尾崎鷲宮神社
・所在地 埼玉県羽生市尾崎705
・ご祭神 天穂日命 武庚鳥命
・社 格 旧尾崎村鎮守
・例祭等 春季祭 4月14・15日 夏季大祭 7月14・15日
秋季祭 10月14・15日
地図 https://www.google.com/maps/@36.1932794,139.5504263,17z?hl=ja&entry=ttu
本川俣長良神社から北側の利根川土手沿いの道路を東行し、2㎞程進んだ三つ又交差点を右折、350m程進むと右側に細い路地が見え、「尾崎農業研修所」に隣接するように尾崎鷲宮神社が古墳墳頂部に鎮座している。
尾崎鷲宮神社正面
『日本歴史地名大系』 「尾崎(おさき)村」の解説
[現在地名]羽生市尾崎
利根川右岸の自然堤防とそれに連なる後背湿地よりなる。西は同川沿いに稲子(いなご)村に続く。「万葉集」巻九の「武蔵の小埼の沼の鴨をみて作る歌」の「小埼沼」、巻一四の国歌に詠まれた「埼玉の津」を当地に比定する説もある(行田市の→小崎沼)。「風土記稿」は「此辺多クハ沼田ナレハモシクハ当所小埼沼ノ旧蹟ニテ後年尾崎ノ文字に改シモ知ルヘカラス」と記す。田園簿によると田高一八五石余・畑高二八六石余、幕府領。国立史料館本元禄郷帳では甲斐甲府藩領。同藩領は寛文元年(一六六一)からで宝永元年(一七〇四)上知(「寛政重修諸家譜」など)。
『新編武蔵風土記稿 尾崎村』
按るに埼玉津小埼沼皆【萬葉集】の詩にも見え、當所の名前なるはいふもさらなり、されど上りたる世の中にして、舊蹟しかと論じがたし、然るに此邊多くは沼田なれば、もしくは當所小埼沼の舊蹟にて、後年尾崎の文字に改しも知るべからず、
鷲明神社 愛宕社 以上二社を村の鎭守とす、
鳥居のすぐ先に置かれている 境内一帯の風景
伊勢参宮記念碑等の石碑四基 社殿は古墳の墳頂部に鎮座している。
行田市酒巻地域にある「酒巻古墳群(酒巻八幡神社を参照)」や「真名板高山古墳」の例もあるが、利根川流域の加須低地一帯は、嘗て「関東造盆地運動」による沈降と河川の氾濫土の堆積により、古墳の多くが地表から沈降し、埋没してしまっているという。
『埼玉県古墳詳細分布調査報告書』によると、尾崎地域には全部で9基からなる「尾崎古墳群」といわれる古墳群が複数調査により確認されているが、現在はそのほとんどは水田下に埋没しているとの事で、この鷲宮神社古墳と社南方にある遍照院古墳の二基が残されているとの事だ。残念ながら遍照院には行かなかったので、確認は出来ず。
古墳上に鎮座する社殿と、その両側に祀られている境内社との配置が不思議とマッチしていている。
社殿に通じる石段の右側にある社の由来と指定文化財の獅子舞に関しての案内板
指定文化財 尾崎地域の獅子舞の案内板 社の由来等を記した案内板
指定文化財 獅子舞(尾崎地区)
(無形民俗文化財 羽生市指定第7号 昭和34年10月1日)
親獅子、中獅子、子獅子の3頭で構成されます。頭をかぶる一人一人が1頭の獅子の役を受け持つため、一人立ち3頭形式の獅子舞といいます。以前は7月14日から16日の3日間をかけて行われていましたが、最近では7月14日の例大祭の夜のみ、五穀豊穣、家内安全を願った奉納となりました。昔は鷲会という組織に、16、7歳から30歳までの男子が入会し、ゲンロウと呼ばれる人たちのきびしい指導を受けながら、習得していきました。
獅子舞はまず棒術の演技が行われ、その後出端→シバ掛かり→段物→(花散らし)→岡崎の順に演じられます。演目である段物には「梵天」「八丁締」「行道探し」「弓」「鐘巻」などがあります。笛方は10数名で構成され、6孔5本調子です。
