古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

下渕名大国神社

 下渕名大国神社は群馬県旧境町に鎮座している。境町は群馬県南東部で、伊勢崎市の東側、佐波郡にあった人口 約3万2千の旧町である。利根川中流北岸の沖積低地に位置し、利根川を南北に隔てて埼玉県本庄市、深谷市との県境となっている。
 中心の境は江戸時代に日光例幣使街道(にっこうれいへいしかいどう)の宿場町のひとつで繭,生糸の集荷市場として発達した。境町の名前の由来は室町から戦国時代に、上野国那波郡と新田郡の境目であったことから「境」という地名に変わったともいう。2005年(平成17年)1月1日に伊勢崎市と合併し境町は消滅した。

所在地    群馬県伊勢崎市境下淵名2827
主祭神    大国主命         
         (配祀)日葉酢媛命  渟葉田瓊入媛命  真砥野媛命 竹野媛命  薊瓊入媛命
社  挌    上野国延喜式内社 五の宮  旧郷社
例  祭    10月22日 秋季例大祭

        
 大国神社は伊勢崎市役所の東、国道17号線バイパスと県道が交わる旧境町に鎮座する。駐車場は県道側の道路沿いに専用駐車場があり、数台横並びに停められることができる。(後日参拝したところ、一の鳥居の北側にも駐車スペースがあり、そこのほうがより広い空間があった)
 この社は第11代垂仁天皇が東国に発生した大干ばつを収めようと勅使を派遣して祈らせたところ、この地に大国主神が現れて雨を降らせ、乾燥した大地が潤って水量豊かな渕ができたという。その伝承が渕名(ふちな)という地名にもなっているようだ。
           
                         下渕名大国神社一の鳥居

        
                   二の鳥居の左側にある由緒を記した案内板

大国神社
 上野国式内十二社大国神社縁起 境町大字下渕名字明神鎮座
 祭神  大国主命
 配祀神 渟葉田瓊入媛命、竹野媛命、日葉酢媛命、垂仁帝皇后、眞砥野媛命、筋瓊入媛命
       (外三柱)  罔象女旧御手洗神社祭神、素盞嗚命、事代主命旧八坂神社祭神

 延喜式神名帳に上野国大国神社あり上野国神社名帳に従一位大国神社とあるは即ちこの社である。
 縁記に曰く人皇第11代垂仁天皇の9年庚子四月より風雨順ならず、大旱打続いて蓄斃死するもの数を知らず天皇深く之を憂ひ給い諸国の神明に奉幣せられ東国には百済車臨遣はされて車臨この地に来り老松の樹下に宿る之即ち御手洗の亀甲松であった。偶々明旦前池に白頭翁の手洗ふを見たので問ふに叟は何人ぞと翁答いで曰く吾は大国主の命である。汝は誰だと車臨容を正して吾は天皇の勅を奉じて風雨順時疫病平癒の奉幣使百済車臨である願くは国家の為に大難を救助し給へと翁唯々と答ふ言下に雲霧咫尺を辨せず翁の姿は消えて影もなし須叟にして風巽より起り、甘雨澎湃として至り前地忽にして淵となった。
 因ってこの郷の名を渕名と呼ぶ様になり、これから草木は蘇生し悪疫悉く息み五穀豊饒土蒼生安穏となり天皇深く車臨を賞して左臣の位を授け大国神社を此の処に祀らしめ此の地を賜ったと云ふ。仝年15年丙午の年9月丹波国穴太郷より五媛の宮を奉遷して合祀した故に古より当社を五護宮又は五后宮とも書き第五姫大明神とも称した此の時第五媛の神輿に供奉した舎人に松宮内大須賀左内生形権真人石井田右内の四人があり、松宮内の子孫代々当社の祀宮として明治に至ったと伝へられて居る。
 後称徳天皇の神護景雲元年従五位上佐位采女勅に奉して上毛に下り社殿を修造し国造の神として、渕名荘三十六郷の總鎮守として尊崇殊に篤かった。文化元年甲子現在の社殿を改築し、明治七年熊谷縣管下北方十六区佐位郡波両郡四十二ヶ村の郷社に列し仝42年2月神饌幣帛料供進社に指定されたのである。
 世界大戦後は、祭典を止められ神社の財産も開放となったが由緒ある神社で、氏子を始め、四隣からの崇敬は目を追ふて古にかへりつゝある境内は2476坪地は天然の丘陵に位置し、近くは太田の金山遠くは常陸の筑葉山と相対し遥かに西南を望めば上武の連峯は雲烟模糊の間に縹沙として遠近の風光を収めて居る云之。社前は延徳2年庚戌4月16日本願法名清本秀行刻せる石浄手鉢一基あり、本御手洗の社前より移したものといふ。
 祭日 大祭 10月22日
 中祭 3月29日
 小祭 7月25日
  大祭は古来獅子舞の神楽を演じ奉納する習あり
 午時 昭和55庚申年10月22日
 平成9年10月吉日 総代長 新井昭二
                                                          案内板より引用


