古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

町屋新田天照皇太神宮

 2010年(平成22年)323日、(旧)加須市・北埼玉郡騎西町・大利根町・北川辺町と新設合併し、新たに加須市となった。合併後の加須市の面積は133.30 km²で、埼玉県では秩父市・さいたま市・飯能市・小鹿野町・熊谷市・深谷市に続き第7位の広さである。
 加須市は、北埼玉郡の旧3町を加えたことにより、北東方向に長く伸びた市となったわけであるが、結果的にこの市の中央部に位置してしまった地域が、市の南北に貫く東北自動車道・加須インターチェンジがある地点から北西方向にある前屋新田地域周辺なのである。
 この地域一帯は利根川が運んだ土砂の堆積により形成された加須低地が一面に広がり、また利根川やその支流、用水路に育まれた肥沃な土と豊かな水を利用した昔ながらの田園風景が今でも広がっている。

        
             
・所在地 埼玉県加須市町屋新田622
             
・ご祭神 天照皇大神
             
・社 格 旧町屋新田村鎮守
             
・例祭等 不明
  
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1506442,139.6047668,16z?hl=ja&entry=ttu
 多門寺愛宕(阿多古)神社から東北道自動車道脇の道路を北西方向に進み、2.7㎞程先のY字路を右折する。田園風景を眺めながら400m程先の手子堀川を越えたすぐ左手に、町屋新田天照皇太神宮のこんもりと盛り上がったような形状をした社叢林が見えてくる。
        
                 町屋新田天照皇太神宮正面
『新編武蔵風土記稿 町屋新田村条』
「町屋新田は本村の名主三左衛門の先祖六蔵といへるもの、寛永の始本村の百姓等をすゝめて開設せし地にて、其開けざる以前は鶴ノ塚といひし原野なりしといへり、されど正保及び元禄の改にも此名を載ざれば、一村となりしは元禄後なること知らる、」
『新編武蔵風土記稿』には、「町屋村(本村)」の名主の祖先が、他の百姓等の斡旋により、「町屋新田」を開墾・開設したことが記載されている。但しこの文章だけでは、お互いに隣接していたか、離れていたかどうかを証明する事項は書かれていない。但し開墾する以前は「鶴ノ塚」という原野であったこと、「町屋新田村」は元禄以降であり、それまでは、その「鶴ノ塚」の名称すらない地域であったという事だ。
 筆者としては、『新編武蔵風土記稿』の「町屋村」の後に「町屋新田村」が掲載されているので、当然隣接している地域であると思っていたが、念のため、現在の地図で確認したところ、お互いの地域は直接接しておらず、東西に3㎞以上も離れている。現実に「町屋村」の人々は開墾するために、東側に隣接している「岡古井村」「下谷村」を通過しなければ当地に辿り着けなかった。当時の方々は、どのような気持ちで離れた場所まで移動し、開墾したのであろうか。
 因みに現在の行政区画上においても、加須市に属している町屋新田地域に対して、町屋地域は羽生市に属している。
 
  境内から外れた道路沿いに設置された案内板  「鶴ヶ塚古墳」と表記された看板の左側に
                          鳥居に通じる正面階段がある。
        
         加須低地の一角でありながら、境内全体が高台上にある。
 案内板を確認すると、「鶴ヶ塚古墳」上に鎮座しているとの事だ。但し「古墳」と表記されなければ分からない程、墳頂はかなり削平され、変形しているようだ。
『新編武蔵風土記稿 町屋新田条』において、嘗てこの地域は「鶴ノ塚」という原野であったというが、同時に古墳時代には「鶴ヶ塚古墳」もあったわけであるので、全く人が入ったことがない未開の地ではないと思われる。ただ古墳時代に住んでいた人々の痕跡が、その後の河川等の水害や、時代が下るにつれて風化し、無くなってしまったとも考えられる。
        
