古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

福田淡洲神社

 滑川町福田地区は滑川町北部に位置し、滑川と中堀川に挟まれた開析谷の低地及び丘陵地にあたる。この地域は縄文時代より集落が存在し、縄文中後期・古墳時代前後期の集落跡である馬場遺跡や、古墳前後期の集落跡である円正寺・中在家・古姓前・東両表・大木・小川谷・久保田遺跡、古墳後期の台原・矢崎・栗谷・粕沢古墳群が見られる。
 明応
4年(1495年)正月18日銘の真福寺鰐口に「奉寄進武州比企郡福田郷 別所真福寺鰐口(中略)檀那同所四郎太郎」との記述がみられ、また後北条氏の所領役帳である『小田原衆所領役帳』には小田原北条氏の家臣であり他国衆の上田案独斎の所領として「卅一貫六百卅七文 同 福田塩川分同(比企郡 福田塩川分 卯検見)」とあり、弘治元年卯に検地を行っている。
「福田」の地名由来として、この地に土着した源義賢の家臣8人の子孫が13世紀前半の天福年間に義賢の霊を祀り、天福の福と田圃の田をとって「福田」と称したといわれる。
*「
Wikipedia」参照。 
        
             ・所在地 埼玉県比企郡滑川町福田33413
             ・ご祭神 息長足姫命
             ・社 格 旧福田村鎮守 旧村社
             ・例祭等 例祭 415日 秋祭 1017日 新嘗祭 1128
                  大祓 1228
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0892216,139.3522539,17z?hl=ja&entry=ttu
 福田
淡州神社は埼玉県道173号ときがわ熊谷線、昔の熊谷東松山有料道路を森林公園方向に進む。武蔵丘陵森林公園「西口」を左側に見ながらも通り過ぎて、次の信号のある交差点を右折するが、この右折する道は、県道に沿って流れていて、暫く直進すると正面に小学校が見えるので、その手前のT字路を右折する。「谷津の里」という看板が見えるのでそのT字路を右折すると、「ふれあい農園谷津の里」があり、その駐車場から北側に社は鎮座する。
「ふれあい農園谷津の里」の駐車スペースに車を停めて参拝を行う。天候も清々しいほどの晴天の日よりで、足取りも軽い。駐車スペースから北側に進む道路沿いに社は鎮座するが、新緑が進む周囲の風景を眺めながらの散策もまた良いものだ。
             
                道路沿いに鎮座する福田淡州神社
                 
           鳥居の先で参道沿い右側に設置されている案内板
 淡州神社   滑川町大字福田(上福田)
 祭神 
息長足姫命
 由緒 当社の創立年代は不詳であるが、氏子旧家の古書によれば、応永二己亥(西暦一三九五)年に当社例祭に獅子舞を奉納したとの記載あり、応永以前に祀られたことが明らかである。当地は古くから開け、水田耕作がおこなわれ、地名も福田と名づけたと云う。
 里人は神功皇后が熊襲平定に功績を挙げたことを尊び祭神として祀ったと伝承される。(中略)
 滑川町観光協会・滑川町教育委員会   
                                      案内板より引用

『比企郡神社誌』
 「当社創立は不詳なれども、氏子旧家古書の発見に仍ると応永二年(1395)当社例祭に獅子舞あり、当時は天台宗別当光栄寺持とあり。百拾年前吉田家の祖先の書記されしという当番帳ありしに、応永以前祀られしを実証するものなり、当地は上古早くより福田と名付く。神功皇后熊襲平定に大功有り其の功績を尊び仰ぎ奉りて祭神と祀られるなり。勧請年記未詳、寛永二年(1625年)三月霊代を改め鎮守とす。明治戌子(1888年)正月当日、吉田、由良之助懸ると有る。奉額に正一位淡波州大明神十歳童院忠書と有り。正一位を授けらる。明治4
年3月月村社書上済。(以下略)」
 
 参道の様子(写真左)。
なだらかな丘陵地面に鎮座している関係からか、一の鳥居から社殿に進む際に、やや下り気味の参道となる。(写真右)
        
                    拝殿兼覆屋 
「埼玉の神社」によれば、淡洲神社には諸説あり、安房国一ノ宮の后神を杷った式内社「后神天比理乃咩神社(大社で一元来は洲神と称した)」に由来するというものと、近世に流行した淡島信仰によるとする説である。当社の場合はその双方が考えられる。洲が島と同義であることから、後に淡島信仰が入りやすかったのであろう。この信仰は、女性の病気平癒・安産・良縁などの幸福祈願で、和歌山県加太の加太神社もしくは同県の方に鎮座する淡島神社から修験の活動により全国にもたらされたという。
        
