忍諏訪神社
この忍城は沼地があったところに島が点在する地形を利用してつくられた城であり、沼を埋め立てず島に橋を渡す形で城を築いているので、橋を破壊すればその島自体は孤立し、その区域の損害は大きいが、逆に解釈すると被害はその一区画、つまり最小限度に済むという解釈も成り立つ。真に守りに重点を置き、親泰・長泰・氏長の三代にわたって戦国時代100年を巧みに生き抜いた成田氏らしい築城術だ。
忍城本丸郭の北部に「諏訪曲輪」が存在していた。もちろん忍城を守る多くの曲輪の内の一つだが、そこには忍城築造の際に持田村鎮守諏訪社を遷座して、城鎮守とした。また成田氏代々の崇敬があったと伝えられている。
所在地 埼玉県行田市本丸12-5
御祭神 建御名方命、八坂刀売命
社 挌 旧村社、行田総鎮守
例 祭 7月26・27日
忍諏訪神社は、建久(1190年頃)年間、忍三郎・忍五郎家時等一族が当郷へ居住した頃に創建されたとも、成田親泰が延徳3年(1491)に忍城を構築した際に持田村鎮守諏訪社を遷座したとも伝えられいる。明治維新後、忍城内にあった神社を当社境内に遷座したという。
国道125号からみた諏訪神社正面の社号標石
利根川と荒川の流れによって形成された沼湿地の中にある台地上に、忍氏は館を築いていたが、成田下総守親春がこれを攻略し、この辺一帯を統一した。成田氏は延徳年間に忍城を構築し、この時、持田村の鎮守諏訪社を城鎮守として移したのが当社であると伝えている。
そのため持田村は新たに鎮守を勧請したという。現在の持田字竹ノ花の諏訪社がこれである。その後、成田氏代々の崇敬があり、城は、天正18年石田三成の 水攻めにも耐えたが、やがて開城し徳川家康入国後は江戸北方の防衛拠点として親藩や譜代の大名が入った。寛永16年城主となった阿部忠秋は城郭を修築し、 併せて正保2年当社の本殿を再営、寛文一二年拝殿を新たに建立した。
文政年中松平忠義は伊勢桑名から移封するに当たり、城内字下荒井の地へ東照宮を、更に城内へ多度社と一目連社を勧請した。これらは明治6年城郭取り壊しの 際、当社境内に移される。また、城内各所にあった小祠、科斗社・八幡社・久伊豆社・荒神社・春道稲荷大明神・神明社・二ノ丸稲荷大神・天神社・両棟稲荷大 明神の九社も同時に当社へ合祀された。
埼玉県神社庁「埼玉の神社」より引用
忍諏訪神社拝殿
この忍諏訪神社、特に東照宮の北側には周囲には土塁が巡らされていて水堀の痕跡もはっきり分かり、特に東照宮西側から北側には水堀がほぼ旧状のまま残っている。
忍諏訪神社は境内が非常に狭く本殿を撮影 本殿の左奥には御神木
できない。
東照宮の北側に社務所があり、そこには諏訪神社、東照宮の案内板があった。
忍諏訪神社
御祭神 建御名方命、八坂刀売命
例 祭 7月27日
当社の鎮座したのは、82代後鳥羽天皇の建久(1190年頃)の昔、忍三郎・忍五郎家時等の一族が、館・塁等を築き居住した頃、と言い伝えられている。又「持田村誌」 には、成田親泰が延徳3年(1491)に忍城を構築し、この時、持田村鎮守諏訪社(持田諏訪神社)を城鎮守としたのが、当社であると伝えている。その後、成田氏代々の崇敬があり、寛永16年(1639)城主となった阿部忠秋は城郭を修築し、併せて正保2年(1645)、当社の本殿を造営、寛文12年(1672) 拝殿を新たに建立した。現在の社殿は昭和36年の造営である。
文政6年 (1823)、松平忠義は伊勢桑名から移封するに当たり、城内字下荒井の地へ東照宮を、史に城内へ多度杜と一目蓮杜を勧請した。これらは明治6年、城郭取り壊しの際、当社境内に移される。又、城内各所にあった小両、科斗杜(風の神)・八幡杜・久伊豆社・荒神社・春遺稲荷大明神・神明杜・二の丸稲荷大神・天神社・両棟稲荷大明神の9社も同時に当社へ配祀された。
境内案内板より引用
諏訪神社、東照宮の案内板の隣にあった忍城俯瞰図