                     拝 殿
 
 拝殿前に設置された「鶴塚の大松」の案内板     拝殿奥の祠脇に掲示されている「告」板
「鶴塚の大松」
 この松は、加須市市内で唯一の大樹と称され、樹齢約三百年余といわれ、目の高さで木の幹の太さは直径1.2m余り、大きな亀甲型の皮肌で四方に張り出した枝振りは自然に整い昔を思わせる趣を成している。
 この大松が戦前は数本あったが、風害や用材として代られた。
 鶴塚周辺は、水禽群生の地であったのを羽生領代官大河内金兵衛久綱が、元和七年(1621)羽生町大字町屋の名主岡戸三左衛門に命じ開墾して町屋新田と称した。
 鶴塚は円墳で凡そ千五百年前のものである。昭和五十四年三月 加須市教育委員会
                                      案内板より引用


「嗚呼此処に三百五十有余年老松遂に逝く後生に一片の松魂を残さんとす」
 昭和五十六年一月吉日氏子中
『新編武蔵風土記稿 町屋新田村条』では、本村の名主三左衛門の先祖六蔵が、他の百姓等の勧めにより、「町屋新田」を開墾・開設したことが記載されていたが、案内板には、羽生領代官大河内金兵衛久綱が、元和七年(1621)羽生町大字町屋の名主岡戸三左衛門に命じ開墾して町屋新田と称した、と解説している。
 地域の方々の自主的な開墾よりは、幕府直轄機関である羽生領代官からの命令で行ったという案内板の説明のほうが遙かに説得力があると思われるが、如何であろうか。
 
 拝殿と本殿の間に祀られている「
鶴塚の大松」   注連縄を巻き、現在も祀られている「大松」
        
                                      本 殿
 
  社殿左側に鎮座する境内社・詳細不明    社殿右側に並列して祀られている石祠3基
  鳥居の左側には「水量杭紀念碑」がある。      左から天神宮・天満宮・大(天)満宮

 この「水量杭紀念碑」は、明治43(1910)8月に大洪水が発生して甚大な被害となり、将来にむけて注意を促すため、石碑の上面がこの大洪水時の水位となるよう設置されたという
 杭頭の横線が当時の水位を表しているので、古墳墳頂に鎮座している社も被害に遭ったのであろうし、周囲一帯は水面下となったのであろう。恐ろしいくらいの水害だったことが分かる。
        
                                 境内社・浅間神社
        
 町屋新田天照皇太神宮の南側で、周囲一帯広大な水田地帯の中を、用水路のように真っ直ぐに流れる手子堀川。河川管理上は手子堀川は「てごぼり」と読むようだが、地元の人々は[てこぼり]と呼んでいるようだ。
        
                        道路を隔てた社の北側にある「
十九夜塔」



参考資料「新編武蔵風土記稿」埼玉県 自然災害伝承碑一覧「加須市HP」「Wikipedia」
    「境内案内板」等
 

拍手[2回]


多門寺愛宕(阿多古)神社


        
              
・所在地 埼玉県加須市多門寺578
              
・ご祭神 軻遇突智命
              
・社 格 旧村社
              
・例祭等 多門寺の獅子舞 72324
   地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1285418,139.6284918,16z?hl=ja&entry=ttu
 北篠崎熊野白山合殿社から北西方向で東北自動車道脇の道路を700m程進むと、多門寺愛宕(阿多古)神社に到着。時間にして数分とかからない程近い。葛西用水路の北側に鎮座する
 社の正面入口隣に駐車スペースあり。
        
                            多門寺愛宕(阿多古)神社正面
『日本歴史地名大系』 「多門寺村」の解説
 [現在地名]加須市多門寺
 小浜(こばま)
村の東にあり、北を手子堀(てこぼり)川、南は会の川で限られる。羽生はにゆう領に所属(風土記稿)。田園簿によれば田高三一八石余・畑高三七〇石余、幕府領。国立史料館本元禄郷帳では幕府領と旗本二家の相給。「風土記稿」成立時は旗本三家の相給で、幕末の改革組合取調書でも同じ三家の相給。
 多門寺の地名は、その昔、この地域に「多聞寺」と称する寺があったことから名付けられたが、この寺は、天生年間に大水に流されてしまい、現存はしていないという。
        