              社殿に掲げられた「淡州神社」の扁額
「淡島信仰」とは、
婦人病に効験ありとされる淡島明神に対する信仰で、一般に淡島様とよばれる。関東では3月3日淡島講を催す所がある。和歌山市加太(かだ)神社が本拠といい,もと住吉明神の妃であったが婦人病のためこの地に流されたという。江戸中期,淡島様の小さな神棚を持った乞食(こつじき)願人が諸国を巡回,その縁起功徳(くどく)を説き,広めたとされる。
*「百科事典マイペディア」参照
        
                   境内の一風景 
 ところで神社参拝後、
自宅での編集中に知ったことが2点ある。一点は「福田石」である。武蔵丘陵森林公園内には「福田岩石切り場跡」があるが、この「福田石」は、褶曲岩盤と言われた淡緑色の斜長流紋岩質凝灰岩で、加工しやすい特性もある為、石垣の切石や石燈籠など土木用材として切り出されていて、福田地区内の字大木で大谷石に似た荒粒の凝灰岩が切り出され、「福田石」として販売されていたが、昭和46年あたりまで採掘されていたという。
 筆者もこれまでに
何度も森林公園に行き、その都度「福田岩石切り場跡」の看板は見ていたが、その都度通り過ごしてしまい、一度も実見しなかったのが、今更ながら残念でたまらない。次回には必ず見に行きたい場所の一つにカウントされた。

 もう一点は
「福田鉱泉」。今では福田小学校から北側にある「福田鉱泉前」バス停留場の名前でしかその存在を確認することが出来ない鉱泉名だが、滑川町で刊行された「滑川町ふるさと散歩道」では以下の記載がある。
「この湯泉の由来は古く、今から約1200年前の大同2年(807年)この地に住んだ蓮海という僧が傷を負った鹿が平癒していく姿からこの湯の効用を発見し、里人に教えたと伝えられる。また、近くの岩窟より現れた薬師如来のご出現の尊きを拝し、寺を造営し「徳水山蓮花寺」と号し、近くには湯前権現を祭ったと言われる。この湯の効用も広く知れ渡り、寺も栄え平穏な時代が続いたが、やがて室町期のうち続く戦乱の世となり、鎌倉への往来激しく、戦禍に巻き込まれた。百姓、僧も立ち去り、 寺も大破されたと文献に記されている。久しく荒れ果てたこの地に住んだのは、天正一八年 (一五九〇年) 豊臣秀吉の小田原攻めの際に、後北条方に属し落城した鉢形城 (現寄居町) ゆかりの武士であったと伝えられる。その後、湯屋小屋も再興されて、その効用は近年まで人々の知るところであり、その恩恵に浴してきた訳である。栄枯盛衰は世の常とはいえ、この地にも幾多の歴史が刻まれたことも見逃せない事実である」

 福田地区
の近郊「伊古」地区には比企郡で唯一延喜内式社として神明帳に記載された古社である「伊古乃速御玉比売神社」が比企総社として鎮座している。社の由来として、蘇我氏の末裔がこの地を開いた際に創建したとの言い伝えがあり、古くは二ノ宮山の山頂付近に鎮座し、山自体が信仰の対象だった可能性も高いという事から、山岳信仰の一種ともいえる。
 福田鉱泉の発見者は「この地に住んだ蓮海という僧」となっているが、修験道が発見したとの伝承もあり、前述の「蓮海」という僧も、想像を逞しくすれば、蘇我氏末裔で修験者ではなかったかと推測したりもしたが、現時点ではそれ以上の真相は不明だ。
 
         
                  社の南側にある
「ふれあい農園谷津の里」(写真左・右)


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淡州神社の編集行いました。

滑川町山田地区に鎮座する淡州神社を再編集いたしました。


内容はほぼ変わっていませんが、写真の画像を編集いたしまして、改めてアップいたしました。また「淡州神社」と以前は記載していましたが、地区名を前につけまして、今後は「山田淡州神社」と修正、変更いたします。

