郡長良社の本宮と稱する
                            「境内 由緒板より引用」

        
                         拝殿向排部に精巧に施されている彫刻
 
         本 殿           本殿奥にポツンと祀られている一基の石祠
        
                  社殿からの一風景
 群馬県千代田町瀬戸井地域に鎮座している長良神社は、邑楽郡下や一部旧新田郡下に分布する長良神社の中心的な存在で、嘗ては旧佐貫荘十二ヶ村の総鎮守であったという。長良神社はご祭神を藤原長良公としており、冒頭に述べたように、東国平治のためにこの地域に来て善政をしたので、土地の人々はその徳を慕って、既に春日神社の本社として列祀されていた長良公の霊を、ここ瀬戸井に分祀したものという。
 しかしそもそも東国とは無縁な藤原北家の長男が、この地に祀られていること自体、歴史的な事実ではないことであるので、実際は別の伝承が根底に隠されている可能性が高い。
「長良」は「長柄(ながら)」と同名ともいう。奈良市御所市名柄の旧名は大和国葛上郡長柄庄といい、同じ「長柄」を共有していて、『延喜式神明帳』に葛上郡長柄神社を載せている。『姓氏録・大和国神別』には「長柄首、天乃八重事代主神の後なり」と記載がされていて、ここのご祭神は「事代主神」である。事代主命の子孫が大和国葛上郡吐田郷長柄(現 奈良県御所市長柄)に移り住み、氏神として式内長柄明神を祀ったと云う。
 ところで、群馬県邑楽郡邑楽町には「長柄神社」が鎮座している。この社は、事代主命を祭神といるのだが、社伝によると、長柄一族が1400年前の飛鳥時代に利根川北岸の邑楽郡西南部に長柄郷を開発し、氏神の長柄明神を祭り草創したのがこの長柄神社という。
 この長柄神社には「長柄神社由緒」が設置されている。内容は以下の通りだ。
「長柄神社由緒」
当社は千四百年前、大和から邑楽郡に来て長柄郷を開発した長柄氏が始祖事代主命を祭神として草創しました。上野国神名帳に「正一位 長柄明神」と記された邑楽郡一ノ宮がこの社です。元慶五年(881
)に藤原長良公を合祀し、近郷の首社として崇拝され(以下略)
        
            利根川の度重なる洪水被害から身を挺して人々を守ろうと
          あえて河川堤防のすぐ北側に鎮座しているようにも見える。

 利根川中流域沿いに数十社点在する長良神社。鎮座地域が限定されているこの社は埼玉県元荒川左岸に鎮座している「久伊豆神社」と同様に、ある特定の一族で信奉されたお社である可能性が高い。そう考えると、事代主命の子孫である「長柄氏」の渡来地を「長柄」「長良」「永良」と称し、社をつくり、祖神の事代主命を祀った。
 本来は「長柄氏」のいずれかがこの地域に善政をした事項、恐らく利根川治水関係で業績を上げた人物と思われる(瀬戸井北の大沼の大蛇伝承を参照)が、時代が下るにつれて、年代が比較的近く、また藤原北家という毛並の良さも手伝って、いつの間にか「藤原長良公」が鎮撫したと書き換えられたのではなかろうか。
 何となく、この邑楽町の長柄神社由緒に記されている内容のほうが、筆者にはよりリアルに感じるのだが、如何であろうか。



参考資料「日本歴史地名大系」「千代田町 HP」「Wikipedia」「境内案内板」等
 

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小泉稲荷神社


        
              
・所在地 群馬県伊勢崎市小泉町231
              
・ご祭神 稲魂命(宇迦之御魂命) 大己貴命
              
・社 格 旧小泉村鎮守
              
・例祭等 月次例大祭 415日 中祭 121日 他
  
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.3385264,139.2549405,17z?hl=ja&entry=ttu
 下渕名大国神社から国道17号上部バイパスを伊勢崎方向に進行し、4.4㎞程先の「あずま跨道橋」交差点を右折する。群馬県道68号桐生伊勢崎線を北東方向に1.3㎞進むと、「小泉稲荷神社」の立看板のある変則的な十字路があり、そこを右折、その後早川に架かる朱色の「小泉稲荷橋」を渡るすぐ先に有名な小泉稲荷神社の大鳥居が見えてくる。
        