三代将軍徳川家光の頃より行われていたといい、下野国から獅子舞の師匠を呼んで習ったと伝えられています。
平成14年3月20日 羽生市教育委員会
案内板より引用
拝 殿
案内板による創建時期は承応元年(1652)。久喜市鷲宮神社から分祀したという。
正一位 鷲宮大明神
鷲宮神社ノ由緒
神社所在地 埼玉県羽生市大字尾崎七〇五番地
境内面積 六六三坪(前方ノ道路ヨリ入リ参道ヲ含ム)
起源 承応元年(今ヨリ約三百三十年前二〇代ノ後光明天皇ノ御代江戸時代ノ創立鷲宮ノ
鷲宮神社ヨリ分祀セラレタル説アリ)
神德 御祭神ノ故事ニヨリ特二開運火防農工商交通安全ノ守護神
境内神社 一、産土神社祭神鬼子母神出産ヲ司リ
一、産児ノ保育スル神
一、稲荷神社祭神宇迦御魂命農ノ神
一、八坂神社祭神須佐之男命
平成二十三年八月 氏子総代会
境内案内板より引用
拝殿に掲げてある「正一位 鷲宮大明神」の扁額 石段左側に祀られている三峯神社の石祠
石段手前で左側に祀られている境内社 境内左側にある出羽三山参拝記念碑
詳細は不明
静まり返った境内の一風景
埼玉県行田市の南東部に位置する埼玉地域には、かつて「小埼沼(おさきぬま)」という沼が存在していた。今では小さな林とわずかな窪地を残すのみとなっているが、縄文時代にはこのあたり一帯は東京湾の一角として入江が入り組んでいたという。
この小埼沼は尾崎沼・小崎沼とも称され、大字埼玉の東部に所在していたと伝わる沼である。今日では林の中に「武藏小埼沼」と彫られた石碑と池が所在していて、この石碑は宝暦3年(1753)に忍城主の阿部正允により建てられたものである。
ところで、万葉集には小埼沼について歌われているものが2首現存している。
・小埼の沼
「埼玉の小埼の沼に鴨ぞ翼きる 己が尾にふり置ける霜を払ふとにあらし」
※(解説)小埼の沼で鴨が翼を振って水しぶきを飛ばしている。自分の尾に降った霜を払おうとしているようだ。
・埼玉の津
「埼玉の津に居る船の風をいたみ 綱は絶ゆとも言な絶えそね」
※(解説)埼玉の渡し場にある舟は、風が強いと綱が切れることがあるが、二人の仲は切れないよう続けたい。たとえ会えなくなっても、お前は便りを絶やすようなことはしないでほしい。
同地は1961年(昭和36年)9月1日に「万葉遺跡・小埼沼」として埼玉県指定記念物に指定されているが、伝承による埼玉の津および小埼沼の候補地は、行田市埼玉の場所だけではなく、羽生市大字尾崎とする説やさいたま市岩槻区大字尾ケ崎とする説(共に武蔵国埼玉郡)がある。
この奈良時代末期に成立したとみられる日本に現存する最古の和歌集である万葉集は、7世紀前半から759年(天平宝字3年)までの約130年間の歌が収録された日本の古典であり、日本文学における第一級の史料であろうことは疑いない。
その古典に「小埼沼」という地名は確かに存在していて、この候補地の一つに挙げられているのが羽生市尾崎地域である。その中央部付近に、尾崎鷲宮神社は静かに鎮座していた。
【浅間塚古墳】
尾崎鷲宮神社から南方向に通る道路を900m程南下すると、右手に「浅間塚古墳」が見えてくる。
遠目から見ても一目で古墳と分かる形状をしているので、立ち寄って確認する。
浅間塚古墳
山頂には浅間神社の小さな祠があり、それがこの古墳の名称の由来ともなっている,麓には馬頭観音の碑が祭られている。元は円墳の古墳(推定)築造時期は不明。
参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「羽生市HP」「Wikipedia」
「境内案内板」等