上手計二柱神社
数多くの言語表現の中でも難読語が数多く存在するのは日本語くらいといわれていて、同じ漢字圏内でも中国語では漢字の読み方は規則的であり、日本同様に別の言語体系に対して漢字を使用した朝鮮語でも、ほとんどは一つの漢字に対して一つの読み方しか用いられていないようだ。
また昔からその地域に住んでいる住民の方々や、その地域をよく知っている人たちは特に難読地名とは思っておらず、外部の人間から指摘されて初めて難読地名だと分かるような例も少なくない。
深谷市にもそんな読むことが難しい「難読地名」が幾つも存在していて、今までに紹介した神社では「血洗島」「上敷免」「長在家」等で、江戸時代の村単位では、武蔵野足高神社は「猿喰吐(さるくいど)村」、上野台八幡神社地区内には「鼠(ねずみ)」という字名も嘗て実際にあった。
今回紹介する「二柱神社」が鎮座する「上手計」地区も、「難読地名」の一つといえる。本来の地名の読み方は「てばか」で、現在は下手計と上手計にわかれている。 では、この不思議な地名の由来は何かというと、後三年の役で源義家が奥州に向かう際、この地で負傷を負った家臣の片腕を切り落として埋葬した場所が「手墓(てばか)」という地名になったのがルーツという。また別説では、手計の「はか」は、崖地を意味するアイヌ語の「ハケ」が転じたもので、上手の崖・下手の崖とする見解もあるようだ。
・所在地 埼玉県深谷市上手計216
・ご祭神 伊耶那岐命、伊耶那美命
・社 格 旧村社
・例 祭 不明
上手計二柱神社が鎮座する深谷市上手計地区は、矢島地区北側で、小山川左岸に位置する。矢島神明社を起点に群馬県道・埼玉県道355号中瀬普済寺線を北上し、1㎞程進むと「血洗島」交差点に達する。埼玉県道45号本庄妻沼線との交点となり、そこを右折し、4番目の十字路を左折し、暫くすると左側に上手計二柱神社の社叢、並びに鳥居が見えてくる。
上手計二柱神社正面
「深谷市 上手計自治会HP」には「地区の鎮守として、二柱神社があり、元旦祭、春の大祭、秋の大祭など年間を通して行事を行っている」との記載があったが、その詳しい日程が書かれていないため、例祭日を「不明」として掲載するには至らなかった。
鳥居より参道を望む。田畑風景が広がる中、 鳥居の左手側に徳大勢至菩薩と大黒天等の石碑
社周辺のみ、社叢林が広がる。 午後に参拝したゆえに逆光気味。
参道先、左側に聳え立つご神木
南北に長い参道。参道の先に鎮座する社殿。
長いにも関わらず、参道一面には敷石が敷き詰められている。
参道脇に設置された「二柱神社改築の記」の石碑
二柱神社改築の記
深谷市上手計に鎮座する二柱神社は、古くは「聖天社」と称していました。
その創建は長井荘の総鎮守聖天宮(熊谷市妻沼)より勧請され、およそ四百年~四百五十年前と伝えられています。神仏分離令により明治二年に二柱神社と改めました。伊耶那岐命、伊耶那美命の二柱を御祭神として祀り、象頭人身の大聖観喜天像(聖天像)を御神体としています。
当地区の護り神、心の拠り所として先人達により長きに渡り伝えられてきた御社殿が、昭和三十年代の台風による倒木の為、拝殿を失い、祭典を幣殿で執り行う事態となりました。また老朽化も甚だしく、成りゆく様を憂慮し改築に向けて、平成十八年、氏子各位の総意のもと御社殿改築が決議され建設委員会を設立するにいました。
建設費用は五年間の積み立てを行い充当するものとし、平成二十三年建設を着工し平成二十四年二月に竣工を迎えることができました。
この喜びを後世に伝えるべき偉業として、御奉賛いただいた氏子崇敬者の名をここに刻し記念碑として残すものであります。
平成二十四年五月吉日 二柱神社宮司宮壽邦夫 上手計二柱神社建設委員会
記念文から引用
南向きに鎮座する二柱神社拝殿
拝殿には渋澤栄一書の扁額が掲げられている。 本 殿
拝殿左側に鎮座する境内社・石祠2基 拝殿右側には境内社・稲荷神社が鎮座。
詳細不明
静寂の境内、手入れも行き届き、気持ち良い参拝となった。
上手計地区を含めた周辺地域は昔より「八基(やつもと)」地区と呼ばれている。というのも明治22年町村制施行により,旧八村<血洗島村・南阿賀野村・北阿賀野村・横瀬村・町田村・上手計村・下手計村・大塚村>の合併時、当所は手計村であったが、翌23年八基村と改称。大八州(おおやしま)の基(もとい)として、日本の模範となるような村となるよう名付けられ、その名付け親は渋沢栄一と言われている。
参考資料 「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「Wikipedia」「深谷市HP・自治会連合会」等