また他の神社も適時編集を行いますので、宜しくお願い致します。

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雷電山古墳

 古墳時代は、日本の歴史において弥生時代に続く考古学上の時期区分を指し、古墳(特に前方後円墳)が盛んに造られた時代を言う。畿内を中心に発達した古墳文化は全国的に波及していき、関東地方へは内陸部を通る後の東山道と、太平洋沿岸部を結ぶ東海道の二つの経路を経て古墳文化が流入してきた。東山道ルートを通じていち早く古墳文化を受け入れたのは群馬県を中心とする毛野(けぬ)の一帯であり、埼玉県内へは毛野を媒介として古墳文化が伝えられた。その内容は後期の横穴式石室の中に三味線胴形などと呼ばれ、玄室側壁に胴張りをもち平面円形に近い特異な形式の古墳が現われることを除いて、古墳の形態、内部主体、副葬品、墳丘装飾のいずれをとっても畿内の古墳と大きく異なる所はない。
 県内初期の古墳とされる東松山市大谷の雷電山(らいでんやま)古墳は丘陵上に位置する全長86メートルの前方後円墳で、標高90メートルの雷電山山頂に築造された。後円部の最上段のみ盛り土がされ、それ以外の部分は地山を削り出して造成されている。1984年(昭和59年)の調査で、墳丘は三段構成であり、墳丘外面には葺石を施し、四重の埴輪列が巡ることが明らかになり、埼玉県で最も古い埴輪の出土例で、後円部墳頂には円筒埴輪を方形に樹て並べた方形埴輪列を巡らし、壺形土器の座部に孔をあけた底部窄孔土器も発見されている。
 雷電山古墳が築かれた時代は、5世紀の前半と推定され、この時期にはすでに東松山市とその周辺には、五領遺跡などにみられる大規模な集落がつくられていて、一つの統一した地方政権が出現していたとみられている。大谷の丘陵には、雷電山古墳が築かれてあと、弁天塚古墳、秋塚古墳、長塚古墳などの前方後方墳がつくられ、その周辺には多くの円墳が築かれ三千塚古墳群が形成された。約250基の円墳群があったといわれている。 
        
               ・名 称 雷電山古墳
               ・墳 形 前方後円墳(帆立貝形)全長86m 後円部高さ8
               ・時 期 5世紀初頭(推定)
               ・指 定 市指定史跡
                    昭和31年(195626日 三千塚古墳群として指定
               ・所在地 埼玉県東松山市大谷
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0833965,139.3885539,16z?hl=ja&entry=ttu
 ゴルフ場の敷地内の高台に古墳が存在する。前方部が短い帆立貝形前方後円墳で、後円部墳頂に大雷神社の社殿が建立されている。この古墳は三千塚古墳群の盟主的存在で、「三千塚古墳群」の名称で東松山市の史跡に指定されている。かつて,雷電山古墳の前方部付近において相撲が奉納されたらしい。
        
 ゴルフ場のクラブハウスへ向かう道を進み、駐車場のすぐ手前右に古墳(大雷神社)への分岐がある。右に曲がると道幅が狭い参道となり、大谷大雷神社の鳥居に到着する。鳥居左側には社務所の駐車スペースあり。
        
          
社号標右側の生垣前に「三千塚古墳群」の案内板あり。
 大岡地域には嘗て小さな古墳が多く存在していたようだが、今はゴルフクラブがその存在を消してしまい、古墳かゴルフコースの見分けが難しくなっている。大谷大雷神社が鎮座している場所も、雷電山古墳の墳頂にある。雷電山古墳は三千塚古墳群の盟主墳とされる全長85mの帆立貝形古墳で、墳丘から埼玉県最古の埴輪が出土した。

三千塚古墳群(市指定史跡)
 大岡地区には、雷電山古墳を中心として、数多くの小さな古墳が群集しています。これらの多くの古墳を総称して「三千塚古墳群」と呼んでいます。
 三千塚古墳群は、明治二十年~三十年頃にそのほとんどが盗掘されてしまいました。そのときに出土した遺物は、県外に持ち出されてしまい不明ですが、一部は国立博物館に収蔵されています。三千塚古墳群からは、古墳時代後期(六~七世紀)の古墳から発見される遺物(直刀・刀子・勾玉・菅玉など)が出土しています。
 雷電山古墳は、これらの小さな古墳を見わたす丘陵の上に造られています。この古墳は、高さ八m、長さ八十mの大きさの帆立貝式古墳(前方後円墳の一種)です。雷電山古墳からは、埴輪や底部穿孔土器(底に穴をあけた土器)などが発見されています。
 雷電山古墳は、造られた場所や埴輪などから五世紀初頭(今から千五百年位前)に造られたものと思われます。また、雷電山古墳の周辺にある小さな古墳は、六世紀初頭から七世紀後半にかけて、造られつづけた古墳であると思われます。
                            東松山
教育委員会  案内板より引用
 