                     社の参道は長く、数多くの灯篭が奉納されている。
         ゆったりとした空間の中にも、厳粛な気持ちで参拝を行う。
        
                             朱を基調とした二の鳥居
        
                    二の鳥居の社号額には「「阿多古」と表記されている。
 全国に約900社を数える愛宕神社の総本社は、京都市右京区嵯峨愛宕町(旧山城国・旧丹波国の国境にある愛宕山山頂)に鎮座し、地元の人は「愛宕さん」と尊称されている。愛宕山は8世紀初頭の大宝年間に、修験道の開祖であるとされる役行者と加賀白山ゆかりの僧泰澄によって開かれたとの伝承を持つ霊仙であり、愛宕神社の主祭神は火の神である迦遇槌命を祭る。
 ところで、平安中期に記された『延喜式神名帳』には、「丹波国桑田郡阿多古神社」と記されていて、この愛宕神社の旧称は「阿多古神社」であった。
 この「愛宕・阿多古」の由来は幾つか説があるが、はっきりしたものはない。筆者が調べたものを紹介すると、以下のようだ。
愛宕の名は、その祭神迦具土(かぐつち)が生まれるにあたって母神(いざなみ)尊を焼き死なしめた「仇子(あだこ)」であったことにちなむと俗説されているが、むしろ基は「側面・背面」を意味する「アテ」に由来し、その神は境を守る神であったのではないかともいわれ、京都では王城鎮護のためにその西北の山上にまつられたものという説。
「愛宕」という地名は「愛宕」「阿多古」と書くことが多く、接頭語の「ア」と高(高所)を意味する「タコ」を表す地名ともいわれている。 そして「愛宕山」という場合は「阿多古」という神名にもとづくもので、愛宕神社という火の神、火伏の神を祭っていて、愛宕信仰による伝播地名の一つという説。
 
 二の鳥居の左側には「多門寺の獅子舞」の標柱(写真左)、拝殿手前にもその案内板がある(同右)。
 加須市指定無形民俗文化財 多門寺の獅子舞 昭和三四年六月指定
 江戸時代中期に愛宕神社の創立に端を発したと伝えられる。
 毎年七月二三日より二五日までの三日間行われ、二三日及び二四日は社殿前にて舞い、二五日は多門寺各戸を回っていたが、現在は二三日に近い土曜日に奉納を行い、二四日 に近い日曜日に各戸を回っている。
 能の演目は「雌獅子隠し」(初庭)「笹ぬき」(中庭 )「綱きり」(末庭 )がある。
 用具は獅子面三・花笠四・高張提灯二・万灯一・楽器は横笛四・太鼓三を使用し、五穀豊穣商売繁盛悪魔降伏を祈って獅子舞が行なわれる。
 獅子頭に宝暦三(一七五三) 「新熊」と称する塗師が塗替えたという記録があり、明治時代頃まではその子孫が多門寺にいたといわれている。
 平成二四年三月 加須市教育委員会
                                      案内板より引用
   
基壇下で参道の両側に配置された境内社。左側に御嶽神社(写真左)、右側に稲荷神社(同右)
        
                          石垣のような基壇上に鎮座する拝殿
「埼玉の神社」によれば、天正の末に古利根川の堤防が決壊し村中が濁流に押し流され荒廃した。文禄年中、上新郷川を塞ぎ、これより村内を開墾した。その折、現在愛宕山と称する古塚に慶長年中、愛宕神社を勧請し鎮守として祀ったという。
        
