古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

小敷田春日神社

 行田市の埼玉古墳群の西方、4.6㎞程隔てたところに「小敷田」という地域がある。ここは荒川左岸新扇状地の末端に位置し、旧荒川の氾濫原(はんらんげん)として水田に適した低湿の地である。この地の自然堤防上には、弥生期から奈良期にいたる集落遺構(小敷田遺跡)が存在し条里跡も見られ、早くから人々が住みつき開発の鍬を振ったことを伝えている。地域の平均標高は22m程。昭和五八年(一九八三)より発掘調査を実施。弥生時代中期、古墳時代前・後期、飛鳥・奈良・平安時代にわたる複合遺跡。調査範囲に四本の河川跡が横断し、堆積土中から多量の木器が出土した。
 弥生時代中期の遺構は竪穴住居跡・方形周溝墓・土壙からなる。竪穴住居跡は17軒が発掘され、河川跡両岸部自然堤防上に散在する。形態は隅丸方形を呈し4本柱穴のものと、小型で112本柱穴のものがある。うち1軒から広葉樹を用いた柱根4本が出土した。方形周溝墓は2地点に分れ計4基が発掘された。1地点は三基連接し、短期間に連続して構築されたと考えられる。形態は長方形を呈し四隅陸橋である。方台部からは埋葬主体は発見されなかったが、うち1基の溝底から壺5・甕1が出土している。
        
              
・所在地 埼玉県行田市小敷田1
              
・ご祭神 武甕槌神 斎主神 天児屋根命 姫大神
              
・社 格 旧村社 旧小敷田村鎮守
              
・例祭等 初拝み 1月中旬 祈年祭 4月中旬 大祭 821日
                   新嘗祭 11月下旬
    地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1422646,139.4264567,17z?entry=ttu

 菅谷八幡神社正面鳥居の前の道路を一旦北上し、忍川を渡ったすぐ先の道路を右折、河川沿いに800m程東行すると小敷田春日神社に到着することができる。
 社の東側に隣接している観音堂の前には車が数台駐車可能なスペースがあり、そこに停めてから参拝を行う。
        
                                  小敷田春日神社正面
 小敷田春日神社は忍川左岸に鎮座し、丁度川に向かって祀られているような配置。現在の住所は「行田市小敷田1」と嘗ての旧小敷田村鎮守社として、昔から今に至るまでこの社はこの地域の正に中心に位置し、地域の方々も大切に祀られているのであろう。社の創建年代や由緒については不詳だが、江戸時代には小敷田村の鎮守となっていたという。明治41年に字稲荷木の伊奈利社、字嘉寿賀町神明屋敷の神明社を合祀した。また境内には、境内忍第7番巡礼札所と掲げられた旧施無畏寺(旧普門寺)観音堂が遺されている。
               
