本川俣長良神社
生祀は、元々古代中国の前漢時代の政治家である欒布(? - 紀元前145年)が燕の丞相であった時、燕と斉の間にその社を立てて、「欒公社」と呼んだ。また石慶が斉の丞相であった時、斉人は「石相祠」を建てた。これが生祠の始まりであるという。
日本における生祠に関して、自己の霊魂を祀った生祀の文献上で最も古い事例は、平安時代の923年、伊勢神宮の外宮の神官であった松木春彦(824年〜 924年)が、伊勢度会郡尾部で、石に自己の霊魂を鎮め祀ったことである。
生祀は江戸時代に増えたが、それは中国思想の影響であろうという。この場合の生祀とは、人々のために利益をもたらした英雄や,一般人よりも権力や霊力あるいは徳において秀でた人物を象徴的に崇拝の対象として祀っているという。
但し、自己の霊魂を祀るケースもあり、江戸時代中期、松平定信が1797年、奥州白河城に自分の生祀を成立した例があり、また山崎闇斎が儒教の礼式を参考に祭式を考案し、自らの霊魂を祀った。その生祀は1671年、京都の自邸の垂加霊社に成立したものである。これ以後も、神道家や平田派の国学者によって、それぞれ独自の祭式で自己の霊魂を祀った。
羽生市本川俣長良神社境内には、江戸時代の川越領主であり、当該地域も領地分として善政を施いた松平大和守直恒の生祀を祀っていて、現在その石祠は羽生市の市指定史蹟となっている。
・所在地 埼玉県羽生市本川俣1213-5
・ご祭神 藤原長良公(推定)
・社 格 旧本川俣村鎮守・旧村社
・例祭等 不明
地図 https://www.google.com/maps/@36.1866796,139.5329647,17.29z?hl=ja&entry=ttu
上川俣天神社から一旦国道122号線に戻り、東方向に進路をとる。東武伊勢崎線の踏切を越えて350m程進んだ丁字路を左折する。その後「葛西用水路」を越えた先に「本川俣集会所」が見え、その隣に本川俣長良神社は鎮座している。
本川俣長良神社 一の鳥居
『日本歴史地名大系』 「本川俣村」の解説
利根川南岸の自然堤防上に位置し、旧利根川の流路跡もみられる。古くは西側上流の上川俣村と一村であった。田園簿によると幕府領で、田高二三九石余・畑高五九九石余、ほかに千手せんじゆ院領一〇石があった。国立史料館本元禄郷帳でも幕府領。明和七年(一七七〇)と推定されるが川越藩領となり、文政四年(一八二一)上知(松平藩日記)。同九年には三卿の一家である清水領で(「清水家領知村々社倉仕法請書」酒井家文書)、幕末の改革組合取調書でも同じ。
境内の様子
『新編武藏風土記稿 本川俣村』
村名の起りは上川俣村・上新郷村の間に會川と云古川あり、是中古までは利根川の枝流にして、ニ又に分れ、其所へ當村の地臨みし故、川俣の名は起れりと云う、
『新編武藏風土記稿 上上新郷村』
此會川と云は利根川の古瀬にして、古は利根川當村の北にてニ派となり、一は今の利根川、一は此會川にて、南へ折れ郡中を貫き、川口村にて又今の利根川に合す、昔は利根川に劣らず大河なりしを、忠吉郷の家人小笠原三郎左衛門、文祿三年堤を隣村上川俣村まで築きて、水行を止しゆへ、古川となりしよしを傳ふ、
「新編武蔵風土記稿 本川俣村」において、川俣という地名由来が記されていて、そこでは、嘗て「利根川」の支流であった「会川」は、上川俣村・上新郷村の間を流れていて、この地で二又に分かれたために、「川俣」という舞相になったと記されている。対して「新編武藏風土記稿 上上新郷村」では、利根川の支流の支流でありながら、「会川」は、当時の利根川と同じくらいの水量を誇る大河であり、恐らくは水害も何度もあったのであろう。文禄3年に堤防を築いたことにより、水量を管理したことが記されている。
拝 殿
長良明神社
村の鎭守なり、當社は元上野國邑樂郡瀨土井村にありしが、天正三年利根川洪水の時、當所の岸へ流れ來りし故、土人取上て翌年三月廿日社を造りしとなり、祭神は長良親王の由にて、束帶の坐像なり、今按に上野國瀨土井村なる長良神社は、在昔上野國騷亂の時、大職冠鐮足七世の孫、黃門侍郎藤原長良をして、鎭撫せしめしに、國大に治りし故、長良歸京の後、家監赤井師助と云ものを留て、是を治めしめたり、長良沒後に及て師助國人と計て彼靈を神に祀り、直に長良神社と號すといへり、是に據ば親王といへるは誤なるべし、されど長良の上野を治めしこと國史に載せざれば、詳なることは知べからず、或云【和名抄】上野國邑樂郡の鄕名に、長柄あり、是地名を以神號とせるならんと、此說當れる如く思はるれど、未だ其據を聞かざれば信じがたし、
別當大藏院 本山派修驗、葛飾郡幸手不動の配下
本地堂 觀音を安置す、
〇八幡社 〇鷺明神社 〇天神社
以上の三社は、文祿四年の勧請にして、大藏院の持なり、
『新編武藏風土記稿 本川俣村』より引用
長良神社は利根川中流域左岸、つまり、群馬県の利根川流域に数十社集中的に鎮座しているが、反対側である、埼玉県側の利根川右岸には、この本川俣地域と、弥勒地域の2か所しか存在していない。特徴ある配置状況である社といえる。
本 殿
社殿の左側に祀られている「松平大和守生祠」の石祠(写真左)とその案内板(同右)
指定文化財 松平大和守生祠
(史蹟 羽生市指定第5号 昭和32年1月29日)
本川俣村は、明和7年(1770)から文政4年(1821)までの約50年間、それまでの幕府直轄地から河越城主の領分となっていました。
生祠とは、領主の徳をたたえるために領民がまつったもので、市内には堀田氏、戸田氏、本多氏らの城主のもの以外にも、小尾氏、戸田氏、土岐氏等の旗本をまつったものがあります。
この生祠は、松平大和守直恒をまつっています。当地は天明6年(1786)7月16日におきた上川俣の竜蔵堤の決壊および、寛政3年(1791)8月7日の再決壊による水害に見舞われました。この領民の窮状を知った直恒は、食料を与え、租税も五年間免じました。この恩に報いようと、惣百姓、組頭、年寄、名主が願主となり、そのいわれを記して後世まで伝えようと寛政6年(1794)に建立したものです。
松平大和守生祠は、寛政元年(1789)に待従に任ぜられた後、文化7年(1810)に49歳で没しました。
平成15年3月20日 羽生市教育委員会
案内板より引用
生祠の左側並びに祀られている湯神社 生祠の右側並びに祀られている石碑
その右側には石鳥居建築記念碑 左から琴平神社・〇大明神・威徳天満宮
琴平神社等の石碑の右側並びに祀られている石碑・石祠群(写真左)。左から八幡神社・水神宮・龍〇宮・庚申供養塔・(不明)・(不明)・道祖神・道祖神。これらの石祠群の奥にも境内社が祭られているのだが(同右)、詳細は不明。
社殿から見た境内の一風景
参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「羽生市HP」「Wikipedia」「境内案内板」等