 参道を抜けるとひろばがあり、拝殿が正面に鎮座する。寺院のような重量感ある社で、特に屋根部が異常に大きい。
       
                             拝     殿

             拝殿上部                   参道社殿手前左側には渕名天満宮

      参道社殿手前右側にある浅間神社            浅間神社の先にある八坂神社
                   
                浅間神社と八坂神社の間付近にある大国神社の石鐘
大国神社の石幢
 指定重要文化財  大国神社の石幢
 昭和42年2月10日指定
 村の人たちが、「御手洗の后燈籠」と呼ぶこの石幢は、昔近くの御手洗池畔で出土したと伝えられ、長い間人々の信仰を集めてきた。
 石幢は鎌倉時代に中国から伝えられ、日本では幢身にじかに笠を乗せた単制のものと、当石幢のような石燈籠ふうのものが発達した。石幢は仏教でいう「輪廻応報」「罪業消滅」という人々の願いをこめて建立されたものと考えられ、ガン部と称する部分を火袋として点灯し浄火とした。
 全体では、自然石の芝付の上に大きい角石の台座を置き、その上に竿塔・中座・火袋・屋蓋・相輪と積み重ねられ、台座からの総高は2,38mもある立派なものである。特に中座と火袋がよく安定した感じを出し、屋根の流れと軒反りのはね方は室町時代の作風をよく表わしている。また輪廻車が当石幢にもあったらしく条孔が残っている。
 笠部には磨滅がひどく定かではないが、次の銘文が読みとれる。
 本願主法名 清本秀行
 延徳二年庚戌四月十六日
           
                             本     殿
 大国神社が鎮座する下渕名地区は群馬県佐波郡に属する。この佐波郡は元佐位郡と言われ、上野国13郡(701年・大宝令)の一郡でもあった。この地域一帯には嘗て檜前氏一族が一大根拠地を形成していたといわれている。
 檜前氏は応神天皇の時代に渡来した東漢氏の祖・阿智使主の末で、大和国飛鳥の檜前(現奈良県明日香村檜前)を本拠地として、全国に一族が配置されていたようだ。関東では上総(かずさ)国 海郡や上野(こうずけ)国 佐位郡、檜前舎人部は遠江、武蔵、上総などの国に点定している。
 
 続日本後紀・神護景雲二年(768)六月六日条に称徳天皇の采女(うねめ)として仕え、従五位下まで出世した檜前部老刀自(ひのくまべのおいとじ、檜前君老刀自)という人物が記されている。断っておくが「采女」の称号を受けているのでこの人物は歴とした女性である。
 *采女   地方豪族である郡司の長官・次官(少領以上の官)の姉妹、娘の美しい女性を天皇のもとに仕えさせる制度。

 この人物は「上毛野佐位朝臣(かみつけのさいのあそん)」を賜姓、のち「本国国造(上毛野国造)」の称号を与えられていることから、檜前一族が佐位郡を中心にかなりの勢力を持ち、また上野国在住の地方豪族でありながら、近畿大和王朝とも太いパイプを保持していたと思われる。
 檜前一族は佐位郡に隣接している那波郡に一例の檜前氏が確認でき、また利根川南岸の武蔵国賀美郡にも檜前舎人直中加麿という人物がいたことは「続日本後紀」承和七年一二月二七日条にも記されている。少なくとも檜前一族が利根川中流域のある特定地域に勢力を張っていた根拠にはなるのではないだろうか。

 東京都浅草にはあの有名な金龍山浅草寺(せんそうじ)があるがすぐ隣には浅草神社が鎮座している。この浅草神社の御祭神は土師真中知(はじのあたいなかとも)、檜前浜成(ひのくまはまなり)・武成(たけなり)で、この三人の霊をもって「三社権現」と称されるようになったという。合祀で徳川家康、大国主命を祀っている。
 社伝によれば、推古天皇36年(628年)、檜前浜成・武成の兄弟が宮戸川(現在の隅田川)で漁をしていたところ、網に人形の像がかかった。兄弟がこの地域で物知りだった土師真中知に相談した所、これは観音像であると教えられ、二人は毎日観音像に祈念するようになった。その後、土師真中知は剃髪して僧となり、自宅を寺とした。これが浅草寺の始まりである。土師真中知の歿後、真中知の子の夢に観音菩薩が現れ、そのお告げに従って真中知・浜成・武成を神として祀ったのが当社の起源であるとしている。