               道路沿いに設置されている社号標柱
          此処には「供進指定村社春日神社」と表記されている。
       
                   小敷田春日神社 朱色が鮮やかな一の鳥居
     赤色の鳥居も良いが、こうやってみると朱色もまた社のコントラストに合う。
 
   一の鳥居のすぐ先にある石製の二の鳥居    二の鳥居の左側には塞神・庚申塚群が並ぶ。
 
  塞神・庚申塚群の並びに鎮座する境内社    境内社の隣には「御嶽神社」が鎮座する。

 社は決して広大な敷地にあるわけでないが、限られた境内をうまく利用して、境内社や庚申塚等配置させている。この器用さは日本人独特の感性なのだろう。
        
                     拝 殿
 改築造営由緒紀
 埼玉県神社庁の発行した神社誌録に明記されている春日神社は小敷田の氏神様であり天児屋根命を御祭神となし古来より永々として神事が継承され神はこの地域に居住するすべての人達を氏子となし、人は自からの守護神として崇敬しているところであります。
 当地は旧池上村の新田といい伝えられ湧水に恵まれた水田地帯で小敷田の地名は、律令期国司、郡司、などに職田として支給された語源からの由来があり最近の遺跡発堀調査によると古墳後期から平安期にかけての集落遺跡や条理制遺構、特に日本最古の米と評されているものをはじめ当時の生活用具等かず多く出土し行田市博物館に保存されている。しかし当社の創建について名だたるものは未だ見当らないものの境内の手水鉢に元録六癸酉年九月の年記が刻まれ奉納されているものを見ても既に三〇〇余年を経過し祖々代々の敬神の深さに感銘を覚える次第であります。
 近時に於ては大正十四年十月より六ヶ月を要して草葺屋根を御拝の改築に合せて拝殿と共に銅葺屋根となし近隣に類なき大工事を施行され、続いて昭和五十二年には本社覆屋藁葺を茅葺に葺替え古美の伝統を継続したのであります。
 時移りて明治、大正、昭和、平成と四代に亘る年号の中に生れ育った者の人生観や時代観はそれぞれによって変ろうとも、協調一致特段のご賛助を得た金参阡万円余の資金調達は碑表に御芳名を刻し感謝の誠を尽した次第であります。
 お蔭様にて神社御拝、拝殿ともに昔日の風格を失う事なく本社奥殿の損傷も完修し奈良春日大社造り屋根の造作にも意を用い併せて覆屋の構造も同様に配し近代建築の構図を適応して完成し更に境内地の環境整備を実施する為往古の大小樹林を伐採し榧、槙、紅葉、銀杏等特別な大木を残置して御神木となし、なるべく広い子供広場の造成に配意したのであり、境内には伊奈利社、神明社、三峰社が合祀され、ほかに由緒不詳ながら御嶽神社と塞神社も祀られているが、特に旧小字島合にあった真言宗普門寺が廃寺になり本当の正観音を移した観音堂も数次に及び修復を行ってたものの神佛一体の崇敬心から堂屋改修工事も同時施行となり損傷ただならぬ正観音像を特別寄進を得て仏具専門工師により原像に復元され忍七番巡礼札所の面目を一新した、前述の神明社、三峰社ともに荒廃、手水鉢覆屋、御影石鳥居、神社幟旗、各社前幔幕、社前吊灯篭及び観音堂内灯篭堂前鰐口等は特別寄進により新規造営され加えて神職には本絹装束を贈呈しかくして一三〇五平方米の境内地も時代に即した風情を社前榊一対の植込寄進を得て春の目覚を告げる櫻、皐、椿等闊葉、針葉樹を現代風に配して景観を整えたのであります。
 今茲に建国紀元二千六百五十年祭の到来と平成明仁天皇の御大典を慶祝し併せて本事業の完成にご尽力いただいたる各位に萬腔の敬意と感謝を捧げ記念碑を建立して後世に伝えるものであります。(以下略)
                                      境内碑文より引用
 
          本 殿              社殿奥に祀られている境内社。
                              稲荷社だろうか。

        
 境内には、境内忍第7番巡礼札所と掲げられた旧施無畏寺(旧普門寺)観音堂が遺されている。

新義真言宗、上ノ村一乗院末。
土人云古は施無畏寺と号せしが、何の頃か寺号替れり。此施無畏寺と云は古き寺院にして、今忍の城内に掛し延慶
2
年の古鐘に、武蔵国崎西郡池上郷施無畏寺、冶鋳梵鐘一枚、右当□者、□組奉為関東右大□家御菩提所令建立也と彫り、末に願主正六位行左衛門尉藤原朝臣道敏敬白と載たるは、則当寺の鐘にして、戦国の頃忍城へ持行陣鐘に用ひしものならんと云。さもあるべし、今はこの寺荒廃して庵室の如くになれり。本尊正観音を安ず
                               『新編武蔵風土記稿』より引用

『新編武蔵風土記稿』に記されている「正六位行左衛門尉藤原朝臣道敏」とはどのような人物であろうか。延慶2年は西暦に直すと1309年となり、鎌倉後期の時代である。「関東右大□家」は肝心なところが読めていないが、「関東右大将家」で、恐らく源頼朝のことであろう。(*北武八志には「関東右大将家」と記されている)吾妻鑑に頼朝の一周忌に際して関東に令して、「堂宇を建立して冥福を修せよ」とあるので、この時期の鋳造されたものであろう。
「藤原朝臣道敏」は如何なる人か、どの資料にも載っていないため、知る手掛かりはない。但し「正六位」という官位を持っていて、これは自称ではなく、中央の任命により官位が授けられた人物である。余程地元では有力な豪族であったことは、この官位任命により分かる。また嘗て頼朝の恩顧を受けた人の子孫なのであろう。銘文に「曩祖」とあるから、道敏の祖先が建立したものである。
 加えて「藤原朝臣」と名乗っている所から、この人物は「成田氏」の一族で、しかもその長である可能性が高い。藤原道長とする説と藤原基忠とする説とに分かれるようだが、どちらも藤原北家から出ていることには変わりない。

 ところで時代は下り、元弘の変(1333)で鎌倉幕府が滅亡し建武新政が成立したが、それも新政府の失政が原因で崩壊したのち、成田氏の嫡流は本領成田を没収され庶流に預けられた。この庶流こそ、武蔵七党の一つ丹党の安保氏である。
 安保氏は、安保実員の庶子・信員が成田家資(「成田系図」上での家助)の娘を娶(めと)って成田氏と姻戚関係になっており、信員の孫・行員が祖母を通じて成田氏の所領を継承していた。行員の子・基員は成田氏を名乗り、基員からその子・泰員への継承時には成田氏本領である成田郷も所有している。このため、安保氏庶流の一族が姻戚関係によって没落した御家人成田氏の領地や名跡を継承していったとみられ、成田系図上は鎌倉期から一貫して続いている戦国時代の忍 城主成田氏は、実は安保氏系だと考えられている。
 但し経歴を考慮すれば「藤原氏」を名乗る方が系図的にも見栄えが良いため、始祖を「藤原氏」として面々と続いているように見せたのではなかろうか。
「左衛門尉」という官職名は、日本の律令制下の官職のひとつで、左衛門府の判官であり、六位相当の官職であるのだが、「成田氏」には多く排出されているように見えて、その実は「安保氏系」にも多いことも事実である。

