古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

内ヶ島熊野大神社


        
                            ・所在地 埼玉県深谷市内ケ島650
                           ・ご祭神 伊弉冉命、速玉男命、事解男命
                           ・社 格 旧村社
                           ・例 祭 祈年祭 2月27日 例祭 4月15日 新嘗祭 12月5日

 内ヶ島熊野大神社は深谷市内ヶ島地区に鎮座する。内ケ島地区は群馬県道・埼玉県道14号伊勢崎深谷線が東境となり、南北にはそれぞれ小山川、国道17号バイパスが、西側は備前渠用水 矢島堰から東に600m程先にある南北に走る農道が境となっていて、東西南北と1㎞程の行政区域で、こじんまりとして纏まった地域である。
 国道17号バイパスを岡部方向に進み、「大塚」交差点を右折し、群馬県道・埼玉県道14号伊勢崎深谷線を北上するように進む。途中左側に地域の和菓子屋(西間堂本舗)さんがあるが、実父の月命日には必ずそこのお饅頭を購入する貴重な和菓子屋さんで、味も素朴で美味しく、値段も手ごろなので、立ち寄る機会があるならば、ぜひ購入して頂きたいと思う。
 因みに本店は県道に接していて店舗前には駐車場はないが、道路を挟んだ向かい側には新館があり、筆者はいつもそこの駐車スペースを利用している。
        
                            
 内ケ島熊野大神社正面

 内ヶ島熊野大神社は上記の和菓子屋さんを左手に見ながら北上し、すぐ先にある手押しボタン式信号のある十字路を左折、250m程進むと左手に内ケ島熊野大神社が見えてくる。
 
駐車スペースは、道路を挟んで北側に「内島自治会館」があり、会館前には適度な空間があるので、そこの一角に車を停めてから参拝を行う。
 
      内ヶ島熊野大神社鳥居           境内は手入れも行き届いていて、
                                   清楚な印象
        
                             拝 殿

 内ヶ島地区を開発したのは武蔵七党の猪俣党に属した内ヶ島氏であるという。内ヶ島氏は一ノ谷の合戦で平忠度を討取ったとされる岡部六弥太忠澄と同族の猪俣党岡部氏から五郎国綱の時にこの地に居館を構え内ヶ島氏を名乗ったとされている。
小野氏系図「岡部六大夫忠綱―五郎国綱―内島三郎忠俊―二郎兵衛尉盛忠―三郎景忠、盛忠の弟左近将監盛経(法名寂阿)、其の弟左衛門尉俊盛―新左衛門泰俊―五郎左衛門俊綱(弟六郎左衛門尉経俊)、俊盛の弟左衛門尉忠季―為忠」
畠山牛庵本の小野氏系図「岡部忠綱―内島五郎国綱―三郎忠俊」
吾妻鑑卷二十五「承久三年五月二十二日北条泰時十八騎を率いて京に先発す、随兵に内島三郎あり。六月十四日宇治合戦、敵を討つ人々に内島三郎、味方の討死する人々に内島七郎」。卷四十「建長二年三月一日、内島三郎が跡」。卷四十三「建長五年十月十一日、内島左近将監盛俊入道」
 内ヶ島熊野大神社の北側には、永光寺という寺院があり、平安期猪俣党の内ヶ島氏の居館跡と言われている。永光寺は内ヶ島五郎国綱が醍醐天皇(在位は897930年)の時代に当地に館を構え、紀伊国熊野権現の分霊を勧請し合わせて開基となった伝わる天台宗永光寺本堂。江戸時代の慶安2年には寺領として15石を幕府から下賜されている。
 内ヶ島館跡と永光寺
 平安時代の末、猪俣党の子国綱が、内ケ島五郎と称してこの地に住み、内ヶ島氏の祖となった。 内ヶ島氏館跡は、永光寺付近と言われ、近年まで遺構があったが、現在は残っていない。面積は約2町歩くらいと考えられる。
 地内の小字に西廓・東廓・南廓などの館跡に関連する地名が残されている。
 永光寺の開山は了慧法印、開基は内ヶ島五郎と伝えられる。
                                 永光寺現地案内板より引用

 
    拝殿に掲げてある「熊野大神社」扁額               
社殿左側奥には境内社なのか、
                                                     神興庫なのか不明な建物あり。
 
  社殿右側奥に鎮座する合祀社、石祠群。    合祀社・石祠群の右並びに石碑、祠群が鎮座。
     資料が乏しく、詳細不明。      石碑は左側浅間神社、右側は
古峰神社と刻印。
        
                  社殿から境内を撮影

 時代は下り、内ヶ島氏は内ヶ島季氏のときに室町幕府の命を受けて飛騨白川郷へ入国し、鉱山から得られる収入で莫大な財を成し、帰雲城(かえりくもじょう、きうんじょう)を居城として戦国大名としての道を歩む。
 度々姉小路頼綱や上杉謙信などの侵攻を受けるが、その都度撃退に成功し、織田、豊臣の時代も巧みに渡り歩き、ついに天正
13年(1585)豊臣時代に大名として存続が許される。そして祝宴を翌日に控えた1129日に、白川郷一帯を天正大地震が襲い、帰雲城は山ごと崩壊し城下町も土砂に埋もれて領国ごと滅亡した。

 その時の被害は、埋没した家300戸以上、圧死者500人以上という。確証はないが、ここで紹介した内ヶ島氏は、猪俣党内ヶ島氏の末裔であったという説がある。
 この猪俣党内ヶ島氏説が正しいのであれば、悲劇的な結末となったことにより、北武蔵の小豪族が結果的に後代に名を残したという歴史の皮肉さを感じざるを得ない。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「
Wikipedia」「吾妻鑑」等

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