 
 この説話から解る事実とはなんであろうか。ヒントは土師氏と桧前氏だ。土師氏は有名な野見宿禰の後裔とされ出雲臣系である(天穂日命→建比良鳥命→野見宿禰)し、桧前氏は続日本後紀では武蔵国の「桧前舎人」は土師氏と祖を同じくしとある。檜熊浜成と武成も桧前氏と同族かもしれないし、土師真中知とも同族、もしくはかなり近い親戚関係であった可能性が高い。つまりこの浅草神社の伝承からある時期土師氏と桧前氏はこの関東地域では同族関係にあったと推測される。

 土師氏と桧前氏が利根川(この場合現在の太平洋に注ぐ現利根川ではなく、荒川と合流して東京湾に注ぐ流路をとっていた江戸時代以前の本来の利根川)流域を共に根拠地としていた氏族である。同族関係、もしくは同盟関係であったならばこの一族同士の交流はあったろう。この場合舟運ネットワークとして利根川は格好の河川ではなかったろうか。

 

             八坂神社                      諏訪、住吉、稲荷神社等
                    
          大国神社本殿の奥の斜面上にある石祠。本来の本殿だったのだろうか。
 
        
       西宮、弥都波能女神と金神等        浅間神社の裏に庚申塔と冨士嶽神社、秋葉神社
                                                                                                      

 

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世良田八坂神社

 世良田地区は世良田東照宮が有名だが、すぐ近くには八坂神社が鎮座している。距離もそんなに離れていない。
 創建年代は不詳。だが上野国新田祇園牛頭天王縁起によると、貞観十八年(八七六年)丙申に上野新田のほとりに、社を作らば静まるべしと、当所に鎮め奉った。
 新田氏代々の崇敬社。尾張国津島天王社を分霊したともされる。世良田政義の娘と南朝の尹良親王との御子良王(よしたか)君の次男良新(よしちか)が津島天王社神主となり、尹良親王を若宮として祀ったという。
 古くは牛頭天王を祀る新田の天王社と呼ばれていたという。明治期に郷社となり八坂神社と称した。上州三大祇園である「世良田祇園」が有名である。
所在地   群馬県太田市世良田町1497
主祭神   素戔鳴尊 他
社  格   旧郷社  新田総鎮守
創  建   貞観十八年(八七六年)か
例  祭   秋祭 10月15日   世良田祗園 7月第4土、日

           
 世良田八坂神社は太田市の南部、旧尾島町世良田、国道354号線から世良田駅へ向かう県道から一本西に入ったところに鎮座している。大体世良田東照宮から北に1km弱くらいだろうか。駐車場は、鳥居手前に「参拝者用駐車場が」あり、自動車は、5~6台くらいは停められるスペースがある。
           
                       歴史を感じる木製の重厚な両部鳥居
 今回参拝の目的地はあくまでも世良田東照宮で、道すがら近くに八坂神社があることをナビで知ってなにげなく立ち寄ってみた神社だった。しかし古風な鳥居の門構えを見てびっくり、その先の重厚な威厳ある拝殿、その奥の様々な彫刻に飾られた煌びやかな本殿を惚れ惚れしながら見るうちに、ワクワクしている自分がそこにいた。広い境内に配置されるのは神楽殿に神輿舎、額を奉納した舞台の横には芭蕉の句碑があり、さらに杉林の合間に赤城山を望む本殿裏には、どのくらいあるのか検討もできない位の境内社。案内板も多く、丁寧に説明され、見所がたっぷり詰まった侮れない社だ。
           
  鳥居の稚児柱(稚児鳥居)右側には「天王宮」左側には「新田厄除明神」と書かれた木札が付いていた。

       鳥居を過ぎると右側には神楽殿                 神楽殿の奥には額殿

               その奥にある松尾芭蕉の句碑                      芭蕉句碑の案内板
      太田市指定重要文化財[石造文化財]

八坂神社の芭蕉句碑
 この芭蕉句碑は、八坂神社の本殿東側に建てられており、仁井田碓嶺<安永9年(1780)?弘化3年(1846)>の筆によるもので、仁井田碓嶺は上州碓氷郡坂本宿出身の江戸時代の俳人で、当時の俳諧史に名前を残した人物である。碓嶺による芭蕉句碑は県内に4基あるが、文政9年(1826)建立のこの句碑は、最も早い時期のものと言われている。また、「春秋三世碓嶺書」の刻字があるところから、碓嶺が白雄、長翠の後に春秋庵を継いだと見られる貴重な句碑である。