              小泉稲荷神社に通じる巨大な一の鳥居
       回りに大きな建物等がないため、鳥居の大きさがひときわ目立つ。
                
高さは22.17m。竣工は昭和56
                この大鳥居から東方向に500m程先に小泉稲荷神社が鎮座する。
『日本歴史地名大系』「小泉村」の解説
 利根川右岸で、北は下之宮(しものみや)村、南は沼之上(ぬまのうえ)村・飯倉(いいぐら)村、東の利根川対岸は柴(しば)町(現伊勢崎市)。下之宮村境に矢や川の旧河川敷が低地をなす。
 正保五年(一六四八)前橋藩によって検地が行われ、反別合計一九町余(小泉村誌)。「寛文朱印留」に村名がみえ、前橋藩領。寛文郷帳では田方二六石余・畑方八八石余。近世後期の御改革組合村高帳では旗本戸田領、家数一六。前掲村誌によると天明三年(一七八三)浅間焼けによる降灰は七、八寸に及び、水田三町歩が利根川を流下した泥土で埋没したと伝える。この泥入りで沼之上村との境界が不明となり、両村の村方三役が立会いで境界を定めた(「取替議定書」高橋文書)。

        
                          東向きの小泉稲荷神社正面鳥居
   この鳥居に対して横向きに奉納・寄進した大小300基もの鳥居が参列に並んでいる。
 嘗て京都の伏見稲荷神社に参拝したことがあったが、そこには不思議な美しさと神聖性が辺りを包んでいたように感じたが、この社はやや窮屈そうな印象は正直ぬぐえない。
        
         東向きの正面鳥居に対してズラリと並んだ南向きの鳥居群
       
                        濃密な鳥居のトンネル
          奥行きもあるため、鳥居の先がここからでは見えない。
       
           鳥居のトンネルを抜けると正面に拝殿が見える。
             
      境内には「拝殿屋根改修記念碑」があり、社の由緒等が記されている。
 拝殿屋根改修記念碑
 幾百年の歴史を胸に社前にぬかづくとき、なぜか心の安のやすらぎを感じる小泉稲荷神社
 御祭神稲魂命(うかのみたまにみこと)、大己貴命(おおなむちのみこと)をお祀りする小泉稲荷神社は、人皇十二代崇神天皇の御代に豊城入彦命が東夷征討の際、案内の武臣が勅命によって山城国伏見稲荷大明神の御分霊を奉紀し住民の安穏と五穀豊穣を祈願し崇敬の道を教えるため創建されたと伝えられている
 其の後、慶長五年(1600年)この地の領主久永源兵衛は崇敬の念が篤く社殿を修理し敬神の範を示したために領民からは氏神としたと云われる。特に江戸時代末期の祭礼日には近郷近在の参詣人で非常に賑わったと云われている。
 明治・大正時代を経て昭和初期社殿を改築する。その後、昭和三十六年四月社殿運営の奉賛会を組織し崇敬者の多数の御協賛により現在の社殿を造営する。以来、稲荷大明神の御神威益々輝き、霊験あらたかな御神徳を仰ぎ、幸福を願う崇敬者は現在数十万人にも及ぶ賑わしさになる。
 社前には二百数十基にも及ぶ鳥居が奉納されている。尚崇敬者の真心を顕現し小泉稲荷神社の神域の基礎と神威の象徴を明らかにするため大鳥居建設奉賛会を組織し、万余人に及ぶ崇敬者の御協賛をいただき昭和五十六年四月高さ二十二・一七メートルの大鳥居を竣工する。
 平成十七年十二月に拝殿屋根改修を行う。