 梵鐘を冶鋳した年代が1309年というのも何か曰くがありそうである。というのも鎌倉時代北条家が滅び、藤原系成田氏の本家が衰退するのが1333年であり、丁度24年前に当たる。
「正六位行左衛門尉藤原朝臣道敏」は「藤原氏」なのか「安保氏」であるか、微妙な時期であろう。但し最低でもこの時期には「安保氏」の誰かが、成田氏・庶流となっていたことは確かであろう。そうでなければ本流が衰弱して、庶流が継いだ時には、その多くの一族からも認められた地盤がなければ、本流を名乗ることすら出来ないからである。

 長々と綴ってしまったが、本来歴史を探求する際に必要なことは、第一級資料である遺物等をまず中心において、付随的にはより古い書物等を参考にしなければいけない事と思っている。書物等は編集を何度も繰り返すことにより、編集時の新しい発見や、場所名の変遷、地形の変化、編集者当人の偏見等により、変わってしまうことが度々ある。
「藤原朝臣道敏」という人物がどの系図書簡にも登場しないからといって、「系図に載っていない人物はデタラメ」と簡単には言い切れないし、今回梵鐘に刻印された一文字 〃 が、何事にも代え難い第一級資料であり、まさに時間軸が固定された「生きた証人」となりうる貴重な存在と考察する。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「北本デジタルアーカイブス」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」
    Wikipedia」「境内碑文」等
  

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菅谷八幡神社

『忍名所図会』は忍藩(現行田市忍城周辺)に関する書物として最も古いものの一つで、天保年間(18301843)の忍城周辺の名勝や名刹、風俗や名品などが豊富な絵と的確な文章で描かれており、市内須加の川島家に伝わる写本は、当時の忍藩の様子を知ることができる貴重な資料である。その後文政8年(1825)、忍藩主松平忠堯(ただたか)は洞李香斎筆の編述した『忍名所図会』を見て、足りない所や漏れている所が多いのを惜しみ、家臣の岩崎長容に増補を命じ、天保6年(1835)に増補版6巻を作製したものが『増補忍名所図会』である。
 その『増補忍名所図会』には「忍」の地名由来に関して以下の記述がある。
〇忍
 鴛鴦(おし)とも書く。忍の地名は、古くは東鑑に載っている。建久元年(1190)二月七日、将軍頼朝が上洛した行列に、三十九番別府太郎・奈良五郎、四十番岡部六弥太・滝瀬三郎・玉井四郎・忍三郎・同五郎などとある。また建久六年(1195)三月四日に将軍頼朝が上洛し、同九日石清水八幡宮へ御参詣された随兵の記述があり、岡部六弥太・鴛三郎・古郡次郎などの名前がある。
 別府や玉井など皆この辺りの地名なので、忍の地名も古くからあったことが分る。 忍三郎と鴛三郎は字が違うが同じ読みなので同一人物である。また別府・玉井・奈良に成田を加えて、武蔵国成田の四家という説がある。

        
              
・所在地 埼玉県行田市持田5774
              
・ご祭神 誉田別尊
              
・社 格 不明
              
・例 祭 不明
    地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1407957,139.4172986,16z?entry=ttu

 佐谷田神社から埼玉県道128号熊谷羽生線を行田市街地方向に1.7㎞程進み、「流通センター前」交差点を左折する。秩父鉄道の踏切を過ぎて400m先の十字路を右折して、暫く進むと左手に菅谷八幡神社の社叢林が見え、その林の先に鳥居が見える。
 周辺には専用駐車場はない。鳥居の北側には忍川に至る道路があり、その路地に停めてから急ぎ参拝を開始した。
        
                  菅谷八幡神社正面
 菅谷八幡神社が鎮座する行田市持田地域、「持田」は元々当て字で、昔は「糯田(もちだ)」と書かれていたようだ。『新編武蔵風土記稿 持田村条』にも
由良氏(太田金山城主)の文書の中に、頼朝が新田上西入道へ出した下文に、
  埼西郡の糯田の住人らヘ下す
 定補(決まってその職に補す)の郷司職事 新田入道殿、
 新田上西入道は、その職仁を為して郷の仕事を遂行すべし
 よって住人らへこの沙汰をよく承知させ、違失してはならない
 治承五年(1181)十一月  源朝臣
判」
と記載されている。
        