 句碑には、「はせを翁 しはらくは花の色なる月夜かな」が刻まれている。
             
                              拝     殿
八坂神社
 所在地 群馬県太田市世良田町1497
 祭  神 素戔鳴尊 他
 八坂神社の創建は明らかでないが、縁起によれば新田氏代々の崇敬社であり、織田信長も同社を崇拝し社殿を修造したという。また尾張国(愛知県)津島天王社の分霊を移したとも伝える。これは世良田政義の娘と南朝の王子尹良親王との間に出生した良王が、津島天王社の神主となったという故事によるものであろう。
 「永禄日記」(長楽寺蔵)の永禄八年(1565)六月七日の条に、「天王祭ヲイタス」とあり、古くは「牛頭天王」を祀る天王社であった。江戸時代は神宮寺(大正二年普門寺へ合併)が奉仕し、世良田・女塚・境・三ツ木・粕川村など五ヶ村の鎮守であったが、明治初年さらに平塚・村田村・木崎宿などが加わり、二十四ヶ村の郷社とされ、八坂神社と称した。
 当社は、農業・疫病除けの神として広く信仰されている。特に夏祭は「世良田祇園」として知られ、かって十一台の屋台が繰り出して競う祇園ばやしは、夜空にこだまして絢爛幻想の世界を現出し、関東の三大祭の一つに数えられた。近年は交通事情により祭りの規模は縮小されているものの、村人により祭り屋台・囃子が良く保存されており、神輿の渡御などに「世良田祇園」の伝統が受け継がれている。(中略)
 昭和63年3月        太田市教育委員会
                                               世良田八坂神社 案内板より引用
            
                              本     殿
 世良田八坂神社が鎮座する世良田地区は、清和源氏、源義家の三男義国の長男である新田義重の四男義季が世良田郷を譲られ、世良田氏と称したという。(但しこの義季は新田郡得川郷を領有して得川義季と称したとも言われていて、その真偽は定かではない)歴とした名門である。
 鎌倉時代末の争乱が始まると、世良田弥次郎満義は惣領新田義貞に従って鎌倉攻めに参戦し、北条高時以下の北条氏を滅ぼした。その後の満義は南北朝時代の争乱下においても、一族の江田行義(教氏の弟の有氏の子)とともに義貞に従い続き、南朝方として、終始活躍した。

 新田氏は義貞戦死後も日本国中に散らばり、孤軍奮闘したが、北朝足利氏勢力に各個撃破され、新田氏本宗家である新田義宗は正平23年(1386年)上野沼田荘で敗北、そして戦死し、事実上滅亡する。世良田氏も満義の嫡子の政義は、宗良親王の本拠地である信濃国に赴くが、応永31年(1424年)宗良親王の嫡子である伊良親王と共に浪合という地において戦死したという。(伊良親王はこの地にて自害、その子である良王君の子孫が、一説によると尾張国の津島で社家に入って神職として系を伝えたとしている)


  社殿の左側には神興庫があり(写真左)、通常は閉まっているのだが、正月初詣の関係で開いていたのは正直幸運だった。また並びにある社務所の手前には「熊杉」という大きな切り株がある(同右)。樹齢は約700年で世良田八坂神社のシンボル的な神木だったそうだが、今は切り株のみだ。


 社殿の奥には所狭しと多くの境内社が並んで鎮座している。社殿の右側の奥、方角では北側に当るが、そこには小さな鳥居がポツンとあり、そこから並びに弁天社(写真左)、出羽三山社と彫られた石碑(同右)がある。
 
      出羽三山社の隣にある御嶽神社                   猿田彦大神
  
             境内社群                            縁結神

             永寿大明神                          琴平神社                                                                             

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世良田東照宮

 
 群馬県にある元新田郡世良田は新田氏の開祖新田義重の居館跡とされ、隣接する長楽寺は義重の供養塔もあり、歴代新田氏本宗家惣領が厚く庇護を与え、大いに栄えていた。関東に入った徳川氏は、新田氏から分立したこの地を発祥地とする世良田氏の末裔を自称していたため、徳川氏ゆかりの地ともされた。
 世良田東照宮は、世良田が徳川氏の発祥の地であることから、先祖の遺徳の高揚と世良田の守護神として、 徳川三代将軍家光公が二代将軍秀忠公の造営による日光東照宮の奥社殿を1644年(寛永21年)に移築、本殿を新築し、東照宮を勧請したものである。
 また太田市内の他の社寺、館跡とともに「新田庄遺跡」として現在国の史跡に指定されている。
所在地     群馬県太田市世良田町3119番地1 
主祭神     徳川家康公
社  格     旧郷社
創  建     寛永21年(1644年)
本殿の様式  一間社流造
例  祭     4月17日

       
 世良田東照宮は国道17号を深谷市方向へ進み、深谷署交差点を右折するとその道は群馬県道・埼玉県道14号線となり、道なりに真っ直ぐ行く。上武大橋を通り利根川を越えると群馬県となり、しばらく進むと左側に世良田小学校が見え、その先のT字路を左折し、突き当たりを左方向に行くと世良田東照宮が鎮座している。
 駐車場は神社入り口右側に数台ありそこに駐車する。隣接している新田ノ荘歴史資料館の駐車場もあり、また世良田東照宮の北側並びには長楽寺もあり、そこにも駐車場もあるので駐車スペース確保には苦労をしなくても良さそうだ。
          