             社殿の左側に並列して祀られている境内社群
           左側から三峯神社・皇大神宮・金比羅宮・天神宮
 
          本 殿           社殿奥に祀られている浅間神社等の石祠
        
                           社殿から参道方向を撮影

 北篠崎熊野白山合殿社同様に、正面には東北自動車道の建築物が見える。しかし、二基の鳥居、及び幾多の鳥居が並ぶ参道と社叢林が一種の結界となっているようにも見え、その境内全体が別世界のような錯覚を参拝中覚えてしまう程趣ある社。境内も綺麗に手入れされていて、日頃の氏子・総代の方々の信仰心の賜物でもあろう。
 山岳の斜面に鎮座する社とは違った素敵な社に出会えた感謝の念を祈りながら、心穏やかに参拝を終了することができた。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「高梁市HP
    「『国史大辞典』 1 国史大辞典編集委員会/編」「加須市HP」「Wikipedia」
    「加須インターネット博物館」「境内案内板等」等
 

拍手[2回]


北篠崎熊野白山合殿社

『日本歴史地名大系』 「北篠崎村」の解説
 西は多門寺(たもんじ)村、北は手子堀(てこぼり)川を境とし、南は会の川を境に南篠崎村と対する。永禄三年(一五六〇)以前の一二月二七日付足利晴氏判物(鷲宮神社文書)に「太田之庄篠崎之郷」とみえ、同地は古河公方足利晴氏により鷲宮神社(現鷲宮町)に寄進されている。また、年欠五月三日の鷲宮神領書上(旧鷲宮神社文書)にも「卅八貫文 篠崎」とあり、「此物成永銭夏秋四十八貫 但是も年ニより申候」と注記される。文禄四年(一五九五)八月の同社修復に伴う棟札には神領のうちに「篠崎並尺子木北篠崎」とあり、「北篠崎」がみえるが、慶長一七年(一六一二)の関東八州真言宗連判留書案(醍醐寺文書)では「大田庄篠崎」とある。

        
              ・所在地 埼玉県加須市北篠崎172
              
・ご祭神 熊野神社家都御子命 熊野夫須美命 速玉男命
                   
白山神社…菊理媛命
                                      伊弉諾命 伊弉冉命               
              
・社 格 旧北篠崎村鎮守
              
・例祭等 不明 
   
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1285418,139.6284918,16z?hl=ja&entry=ttu

 国道125号線を加須市方向に進み、市街地内「三俣小学校入口」交差点を左折し、葛西用水路に架かる新造橋を越えた十字路を右折する。葛西用水路に沿って東方向に1.2㎞程進む。その後、東北自動車道の下を潜る道路を抜けてからすぐ先の丁字路を右折して暫く道なりに進むと、左手に北篠崎熊野白山合殿社の鳥居が見えてくる。
 後日地図を確認すると、「東北自動車道加須IC」のすぐ北側に位置する社。北に葛西用水路・南に会の川がどちらも東西に流れ、まさに合流するそのすぐ西側に鎮座する。水利に恵まれた田畑風景が広がる静かな農業地域でもある。
        
                
北篠崎熊野白山合殿社正面
 鳥居のすぐ南側には
東北自動車道が一種壁のように立ちふさがり、外界、特に西部や南部地域との交流を遮るように建てられているようにも見える。
 実際、この鳥居の前にある道路も車通りも少なく、民家も周辺に点在する閑散とした地域の中に、ひっそりと他佇む社といった印象。しかし筆者にとってこの雰囲気は決して嫌いなものではなく、嘗てどの村々にもあったような風景とも思え、一時代前の懐かしさも漂う、この感じが好きである。
 