 小泉稲荷神社の創建は、崇神天皇の時代に、毛の国開拓の祖神とされる豊城入彦命が、東夷征討の折に山城国伏見稲荷の分霊を祀って創建したものと伝えられている。但し伏見稲荷大社の創建時期は和銅年間(708年〜715年)といわれているので、「崇神天皇」の御代とは年代は会わないが、それだけ歴史も古く由緒もあったのであろう。
 平安時代には、耶無陀羅寺という阿弥陀寺の境内社になっていたという。その後、安土桃山時代の慶長5年(1600年)、当地の領主である久永源兵衛に篤く崇敬された。
 大正2年に大東神社に合祀されたが、後に戻されて氏子の管理となる。
 現在は、大東神社とともに国定赤城神社の兼務社。
        
                     拝 殿
 
              拝殿の扁額                 本 殿
「拝殿屋根改修記念碑」に記載されている「久永重勝(ひさなが しげかつ)」は、戦国時代から江戸時代初期の武将。別名  源五・源六・源兵衛。
 久永氏は石見国久永を名字の地とする賀茂氏(賀茂吉備麻呂)の末裔を称する一族で、祖父重吉の代に三河国額田郡に移って松平氏・徳川氏に仕えた。
 徳川家康に仕え、元亀3年(1572年)三方ヶ原の戦い、天正3年(1575年)長篠の戦いに従軍。天正12年(1584年)小牧・長久手の戦いでは敵兵2人を射殺す武功を上げ、家康より葵紋入りの矢筒と弓立を拝領し、遠江国榛原郡に200石を与えられた。天正18年(1590年)小田原征伐、天正19年(1591年)九戸政実の乱での陸奥岩出山城出張、文禄元年(1592年)肥前名護屋城出張に従う。名護屋城出張の際には自ら銀鞘の佩刀で出仕したために家康の感心を買い、兵糧300俵を賜っている。慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いにも従軍。
 慶長8年(1603年)からは徳川秀忠に属し、武蔵国児玉郡に550石を与えられる。のち弓頭となり、同心10人足軽50人を預けられ、所領も武蔵・上野・常陸に52百石を与えられた(ただし、内2千石は同心足軽の知行)。慶長10年(1605年)秀忠の上洛に随行。慶長14年(1609年)武者船没収が発令されると、九鬼守隆・向井忠勝とともに淡路国へ出張している。慶長16年(1611年)常陸・下野に群盗が蜂起すると、服部保正・細井勝久と共にその鎮撫を命じられ、案内人を催してこれらを鎮定した。のち下野大光院の普請奉行となる。慶長19年(1614年)大坂冬の陣のために出陣し、休戦後の大坂城総堀埋め立ての奉行となる。慶長20年(1615年)夏の陣にも出陣。家督は子の重知が継いだ。
 
   社殿左側奥に祀られている白狐納所     本殿奥には奥宮が鎮座。平成2210月に新築

 小泉稲荷神社の南西部は、東小保方町地域があるが、その地域に鎮座する大東神社境内周辺は嘗て「旗本久永氏陣屋跡」と云われている。現在の東小保方地区は江戸時代には東小保方村と呼ばれ、徳川家の旗本久永源兵衛重勝の領地であった。久永氏は石見国(島根県)の出身であり、埼玉や茨木にも領地が点在する禄高三二○○石の旗本である。
 東小保方村は石高が1182石の村であり、久永氏は村の支配のためにこの地に陣屋を設けました。陣屋は東西75m、南北120mの大きさで、濠や土居が構えられていた。濠はその後拡張されて池となってしまい、現在では南池の南端と西池の東端にわずかに当時の面影が残されているのみであるという。
 南面には正門を有し、更に南へと通路が続いて細長い大手枡形となり、南端には木戸が設けられていたものと思われ、この形は陣屋特有のものであり、県内でも吉井や岩鼻の陣屋がこれと同じ形になっている。
 明治維新後陣屋は廃され、一時期小保方小学校として使われると共に、大正2年には周辺の神社を合祀した大東神社がおかれ今日に至っているという。
        