          鳥居の先で左側に設置されている提示版内にある「菅谷八幡神社由来記」 
菅谷八幡神社由来記 
 持田の名は古くは糯田郷と書き、また、条里制水田遺構が発掘され、 古来より米作地域であったことがうかがえる。
 持田は、東西三二町、南北二三町の大村のため、村内を私に上・中・下の三組に分けていたことが「風土記稿」に記され、当地は上組となっていた。
 更に「八幡社 観音寺持」とあり、現在の真言宗智山派観音寺が、往時当社の別当となり、奉斎していたことがわかる。
 当社の創建は「明細帳」によれば、建久元年(1190) 鎌倉将軍源頼朝の上洛に従い京の石清水八幡宮へ参詣の際、忍の豪族鴛 (おしどり)三郎が供奉し、帰村の後に忍城の砦西方に鬼門除けとして勧請創建したものと記されている。
 後に文化十三年(1816)頃現在の地に建てられたと推定されている。
祭神は、品陀別命で、内陣に白幣を祀るが、明治維新ごろまでは、騎乗八幡神像を安置していたと伝えられている。
本殿は、一間社流造り瓦葺きで、大正期まで覆屋・拝殿はなく、現在の拝殿は大字和田の和田神社拝殿を譲り受けたものである。
 戦後の台風などにより多くの木が倒れたため、現在、境内はまばらな木によって囲まれているが、戦前までは、うっそうと樹木が茂り、狐に化かされた話が残るほどの所であった。
 田山花袋の小説「田舎教師」のモデルとなった小林秀三もこの森を眺めながら熊谷中学へ通ったようです。
                              埼玉県神社庁「埼玉の神社」より

        
                        比較的長めの参道の先に二の鳥居が見える。
「菅谷八幡神社由来記」には戦前までは、うっそうと樹木が茂り、狐に化かされた話が残るほどの所」書かれているが、この行田・忍地域には昔からの伝説で「菅谷の森と白い狐」という昔話がある。
忍の行田の昔ばなし⇒http://gyouda2012.cocolog-nifty.com/blog/cat70690389/index.html
 社周辺は道路も整備され、近代的な建物も並び、このような伝承等の面影もないが、参道周辺にはその当時の名残と雰囲気も漂っているようだ。
        
                                 二の鳥居周辺の風景

    二の鳥居の手前で右側に祀られている     二の鳥居を過ぎて暫く進むと右側に
             塞神の石祠           境内社が祀られている。詳細は不明。
       
 社殿前でどちらも右側には二基の石標柱等があり(写真左・右)左側は八幡神社の社号標柱で、右側は奉納柱、その下部には石祠(?)らしきものもある。
        
                     拝 殿
「菅谷八幡神社由来記」に記載されている「忍の豪族鴛 (おしどり)三郎」・及びその一族は、『吾妻鑑』にも度々登場している。
吾妻鑑卷十
「建久元年十一月七日、頼朝上洛随兵に、忍三郎、同五郎」
卷十五
「建久六年三月九日、頼朝上洛随兵に、鴛三郎」
卷二十五
「承久三年六月十四日、宇治合戦に手負の人々鴛四郎太郎」と。*鴛をオシと註す。
卷四十
「建長二年三月一日、忍入道が跡」
卷四十八
「正嘉二年三月一日、忍小太郎は将軍宗尊の随兵」
        
                                  社殿からの一風景
武蔵七党・児玉党には忍氏が存在していた。
・肥後古記集覧
「小代八郎行平が曽祖父児玉の有大夫弘行の所領、武蔵一ヶ国の分には、児玉・入西両郡、並に久下・村岡・中条・忍・津戸・野村・広田・崛須・小見野・三尾乃野、弘行の所領なり」
成田記
延徳元年、成田親泰は忍三郎より相伝の地・忍大丞を攻め、児玉武蔵大掾重行も攻め殺す」
・新編武蔵風土記稿忍城下町条
東鑑に忍三郎、忍五郎、忍小太郎、忍入道など見へたれば、是等の人はや其地の宣を見てここに住せしは論なし、されど此頃城塁ありしとは思はれず。小田原記関東古戦録を合せ考るに、成田下総守親泰入道宗蓮、児玉武蔵大掾重行を欺き殺して、彼が所領を併せ忍城を築くと云。重行を或は忍大掾ともあり」


参考資料「
吾妻鑑」「肥後古記集覧」「成田記」「大里郡神社誌 箱田神社条」
    「行田市文化財保護課 文化財保護グループHP」「行田郷土史研究会2012」
    「埼玉の神社」「境内案内板」等