 鳥居を越えて石段を登る(写真左)。雷電山古墳は標高90メートルの雷電山山頂に築造され、後円部の最上段のみ盛り土がされ、それ以外の部分は地山を削り出して造成されている。1984年(昭和59年)の調査で墳丘は三段のテラス構成であるが、石段も数カ所踊り場を設置している。写真右は石段をある程度登ったところで下部を撮影。写真では分かりずらいが、1段目のテラスは周囲見ながらでもしっかりと確認することができる。因みに雷電山古墳は
三段築成の後円部は最上段が盛土で、一、二段目は地山を削り出しているとのこと。
        
           雷電山古墳・墳頂に鎮座している大谷大雷神社社殿。
  社殿の所々に小石が散乱している。古墳
墳丘外面には葺石を施していた名残りであろうか。

 大谷大雷神社の社殿奥で、雷電山古墳の前方部にあたる場所では、嘗て「
大雷神社祭礼相撲」という祭礼神事が行われていて、現在はその跡地付近には「大雷神社祭礼相撲場跡」という案内板がクラブハウス沿いの道端に設置されている。
        
              「大雷神社祭礼相撲場跡」案内板
 
 古墳の前方部はやや平らな空間が見え(写真左)、案内板を照らし合わせると、そこが嘗て祭礼相撲が行なわれた場所ではなかったかと推測される。また前方部で祭礼相撲が行なわれたであろう場所の右側にも、やや平坦な場所が見える所も見えた(写真右)。

 相撲
の歴史は古く、『記紀』などにも見られ、神事として皇室との結びつきも深く、また、祭りや農耕儀礼における行事の一つとして発展している。
 『古事記』国譲りの段において、出雲国稲佐の小浜で高天原系の建御雷神と出雲系の建御名方神が「力くらべ」によって「国ゆずり」という問題を解決したり、『日本書紀』においては、第11代垂仁天皇の御前で野見宿禰と当麻蹶速が日本一を争い、これが天覧相撲の始まりと伝えられる。また、野見宿禰は相撲の神様として祀られている。
 元々は民俗学上すでに弥生時代の稲作文化をもつ農民の間に、豊作に感謝し、五穀豊穰を祈願する際に、吉凶を神に占う農耕儀礼として相撲が広く行われていたことが明らかにされている。本質的には、農業生産の吉凶を占い、神々の思召(おぼしめ)し(神意)を伺う神事として普及し発展してきた。相撲が史実として初めて記録されたのは、皇極天皇の642年古代朝鮮国の百済(くだら)の使者をもてなすために、宮廷の健児(こんでい)(衛士(えじ))に相撲をとらせたという記述で、『日本書紀』にみられる。
 726年(神亀3)、この年は雨が降らず日照りのため農民が凶作に苦しんだ。聖武(しょうむ)天皇は伊勢大廟(いせたいびょう)のほか21社に勅使を派遣して神の加護を祈ったところ、翌727年は全国的に豊作をみたので、お礼として各社の神前で相撲をとらせて奉納したことが、公式の神事相撲の始まりと記されている。
日本各地に残る古くから神社に伝わる儀礼的な神事相撲や地域農村における秋祭の奉納相撲も、また子供相撲、農・漁村や地方都市における土地相撲(草相撲)等もその名残(なごり)の伝承であろう。
              