                          元小泉神社の奉納手洗盤
        
             伊勢崎市指定重要文化財 元小泉神社奉納手洗盤
 この手洗盤は江戸時代末期の元治元年(1864)、現在地より約二百メートル西にあった稲荷社の御宝前に奉納されたものです。その後大正二年にこの稲荷社が大東神社に合祀された時に、手洗盤も大東神社に移されてしまいました。以後長い間大東神社に置かれていましたが、昭和六三年、関係者の協力により現在地へ移転されたものです。
 手洗盤の正面には、旗本久永領陣屋元役人清水氏の時に近郷の香具師の張元(伊勢崎の銭屋、境の不流一家、赤堀の小松屋)が世話人となって奉納された事が記されており、残り三面には願主の田村丹治良・惣治良をはじめとする小泉・大原等近村の百姓約百名の献金者の名前が記されています。
 江戸末期において商業資本が農村地域に浸透しつつあった事とあわせて、現世利益の稲荷信仰の歴史をみる上で大変貴重なものです。(以下略)
                                      案内板より引用
 
                現在の手水舎(写真左・右)
        
           駐車スペース角に並んで祀られている石祠・石碑群
 境内の目立たない場所にひっそりと祀られているわけではないが、何となく丁重な扱いを受けてないような気がする。筆者としては、むしろこちらのほうが、地域に密着した歴史をもつ大切な宝物ではなかろうか、とふと感じた次第だ。


参考資料「日本歴史地名大系」「Wikipedia」「境内案内板・記念碑文」等
    

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妙義神社摂社・波己曽神社

 妙義山は、今から約6400万年前のカルデラを伴う火山の噴出物でできており、活動後の長年の浸食でカルデラ内の硬い火山の石だけが浸食に耐えて、現在の聳えるような岩山になった。
 妙義神社は、奇岩と怪石で名高い妙義山の主峰白雲山の東山麓にあり、老杉の生いしげる景勝の地を占めている。創建は「宣化天皇の二年(537)に鎮祭せり」と社記にあり、元は波己曽(はこそ)の大神と称し後に妙義と改められた。
 鎌倉時代までは妙義山は「波己曽山」と呼ばれ、周辺の行田、八城、二軒在家、中里、古立、行沢(波古曽神社)、大牛、諸戸(現在の吾妻耶神社)、菅原(菅原神社に合祀)などの集落には波己曽山を御神体として信仰する波己曽神社が複数社存在し、特に著名な7社は七波己曾と呼ばれていたという。妙義神社の波己曽社がその本宮的な存在とされる
 この中で行沢の波己曽神社、諸戸の波己曽神社(吾嬬者耶神社)は現存している。
        
              
・所在地   群馬県富岡市妙義町妙義6(妙義神社内)
              
・創建・建立 明暦2年(1656年)
              
・指 定   群馬県指定重要文化財
 妙義神社の総門近くに鎮座する摂社・波己曾神社。途中までの経路は妙義神社を参照。
 社の入り口のような存在である総門の先にはやや左側にずれるように石段があり、上った先に銅鳥居があるが、そのすぐ右手奥には波己曾神社が鎮座する。
 因みに摂末社(せつまつしゃ)とは、神社本社とは別に、その神社の管理に属し、その境内または神社の附近の境外にある小規模な神社のことで、摂社(せっしゃ)と末社(まっしゃ)と併せた呼称である。枝宮(えだみや)・枝社(えだやしろ)ともいう。
現在は摂末社に関する規定は特にないが、一般には、摂社はその神社の祭神と縁故の深い神を祀った神社、末社はそれ以外のものと区別され、格式は本社が最も高くそれに次いで摂社そして末社の順とされる。本社の境内にあるものを境内摂社(けいだいせっしゃ)または境内社、境外に独立の敷地を持つものを境外摂社(けいがいせっしゃ)または境外社という。
        
                             妙義神社 摂社 波己曾神社正面
「上野国風土記」に「妙義大権現社記」があり、これによると宣化天皇二年(537年)に鎮座、とあるほか、一書に宝亀年中(770180年)草創とあり実は波己曽神社なるを・・・と記されている。主祭神は日本武尊。(妙義町誌下)537年鎮座が正しいとすれば、1480年ほどの長い歴史を有することとなる。
 また波己曽神社が妙義神社の前身であり、妙義の地主神と伝えられ現在でもそう変わりはないように思われる。平安時代の「上野国交替実録帳」には、波己曽神社は美豆垣、荒垣、外垣と垣が三重にめぐらしてあったと記される。この頃までは社殿はなかったといわれ、波己曽神社と社務所の間にある大岩・影向岩が磐座として信仰の対象で祭祀場であったとされる。この方式は日本最古の神社ともいわれる奈良の大神神社と似ている。大神神社は三輪山そのものをご神体として社殿を持たないが山上には三つの磐座が存在する。
        