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石戸八雲神社

 八雲神社(やくもじんじゃ)は、牛頭天王・スサノオを祭神とする祇園信仰の神社。他に祇園信仰に基づく神社名称としては、八坂神社(八阪神社・弥栄神社)、祇園神社、広峯神社、天王神社、須賀神社、素盞嗚神社、感神社、などがあり、時代や資料によって通用される。
 社名は日本神話においてスサノオが詠んだ歌「八雲立つ出雲八重垣妻籠に八重垣作るその八重垣を」の八雲に因むものである。総本社は京都の八坂神社である。
 他のスサノオを祀る神社と同様、江戸時代までは「牛頭天王社」などと称していたが、明治の神仏分離により「牛頭天王」という社号が禁止されたため、祭神を牛頭天王と習合していたスサノオに変え、社名もスサノオに因んだものに変更したものである。
        
              
・所在地 埼玉県北本市石戸88
              
・ご祭神 素戔嗚尊
              
・社 格 無格社
              
・例祭等 五月燈籠 614日 祇園祭 715日 
                   新穀感謝祭 
1123
    地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.020219,139.5193196,17z?entry=ttu
 高尾氷川神社から一旦南下し、埼玉県道33号東松山桶川線に合流後、北本市街地方向に進む。その後「荒井一丁目」交差点を右折し、500m程進むと県道沿いで進行方向右側に石戸八雲神社が見えてくる。
 県道沿いで日中交通量が多い場所に鎮座しているにも関わらず、目立たない場所にある。また、境内は静寂そのもので、もの寂しくも感じた。
        
                  石戸八雲神社正面
 石戸八雲神社が鎮座する「下石戸下」地域は、市の南部に位置する。大部分は台地で、南部にはいまなお平地林を広く残している。南西に向ってゆるやかに傾斜し、高尾に水源をもつ江川に達し、下石戸上と画する。駅西側から発する考戸(かんがえど)排水路も南西に向って流れ、字の南端で江川に合流する。平地林の間に畑と住宅が混在し、南部は桶川市に達する。中央平地林の中を昭和47年市道上原線が開通した。南部の字蔵引の江川に沿う水田地帯は埋め立てられ、昭和46年から入居を開始した日本住宅公団の高層団地・通称「北本団地」がある。
             
                  県道沿いに建つ社号標
 この社は、本殿に奉安される石祠に「奉造立牛頭天王御宮」と刻まれるように、元は牛頭天王と号していた。このため今も「下石戸の天王様」の名称で呼ばれることが多い。
 創建は元文二年(一七三七)三月のことで、この辺り一帯に悪病が流行したので、地内の修福寺の檀那たちによって京都の感神院(東山区祇園町鎮座の八坂神社)からその鎮めとして勧請されたと伝えている。

       石戸八雲神社鳥居       鳥居の手前右側にある「鳥居建立寄進御芳名」碑
       
                 思った以上に広い境内
       
                                         拝 殿
 八雲神社  北本市大字下石戸下字向郷2065番地 
 沿革
 ・下石戸下の原、上手、台原、蔵引、久保新田、北原地区の氏神として、信仰があつい。無格社であるが、 他町村からの参詣人が多い。牛頭天三社とも称し、元文二年(1737)三月の創建で石戸村領主・修福寺の檀那等の奉造と伝えられている。その頃悪疫が流行したため、その疫神の鎮として勧請したので、霊験あらたかである。明治六年(1873)四月八日に八雲神社と改称した。
 本殿は石戸小学校の奉安殿を戦後払い下げをうけ再建されてぃる。
信仰・習俗・その他
農家では「キュウリ」を栽培し、自由に食べられない風習がある。
「キュウリ」を食べるときは包丁でまるごと切ることはいけない。神社の紋に見えるというので天王様に「バチ」があたるといわれている。そこで縦に切り、更に横に切ってから食べる風習がある。
                                                      「北本デジタルアーカイブス」より引用
 
          本 殿           社殿の右側にある「神興庫」であろうか。

 それにしても、埼玉県中央部から以南にかけての荒川沿岸の地はスサノオをご祭神とした社が極端に多く、そのことは同県北部に鎮座する社が「八百万の神々」のオンパレードに対して対照的である。スサノオをご祭神する氷川神系統の社は荒川等の「水神」を祀る神が多く、それ程当時のこの地に居住していた方々が、大地に食料等の豊かな恩恵を与える偉大な河川に対して祀り称え、同時に不定期的に起こす「洪水等の猛威」を恐れ、絶えず災いが起こらないように「鎮魂」の儀式等をおこなっていたかを雄弁に物語っていよう。
        