               石段途中にある「御神井敷地」碑
 神井の井戸は、現在は埋め立てられて川越カントリークラブ場内にあり「御神井史蹟」の石碑が建っている。

 大谷地域には山姫の伝説がある。
 雷電山の山姫様は一年に一度だけ秋晴れの日に舞を舞うと伝えられています。踊りを舞っている時には耳を澄ますと美しい音色が麓の人々にも聞こえてきました。そのうっとりとする調べは村の若い衆の心を動かし「さぞ美しい姫であろう、一目でいいから見てみたい。」と誰しも思いました。しかし、お姫様は気の毒にも足が一本しか無く2本の足を持っている人を見ると呪いを掛けると言われていました。それで山に登るときは 1 本足で歩いて登らなければならず、その上 1 年に 2 度実を付ける栗の木の実を 17 個拾って神殿に御供えしなければなりませんでした。17 個と言う数はお姫様の年齢ではないかと言われていました。ある時、お姫様を見たい一心で一人の勇気ある若者が、栗を 17 個拾って雷電山に一本足で登って行きましたが、夜になっても帰って来ませんでした。翌日、村中の人達が総出で探したらその若者の家の棟にしがみついて眠っていて、若者の着物の裾には一本足の蝦蟇蛙(ひきがえる)が食いついていました。若者はそれから33晩眠り続け目が覚めても何も喋らず、とうとうそのまま年老いてしまいました。一度だけお姫様の絵を描いたそうですが、足は1本でしかも蝦蟇蛙の足のようだったといわれています。」

 一本足の
伝説は「一つだたら(ひとつだたら)」とも言われ、日本全国に伝わる妖怪の一種で一本だたらと同様に足が1本しかない妖怪の伝承は日本各地にあり、一本足(いっぽんあし)と総称されている。古来からの製鉄技法の一つである『たたら製鉄』は鉄が大陸から日本に伝ってきた時代からの製鉄方法で、砂鉄や鉄鉱石を原料に粘土製の炉で鉄を精製する方法である。
 たたら製鉄の工程は昼夜を通して数日間行われる。1400℃以上の火力を維持するために大量の風を送り込むが、吹子(ふいご)という人工的に風を送り込む道具を使っていて、足で吹子を踏むことによって大量の風を送り込むのだが、昼夜問わず数日感行われるため足を患う方も多かったようだ。同時にまた、火の様子も観察し続けなれけばいけないため、眼を患い失明する方も少なくはなかったという。
 このようなことからも一本ダタラが片眼・片足という理由は、たたら製鉄の過酷さを表しているのではないかと言われているが、伝承・伝説のみで、全てを結論付ける事は危険であろう。今後の考古学的な発見等から少しずつ判明出来ればと筆者は考える。

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大谷大雷神社

 大谷大雷神社は鎮座する大岡地区は、東松山市の北部に位置し、大岡地区は、江戸時代には大谷村と岡郷村に分かれていたが、1889年比企郡大谷村、岡郷、市ノ川村、野田村、東平村が合併し大岡村となる。(数ヶ月後、市ノ川村、野田村、東平村が折り合いがつかず、3村離脱、松山町へ編入合併されたという後日談もあるが)
 大字大谷という行政区画となっている同地区は、浸食されてできた多くの谷が多く存在し、大岡地区の小字は 60 近くある中で 12 か所は「谷」がつく程、谷(やつ)がいかに多いかということを伺わせる。その為ため池や沼が多いのはこの地形によるものという。
 この地域は山間の地で非常に水利が悪く、川と言われる様な水の流れはなく全て谷(やつ)と言われる小さな谷ばかりで、必然的に水不足によって五穀は良く実らないことから雷電山の上を平担にして、大雷命〔水配(ミクマリ)の神様〕を祭祀し、干ばつの年には村民はもとより近郷近在の農民達挙げて雨乞い、降雨の祈願に詣でる等深く信仰されたそうだ。
 地域周辺には5世紀頃の関東屈指の規模の三千塚古墳群、7世紀頃の吉見百穴と同様の横穴墓群、その後奈良時代後期の頃の瓦窯跡として有名な大谷瓦窯跡等、太古の人々の営みを残す地でもある。 
        
              ・所在地 埼玉県東松山市大谷3506
              ・ご祭神 大雷命
              ・社 格 旧村社
              ・例祭等 例祭412日 夏祭り720日 新嘗祭1017
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0848777,139.3880127,16z?hl=ja&entry=ttu
 大谷大雷神社は国道407号を東松山方向に進み、「上岡」交差点を右折し、埼玉県道391号大谷材木町線を南下して行くと大岡小学校前の交差点に雷電山古墳の看板が掛けられているので、その看板に従って右折し、ゴルフ場方面へ進んで行くと、途中右手側に大雷神社への社号標と標柱があり、斜め右側に伸びる参道が続く。但し正確には一の鳥居は社から1.2程南にあり、まず参拝を行う前に一の鳥居に向かい、神橋から一の鳥居までの数十メートルの区間だけであるが、日本人としての礼儀を重んじ、最初にその場所に向かう。
        