                   正面は鳥居ではなく黒門、正式名は御黒門
          
                                 黒門を通ると正面に鳥居があり、その先に拝殿がある。
          
 参道を進むと右手に迫力のある大鉄燈籠があり、高さ5mで国指定重要文化財の附(つけたり)指定になっている。元和4年銘。
 ちなみに附(つけたり)指定とは、「もとにある国宝や重文の価値を証明したり、その根拠及び比較の対象、又時代背景等深い係わりの認められるもの」という意味で、国宝指定や文化財指定の追加の指定をいう。

 社殿の手前左側には平成8年に再建された稲荷神社がある(写真左)。古くから当地世良田に鎮座する開運、商売繁盛の稲荷神社で通称「開運稲荷社」とも言われている。また稲荷神社から南側に向かう参道があり、そこの左側向かいには稲荷神社の案内を記した掲示板(同右)があった。
           
                             拝     殿

東照宮  所在地 太田市世良田町3119-1
  元和二年(1616)徳川家康は駿府(静岡市)で七十五年の生涯を閉じた。遺命により、遺体は一旦駿府郊外の久能山に葬られ、翌年下野国日光に改葬された。それより二十年の後、社殿は三代家光によって全面的に改築され、今日の東照宮が完成した。当時日光輪王寺と長楽寺の住職を兼ねていた天海は、旧社殿の一部を長楽寺元境内に移築して東照宮を勧請した。当地が徳川氏発祥の地であり、当寺が徳川義季開基とする寺だからである。幕府は、長楽寺をその別当寺としてその管理や祭祀に当らせ、二百石の社領を与え、その社殿の修理や祭祀の費用は幕府の財政によって賄われることになった。桁行五間・梁間三間の拝殿は、日光奥社の拝殿を移したものである。家康の最初の墓標として建てられた多宝塔もここに移され、本地堂(俗に塔の薬師)として、明治初年までその豪華な姿をとどめていた。
 東照宮の鎮座により地元世良田の住民はもとより、近隣十数か村の住民は、東照宮の火の番を奉仕することによって道中取郷を免除されたり、幕府によって開削された神領用水の利用を許されたり、種々の恩典に浴することができた。
 寛永二十一年(1644)に遷宮式が行われた。(中略)
 昭和62年3月    太田市教育委員会
                                                          案内板より引用
           
                             唐     門
       
元々は日光東照宮奥社神廟前にあった唐門で、拝殿を移築する時に一緒に移築されたという。
                                                             
                                            本殿は拝殿同様に国指定重要文化財
 
                                                           

                                                                                             

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倭文神社

 倭文神社が鎮座する伊勢崎市(いせさきし)は、群馬県の東南部に位置し、市の北部に一部丘陵地があるほか、ほぼ平坦地である。市の南部には利根川が流れ、その支流である広瀬川、粕川、早川などの河川や池沼がある。道路交通網では、北部を横断する北関東自動車道、国道50号、また、市の東北部を通過する国道17号(上武道路)や南部を横断する国道354号、中央部を縦断する国道462号などが整備されており、さらに、鉄道網では、JR両毛線、東武伊勢崎線が結節する交流拠点として更なる発展が期待されている。
 2005年(平成17年)1月1日に行われた1市2町1村の合併によって人口が20万人を突破し、2007年(平成19年)4月1日に東に隣接する太田市とともに特例市に移行した。不思議な事に この市の人口は現在でも増加傾向にあり、群馬県内でも屈指の人口増加が持続する地域であるそうだ。子どもが増えている一方で、高齢化も緩やかに進んでいる。また、就業者は、サービス業の従事者が増加している。

 伊勢崎市の地名の由来は、1561年(永禄4年)に由良成繁が赤石城を攻め落とし、赤石郷の一部を伊勢神宮に寄進して、伊勢宮を守護神として奉った。以来、「伊勢の前(いせのさき)」と呼ばれるようになり、転じて「伊勢の崎」、「伊勢崎」となったとされる。
所在地    群馬県伊勢崎市東上之宮町380
主祭神    天羽槌雄命         
         (配祀)倉稻魂命 菅原道真 豊受姫命 木花咲耶姫命
             大己貴命 大山祇命 誉田別命 素盞嗚命 菊理姫命
社  挌    上野国延喜式内社 九の宮  旧郷社、那波郡鎮座 
例  祭   
4月16日 春季例大祭  10月17日 秋 祭 

          
 倭文神社は、伊勢崎市の南西3㎞ほどの利根川と廣瀬川の間に挟まれた地形で、周辺はさほど多くの民家はなく、田園地帯の中に鎮座している。駐車場は境内裏側に数台停められるところがある。意味深にも利根川の対岸に下の宮という地があり、そこには式内社である火雷神社が鎮座している。
 「倭文」と書いて「しとり」と読む。創立年代・由来は一切不詳だが、一説には、垂仁天皇の御宇3年という。社名から倭文部の創祀した神社と思われ。祭神、天羽槌雄命は、倭文部の遠祖で、織物の神。伊勢崎市は周辺の桐生市も含め古くから織物の里として栄えている関係もあるのだろうか。
               