                             
石戸八雲神社 境内

「祭る」の語源とされるのは,「まつ」という言葉であるという。「まつ」「まち」というのは,「守つ」と書かれ,神慮を表現する意味として使われていた。その後「まつり」という言葉は「祀る」の名詞形に変化する。あくまで「まつり」や「まつる」という古語が先であり、その後、漢字の流入により「祭り」・「奉り」・「祀り」・「政り」・「纏り」などの文字が充てられた。
 つまり、「まつる」の本来の意味は神を祀ること、またはその儀式を指すものである。この意味では、個人がそういった儀式に参加することも「まつり」であり、現在でも地鎮祭、祈願祭などの祭がそれにあたる。日本は古代において、祭祀を司る者と政治を司る者が一致した祭政一致の体制であったため、政治のことを政(まつりごと)とも呼ぶのはそのためである。
 日常当たり前のように使っていた「まつり(祭)」という言葉にも、そんな語源から現代まで繋がっているのかと祭の歴史やその背景を知ることができたのではなかろうか。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「北本デジタルアーカイブス」「Wikipedia」等
        

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荒井須賀神社

 須賀神社(すがじんじゃ)、別名素鵞神社(すがじんじゃ、そがじんじゃ)は、牛頭天王・須佐之男命(すさのおのみこと)を祭神とする祇園信仰の神社であり、日本全国に存在する。「すが」は「須我」「清」「酒賀」「素鵞」などとも表記される。他に祇園信仰に基づく神社名称としては、八坂神社(八阪神社・弥栄神社)、祇園神社、広峯神社、天王神社、八雲神社、素盞嗚神社があり、時代や資料によって通用される。
 社名は、日本神話において、スサノオが八岐大蛇を退治してクシナダヒメを妻とした後、出雲国須賀に至って「吾此地に来て、我が御心すがすがし」と言ってそこに宮を作ったことに由来するものである。須賀神社の多くは、明治の神仏分離まで「牛頭天王社」などと称していた。
 島根県・高知県に特に多い社だが、関東地方にも少なからず存在する。北本市荒井地域にも素戔嗚尊をご祭神とする須賀神社が「荒井の天王様」とも呼ばれ祀られている。
        
             
・所在地 埼玉県北本市荒井1353
             
・ご祭神 素戔嗚尊
             
・社 格 旧村社 荒井村 鎮守社 北本七福神 寿老人
             
・例祭等 節分祭 23日 夏祭 714日~16日 冬至祭 1212
    地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0217631,139.5103152,17z?entry=ttu

 高尾氷川神社、高尾厳島在弁天神社、荒井須賀神社と狭い区域内に三社もの神社が固まって鎮座している。地図で検索してみると、この須賀神社は荒井地域の住所地であるにも関わらず、この神社の周囲は高尾地域に囲まれた飛地になっている。どのような変遷をたどって現在の配置に至ったのだろうか。
 因みに現在荒井須賀神社は高尾氷川神社の兼務社となっている。
 
    入口付近に設置されている案内板           社号標柱
 須賀神社 所在地 北本市荒井一-三五三
 須賀神社は、天正年間(一五七三~一五九一年)の勧請と伝えられ、「荒井の天王様」とも呼ばれている。
 明治六年、荒井村村社に列せられ、大正年間には、村内の浅間社・橿城神社・神明社等を合祀しており、祭神は、素戔嗚尊の他・木花開耶姫命・伊弉諾尊・伊弉冉尊・倉稲魂命等が祭られている。
 祭事は、節分祭(二月三日)・夏祭(七月十四日~十六日)・冬至祭(十二月二十二日)で、特に夏祭は、神輿・山車が出て盛大に行なわれる。
                                      案内板より引用

        
                                     鳥居正面
          境内は隣接する他の2社より遥かに広大で開放感がある。
       
   鳥居の手前には灯篭が一対奉納されているが、夫々に力石らしきものも置いてある。
         詳しく実見していないので、刻印された日時等は分からず。
        
                           北本七福神の一 「寿老人」の祠 
        
                            境内参道より拝殿を望む。
 祭事が近づいているのであろう。参拝当日には祭事用の準備の金具が拝殿前に設置されていた。

須賀神社 御由緒
□御縁起
『埼玉県地名誌』によれば、鎮座地の荒井は、古くは新井とも書き、開墾集落を意味する地名であるという。江戸期、隣接する諸村との間で、秣場をめぐる論争が長期間にわたって続いた。元禄十年(一六九七)の「秣場論所裁許状」(矢部家文書)によれば、その原因は、かつて当村・石戸村・下石戸村・高尾村の四か村が一村であったのを分村し、村境が複雑になったためであるという。ここでいう一村とは中世の石戸郷を指すと思われるが、分村の時期については不明である。
当社は旧荒井村の北端に鎮座している。江戸期は社名を牛頭天王社と号していたことから、現在も地元の人々から「天王様」と通称されている。『明細帳』には「創立ハ天正年間(一五七三-九一)ナリト棟札アリシカ去ル明治十一年二月火災ニ罹リ焼失ス」とあり、創建を天正年間と伝えている。『風土記稿』荒井村の項には「牛頭天王社 当村の鎮守なり 双徳寺持」とある。別当の双徳寺は、川田谷村(桶川市川田谷)天台宗泉福寺末で千手山慈眼院と号した。
神仏分離後、双徳寺は廃寺となり、当社は社名を須賀神社と改め、明治六年四月に村社に列した。明治十一年二月には、社殿が焼失したが、同年中に再建された。その後、社殿が老朽化したため、昭和五十七年に現在の社殿が建立された。(以下略)
 
