古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

渕名神社

 平安時代も終わりに近い12世紀初頭の天仁元年(1108)、上野国と信濃国境に聳え立つ浅間山の大噴火により、上野国一帯に噴出物が降り積もり、田畑に壊滅的な打撃をもたらした。天仁大規模噴火ともいう。当時京の公卿であり、右大臣にまで昇進した藤原宗忠が寛治元年(1087年)から保延4年(1138年)まで書いた日記である『中右記』(ちゅうゆうき)にもこの当時の様子が記されている。藤原宗忠は摂関政治から院政への過渡期の公卿として、その時代の動きや自身の身辺での出来事、また、重要な人物との接触や、その活動についての自身の意見や評価を日記として残し、その時代をつかむ上で重要な史料を後世に提供した重要人物でもあり、『中右記』は平安時代後期の趨勢を知る上で貴重な史料ともいえる。
 この日記によれば、天仁元年95日の条に、この年の40年も前の治暦年間(1065 - 1069年)に噴煙が上がっており、その後も少しではあるが噴煙が上がり、同年721日になって突然、大噴火を起こした。噴煙は空高く舞い上がり、噴出物は上野国一帯に及び、田畑がことごとく埋まってしまった、と記されている。
 復興のために開発した田畑を豪族が私領化し、さらに荘園へと発展したため、この噴火は上野国の荘園化を促すきっかけとなったともいう。
 天仁大規模噴火は天明の大噴火よりも大規模な噴火だったとされていて、最近、12世紀初めの北半球の気温が約1℃低下したことや欧州における暗い月食、数年間の異常気象、大雨や冷夏による作物の不作と飢饉の原因が浅間山の噴火であった可能性が示唆されている。
 藤原秀郷の子孫で佐位郡に勢力を持つ渕名太夫兼行(ふちなたゆうかねゆき)は、1108年の浅間山の大噴火で荒廃した土地を再開発して「渕名荘」が成立した。
        
            
・所在地 群馬県伊勢崎市境上渕名993
            
・ご祭神 保食命
            ・
社 格 旧村社
            
・例祭等 祈年祭 217日 春季例祭 4 3日 例大祭 1017
                 
神迎感謝祭 旧111
 国道17号バイパスである上武道路を伊勢崎方向に進み、群馬県道2号前橋館林線との交点である「上渕名上武道下」交差点を右折する。因みに上武道路は高架橋であるので、交差点の手前で左車線に移り、高架橋を下がり、少し進んだ「上渕名上武道下」の交差点を右方向に進む。
 県道合流後1㎞強程進むと、利根川支流である早川の西側に隣接している渕名神社に到着する。
        
                県道沿いに鎮座する
渕名神社
「渕名」の地名由来として、『伊勢崎風土記』によると、第11代垂仁天皇9年に風雨不順によって人々が苦しめられていたため、天皇は百済車臨を東国に派遣した。車臨は当地に至り御手洗池で手を洗う大国主命と出会い、国家の難の平定を願った。すると大国主命の姿はなくなり、その跡に淵が出来たのが、「渕名」の地名由来との事だ。
        
                     道路に面して赤い鳥居、その先に石の鳥居がたつ。
    境内には銀杏の大木が茂り、字名「銀杏」もこれに由来したものといわれる。

 この社一帯は嘗て「淵名荘(ふちなのしょう)」と言われていた。この荘は、上野国佐位郡(現在の群馬県伊勢崎市)にあった荘園。郡のほぼ全域が荘域であったことから、佐位荘(さいのしょう)とも称された。
「仁和寺法金剛院領目録」に同荘の名前があり、同院の創建が大治5年(1130年)であることから、その前後に仁和寺領として成立したとみられている。秀郷流の藤原兼行(淵名兼行)が「淵名大夫」の異名で呼ばれており、彼もしくはその子孫である藤姓足利氏が開発に関わったとみられている。また、付近にある女堀(未完成)の開削にも関わったとする見方がある。足利氏の没落後、中原季時や北条実時(金沢実時)が地頭を務めたが、霜月騒動を機に支配権が金沢家から北条得宗家に移った。得宗家は被官の黒沼氏を淵名荘に派遣したが、西隣の新田荘を支配する新田氏と境相論を起こしている。後に両者は協調に転じるが、元弘3/正慶2年(1333年)に新田義貞が黒沼彦四郎を処刑したことを機にこの関係に終止符を打った。
        