                              拝 殿
 波己曾社(県指定重要文化財)
 妙義神社の前身は石塔寺であり、そのまた前身が波己曽神社であろう。波己曽神社は白雲山にあり、妙義山の信仰は金洞山や金鶏山よりも白雲山を中心に信仰を集めていた
妙義神社には、元々波己曽神が主祭神として祀られていたが、神仏習合により妙義大権現が主祭神となり、現在では日本武尊となっている。そして今では、波己曽神社は境内摂社に格落ちした形になった
 波己曽神社の信仰は古来よりのもので社殿は建立されていなかった。「波己曽」の由来は「いわこそ」であり、長い間に「い」が失われて「はこそ」になったものと考えられている
「いわ」は岩であり大昔は大岩が自然崇拝・信仰の対象になっていた
波己曽神社のご神体は、現在の妙義神社社殿北東の奥の院への登り口にある「影向岩」(えいごういわ)であったと推測される。
 奥の院は「大の字岩」の奥の岩窟であり、幅は約六メートル、奥行き約十メートル、高さ十メートルという大きなものである。
 大黒天や観音の石仏が祭られて山岳信仰の岩窟に似つかわしいものである。影向岩には注連縄が張られ、毎年十二月の「すすはらい」のときは未婚の男子が身支度をして清掃している。
 一説には、この大岩は天から降ってきたと伝えられている。物凄い音を立てて降ってきたが、ここが居心地が良いというので納まったまま苔むしたという。波己曽神は、往昔、そびえ立つ岩石を真下に立って仰ぎ眺めた先住人たちが、今にも倒れ落ちて自分の頭上に押しかぶさってくるのではないかと恐怖を感じたので、山の神信仰のように危難を免れるために祈願して祭ったものと言い伝えられている。
「上野国交代実録帳」に記された三重の垣を廻らした波己曽神は、古代信仰によるものであったから社殿を必要としていなかった。三重の垣とは、美豆垣壱廻、荒垣壱廻、外垣壱廻と表現されている。
 鎌倉時代までは妙義山は「波己曽山」と呼ばれ、周辺の行田、八城、二軒在家、中里、古立、行沢(波古曽神社)、大牛、諸戸(現在の吾妻耶神社)、菅原(菅原神社に合祀)などの集落には波己曽山を御神体として信仰する波己曽神社が複数社存在し、特に著名な7社は七波己曾と呼ばれていたという。妙義神社の波己曽社がその本宮的な存在とされる。
 
   拝殿正面右側に設置されている標札            拝殿内部
        
        
                  波己曾神社 本殿
『日本歴史地名大系 』「波己曾社」の解説
 [現在地名]妙義町妙義
 妙義神社境内に鎮座する。同社の地主神で、前身であると考えられている。白雲山麓の諸戸(もろと)・行沢(なめざわ)や碓氷郡松井田町行田(おくなだ)に鎮座する七波己曾社の中心。「三代実録」貞観元年(八五九)三月二六日条に「授上野国正六位上波己曾神従五位下」とあり、元慶三年(八七九)閏一〇月四日に従五位上、同四年五月二五日に正五位上勲一二等に叙せられた。
 長元三年(一〇三〇)の「交替実録帳」には「碓氷郡 勲十二等波已曾神社 美豆垣壱廻 荒垣壱廻 外垣壱廻」とあり、総社本「上野国神名帳」でも碓氷郡に記され「従二位波己曾大明神」とある。江戸の国学者奈佐勝皐が天明六年(一七八六)上野・下野両国を調査見学した際の日記「山吹日記」五月四日の条で、妙義神社境内に入ったのち「左りの方に出れは波古曾の御神います、これも御社いときよらなり、此御神は神名式には載られねとも、三代実録にしはしは見えたるふるきみやしろなれとも、今はかく側にいますやうになり、おしなへてはしる人もなし」と記す。
       