社殿右側に設置されている、神興庫であろうか。       境内社・三峯社(推定)

「北本デジタルアーカイブス」には、〈荒井の須賀社の創建は、県立文書館所蔵「神社登録台帳」に「創立ハ天正年間ナリト棟札アリシカ去ル明治十一年二月火災ニ罹り消失ス同年中今ノ如ク假社ヲ建テ鎮祭ス同六年四月村社二列セラル字東原二稲荷社アリシカイツ頃力合祭シタリト云傳」と記載されている。また、由緒追記として「大正六年四月四日 宇東原無格社浅間社 字無格社橿城神社及 社境内社須賀社三峯神社 字無格社神明社ヲ本社、合祀」とある。さらに、大正十八年九月一日 道祖神社・牛頭天王社・稲荷神社が合祀されている〉との記載があり、多くの境内社がこの社に祀られていることが記されている。残念ながら参拝した時点で確認できた境内社はこの一基のみ。「北本デジタルアーカイブス」に紹介されている「配置図」により、この祠は三峯社であることが分かったが、他の社は不明だ。
        
                                   境内の一風景

 余談な話を一つ。須賀神社が鎮座する「荒井」地域。嘗ては「新井」とも称していたとの「埼玉の神社」の記載もある。この「新井」は埼玉県第一位の大姓でもある(因みに近年人口が急激に増加したため、現在では県内第5位となっている)。
「新井」苗字に関しては埼玉県内の順位が5位で74,200人にあるのに対し、全国では82位の203,000人となっており、全国の「新井」苗字の36.5%が埼玉県在住であるという。筆者にも「新井」苗字の知人が多数いて、さぞや「新井さん」は全国的にも多いのであろうと思っていたのだが、この統計にはビックリしている。
「名字の由来」と「地名の由来」をまとめているサイト「民俗学の広場」によると「新井」は、関東地方北部特有の苗字で、埼玉県北部から群馬県東部、栃木県西部に多いとされている。「あらい」には「新しく開拓した土地に住む」という意味があるといわれており、新田開発の指導者が事業にちなんで名乗っていたという記録もあるようだ。また地名は「イ」には井・堰・居などの意味があり、広くは開墾集落を意味すると思われる。

*『新編武蔵風土記稿』に記されている「新井」に関しての記述は、あまりにも膨大で多いので、旧高尾村に関連した「新井」苗字を紹介する。
『新編武蔵風土記稿 高尾村条』
旧家善次郎、元は菊地氏にて何の頃よりか新井を冒せり。先祖を菊地豊前と云、其子に図書助隼人など云あり。是等卒年を伝へざれど、豊前が二百年の追福を寛保二年取行ひしといへば、天文年中の人なること知らる。成田分限帳に菊地図書・十貫文を知りしこと見ゆるは、則豊前が子なるにや、旧記を失ひたれば詳なることは考うべからず」
『新編武蔵風土記稿 横見郡高尾新田条』
高尾新田は、足立郡高尾村の民、善次郎が祖先荒井門太郎と云者開きし所にて、今も同所里正の持なり」



参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「北本デジタルアーカイブス」「境内案内板」等
                  

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高尾厳島在弁天神社

 弁才天は、仏教の守護神である天部の一つ。ヒンドゥー教の女神であるサラスヴァティーを漢訳し,女神の姿に造形化したもので、元はインドのサラスバティー川の河神であり,のちに梵天の妃となったが広く信仰され,これが仏教に取入れられて音楽,弁舌,財富,知恵,延寿を司る女神となった。
 日本の弁才天は、神仏習合によって神道にも取り込まれ、様々な日本的変容を遂げた。吉祥天その他の様々な神の一面を吸収し、インドや中国で伝えられるそれらとは微妙に異なる特質をもち、本地垂迹では日本神話に登場する宗像三女神の一柱である市杵嶋姫命(いちきしまひめ)と同一視されることが多い。また、農業の神、宇賀神(うがじん)とも同一視されることがある。「七福神」の一員としても知られており、七福神唯一の女神であり、琵琶を演奏する様子も印象的だ。
 北本七福神の一社にも数えられているこの社は、古くより養蚕の信仰があったが、養蚕家が少なくなった現在、安産・女性の守護神として崇敬されているという。それ故に、本来高尾氷川神社の境外社と位置付けられている社であるが、一稿として紹介した次第である。 

