根金稲荷神社
・所在地 蓮田市大字根金436
・ご祭神 倉稲魂命
・社 格 旧根金新田鎮守 旧村社
・例祭等 元旦祭 二月初午 春祭り 4月28日 天王祭 7月14日
お日待 10月18日 大祓 12月24日
井沼久伊豆神社の鳥居がある埼玉県道87号上尾久喜線を北東方向に進行し、国道122号線と交わる「根金」交差点を更に直進、650m程進んだ丁字路を右折して暫く進むと、進行方向斜め左側には田畑風景の中、根金稲荷神社の社叢林と鳥居が見えてくる。
根金稲荷神社正面
『日本歴史地名大系』 「根金村」の解説
蓮田台地の北部にあり、元荒川の右岸に位置する。南は上閏戸(かみうるいど)村、東から北は根金新田村。古くは閏戸郷に属したという(風土記稿)。元禄一一年(一六九八)までは閏戸村に含まれたといわれるが(同書)、寛文五年(一六六五)の上尾宿助馬調(「絵図面村々高」田中家文書)に臨時の助人馬指定村として「新根金村」と記されており、この頃から分村化が進んでいたとみられる。岩槻藩領で、同一二年の岩付御領分石高覚(吉田家文書)によると根金村の高一四六石余。延宝八年(一六八〇)には家数二一(うち本百姓二〇)、人数一一一(「岩付領内村名石高家数人数寄帳」同文書)。国立史料館本元禄郷帳では旗本万年・米津・会田の相給。
境内の様子
蓮田市根金地域に鎮座する稲荷神社の創建年代は不明である。ただ根金新田村が成立したのが1698年(元禄11年)であること、別当寺の「法性院」の開山の真智が1700年(元禄13年)の寂であることから、その頃に創建されたものと推測される。元々は開拓者の「九十郎」が創建した屋敷神で、九十郎の子孫である内村家が管理していたが、後に村人の信仰を集め、村の鎮守になったという。
1876年(明治9年)、近代社格制度に基づく「村社」に列せられた。
鳥居の脇に建つ碑は(写真左)、当地出身であんま業を営みながらも、東北の飢饉の折や地元や岩槻の学童のために寄附を続け、当社に鳥居を奉納した関口平太郎氏を、大正6年に氏子一同が発起人となり顕彰したもので、氏と親交のあった芥川龍之介が起草した一文の肉筆を刻んだ石碑となっている。全国各地に所在する芥川の石碑の中でも最古のものとされ、「自撰自筆の碑」となると唯一と言われている。そして、石碑のすぐ右側側には「関口平太郎顕彰碑」が設置されている(同右)。
拝 殿
稲荷神社 蓮田市根金四三六(根金字東浦)
根金は、かつて根金村・根金新田村の二か村で、いずれも元禄十一年(一六九八)に閏戸村から分村し成立した。このうち根金新田村は、足立郡別所村(伊奈町小室)の九十郎によって開発されたという。
『風土記稿』根金新田村の項に「稲荷社 村の鎮守なり、法性院の持」とあるのが当社である。別当の法性院は、足立郡別所村法性寺末で、開山僧真智は元禄十三年寂である。口碑によれば、当社の創建は当村の草分けの九十郎が、別所村の稲荷社の分霊を勧請したもので、当初は、その子孫である内村家の氏神であったが、いつしか村人の信仰を受けるようになり、村の鎮守となったという。一方、根金村の鎮守であった十羅刹社(じゅうらせつしゃ)は、村民持の社で、創建については不詳である。
神仏分離後、法性院は廃寺となった。その後、明治七年に根金新田村は根金村に合併され、当社と十羅刹社も『郡村誌』に「稲荷・十羅刹社合殿」とあるように合併され、当社の社殿に村の鎮守として祀られた。しかし、『明細帳』によれば、当社が明治九年に村社に列したのに対し、十羅刹社は当社の境内社とされた。十羅刹社は、元々、法華行者を守る神女の十羅刹女を祀る社である。村社に列せられるに当たって、神仏分離令をはばかり、仏教色の濃い十羅刹社を本社から分祀したのであろう。その後、十羅刹社は大正四年に境内社である天神社に合併されたが、昭和二年に旧地へ復された。
「埼玉の神社」より引用
社殿の手前に祀られている境内社・天神社 木製の案内板も設置されている。
本 殿
社殿からの一風景
当社の内陣には、鎌と稲把を携えた稲荷大明神像が奉安されている。神像を納めた厨子の底部には「天明三(一七八三)癸卯九月廾□(梵字)奉造立稲荷本地十一面観世音 武州埼玉郡岩槻領根金新田村 別堂法性院法印清春代」の墨書があり、往時、内陣には倉稲魂命の本地仏である十一面観音が奉安されていたことがわかる。
神仏分離によって、十一面観音がいずれかに移され、代わって、古くから当社に寄せられた作神の信仰にふさわしい神像を彫像し奉安したのであろうか。
参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「境内案内板」等