 一の鳥居手前にある神橋。親柱には「雷電橋」と刻まれている。嘗ては大雷神社参道正面であった場所であり、社殿まで1.2㎞離れている。「雷電橋」は明治22年に大谷村氏子中が寄進したもので、東西に流れている角川の左岸には、同時に建てられた旗立、鳥居、大理石の敷石も現存している。
 
    鳥居に「大雷神社」と刻まれている扁額   鳥居もその前にある灯篭も明治20年頃に建立
 昔ながらの参道はここまでで、鳥居を抜けるとすぐに細い車道となる。そこからゴルフ場方面へ進んで行き、社号標が見える先を右に曲がると参道があり、その先には神社の鳥居が見える。鳥居の左側に社務所があり、手前の広い駐車スペースに車を停めて参拝を行う。
       
              雷電山古墳(大雷神社)標柱      大雷神社 社号標 
   参道の先には大谷大雷神社の鳥居が見える。    大谷大雷神社鳥居正面。二の鳥居となる。
        
                     石段の先には広い空間があり、社殿が正面に見える。
        
                                         拝 殿
 
            拝殿に掲げている扁額                本 殿
       
 大雷神社由緒沿革
 当神社は伊邪那美命の御子大雷命を奉斉し御創建は今から壱千百十餘年前清和天皇の御代貞観元年己酉四月十二日と社伝に言い伝えられている貞観六年辛亥七月二十二日には武蔵従五位下大雷神従五位上を授けられ三大実録武蔵風土記等の古文献にも記載されている如く古代より有名な神社である古代より当地は山間の地にして水利の便非常に悪く五穀良く稔らず大神を祭祀してより五穀豊穣か伝えられ盛夏干旱の時村民挙げて降雨の祈願をし遠近郷の農民も降雨の祈願に詣でて深く信仰された社殿は雷電山と号する古墳の嶺を平坦にして大神を鎮座し社殿の周囲には昔日埴輪の残片が多く古考の説に此の地は武蔵国司の墓と伝承され附近一帯には陪臣の墓と思はれる数百の古墳の群が散見せられた寛政十年壬午四月二十五日再建の社殿は村内はもとより大神の御神徳を稱える近郷近在の人等によって上遷宮が執行された寛政の頃には関東取締役人の御沙汰によって行なはれた特殊神事の奉納相撲は両関が揃い盛大に開幕され明治以前まで続けられ大谷のぼた餅相撲と名高かった寛永十年から五十九年後の安政四年近くの山火事より類火して本社火災の折御神体の奉斉せる幣串自から社外に飛び去りしより神顕の廣大さに村氏崇敬者益々畏敬の念を深めこの幣串を今も御神体として奉斉する安政四年の火災後五年の歳月を経て現本殿が再建された
昭和四十三年十月二十三日   大谷氏子中
        
 
                                     拝殿正面の彫刻
 大岡地域には嘗て小さな古墳が多く存在していて「三千塚古墳群」と呼称され雷電山山頂の雷電山古墳を中心に、放射状に張り出す谷によって画された尾根状に9の支群に分かれて250基の古墳が分布していた。が今はゴルフクラブがその存在を消してしまい、古墳かゴルフコースの見分けが難しくなっている。大谷大雷神社が鎮座している場所も、雷電山古墳の墳頂にある。雷電山古墳は三千塚古墳群の盟主墳とされる全長85mの帆立貝形古墳で、墳丘から埼玉県最古の埴輪が出土した。
 ところで大雷神社の祭神は大雷命で、水の神様である。大谷地区は水利の便が悪く、大雷命を祀って降雨祈願を行っていた。江戸時代、豊作の年の祭礼には江戸から力士を招いて奉納相撲が盛大に行われていたという。社の北西側端で、レストハウスへ通じる道の右側に立てられた「大雷神社祭礼相撲場跡」の案内板がある。
        