       社殿左側に鎮座する厳島神社   波己曽神社の敷地内に設置された
                        『妙義神社再建事業記念碑』



参考資料「日本歴史地名大系」「ニッポン旅マガジンHP」「Wikipedia」「妙義神社HP」等

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妙義神社

「上毛三山」は群馬県が誇る代表的な山である。赤城山・榛名山・妙義山を指し、三山にはそれぞれ赤城神社、榛名神社、妙義神社が鎮座し、人々は各山に宗教的意味を与えて崇拝、または種々の儀礼を行ってきた。
 妙義山は群馬県甘楽郡下仁田町・富岡市・安中市の境界に位置し、九州の耶馬渓・四国の寒霞渓と並んで、日本三大奇景の一つとされる山であり、国の名勝に指定され、日本百景にも選定されている。標高は1,104mと決して高くはないが、そのギザギザと尖った奇岩が乱立し、表面に露出した荒々しい岩肌が創り出す自然景観の美しさが特徴的な山である。
 その絶壁と奇岩怪石が成す山容は浮世離れした雰囲気を醸しており、古くから信仰の対象となっていた。妙義神社は「上毛三山」の一つである妙義山の東麓に鎮座し、妙義山信仰の中心となっている神社である。江戸時代は関東平野の北西に位置し、江戸の乾(戌亥)天門の鎮めとして、家運永久子孫繁昌を願って歴代の徳川将軍家に深く信仰され、加えて加賀の前田侯外諸大名の崇敬も篤かったという。
        
             
・所在地 群馬県富岡市妙義町妙義6
             
・ご祭神 日本武尊 豊受大神 菅原道真公 権大納言長親卿
             
・社 格 国史現在社(波己曽神)旧県社
             
・例祭等 例祭 415日 山開き祭 55日 紅葉祭 113
   
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.2998804,138.7652371,15z?hl=ja&entry=ttu
 群馬県富岡市に鎮座する一之宮貫前神社から群馬県道47号一ノ宮妙義線・同県道191号妙義山線で約11㎞先にある妙義神社。県道47号線・191号線の交点である「北山」交差点辺りからは、ほぼ正面に妙義山の稜線がハッキリと見え、表面に露出した荒々しい岩肌が真近かに見えてくる。
 妙義神社の正面鳥居から道を隔てた向かい側には「道の駅みょうぎ」があり、そこには十分な駐車スペースも確保されている。
*参拝日 2021年(令和3年)12月11日。
        
              「道の駅みょうぎ」から見る妙義山
 妙義山は、赤城山、榛名山と共に上毛三山の一つに数えられ、白雲山・金洞山・金鶏山・相馬岳・御岳・丁須ノ頭・谷急山などを合わせた総称で、南側の表妙義と北側の裏妙義に分かれている。特に下仁田側から眺望できる金洞山 (1,094m) は別名中之嶽と呼ばれ、親しまれてきた。奇岩がいたるところに見られる妙義山の中でも中之嶽の景色は、中腹を巡る第1石門から第4石門を始め、ロウソク岩・大砲岩・筆頭岩・ユルギ岩・虚無僧岩といったユニークな名前の岩石群は日本屈指の山岳美と讃えられている。
『妙義』の名称の由来は諸説あり、後醍醐天皇に仕えた権大納言長親卿が、この山を眺め、明々巍々(めいめいぎぎ)であるところから「明巍」と名付けた事が、後に「妙義」となったと言われた説や、威厳があることを表す「明々巍々(めいめいぎぎ)」と例えられたことが名前の由来となったという説もあるが、実際のところは不明である。
        
                                  妙義神社正面大鳥居
 史実によれば「権大納言長親卿」と記載されているこの人物の本名は花山院長親(かさんのいん ながちか)で、南北朝時代から室町時代にかけての公卿・学者・歌人・禅僧。生年は1347年といわれ、後醍醐天皇の崩御した1339年からかなり後代になってから南朝で活動した人物であり、両者の接点はないに等しい。正長2年(1429年)710日に薨去。享年83ともいい、終焉の地に関しては遠江国耕雲寺説や上野国妙義山説も嘗てあったようだが、長親が晩年地方に下ったとする史料はなく、やはり京都東山の耕雲庵にて薨去したとみる説が有力であるようだ。
       