 鳥居の左隣にある社号標柱(写真左)及び、鳥居の社号額(同右)には、「白山 熊野 両神社」と刻印されている。

 北篠崎熊野白山合殿社は羽生市小松に鎮座する「小松三神社」に関係する社である。
 嘗て元亀・天正年間(1570年〜1593年)に古利根川の堤防が、小松村(羽生市小松)で決壊した際に、小松三社のうち、熊野、白山の両社が押し流された際、金幣並びに本地仏の釈迦如来と阿弥陀仏が当村古利根川堤に漂着し、村民はこれをかしこんで拾い上げ、以来村の鎮守として祀ったのが、熊野・白山神社の起源だという。

「埼玉の神社 入間・北埼玉・秩父」
 熊野白山合殿社 加須市北篠崎172(北篠崎字本田)
 歴史
 社記によれば、元亀、天正年中大洪水の折、古利根川が小松村で切れ、小松村の小松三社(小松神社)のうち熊野・白山の両社が押し流された際、金幣並びに本地仏の釈迦如来と阿弥陀如来が当村古利根川堤に漂着した。 村人はこれを畏んで拾い上げ、以来鎮守として祀るという。
 別当は初め小松村の修験、次いで本村の真言宗医王寺が務めた。 金幣と本地仏二体は、江戸期、医王寺が管理するところであったが、その後、幣束は紛失し、現在は本地仏のみ当社に安置されている。
 社地は元禄十年検地水帳に免地八反弐畝七歩とある。
 祭神は伊弉諾命・伊弉冉命・熊野夫須美命・速玉男命・家都御子命・菊理媛命である。
また、享保十五年正月二十八日に神祇管領卜部兼敬の宗源宣旨により正一位白山熊野大権現の神階を受けた。
        
             静寂の中にも歴史を感じさせてくれる社 

  参道右側には加須市の保存樹木に指定されている「イチョウ」が聳え立つ(写真左・右)。
  ・指定番号 99番 ・所在地 加須市北篠崎172(熊野白山合殿社)・種類 イチョウ
  ・幹の周囲 265㎝ ・指定年月日 平成27101
        
                     拝 殿
           石垣のような基壇上に鎮座する趣ある社殿である。

 戦国時代、羽生市役所の北方付近には、羽生城という蓮池に浮かぶ平城があり、広田直繁や木戸忠朝兄弟が城主を務めていた。この直繁・忠朝は関東管領・上杉謙信の忠臣で、終始一貫して謙信に仕えた武蔵国で唯一の武将として知られている。
 
史実によると、戦国時代、伊豆国から台頭した後北条氏は、初代早雲・2代目氏綱・3代目氏康と代を重ねるにつれ、着実に関東一円をその勢力圏に属しそうな勢いで、武蔵国の武将の多くも後北条方に従属していく中で、羽生城城主広田直繁・河田谷(木戸)忠朝(後の埼玉郡・皿尾城城主)兄弟は、終始一貫して上杉方に属し、抵抗を続けることになる。
 というのも、小田原安楽寺に安置されている三宝荒神像には直繁と忠朝兄弟の連名で、
「武州太田庄小松末社三宝荒神、天文五年丙申願主直繁、忠朝」
と記されていることから、天文5年(1536年)の時点で直繁が羽生城主を務めていたと推測されている。
『鷲宮町史』では祖父の代から山内上杉氏の配下として活動していた直繁と忠朝の父・木戸範実も含め親子で入城したものとしており、上杉方には武蔵国へ勢力を拡大させようとする後北条氏に対抗するため、羽生城を拠点とする狙いがあったとしている。
 永禄十二年(1569)に越相同盟が結ばれ、上杉方は協定により上野国、武蔵国の羽生領、岩槻領、深谷領などの領有が認められる。翌年に直繁が上野国館林城主を拝領すると、忠朝が羽生城主にスライドした。この間、忠朝は名乗りを木戸姓に戻している。この後、直繁が死没すると忠朝は息子の木戸重朝、直繁の息子の菅原直則との協力関係を強め、後北条勢に対抗した。
 