                                  石製の二の鳥居
 室町時代に入ると、室町幕府によって領家職が走湯山密厳院に寄進されるが、現地の武士である大島氏(新田氏系)や赤堀氏(藤姓足利氏系)、守護の上杉氏などの勢力が強く、本家である仁和寺・領家である密厳院の上級支配権は有名無実と化していった。なお、同荘に属する赤石郷が戦国時代に由良成繁によって伊勢神宮に寄進され、後に「伊勢崎」と呼ばれるようになったという。
        
                     拝 殿
 
 社殿手前左側には「
渕名神社社殿新築記念碑」があり(写真左)、同殿左側には旧社名である「熊野神社」の案内板(同右)が設置されている。

「淵名神社社殿新築記念碑」
 由緒
 当社は奈良時代の創建と伝えられ、鎌倉時代に至って、豪族淵名大夫光行の篤い崇敬を受けて、その氏神として祭祀されたとも伝えられている。
 天下争乱の戦国時代に一時荒廃したが、郷民崇敬によって修復され、明治六年には、村社に列せられている。
 現在の社殿は熊野神社と称された時のもので、明治の頃に上淵名の鎮守である飯玉大明神を合祀した際に淵名神社と改称し「保食命」を主祭神とした。
 同時期、近傍に祭祀されていた「金山大権現」「赤城神社」「諏訪神社」「神明宮」「天満宮」「稲荷神社」なども合祀し、今に至る。
 境内には以前、樹齢三百余年以上あると思われる、見上げるばかりに大きな銀杏の古株が有り、字名を銀杏と称される程であった。しかも、この大銀杏の樹皮を産婦が用いると乳の出が良くなると伝えられ神社に祈願してその分与を乞う者も多かったという。

 拝殿東隣に設置されている案内板 
熊野神社」
 上淵名(いま淵名神社)祭神 須佐之男尊
 淵名神社になって「保食命」
1)奈良時代に創建されたと伝う。
 鎌倉時代に至り豪族淵名大夫光行の崇敬が篤く氏神として祭祀した。
 戦国時代に一時社殿が荒廃したが郷民の崇敬によって修復され古来より十二月二十九日に例祭が営まれた。
 明治に至るまでの境内に目通り十六尺の大銀杏があり婦人がこの樹皮を用いると乳がよく出るといわれて奉賓が盛んであった。今の此の地を字銀杏というのはその為である。
2)昔、上淵名の鎮守は飯玉大明神であった。
 村の東南方淵名から東新井に通じる道端にあったが明治に熊野神社に合祀して淵名神社と改めた。
 いま、淵名神社の御神体は飯玉大明神の御神体を納めるもので古来からあった熊野神社の御神体はこの時放り出されてしまい大家が店子に追い出された形となった。
 天保年間、村内にあった神社は村の西方に「金山大権現萬蔵」、東に「赤城神社」、もと長命寺前に「諏訪神社」、南方に「神明宮」、横町に「天神様萬蔵東」と「比丘尼塚」、阿弥陀山に「稲荷神社」があったが明治に淵名神社に合祀された。

「淵名神社社殿新築記念碑」と社殿東側の「案内板」には、創建等由来に多少の表現の違いがある。「淵名神社社殿新築記念碑」では上淵名の鎮守である飯玉大明神を合祀し、社号を淵名神社と改称、並びに「保食命」を主祭神とした際の経緯をサラッとに載せているのに対して、「案内板」のほうでは、「古来からあった熊野神社の御神体はこの時放り出されてしまい大家が店子に追い出された形となった」と、明治期の神社合祀時に御祭神の交代等に伴う熊野神社側氏子の不満を露骨に載せている。
        
                 拝殿に掲げてある扁額
 
 社殿左側には「奉納奥社」との社号額が記されている鳥居が立ち(写真左)、その先には幾多の石祠・石碑等が立ち並ぶ(同右)。
 石祠・石碑群は左側から「二十三夜塔」「道祖神」「大黒天」「庚申塔」「猿田彦大神」「?」「?」「?」「飯玉神社」「富士浅間宮」「諏訪神社」「秋葉山神社」「?山神社」「?」「豊玉姫神」が祀られている。
        
       社の東側には南北に早川が流れ、長閑な農村風景が広がっている。
  よく見ると境内の東側隅には石祠がポツンと祀られていた。弁財天の祀る石祠である。
                  どのような経緯であの場所に祀られているのだろうか。


参考資料「中右記」「Wikipedia」「伊勢崎風土記」「境内案内板等」等
            

拍手[2回]