        
             
・所在地 埼玉県北本市高尾8119
             
・ご祭神 市杵嶋姫命
             
・社 格 高尾氷川神社 境外社 北本七福神 弁財天
             
・例祭等 春祭 418
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0226964,139.5083715,17z?hl=ja&entry=ttu

 高尾氷川神社の正面鳥居を中心にして扇型に道路が分かれるが、その左斜め方向に向かうとすぐ左手に高尾厳島在弁天神社の鳥居が見えてくる。高尾氷川神社から西側裏手にあり、石段を下った先の池の中央に鎮座する一風変わった配置の社である。
        
         高尾氷川神社からは垣根を挟んで道路で分けられて鎮座する。
 高尾厳島在弁天神社の鳥居は道路の左側に見えるが、一段低い場所にあるのがこの写真からでも分かる。
       
                          高尾厳島在弁天神社正面
 龍が杉の大木から昇天したという「龍燈杉伝説」があり、この杉が倒れた跡地にできた池に祀られた社という。
 
 宮岡の谷津の湧水点に鎮座し、社殿が低地にあるため、階段を下りて参拝するという珍しい様式の神社(写真左・右)。規模は全く違うが、群馬県富岡市一ノ宮に鎮座する一之宮貫前神社を彷彿とさせる社である。

高尾氷川神社境内案内板」には以下の記載がある。
 昔、御手洗川のほとりに御神木といわれた幹周り二丈五尺余(約八メートル)もある杉の大木があり、この杉より龍が昇天したと伝えられる。元禄十四年(一七〇一)十月二日の大風でこの御神木は根元より吹き倒されたため、これを惜しんだ氏子たちが、その跡を掘り上げて島を造り、社を建てたのが厳島神社の起こりと言われている。
 厳島神社の御神体の尊像は、宝暦六年(一七五六)江戸神田新銀町中島屋久四郎という者が弁財天のおつげにより、この地を訪れ奉安したものといい、現在の石橋、石段もその時奉納したものといわれている。
 明治以降は養蚕の守護神として参拝されるようになった。

        
                                高尾厳島在弁天神社拝殿

 日本神話において「水の神」の祖は、罔象女神(みずはめのかみ)であったといわれるが、渡来の祇園の牛頭天王(ごずてんのう)須佐之男命(すさのおのみこと)が習合して(神と仏と折衷して一体となること。)祇園様と呼ばれ、水神となったように、時代によって信仰は多くの神々をつくりだしていった。
 そして水神も世の中が複雑化していくにつれて、他の神へと転化されていくことも多くなってきた。弁財天もその一人である。弁財天は一般に『弁天様』といって、七福神の紅一点で美女の代名詞になってよく知られている。インドの古代神話で河川を司る水神であったが、仏教とともに日本に伝わった。
 日本は、多神教の国であり、神にしろ仏にしろ、そしてその他の神もその数は無数である。そしてある一体が時によっては神になったり、仏になったりする。また神か、仏か、いずれに属するのか不明のものもなかにはある。『七福神』など元来は仏教関係で仏様を守護する神がわが国に渡来して以来、中国の道教思想が取り入れられ、さらにわが神道思想と相まって七福神という神様ができあがった。呼び名として『大弁才功徳天』『妙音天』『美声天』などがあるが、土地を沃し、五穀豊穣をもたらす『水神』として農民に尊敬されて、よく水辺とか、川辺に祀られ、水を司る神とされていた。このほか水の流れる音に因んで、音楽の神、弁舌(知恵)の神などの『技芸神』として花街の女性や多くの人々の信仰をあつめた。また、財福の神、名利を望む人に功徳があるとされ、『弁才天』が『弁財天』に改められ、現在では『水神』『農神』より、ついに『財福の神』『福神』へとその性格が変わっていった。

 高尾厳島在弁天神社の南西部には『さいたま緑のトラスト協会』が認定している「高尾宮岡の景観地」が存在している。この地は大宮台地の浸食により形成された谷津(やつ)と、それを取り囲む斜面林からなる里山景観が残されていて、湧水が2か所から流れ、入り口付近には湿地帯も見られている。この地域は嘗てこのような豊かな湧き水が流れる自然豊かな場所であったのであろう。この社の池も宮岡の谷津の湧水点に鎮座しているという。更に農業用水の供給源としての水神信仰が、これらの地域には古くからあって、この水神信仰が水神としての弁財天と結びついていったと思われる。
 


参考資料「新編武蔵風土記稿」「Wikipedia」「北本市産業観光課HP」「高尾氷川神社境内案内板」等
       

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