                    正面入口から入ると朱の両部鳥居がある。
 貞観元年(859)に官社に列せられ、従五位下を授けられた。(三代実録) その後、延長5年(927)に撰集された『延喜式』神明帳の中に 倭文神社の名が載せられ、上野神明帳には、『従一位倭文大明神』とあって 上野国の九之宮とも称された由緒ある社だ。倭文氏の氏神を祀った神社なので、奈良県葛城市に鎮座する「葛木倭文坐天羽雷命神社(かつらぎしとりにいますあめのはいかずちのみことじんじゃ)」が本家の神社のようだ。

倭文神社略由緒
鎮座地    伊勢崎市東上之宮町380番地
延喜式内  上野十二社 九之宮
主祭神    天羽槌雄命
配祀神      倉稻魂命 木花咲耶姫命 譽田別命  菅原道眞命 大己貴命 素盞嗚命
               
豐受姫命 大山祇命 菊理姫命
 当社の御祭神は、天羽槌雄命で、その歴史は古く機織の祖神として、また農耕、養蚕の神として尊崇されてきた。その創建は、人皇第11代垂仁天皇の御宇3年と伝えられているが、これを明らかにする証跡は、現在不明となっている。
 貞観元年(859)に官社に列せられ、従五位下を授けられた。(三代実録)その後、延長5年(927)に撰集された『延喜式』神明帳の中に倭文神社の名が載せられ、上野神明帳には、『従一位倭文大明神』とあって上野国の九之宮とも称された。
 その後、戦国時代の争乱にまきこまれ、一時荒廃したが徳川氏の江戸入部以来 関東地方も次第に平和をとりもどし、元和年間(1615~23)から寛永年間(1624~43)に入る頃は、社殿も再建され、別当寺として、新義真言宗宮川山慈眼寺が定められ、住持実秀が別当となった。以後近世を通じ倭文神社は慈眼寺の管理下におかれた。三代将軍家光のれ慶安元年(1648)9月には、御朱印地十石を賜わり、漸く安定した神社経営が行われ、祭事も復興し、神威もいよいよ加わるに至った。その後約80年を経て、享保12年(1727)8月には、八代将軍吉宗から社殿再建勧進の許可を得て上野国はもとより、江戸府内からも浄財の寄進を仰ぎ、旧にまさる荘厳な社殿鳥居などが再建され、大いに隆盛をきわめた。しかし、この社殿も慶応2年(1866)11月9日再度火災に会い、悉く灰燼に帰してしまった。
 現在の社殿はその後、明治13年10月24四日(上棟)に再建されたものである。なおさきの御朱印地十石の斎田は、明治維新の際上納され、また明治元年の神仏分離令により、別当寺や社僧の制も廃止され、神職によって祭祀される現在の姿となった。その後区内の小社祠の整理合祀も行われ、この間郷社に列せられた。また大正14年には、神饌幣帛料供進社に指定された。
 今次大戦後は、国家神道や社格もなくなり、純粋な上之宮町の鎮守として今日に至っている。
                                                           案内板より引用
                               
                              拝    殿
                               
                              本    殿
 倭文神社はその後戦国時代の争乱にまきこまれ、一時荒廃したが 徳川氏の江戸入部以来 関東地方も次第に平和をとりもどし、 元和年間(1615~23)から寛永年間(1624~43)に入る頃は、社殿も再建され、 別当寺として、新義真言宗宮川山慈眼寺が定められ、住持実秀が別当となった。
 以後近世を通じ倭文神社は慈眼寺の管理下におかれた。三代将軍家光の慶安元年(1648)9月には、御朱印地十石を賜わり、 安定した神社経営が行われ、祭事も復興し、神威もいよいよ加わるに至った。享保12年(1727)8月には、八代将軍吉宗から 社殿再建勧進の許可を得て上野国はもとより、江戸府内から浄財の寄進を仰ぎ、旧にまさる荘厳な社殿鳥居などが再建され、大いに隆盛をきわめた。 しかし、この社殿も慶応2年(1866)11月9日再度火災に会い、悉く灰燼に帰してしまった。現在の社殿はその後、明治13年10月24日(上棟)に再建されたものである。
              