貴先神社

 日光例幣使街道(にっこうれいへいしかいどう)は、江戸時代の脇街道の一つで、徳川家康の没後、東照宮に幣帛を奉献するための勅使(日光例幣使)が通った道である。
 中山道倉賀野宿東の追分を北側に入り、柴宿、太田宿、栃木宿などを経て楡木宿の手前の追分で壬生通り(日光西街道)と合流して日光坊中へと至る。現在群馬県高崎市から伊勢崎市、太田市、栃木県足利市、佐野市、栃木市、鹿沼市、日光市に至る道路が「日光例幣使街道」又は「例幣使街道」と呼ばれている。
 その街道沿いには15カ所もの宿場町が存在していて、6番目の宿が「木崎宿」である。この宿場町は、木崎村を東西に貫く日光例幣使街道沿いにあり、地元の伝承では初め「大明神前通り下田之頭辺」にあった家並が戦国期に「本宿」へ移り、さらに街道沿いに移って宿並ができたとされ、飯売女を置いた旅篭屋が多くできていたという。
 宿場で唄われた木崎音頭(木崎節)は、越後から木崎に年季奉公にきた飯売女が伝えたといわれている。越後から多くの子女が奉公という名目で身売りされ飯盛女として苛酷な生活を強いられ、彼女たちはこの寂しさから、故郷や家族を忍び、宴席で子供の頃覚えた歌を歌ったのが木崎節の始まりと言われている。
 その後八木宿(栃木県足利市)で生まれた堀込源太は木崎節を風土に合わせた威勢のよい節に替えて、生地の八木をとって八木節としたと伝えられている。源太は「源太一座」を組織し、周辺各地で興業し好評を博したといわれていて、木崎節が八木節の元唄であることは、多くの民謡研究家にも認められている。
 なお平成17328日、合併に伴いに改めて新市の指定重要無形民俗文化財として指定されている。
        
             
・所在地 群馬県太田市新田木崎町甲637
             
・ご祭神 須勢理比売命
             
・社 格 旧木崎宿総鎮守 旧村社
             
・例祭等
 新田下江田矢抜神社とその東側にある最勝寺の間の道路を北上し、東武伊勢崎線、国道354号新田太田バイパスを越えた群馬県道312号太田境東線との交点である十字路を右折する。この県道は嘗て旧日光例幣使街道であったのだが、その道路を東行し、県道332号桐生新田木崎線が合流する交差点から少し南下した所に貴先神社は鎮座する。
        
                   貴先神社正面
 
          一の鳥居                               参道の様子
 境内は鬱蒼とする大木で覆われ、境内社や石祠、石碑、石灯籠等も数多く建立されていて、社の規模はやや小さいものの境内は落ち着いた雰囲気になっている。(*但し社殿裏手にある社務所や公園等を境内として含むのであればかなりの広さともいえよう)
        
                  拝殿前の二の鳥居
        
                      拝 殿
 貴先神社のご祭神は須勢理比売命(すせりびめのみこと)である。この神は、『古事記』『出雲国風土記』等に見える女神で、『古事記』では須勢理毘売命、須勢理毘売、須世理毘売、また『出雲国風土記』では和加須世理比売命(わかすせりひめ)と表記されている。但し『日本書紀』にはみえない。
 誕生までの経緯は不明であるが、須佐之男命の娘であり国津神である大国主神の正妻。
 根国(ねのくに・地底の国)にきた大己貴神(おおなむちのかみ・大国主神の前身)と結ばれ、夫が父から課せられる難題を解決するのをたすけ、父の宝物をもって夫に背負われて根国を脱出した。大己貴神は、須勢理毘売命を妻にして初めて大国主命(おおくにぬしのみこと・葦原中国の支配者)となることから、巫女(みこ)王的本質をもつといえる。
        
                                 拝殿向拝部の精巧な彫刻
                          木鼻部左右の彫刻も見事である(写真左・右)
 ところで大国主神は先に結婚した八上比売との間に、須勢理毘売命より先に子を得ていたが、八上比売は本妻の須勢理毘売命を畏れて木俣神を置いて実家に帰ってしまった。
 また、八千矛神(=大国主)が高志国の沼河比売のもとに妻問いに行ったことに対し須勢理毘売命は激しく嫉妬し、困惑した八千矛神は大倭国に逃れようとするが、それを留める歌を贈り、二神は仲睦まじく鎮座することとなったという。
 スセリビメの持つ激情は、神話において根の国における自分の父の試練を受ける夫の危機を救うことに対して大いに発揮されるが、一方で夫の妻問いの相手である沼河比売に対して激しく嫉妬することによっても発揮される。この嫉妬の激しさは女神の偉大な権威を証明するものだという説がある。
 また「須勢理」は「進む」の「すす」、「荒ぶ」の「すさ」と同根で勢いのままに事を行うこと、「命」が着かないことを巫女性の表れと解し、「勢いに乗って性行が進み高ぶる巫女」と考えられる。
        
