中里八幡神社
・所在地 埼玉県行田市中里413
・ご祭神 誉田別命
・社 格 旧中里村鎮守
・例祭等 不明
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1429578,139.4344251,16.75z?entry=ttu
小敷田春日神社から北方450m程の場所に鎮座する。中里地域集落の南端に位置し、外観はまさに「集落の鎮守様」がピッタリの社。南方に忍川が東西に流れ、その河川に対して北方に密集する集落を守るためこの場所に鎮座しているようにも見える。
まあ現在の一直線に流れる忍川の流 路は、昭和初期の河川改修によって確立されてきたので、昔とはかなり違うとは思うが。
中里八幡神社正面
味わいのある八幡神社の石柱
八幡神社は蔵王権現の塚があった地に鎮座するという。鎮座地の小字は「蔵殿」。蔵殿は郡村誌では[ぞうどの]と読み、風土記稿には[ぞう殿]と記されている。
中里地区の周辺は荒川扇状地の扇端に位置し、かつては湧水が豊富だったという。西側に隣接した小敷田地区には、弥生時代中期(紀元前一世紀頃)の方形周溝墓(埼玉県現存最古)の遺跡があり、小敷田から中里にかけては、条里制(律令体制化の区画整理された土地)がしかれていたとされる。
拝 殿
中里村 八幡社
村の鎮守なり。萬徳寺の持
萬徳寺
同宗(新義真言宗)、持田村宝蔵寺門徒なり。八幡山と号す。本尊阿彌陀
「新編武蔵風土記稿」より引用
八幡神社
中里は、利根川と荒川の二大河川の流れによって形成された沖積平野の一角で、この湿潤地を利用し、古くから農耕が営まれていた。地名は条里制によると考えられ、その遺構が確認されている。
当社の鎮座する字は蔵殿と呼ばれ、蔵殿権現(蔵王権現か)の塚があったと伝えられ、また勝陣場(精進場)と呼ばれる地名も近くに残っている、地名、又は加須市岡古井の通殿神社の例を勘案すると修験との関係を思わせる。
社記に伝えられるところによれば、天文二年に再興されたとある。現在、当社に蔵されている棟札には寛政一〇年の年紀が見え、万徳寺がその管理に当たっていたことが知られる。真言宗万徳寺は八幡山と号していたが、明治初めの神仏分離により廃寺となった。まお、寺跡地は神社に隣接しており現在は民有地となっている。
江戸期、八幡大菩薩と称していたが、神仏分離に伴い神号を改め誉田別命とした。明治四五年、字新在家の雷電社を合祀しているが、これを記録した木札には「訓令ニ依リ其筋ヘ願上新在家ニアリシ雷電社ヲ當社ヘ合祀致シ候雨屋者構造宜シキタメ是ヲ用ヒ候事、明治四五年三月十日、社掌茂木庫之助」とあり、雨屋(覆屋)には雷電社の社殿を使用したことがわかる。祀職は現在も茂木家が奉仕している。
「埼玉の神社」より引用
本 殿
茅葺屋根の本殿。昔こそありふれた屋根構造であったろうが、現在の本殿には今までお目にかけた構造ではないので、正直驚いたと同時に、今まさに現存することに対して感動をも覚えた。
社殿の左側に祭られている境内社と石碑 鳥居付近には塞神の祠を祭っている。
「埼玉の神社」には「明治四五年、字新在家の雷電社を合祀している」と記載されている。境内社の中の一社がそれなのであろうか。境内社には社名が書かれた札等がなかったので不明だ。
境内には立派な老木が聳え立つ(写真左・右)
紙垂等ないのでご神木かどうか何とも言えないが、とにかく立派な老木である。
参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」等