   社殿の左側に鎮座する境内社、石祠等     社殿奥に祀られている境内社・詳細不明
    詳細不明・琴平大神・堀田大権現
       
               社殿右側で、基壇下に祀られている境内社。御嶽社であろうか。

 元亀二年(1571)に氏康が死去し同盟関係が破綻すると、羽生城は再び対北条氏の最前線の城となった。天正元年(1573)、北条氏政が本格的に羽生城を攻撃すると、忠朝と子の重朝・範秀兄弟は城を固めつつ、謙信に援軍を要請した。
 翌二年(
1574)二月、謙信は利根川対岸の上野国大輪(明和町)まで進軍したものの、増水した利根川を渡河することができず、物資の救援にも失敗した。両軍にらみ合いが続いたのち、謙信は四月にいったん帰国した。同年十月に再び来援したものの、現状では羽生城の維持が困難であることを覚り、閏十一月に羽生城主の忠朝に対して城を破却するように命じ、忠朝は1千余人の兵と共に上野国膳城へ逃れたという
        
                   境内の一風景
 社記では、元亀、天正年中大洪水の折、古利根川が小松村で切れ、小松村の小松三社(小松神社)のうち熊野・白山の両社が押し流され、金幣並びに本地仏の釈迦如来と阿弥陀如来が当村古利根川堤に漂着した、という記録は、史実における「天正二年(1574)二月、謙信は利根川対岸の上野国大輪(明和町)まで進軍したものの、増水した利根川を渡河することができず、物資の救援にも失敗した」事項かもしれない。
        
                       社殿から鳥居方向を撮影。
 東北自動車道の近代的な構造物が正面を通っている、この一見相いれないような新旧の対比が、逆に現代の日本そのものでもあるようにも見える。まあ日本という国柄は、国家の形成時点で、それら違和感あるものまで、全て包み込む豊かな包容力も持ち合わせた国でもあるのだろう。考えてみると、そのような不思議な国は、世界広しと言えど日本以外見当たらないようにも見える。

 最後に白山神社に纏わる面白い話を一つ紹介したいと思う。江戸時代の中期から後期にかけて「歯の神様」信仰が始まったと言われ、白山神社の中には、「歯の神様」として信仰を集める神社もたくさんあったという。
 一説によると、歯が悪くなると口が臭くなる。つまり、「歯が臭い」→「
(歯)+くさ(臭)」、そこから、白山神社が歯の神様になった、というダジャレのような説もある。北篠崎熊野白山合殿社もその一社といい、昭和の初めまでは常に神社に楊枝箱が置かれ、歯痛の者はここから楊枝を一本借りて虫歯に当て、治ればお礼に楊枝を倍返ししたという。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」埼玉の神社 入間・北埼玉・秩父
    「加須市HP」「Wikipedia」等
 

拍手[2回]


浅羽野土屋神社


        
             
・所在地 埼玉県坂戸市浅羽野2211
             
・ご祭神 不明(一説には大山祇神)
             
・社 格 旧村社
             
・例祭等 不明
 地図 https://www.google.com/maps/@35.952725,139.3804772,17z?hl=ja&entry=ttu

 森戸国渭地祇神社から埼玉県道74号日高川島線を坂戸市街地方向に東行、途中1.6㎞先にある「二本松」交差点から更に1.5㎞程直進すると、左側に浅羽野土屋神社の鳥居が見えてくる。参道の西側隣には専用駐車場も完備されているので、参拝前の駐車スペース確保の心配をしなくて済むのは大変ありがたいことだ。
        