              本殿裏側の破風部位の彫刻もまた見事 
 
          境内に祀られている幾多の石祠・石碑等(写真左・右)

 太田市新田木崎地域に鎮座する貴先神社は、古くから木崎宿の総鎮守として信仰を集めてきた神社である。須勢理比売命は大国主命の后(きさき)だった事から貴先(きさき)という社名になったと云われ、貴先から木崎という地名が生まれたという。また木崎宿は飯盛女の多い宿とされ、総鎮守である貴先神社は彼女達から信仰の対象になっていたという。
        
                  境内社・八坂神社
        
       八坂神社拝殿上部に掲げてある扁額。扁額周辺にも精巧な彫刻が施してある。
        
 八坂神社の右隣に祀られている境内社。但し覆屋内には立派な本殿があり、狐像も見えるので、稲荷社の可能性もある。

 貴先神社の社殿裏手に当たる北西側には、社務所や公園が併設され、子供達の遊び場・遊具もあり、敷地内は綺麗に整備されている。その一角に「新田の名木」と記されている案内板がある。
        
                                       新田の名木
                             樹木名 ヒヨクヒバ(比翼檜葉)
                             所在地 貴先神社境内
                             樹 齢 二~三〇〇年
                             目通り 三.七メートル
 一般的には「イトヒバ」と呼ばれ、わが国では本州の東北中部以南、四国、九州まで植栽し、樹形は楕円形。日当たりのよい場所で、土壌は乾湿中庸な肥沃土を好む。生長はやや遅いが萌芽力があり、刈込みに耐える。潮害にやや弱く、煙害には中程度。
 比翼とは二羽の鳥が互いにその翼をならべることの意がある。(以下略)
       
                
新田の名木(写真左・右)


参考資料「太田市HP」「日本大百科全書(ニッポニカ)」「日本歴史地名大系 木崎宿」
    「Wikipedia」等


拍手[1回]


新田下江田矢抜神社


        
               
・所在地 群馬県太田市新田下江田町500
               ・ご祭神 經津主命
               ・社 格 旧村社
               ・例祭等 4月 春祭り 11月 秋祭り
 埼玉県熊谷市西別府の上武インターチェンジ(深谷バイパス分岐)から群馬県前橋市田口町に至る国道17号バイパスである上武道路を伊勢崎方向に向かう。利根川を越え、暫く道なりに4km程直進し、「尾島第二工業団地」交差点を右折すると、すぐ北側正面に新田下江田矢抜神社の赤い鳥居が見えてくる。
 社の南側には利根川支流である石田川が流れ、西側には広大な田園風景が広がる静かな場所に鎮座する。まさに村の鎮守様といったような第一印象。
        
                 新田下江田矢抜神社正面
 今回全く事前準備等なく参拝したので、この社に関する予備知識なし。なんでも「二ツ塚古墳」と呼ばれる古墳墳頂に鎮座しているようだが、実見してもその実態はよくわからなかった。

    鳥居上部に掲げてある社号額         緑の社叢に囲まれた境内と参道 
 この地域は、新田氏の一族の江田氏の領地で、その頃は江田郷と呼ばれたそうだが、南北朝の戦いで新田氏が敗れたため、足利氏によって分割されてしまったという。
 江田氏は上野国新田郡世良田郷を支配する清和源氏新田氏流世良田氏一族。この地域は、新田氏の一族の江田氏の領地で、その頃は江田郷と呼ばれたそうだ。
 鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて活躍した新田義貞の一族で家臣である江田行義(えだ ゆきよし)はこの地に領地を持っていた。官途は修理亮・兵部少輔(大輔とも)で世良田有氏の子。『太平記』によれば元弘3年(1333年)5月、惣領家の新田義貞の挙兵に従い、鎌倉の戦いにおいて同族の大舘宗氏と共に極楽寺坂方面の大将を務めたとされる。しかし史料上では江田氏の極楽寺坂における活躍の様子は確認できず、実際は江田氏の本家筋にあたる世良田満義が大将を務めていたという指摘がある。建武政権では、武者所三番頭人を務めた。
        