 大雷神社祭礼相撲場跡 市指定史跡
 旧大谷村の総鎮守大雷神社の社殿を中心に、辻(相撲場)が二ヶ所あり、一の辻・二の辻と呼ばれ、一の辻は大相撲に、二の辻は草相撲に使用されていました。辻には三百席ぐらいの桟敷席が、傾斜地を巧みに利用して造られていました。現在は二の辻だけが残っています。大雷神社の相撲は、江戸時代中頃から行われていたと伝えられています。相撲の興業には、領主だけでなく関東取締役の特別の許可が必要でした。相撲興業には、近在の人々が大勢集まり、「関東三大辻相撲」の一つといわれるほどにぎわいました。この日、祝酒とともに「ぼたもち」を相撲見物の人たちにふるまったことから「大谷のぼたもち相撲」とも呼ばれ、大変親しまれていましたが、明治二十年頃を最後にその姿を消しました。
昭和613
月 東松山市教育委員会 案内板より引用
        
               大雷神社祭礼相撲場跡付近を撮影




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上野本八幡神社

「新編武蔵風土記稿 野本村条」による野本八幡神社の由緒には気になる一文がある。
 八幡社
 在家の鎮守なり、氷川雷電を相殿とす、當社往古は雷電社一社にして、祭神別雷の神なり、然るに白鳳元年志貴廣豊といへる人、八幡を勧請し、後又氷川を合祀せりと云傳ふれど、白鳳中の配祀など云こと甚疑ふべし、遥の後天正年中地頭渡邊忠右衛門より、八幡免田を寄附し、寛文二年再興ありしと云。神主布施大和。吉田家の配下なり。
 白鳳元年は西暦672年にあたる。この年に志貴廣豊(しきひろとよ)なる人物が、当地に八幡様を勧請したという。八幡様が東国に広がった時期はかなり後代であるので、風土記の編者の言い分にも妥当と考えるが、それよりここで気になるのは「志貴廣豊」なる人物で、ホームページ等にて調べても身元不明で、全く確認できない。
志貴」は「しき、シキ、シギ」とも読め、埼玉県にも「志木市」があり、決して埼玉県人には馴染みがない名称ではない。
 どのような素性、経歴の人物だったのだろうか。 
        
              ・所在地 埼玉県東松山市上野本1812
              ・ご祭神 大山咋命(推定)
              ・社 格 旧野本村在家鎮守
              ・例 祭 例祭101516
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0223835,139.4098935,18z?hl=ja&entry=ttu  
 旧野本村在家鎮守である上野本八幡神社は、国道254号東松山バイパスと国道407号が交わる手前の「八幡神社(北)」交差点を右折して暫く道なりに進むと、右側に上の元八幡神社が見える。南端の一の鳥居付近には適当な駐車場はないため、南北に長い参道の中間地点に「老人憩いの家」という集会所らしい建物があり、そこには駐車スペースも確保されているので、そこに停めて参拝を行う。
        
                上野本八幡神社正面一の鳥居
 道路沿いにある鳥居の右側には市指定文化財である「野本八幡神社の絵馬」と「上野本の獅子舞」の標が掲げられていて、案内板も設置されている。
 

野本八幡神社の絵馬(市指定文化財・有形文化財) 昭和四九年七月一〇日指定
 明治二五年(一八九二)、都幾川の堤防工事(明治二二~二四年)の完成を記念して、その労苦を後世に伝えるとともに、将来に渡って洪水から野本耕地が守られることを願って、拝殿に奉納されています。
 絵馬には、奉納のいきさつ(漢文)と当時の土手普請の様子が細かく描かれています。
 絵は山口曲山、漢文は嵩古香によるもので、いずれも野本出身の文人です。
                            東松山市教育委員会   案内板より引用
上野本の獅子舞(市指定文化財・無形民俗文化財) 昭和五五年一月一〇日指定
 一〇月一五日に近い日曜日、ここ八幡神社の秋祭りに厄除け、家内安全、五穀豊穣の感謝の奉納舞として行われます。一人立ちの三匹獅子舞で、舞の構成は「ドヒヤリ」・「三匹ぞろい」の二曲形式で、「街道くだり」・「雌獅子隠し」・「歌の舞」となっています。獅子舞に先立ち、二人の青年によって「出棒」、「ずり棒」、「込め棒」の棒術が行われるのが特色となっています。「宝暦二年」(一七五二)銘の貼り紙を持つ太鼓や神社明細帳に「嘉永五年獅子頭再調」(一八五二)から少なくとも江戸時代後期には獅子舞が行われていたといわれています。
                            東松山市教育委員会   案内板より引用
        