 妙義神社正面鳥居を過ぎて、上り坂の道を進む。最初は両側に売店も数店あるが(写真左)、社の社号標柱の地点からは境内となり、厳かな雰囲気と変わる(同右)。
        
     社号標柱を過ぎて、上り坂を登り詰めると正面に朱を基調とした総門がある。
        朱色にカラフルな色彩が素晴らしい正に妙義神社の入り口のような存在。
 旧白雲山石塔寺の仁王門だったが、神仏分離の時代を経て現在は神社の総門となっているが、左右に仁王像が祀られている。江戸時代後期(1773年)の建立。三間一戸八脚門、切妻造、銅板葺。国指定の重要文化財(昭和56年・1981 65日)となっている。

 妙義神社総門(旧白雲山石塔寺仁王門)
 石塔寺(神仏習合の妙義大権現)の旧寺域には社務所(建立年代不詳)と御殿(嘉永6年/1853年築)が置かれています。 総門は、安永2年(1773)築で、国の重要文化財。
 江戸時代後期の八脚門の代表的な遺構となっています。
 白雲山石塔寺の仁王門だったので、廃仏毀釈で石塔寺が廃寺となり、妙義神社の総門となった現在も左右に仁王像が祀られています。
 総門をくぐると銅鳥居で、その先に165段の石段がありますが、平成17年のNHK大河ドラマ『義経』で、牛若丸が修行する鞍馬山の設定でロケ地となったところ。
 ちなみに石塔寺は、房州の石堂寺(いしどうじ/南房総市/当初は「石塔寺」)、近江の阿育王山石塔寺(いしどうじ/東近江市)とともに日本三石塔寺に数えられていました。
                                「妙義神社公式HP」より引用

        
                    総門の近くに設置されている「妙義山歩道」の案内板
        
    総門の先には石段が2か所あり、2番目で斜め左側の石段の先には銅鳥居がある。
                 群馬県指定重要文化財 

             
               銅鳥居の左手前側には3本の大杉が聳え立つ。
                   通称「三本杉」
 妙義神社・唐門の石段からほぼ直線上にこの3本の杉があり、また3本の杉の木の真ん中には不思議な気の流れがあるようで、この空間に入り、お願い事をする方が多いようだ。妙義神社一のパワースポットと言われている。 
        
 銅鳥居から参道を進んで石造の「太鼓橋」を渡ると、上部神域へと一直線に延びる165段の石段が見えてくる。
       
                165段の勾配のある石段を撮影。
 写真左側は上部神域へと一直線に延びる石段の様子。右側は石段から下の風景を撮影したもの。石段は上に上がるにつれ、樹木の根に押されたためか、異様に凸凹しているところが何カ所かあり、正直きつい。途中何度か休憩を入れながらやっと終点までたどり着くことができた。
       
                 石段を上り切った先が神域の入口となる隋神門
                              この門も群馬県指定重要文化財
        
                     唐 門    
 隋神門を潜りぬけて、左側に曲がり、右側に見える石段を上り切ると豪華絢爛な唐門が見えてくる。-宝暦六年(1756年)の建立。妻を唐破風にした銅茸平入りの門で、これらの建物の周囲は彫刻でもって埋められている。昭和56年(1981年)65日国重要文化財に指定。
       
                                  唐門を裏側から撮影
       
                                     拝 殿
 国重要文化財 本殿・幣殿・拝殿(合わせて1棟、権現造)
 江戸時代後期(1756年)の建立。本殿、桁行三間、梁間二間、一重、入母屋造。幣殿、桁行三間、梁間一間、一重、両下造。拝殿、桁行三間、梁間二間、一重、入母屋造、正面千鳥破風付、向拝一間、軒唐破風。