                    拝 殿
 建武2年(1335年)に足利尊氏が政権から離反すると、義貞に従い足利氏一派の追討にあたり、新田軍の中核として活躍した。延元元年(1336年)3月に尊氏が九州へ逃れた際には、病気の義貞に代わり大舘氏明と共に中国地方平定のために出陣し、播磨国室山で赤松則村を撃破する軍功を挙げた。しかし同年5月の湊川の戦いで再挙した足利軍の前に敗れた[2]。同年10月、比叡山で後醍醐天皇が義貞を見捨てて下山し、尊氏と和睦しようとした際は、新田一族内に主戦論を唱える者が多い中、大舘氏明と並ぶ数少ない和平派となり後醍醐天皇に従った。北陸に向かった義貞とは袂を分かち、以降は南朝方として丹波高山寺城を拠点に奮戦する。
 後に北陸にまで落ちた新田義貞が、延元3/建武5年(1338年)に越前国で活動している際に丹波国で活動していた江田と連携して上洛しようとしたという話があるため、この時までは江田も存命していたのがわかっている。しかし、その後の行方は不明であり、『太平記』にも登場しない。
        
                         拝殿の右側には案内板が設置されている。
 矢抜神社傳導板
 一、立地由来
 万治一年(一六五八年)中江田、下江田に分社され、
 太田市新田下江田町本郷甲五〇〇番地に鎮座する。
 二、祭神 經津主命(フツヌシノミコト)
 三、鎮座する祈願神
 1 本殿
 2 お手長様(火伏せの神)
 3 伊佐須美様(稲作の神)
 4 おしら様(養蚕の神)
 5 諏訪様(当地開拓の神)
 6 秋葉様(防火・火難除けの神)
 四、年中まつりごとの行事
 1月 氏子本殿参拝 
 2月 風祭り 宮司来社(世話人選任 若1年・本4年)
 3月 お手長様拝礼 山刈り(郭順)
 4月 春祭り 宮司来社(区長・世話人)
 7月 御諏訪様拝礼
 11月 秋葉様拝礼
 11月 秋祭り 宮司来社(区長・世話人)
 12月 大祓い式 宮司来社(古神札・幣束・お焚きあげ・世話人)
 12月 鳥居しめ縄(飾り 世話人)
                                       案内板より引用


 案内板にも記載されているが、境内には多数の境内社が「祈願神」として祀られている。
 
       境内社・諏訪社               境内社・秋葉社
 
      境内社・おしら様          境内社・お手長様、奥には伊佐須美様

 社殿左側には(旧)新田町指定天然記念物である「矢抜神社の山椿」の案内板がある。
 
 新田町指定天然記念物 矢抜神社の山椿
 指 定 平成十二年四月六日
 所在地 新田町下江田甲五〇〇
 この山椿は、樹齢三〇〇~四〇〇年位と推定される古木です。一号樹は目通り一五一センチメートル、二号樹は一三三センチメートルで、樹高は周辺の樹木に比べて高く伸びています。昔から自生して来た品種で、赤色の一重の花弁で、花芯が大きく五弁の花びらを持っています。花実ができ、秋になると三片に割れニ・三個の種子が落果して自然繁殖していく椿の原種です。今は山村地帯でしか見られない貴重なものです。なお、一号樹は、平成十三年一月に風雪のため幹の中ほどから折れてしまいました。
 神社がまつられているところは、二ツ塚古墳と呼ばれる前方後円墳で、すでに原形は失われていますが、周濠を思わせる痕跡もあり、埴輪片や土器も出土しています。
 このあたりは中世新田氏の一族江田氏の所領で、江田郷と称した地でした。その後、南北朝の争乱で新田氏が敗れたため足利氏の支配に移り江田郷も分割され、当時中江田村森下にまつられていた矢抜神社を分社し、中江田と下江田の現在地へ勧請してまつったと伝えられています。
                                      案内板より引用
        
                          落ち着いた雰囲気の静かな社


参考資料
Wikipedia」「Enpedia」「境内案内板」等
 

拍手[2回]