倭文神社

伊勢崎市指定重要無形民俗文化財
倭文神社の田遊び
平成19年8月17日指定
 倭文(しどり)神社の田遊びは、上之宮町の倭文神社で毎年1月14日に行われる田植えの予祝行事です。笹竹を持つ祭員が笹竹を振り、ご神歌を奉唱しながら鳥居と拝殿を三往復した後、町内を巡行します。戻ると再び鳥居に整列し.鳥居と拝殿の間を三往復します。
 昔は最後に参会者による笹竹の奪い合いがあり、この竹で蚕箸を作ると蚕が当たるとされていました。
 この田遊びの、ご神歌は中世期まで遡り、貴重です。
御神歌
 工ートウ、工ートウ
 まえだの鷺が御代田にぎろり
 ぎろぎろめくのは なんだんぼ
 一本植えれば千本になる
 とうとうぼうしの種

 工ートウ、工ートウ
 乾(いぬい)のすまの掃部(かもん)の長者
 つじゅう十石ざらり
 ざらざらめくのは なんだんぼ
 一本植えれば千本になる
 とうとうぼうしの種

  平成20年3月1日     伊勢崎市教育委員会
                                                          案内板より引用

 拝殿を左手方向に進むと巨大な岩が祀られている。       拝殿の西側には神楽殿がある。
          磐座の類であろう。

 境内右側には道路沿いに鳥居があり(写真左)、そこからも出入りができる。ただ鳥居近くに社日があったが見落とした為、撮影できなかった。少々残念。またこの鳥居を入るとすぐ右側に石祠群があり、左から少彦名神、道祖神、双体道祖神、道祖神が並んでいる。

 また社殿の奥にも多数の境内社が存在する。
        
         熊野社           市杵嶋社、八幡社、天満社         八坂社等 境内社

  ところで、この倭文神社から真南に約1㎞位、利根川を挟んで式内社、火雷神社が鎮座している。倭文神社が九宮で火雷神社が八宮であり、地名も倭文神社が上之宮町に対して、火雷神社は下之宮町。祭神が倭文神社は天羽槌雄命であるのに対して火雷神社は「神名帳考證」では「香々背男」。この香々背男は「天津甕星」とも言い、星の神という。
 群馬県利根川中流域の川を挟んで南北に僅か1km程の狭い地域の中に日本書紀葦原中国平定の際に登場する正悪相対する2神が鎮座する社が存在するという事はどういう意味があるのだろうか。
    



 


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火雷神社

 群馬県佐波郡玉村町は群馬県南部に位置し、南を烏川で画され、町の北部を利根川が流れ、町の南東で合流する。また町内の地形は平坦なので、赤城山、榛名山、妙義山を一望できる自然環境の豊かな地域でもある。
 
東京から100km圏内という位置にあり 東は伊勢崎市、西は高崎市、南は藤岡市、高崎市、上里町、北は前橋市にそれぞれ接していて全域が標高は57m~72m位の平野部であるが、南部の烏川流域が沖積低地であるのに対し、北部の利根川流域は洪積台地である。町の中心地はかつて例幣使街道の宿場町であった下新田地区である。人口は県内の町村としては大泉町に次ぐ37,092人(2013年5月推計)であるそうだ。

 玉村町の歴史は古く、小泉大塚越遺跡3号古墳は全長72mの大型の前方後円墳で6世紀後半には大きな権力を持つ豪族が存在していた証明であり、他の古墳からは人面付円筒埴輪や日本最大級の馬形埴輪などが発見され他地域と異なる独自性も垣間見れる。律令制度の中で玉村町でも多くの荘園が存在し、中でも玉村御厨は、伊勢神宮の荘園(神領)として125町あり毎年30反の麻布を献上していたそうだ。
所在地    群馬県佐波郡玉村町下之宮524-1
御祭神    火雷命 (配祀)那波八郎 保食命 菅原道真
社  挌    上野国延喜式内社 八の宮  旧郷社 
例  祭    4月3日 例大祭
      
 火雷神社は群馬県佐波郡唯一の町玉村町に鎮座する。玉村町役場から東側にあり、伊勢崎市との境を流れる利根川西岸の「下之宮」にある。この社は参道のすぐ西側は住宅街で、神社の目安となる鳥居は参道の途中にある為神社を見つけるのに苦労する。鳥居の代わりに火雷神社の社号標があり北方向に向かうと火雷神社拝殿がある。駐車場は神社の西側にあるらしいがそこに駐車せずに、社号標の先の空間に駐車し参拝を行った。