 創建は、宣化天皇2年(537年)と伝わる。
 元は波己曽(はこそ)の大神と称し後に妙義と改められた。神仏習合時代、妙義神社には別当(神社を管理する寺)として上野寛永寺の末寺である白雲山高顕院石塔寺があった。現在の妙義神社の総門は、明治の初めに廃寺となった石塔寺の仁王門である。神社の総門となった現在も、左右に仁王像が祀られている。
 現在の社殿は、宝暦年間(1751 - 1764
年)の大改修によるものである。古くは波己曽(はこそ)神社といい、『日本三代実録』に記載がある。
 
    拝殿上部に掲げてある黄金の扁額             拝殿内部
             
              社殿の奥に回ると、天狗社がある。
 妙義山には天狗が住むという言い伝えがあるそうで、天狗は一部の山伏が死後に転生した姿だとも言われている。ここにも妙義山が山岳信仰の山である事がわかる。
        
                     本 殿

 参拝中、ふと思ったことがある。日本人にとって「山」とはどのような存在、対象物であったのだろうかと。
 日本の国土面積の約 4 分の 3 は山地や丘陵地である。関東平野などの一部の地域を除けば、ふと周りを見渡せば、何かしらの山を見ることができよう。それ程山は身近な存在である。
 しかし一部の山は里人も崇める程度に留める「霊山」として祀られる場所も多々存在する。
 日本の古神道においても、水源・狩猟の場・鉱山・森林などから得られる恵み、雄大な容姿や火山などに対する畏怖・畏敬の念から、山や森を抱く山は、神奈備(かんなび)という神が鎮座する山とされ、神や御霊が宿る、あるいは降臨する(神降ろし)場所と信じられ、時として磐座(いわくら)・磐境(いわさか)という常世(とこよ・神の国や神域)と現世(うつしよ)の端境として、祭祀が行われてきた。これらの伝統は神社神道にも残り、石鎚山や諏訪大社、三輪山のように、山そのものを信仰している事例もみられる。
 山そのものを神体としたり,山の神と田の神が交代する信仰や山人伝承,死霊が山にとどまり祖霊化する信仰等は,こうした観念に基づく。

 その後飛鳥時代に伝来されたという仏教においてでも、世界の中心には『須弥山(しゅみせん)』という高い山がそびえていると考えられ、平安時代に空海が高野山を、最澄が比叡山を開くなど、山への畏敬の念は、より一層深まっていった。平地にあっても仏教寺院が「○○山△△寺」と、山号を付けるのはそのような理由からである。
 日本における、山岳修行の開祖は役小角(えんのおづぬ)ではあるが、山岳信仰が本格的に日本古来の古神道や、後に伝来してきた仏教(特に天台宗や真言宗等の密教)への信仰と結びついて、「修験道」という独自の宗教が生み出されるのは平安時代からである。
 修験道は、森羅万象に命や神霊が宿るとして神奈備(かむなび)や磐座(いわくら)を信仰の対象とした古神道に、それらを包括する山岳信仰と仏教が習合し、密教などの要素も加味されて確立した。
 平安中期以降山岳修行により呪術的な力を獲得して宗教活動をする山伏(修験者)が出現して,日本の山岳信仰を特徴づけた。修験者の指導によって講が組織され,本来仰ぎみる信仰対象であった山岳は,しだいに参詣登拝の対象となる。霊山・名山の多くは江戸時代に庶民の登拝対象になった。明治期以降うまれた多数の教派神道は,こうした山岳を拠点としているとの事だ。


 社殿での参拝を終了し、帰りは一般参道ではなく、外回りのルートを利用した。この一帯も境内で、手入れも行き届いていて、水神社や愛宕社等の石祠が祀られている。
      
           水神社の石祠         水神社の南側には愛宕社が鎮座
 
 この下り坂のルート途中には多くの大岩・巨岩が見られる(写真左・右)。考えてみれば、山岳信仰は、山を崇め奉る信仰である。この信仰は基本的には山や、山にある大木、巨大な岩を信仰母体とすることが多い。
 


参考資料「妙義神社公式HP」
「山川 日本史小辞典 改訂新版」「日本大百科全書(ニッポニカ)
    「ニッポン旅マガジンHP」「Wikipedia」等

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