岩松八幡宮

 源 義国(みなもと よしくに)は、平安時代後期の河内源氏の武将で、源義家の三男。新田・足利両氏の祖であり、足利尊氏と新田義貞は遠孫に当たる。母は藤原有綱の娘だが、母親の家系は学者として朝廷に仕えた中級貴族であり、従って、生まれたのは京都であるが、いつの頃からか東国に下向したらしい。源頼信-源頼義-源義家と伝領した摂関家領上野国八幡荘を相続した。但し長兄義宗が早世し、次兄義親が西国で反乱を起こすと、三兄の義忠と共に次期「源氏の棟梁」としての期待を受けた。しかし、久安6(1150),参内する途中で藤原実能と争い恥辱を受けたとして義国の郎従が実能邸を焼き払った事件により、勅勘をこうむり,下野国(栃木県)足利に下る。当然義家からは後継者から外されていった。
 その後叔父義光との抗争(常陸合戦)には敗れ、常陸国は従子でもある佐竹氏の初代当主である佐竹昌義(義光の孫)に譲ることになったが、足利荘を成立させるなど、上野国の隣国である下野国にも着実に勢力を築いていった。晩年にも勅勘を被るなど、気性の荒さは改まらず、「荒加賀入道」と言われた。
 ところで義国は犬間郷(現在の尾島町岩松)に館を構え、そのとき鬼門よけとして伏見稲荷の分霊を祭ったのが、冠稲荷なのだそうだ。後に仁安年中(1166-1169)新田義重が京都大番のおり山城国男山より小松を持ち帰り、この地に植えて岩清水八幡を勧請し岩松八幡宮と称した。以来犬間(猪沼)郷を岩松郷に改めたという。八幡宮は源氏の守護神として崇敬され、新田の庄各地に分霊が奉祀された。岩松八幡宮が新田の総鎮守といわれるようになったのは、世良田長楽寺の住僧松陰西堂の「松陰私語」に金山城主岩松尚純の一子夜叉王丸が七歳の時当家代々の慣例により八幡宮において元服し、昌純と名乗ったとの記述もみられるところから、南北朝以来新田の庄の実権が岩松氏に移ったことによると考えられる。
        
             
・所在地 群馬県太田市岩松町2511
             
・ご祭神 誉田別命
             
・社 格 旧郷社 新田総鎮守
             
・例祭等 不明
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.2529731,139.3322813,17z?hl=ja&entry=ttu
 堀口賀茂神社から直線距離で800m程北東方向先に鎮座する岩松八幡宮。西側には「いぬま公園」が隣接しているが、その公園以外は田畑風景が続く長閑な地域にポツンと社は立っている。
 駐車スペースはないようなので、西隣にある公園の駐車場(4、5台駐車可能)をお借りしてから参拝を開始する。
        
                              岩松八幡宮正面
『日本歴史地名大系』「岩松村」の解説
 北境を石田川が南東へ流れ、東は備前島村、米沢村(現太田市)の耕地、南は堀口村の耕地、西は阿久津村。境―小泉往還が東西に走る。
 中世新田庄に属し、東西二村に分れており、新田(足利)岩松家の名字の地。嘉応二年(一一七〇)の新田庄田畠在家目録写(正木文書)には「いぬまの郷 田三町五反卅たい 畠三反 在家三う」とあり、同目録を注進した享徳四年(一四五五)時には「ゆわまつ」の傍注がつけられている。室町期に作成された年月日未詳の新田庄知行分目録(同文書)によると、犬間郷が岩松氏惣領持国当知行分の筆頭に書上げられている。平安後期の犬間郷がのちに岩松郷に転化したのであろう。岩松郷は建保三年(一二一五)三月二二日付の将軍家政所下文(写、正木文書)で、岩松・下今居、田中(現新田町)の石田川流域三ヵ郷地頭職が新田義兼(新田氏祖義重の嫡子)から後家新田尼に譲られた。貞応三年(一二二四)正月二九日付で後家尼は同所を孫子時兼に譲与した(「新田尼譲状写」同文書)。

        
       鳥居の手前には狛犬があるが、岩塊の頂きに狛犬が設置されている。

        
               朱色の鳥居が鮮やかに映える。
        鳥居の社号額には「新田総鎮守 岩松八幡宮」と記されている。
 この鳥居はよく見ると通常の「両部鳥居」とは違う。「両部鳥居」とは、左右2本の主柱の前後を袖柱(そでばじら)が支える仕組みとなっていて、主柱は上部で大貫(おおぬき)を通して繋ぎ、その上に大鳥居の屋根下の棟にあたる笠木(かさぎ)・島木(しまぎ)が置かれている構造。しかし岩松八幡宮の鳥居をよく見ると袖柱が前方一対どちらもなく、後ろ側のみで支える構造となっている。このような両部鳥居は初めて見た。
        