    火雷神社の社号標と正面に見える鳥居          参道の途中にある新しそうな鳥居

火雷神社
  この神社は、上州名物の一つになっている雷の神様である火雷神をまつってある。
 景行天皇の時代に上野国の統治者御諸別王がまつったと伝えられ、平安時代の延暦15年(796)官社となり、延喜の制では小社に列して上野十二社の八の宮として、上野国神明帳に従一位大名神とかかれている。
 鎌倉時代の始め、建久2年(1191)大江広元の子政広は那波氏となり、その後佐波郡地方の領主となって四町歩の田を神社に献じた。
天正年間那波氏の滅亡で神社も衰えたが、明治5年(1872)郷社となった。現在の建物は、江戸時代中期以降の建造で本殿は三間社流れ造りである。また、伊勢崎市上之宮の倭文神社と相対し、その上之宮に対し下之宮といわれ、地名起源ともなっている。
 麦蒔ゴジンジ(御神事)-火雷神社に伝わる祭りで、貞観4年(862)より始まり毎年五穀豊穣、災難除けの秘密の神事を行ない今日まで伝え行なっている。旧暦10月末午の日丑の刻に神官が礼拝を始めると代表が神社の四面にシメ縄を張り、神官が退出する時に丁度張り終えるようにする。代表は一週間精進潔斎し、シメ縄を張り廻らす時は声を出すことは厳禁とされ、十一月初午の日丑の刻に祭りがあけるまでは鳴物は禁止(馬がいた時は鈴もはずした)であり、シメ縄を張るのを「ゴジンジに入る」という。深夜に行なわれるこの神事は古代の祭りの様式の面影を伝えているように思われる。
                                                                                                                                 案内板より引用

  利根川の対岸に上の宮という地があり、そこには式内社・倭文神社が鎮座している。近世以前の利根川は、現在の広瀬川を流れていたらしく、当時は、上之宮(倭文神社)と下之宮(当社)は、ちょうど1km離れた南北に位置していた。倭文神社が九宮で火雷神社が八宮であり、地名も倭文神社が上之宮町に対して、火雷神社は下之宮町。祭神が倭文神社は天羽槌雄命であるのに対して火雷神社は「神名帳考證」では「香々背男」。この香々背男は正式名「天津甕星」とも言い、星の神という。狭い地域の中に日本書紀葦原中国平定の際に登場する正悪相対する2神が鎮座する社が存在するという事はどういう意味があるのだろうか。この玉村町利根川流域には古代日本の謎が縮図となって存在している。


 境内に入ると左側には社務所があり、その隣に神楽殿(写真左)、そしてその右側には合祀された蚕霊神社(同右)が並んである。
 私事で恐縮だが、筆者の母方の実家は玉村町とそう離れていない利根川南岸の埼玉県深谷市横瀬地区で農家を行っているが、その昔カイコ(蚕)を家の中で育てていたことをふと思い出した。当時は恐らくこの地域一帯では蚕が盛んだったのだろう。この蚕霊神社は弘化二年(1845)正月に村民により常陸国豊浦(茨城県神栖町日川)から那波郡下之宮村字屋敷間に勧請されたが、明治四十一年(1908)7月13日に合祀されたという。御祭神は保食命。
           
                             拝    殿
 火雷神社は天文年間(1532年~1555年頃)現今の地に神社を遷したと言われているが、それ以前の鎮座地は不詳という。
           
           
                              本    殿
 参道の途中にある案内板には、景行天皇の時代に上野国の統治者御諸別王がまつったと伝えられ、 平安時代の延暦15年(796)官社となり、 延喜の制では小社に列して上野十二社の八の宮として、上野国神明帳に従一位大名神と記載されている。
           
                  拝殿側面に掲げている火雷神社略記の案内板

延喜式内上野十二社火雷神社略記
鎮座地  群馬県佐波郡玉村町大字下之宮五二四番地
社名   火雷神社
祭神   火雷神(主祭神)
配祀神 保食命   菅原道真命 那波八郎命
      火産霊命  大物主命  建御名方命
      誉田別命  素盞鳴命  高淤賀美命
      宇迦御魂命 大日孁貴命 少彦名命
由緒
 当社は第十代崇神天皇元年創立東国大都督御諸別王の尊信あり。
 桓武天皇延暦十五年(796)官社に列させられ官幣に預る。村上天皇天暦二年(948)五月、三条天皇長和年中(1012~1016)又国祭に預る。後当郡の領主那波氏累世尊崇甚だ厚く広大な社殿を造営奉り四季の祭典を興し寶作無窮国家安泰を祈らる。後、現在に改む。新田義貞幣帛神殿を奉りて武運復興を祈らる。
 後村上天皇康永二年(1343)神殿を再築し現今の神殿は慶長以後の建築なり。明治五年(1872)七月郷社に列せさる。当社に古式神事あり。清和天皇貞観四年(862)より毎年陰暦十月末の午の日夜丑の刻秘密神事を行ふ。燈火を用いず微声を以って祝詞を奉す。
 翌十一月初の午の日迄境内に注連縄を張り参拝者の出入を厳禁。過ちて犯し入る者あれば忽ち大風或いは雷鳴を起すと云う。
 而して此の神事中は村中鳴物高声を禁じ各謹慎す。古より傳へて那波の御神事と云う。
祭日
 四月三日  例祭(年一回大祭)
 十月十七日 小祭
                                                            案内板より引用

                       拝殿左側にずらりと並ぶ末社群

                                                                                                         

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