                 鳥居より参道正面を撮影
 参道は長く、桜も満開の時期、周辺に住む人であろう方々が子供と一緒に春のひと時を楽しむ微笑ましい場面も見られた。
        
                   拝殿周辺を撮影
 
          拝 殿               拝殿に掲げている社号標
志貴廣豊」なる人物はどのような素性を持っているのか。その鍵となるのは「志貴」という苗字である。志貴」は「鴫(シギ)」とも読め、「志義、新儀、信議」とも記されることもある。
・川越宿志義町条
「志義町は昔鴫善吉と云し鍛冶の開きし所なり、故に鴫町と号せり、今志義町とかくは假借なり」。
・鍛冶町条
「天文弘治の頃鍛工平井某と云もの相模国より当所へ来りて住す、その門人鴫惣右衛門、同内匠などと云ものあり」。
・三芳野神社由緒書
「新儀惣兵衛允則重と云へるものは、其の先は新儀巧匠守と称し小田原北条家の麾下也。天文弘治の頃に小田原から門人十四人を率いて川越に移住す」。
・寛永十七年太刀銘 「武州川越住・新儀惣兵衛允則重作」。
・日蓮宗行伝寺過去帳
「宗善院淨心・鴫惣右衛門舅・卯年十月。妙受・鴫前ノ惣右衛門内・辰年八月。巌王院宗念・鴫惣兵衛・巳年七月。妙伝・鴫惣兵衛息女・寅年四月。妙千・鴫殿内千代・午年十二月。妙悦・鴫町衆・二郎右衛門母・寅年十一月。法悦・鴫町与三右衛門・辰年十一月。妙栄・鴫横町ノ甚右衛門内・未年十一月」

 上記の記述では、「
志貴」由来の地は志木市や川越市方面に多く存在し、「鴫・志義・新儀」等と記載されることもあるようだ。その一派が比企郡・野本地区に移住したと考えられる。またどうも古代鍛冶にも関連している地名・苗字でもあるようだ。「志貴廣豊」もそのような関係の人物である可能性も否定できない。
        
            拝殿の奥に静かに鎮座する本殿(写真左・右)。
       
            社殿の東側には御神木が聳え立つ(写真左・右)。
            
                拝殿手前に咲き誇る桜の大木
           桜はどの場所にあっても美しいことに変わりはない。
                まさに「日本の春」を象徴するような木。
 
     社殿の右側にある境内社         参道左側に並列している石碑・石祠等
             
               一の鳥居の右側にある庚申塔    
 上野八幡神社が鎮座する野本地区は、平安時代末期から鎌倉時代前期の武士である野本基員が始祖とされる野本氏がこの地域一帯を領有していた。
 『新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集』(『尊卑分脈』)には、基員は藤原鎌足の末裔として記されている。藤原北家魚名流、民部卿・藤原時長の子である藤原利仁は、藤原秀郷と並び藤原氏が武家社会を創出していく時代を象徴する重要な人物である。延喜11年(911年)上野介となり、翌延喜12年(912年)に上総介に任じられる。そのほか下総介や武蔵守といった坂東の国司を歴任し、延喜15年(915年)には下野国高蔵山で貢調を略奪した群盗数千(蔵宗・蔵安)を鎮圧し武略を天下に知らしめたことが『鞍馬蓋寺縁起』に記され、同年鎮守府将軍に就任。後代、中世文学のなかで坂上田村麻呂・藤原保昌・源頼光とともに中世の伝説的な武人4人組の1人と紹介されている。
       
 平安時代後期
において堀川大臣と称された藤原北家基経の警護役である、藤原利仁の次男で、従五位上・斎宮頭である藤原叙用の子孫という片田基親(かただ・もとちか)の子基員(もとかず)が当地に住み野本姓を名乗ったとされる。
 上記の内容のほとんどはWikipediaを参照としているが、「基員は御家人として源頼朝の信頼を受け、武蔵国比企郡野本(現在の埼玉県東松山市下野本)の地に居住し野本左衛門尉を称した」との記述ひとつにも謎があり、京都では藤原氏の中でも主流の系図からはかなり外れてしまい、出世の見込みもなくなったであろう(片田)基親・基員親子が何故か何の縁もなさそうな武蔵国比企郡に移住している。
 偶然とは思うが、志貴廣豊」と「野本基員」は同じく野本地区に移り住んでいて、時代背景の違いこそあれ、何故か似た者同士のような境遇に重なってしまうのは、筆者の思い過ごしであろうか。
 

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