              拝殿の手前に設置されている案内板

 岩松八幡宮  所在地 太田市岩松町二五一番地一
 誉田別命(応神天皇)を祭神とするこの社は、市野井(新田町)の生品神社、鹿田(笠懸村)の赤城神社と共に新田の三社といわれ、明治五年栃木県(当時この地は栃木県に属した)において郷社に列せられた。
 創建は仁安年中(1166-1169)新田義重が京都大番のおり山城国男山より小松を持ち帰り、この地に植えて岩清水八幡を勧請し岩松八幡宮と称した。以来犬間(猪沼)郷を岩松郷に改めたという。
 八幡宮は源氏の守護神として崇敬され、新田の庄各地に分霊が奉祀された。岩松八幡宮が新田の総鎮守といわれるようになったのは、南北朝以来新田の庄の実権が岩松氏に移ったことによると考えられる。
 正木文書「新田庄田畠在家注文 嘉応二年(1170)目録」の中で「八幡のミやに二町五反」の除地の記載があり、これが一社のものであるかどうかについてはつまびらかでないが、応永十一年(1404)の村田郷地検目録には八幡神田が筆頭に記され、応永十七年(1410)の上今居郷地検目録八幡天神に起請(誓いをたてる)して作成されていることは、当時両郷とも岩松氏の支配地であったことから岩松八幡宮と見られる。また、世良田長楽寺の住僧松陰西堂の「松陰私語」に金山城主岩松尚純の一子夜叉王丸が七歳の時当家代々の慣例により当八幡宮において元服し昌純と名乗ったとの記述も見られ、往昔この社の隆盛と庄内での崇敬のほどがうかがわれる。なお境内には新田義貞を祭神とする摂社新田神社がある。
                                      案内板より引用

        
                     拝 殿
 岩松氏(いわまつし)は、日本の氏族で本姓は源氏。その家系は清和源氏のうち河内源氏の棟梁であった鎮守府将軍源義家の子、義国を祖とする「足利氏」の支流である。
 岩松氏は元々足利義兼の庶長子の足利義純を祖とする。義純は大伯父新田義重に養育されたといい、その子新田義兼の女を妻とした。が、後に畠山重忠の未亡人(北条時政女)を娶って源朝臣畠山氏の祖となり、先妻である新田義兼の女との間に生まれた子たちは義絶された。
 義絶され新田氏に残った子・岩松時兼・田中時朝兄弟が、新田義兼がその妻(新田尼)に譲った所領の一部(新田荘岩松郷など)を譲られたことにより家を興す。こうしたことから、岩松氏は母系である「新田氏」を以って祖と仰いできた。但し、父系は足利氏を祖とし、室町時代には足利氏の天下となったことから新田の血筋を誇りとしながら、対外的には足利氏の一門としての格式を誇った。
 このように父系を清和源氏足利氏、母系を清和源氏新田氏に持つ岩松氏は、『尊卑分脈』によれば、清和源氏足利氏の一族とされるが、通常新田岩松氏と称され、両方の血を受け継ぐという微妙な立ち位置にいたのに加え、新田氏4代目当主である政義が、その家督相続をした段階では少年であったが為に、祖母である新田尼は所領の大部分を岩松時兼に相続させてしまう。岩松氏は新田氏一族でありながら、その創立時点から新田氏本宗家との因縁があった。また新田一族で本宗家に近い大館氏の大館宗氏と用水争いを起こした際に、惣領の新田基氏・朝氏父子の裁定に従わないなど、新田本宗家に対しある程度の自立性を持っていたようである。
        
                                   本 殿
   赤い透塀(すかしべい)の隙間から見える本殿は拝殿と独立していて門も設置されている。

 その後鎌倉時代末期には、本宗家の新田義貞の鎌倉幕府打倒のための挙兵に参加したが、倒幕後は新田氏と共に京都には行かず、当地に残り足利氏に従った。経家は、建武の新政で飛騨守に任ぜられ、北条氏の遺領伊勢笠間荘 以下十箇処の地頭職を賜り、鎌倉将軍府執権の足利直義の指揮下にあって、関東経営に当たった。建武三年(1335)中先代の乱の際、鎌倉に迫った北条時行軍を迎撃するが惨敗し討死、岩松一族は宮方と武家方とに内部分裂を起こしたが、その岩松氏本家を継いだ岩松直国は足利方の立場を堅持し続ける

 結果として岩松氏は、成立の経緯から、新田一族と足利一族の立場を使い分け、鎌倉時代、南北朝時代以降新田氏本宗家が没落する中でたくみに世の中を渡りきり、新田荘を中心に上野国に栄えた。
 
社殿の左側に祀られている「衡立岐大神」の石祠。       本殿奥に鎮座する境内社。
 八衢比賣命と八衢比許命の名も刻まれている。          詳細不明

 この衡立岐大神とは「岐の神(クナド、くなど、くなと -のかみ)」と云われ、古より牛馬守護の神、豊穣の神としてはもとより、禊、魔除け、厄除け、道中安全の神として信仰されている。日本の民間信仰において、疫病・災害などをもたらす悪神・悪霊が聚落に入るのを防ぐとされる神である。また、久那土はくなぐ、即ち交合・婚姻を意味するものという説もある。
 神話では、『古事記』の神産みの段において、黄泉から帰還したイザナギが禊をする際、脱ぎ捨てた褌から道俣神(ちまたのかみ)が化生したとしている。この神は、『日本書紀』や『古語拾遺』ではサルタヒコと同神としている。また、『古事記伝』では『延喜式』「道饗祭祝詞(みちあえのまつりのりと)」の八衢比古(やちまたひこ)、八衢比売(やちまたひめ)と同神であるとしている。
        
         社殿の左側手前に鎮座する社あり。摂社・新田神社だろうか。

 

参考資料「おおた観光サイトHP」「WEB GUNMA」「Wikipedia」等
   

拍手[1回]


尾島雷電神社


        
              
・所在地 群馬県太田市尾島町1691
              
・ご祭神 大雷命(おほいかづちのみこと)(推定)
              
・社 格 旧無格社
              
・例祭等 えびす講 1119日・20
    地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.2586497,139.3262426,19z?hl=ja&entry=ttu
 阿久津稲荷神社のすぐ西側にある「尾島一丁目」交差点を右折すると、すぐ西側に雷電神社が見えてくる。互いに近距離に鎮座しているので、分かりやすい。
 駐車スペースも社の南側に「尾島一丁目会館」があり、そこの一角をお借りして、尾島雷電神社・阿久津稲荷神社両社を参拝した。
        
                             尾島雷電神社 二の鳥居正面
   実のところ、
一の鳥居は県道354号線に面していて、交通量も多く、結局撮影できず。
 一の鳥居から北方向に参道が続き、その先に二の鳥居がある。二の鳥居から先が境内となる。
 
   街中にありながら境内は比較的広い。   
境内参道の右側には「猿田彦大神」等の石碑がある。
     石碑の奥には嘗て巨木・大木があったのだろうか。その切株が残っている。
        
                                      拝 殿
 太田市・新田郡(につたごおり)尾島地区は人口約1万4千数百人ほどの小さな町であるが、自然や歴史・文化の香りが今でも残る地域でもある。
 町の南部を利根川が流れ、北には上毛三山の赤城・榛名・妙義の山々に囲まれている為、冬は上州名物空っ風が吹き、夏は雷が度々発生するという地形的な特徴がある。
 古くは12世紀に新田氏の始祖である義重の子義季がこの地を領有し、徳川姓を名乗ったことから「徳川氏発祥の地」と呼ばれ、時の徳川幕府の厚い庇護を受けて来た。その後、幕府の破滅により経済基盤を失い、地域自体は衰退するが、今なお往時を偲ばせる貴重な文化財や史跡等が町のあちこちに点在している。
 また江戸時代、津軽藩の飛び地がこの地域にあったことから、現在、友好都市である弘前市の協力のもと、毎年8月の1415日に「尾島ねぷた祭り」が開催されている。
        
                 拝殿に掲げてある扁額
        
                    本殿覆堂
 
  絢爛豪華な本殿彫刻(写真左・右)。どうやら彩色修復の作業が行われているようだ。

 雷電神社(らいでんじんじゃ)は、北関東地方を中心に日本全国に点在する神社。一様に雷除けの神とされるが、祭神や由緒は必ずしも一定ではない。
 群馬県邑楽郡板倉町板倉には、旧社格は郷社で、関東地方の「雷電神社」「雷電社」の事実上の総本社格とされている板倉雷電神社が鎮座している。主な祭神は火雷大神、大雷大神、別雷大神。
 板倉雷電神社の影響を受けているかどうかは不明だが、本殿等の彫刻の豪華さはずば抜けているように感じるのは、筆者の思い過ごしだろうか。
 とはいえ、残念ながら尾島雷電神社の由緒等は不明。雷除けの神を祀っていて、本殿は寛政10年(1798)に建築されたものとのことというが、どのような経緯で、このような素晴らしい彫刻を施した社が建てられたか、知っている方がいたらお教え願いたい
 現在は冠稲荷神社の兼務社であり、そちらのHPを見ると、毎年1119日・20日に「えびす講」なる祭事が行われるという。
        
                                   境内の一風景
 えびす講とは、年中行事としてえびすを祀る庶民信仰であり、神無月(旧暦10月)に出雲に赴かない「留守神」とされたえびす神(夷、戎、胡、蛭子、恵比須、恵比寿、恵美須)ないしかまど神を祀り、1年の無事を感謝し、豊作や大漁あるいは商売繁盛を祈願する出雲系関連の祭事である。当社では釣竿の飾り、「お宝」の頒布や、熊手、福笹の頒布などを行っているという。


参考資料「
太田市観光物産協会HP」「旧尾島町HP」「冠稲荷神社HP」「Wikipedia」
 


拍手[1回]