                     県道と一般道が交わるY字路の先端部に建つ鳥居
        
   浅羽野土屋神社の鳥居の側に、「摩利支尊天(摩利支天・まりしてん)」の石碑がある。

 この摩利支天は、仏教の守護神である天部の一尊。梵天の子、または日天の妃ともいわれ、摩里支菩薩、威光菩薩とも呼ばれている。摩利支天(マーリーチー)は陽炎、太陽の光、月の光を意味する「マリーチ」を神格化したもので、由来は古代インドの『リグ・ヴェーダ』に登場するウシャスという暁の女神であると考えられている。陽炎は実体がないので捉えられず、焼けず、濡らせず、傷付かない。隠形の身で、常に日天の前に疾行し、自在の神通力を有すとされる。これらの特性から、日本では武士の間に摩利支天信仰があった。
 この神は、日本において、護身や蓄財などの神として中世以降信仰を集めた。楠木正成は、兜の中に摩利支天の小像を篭めていたという。また、毛利元就や立花道雪は「摩利支天の旗」を旗印として用いた。山本勘助や前田利家や立花宗茂といった武将も摩利支天を信仰していたと伝えられていて、一方、禅宗や日蓮宗等の日本仏教の一宗派でも護法善神として重視されている。
        
          街中にありながら、趣のある
浅羽野土屋神社の参道

新編武蔵風土記稿 上淺羽村条』では、この社のことを「土屋権現社」と記載している。「権現(ごんげん)」は、日本の神の神号の一つで、日本の神々を仏教の仏や菩薩が仮の姿で現れたものとする本地垂迹思想による神号である。権という文字は「権大納言」などと同じく「臨時の」「仮の」という意味で、仏が「仮に」神の形を取って「現れた」ことを示すという
 現在は廃寺となっている「本山派修験山本坊配下大蔵院」が土屋権現社の別当寺である。「本山派修験山本坊」は、天台宗系の修験道の一派で、「越生山本坊」とも呼ばれ、京都聖護院本山派修験二十七先達の一つにも数えられ、最盛時には傘下に150ヶ寺を治め、入間・秩父・比企三郡のみならず、越後国や常陸国郡を支配する程の寺勢を示したという。本山派修験山本坊配下の大蔵院の管理下の元、浅羽野土屋神社の信仰形態も影響を与えていたと考えられよう。
        
                 二の鳥居付近を撮影。
 土屋神社の基壇部となっている古墳は,「土屋神社古墳」別名「浅羽野1号墳」とも呼ばれている。石室の形態から7世紀前半の築造(推定)と考えられていて、直径50mの円墳または帆立貝式前方後円墳とされている。坂戸市内でも大きな古墳の部類に入り,現在でもかなり大きな墳丘が残っている事が、二の鳥居付近からでも分かる
 
     二の鳥居を過ぎると境内となる。     二の鳥居の左側にある「神木スギ」の案内板
        
                     拝 殿
『新編武蔵風土記稿 上淺羽村条』
・土屋権現社
 高さ一丈五尺許、四方七八間の塚の南面を深さ八尺程、高さ七尺程、洞の如くに穿ち、三方は石を壘で垣とし、屋の裏には長さ一丈許、文字をも失へる古碑を東西に渡し、茅を以て覆屋を設く、内に丈二尺七八寸なる恵美須の如き坐像のさまを、石にて作れるものを神體として置こは何等の神にて何の頃鎮座せしや、土屋の神號も詳ならず、されど此塚上に淺間の小祠を置、傍に凡六圍の老杉一樹あり、塚のさまは疑ふべきもなき古墳なれば、昔ここを領せし淺羽氏の墳にて彼神體は時の領主を石像とせしにや、又土屋某なんと云る人領せしこと有て、其人の石像を安じ、土屋の神號を加へしや或は土を穿てかかる屋を設けたれば、それらの名によるにや、すべて土人の傳へを失ひたれば、今よりはそれと定むべからず、村内大蔵院の持なり
・大蔵院
 清神山と號(号)す、本山派、西戸山本坊配下、開山明光延文三年八月三日寂せり、本尊不動を安ず、土屋神社は當(当)院の持にて、其社の物なりとて永正年中の鰐口を持傳ふれど、其彫たる文を以て考れば、當(当)村の物に非ることは議なく且七社宮と彫たれば、土屋神社のものに非ること明けし、さはあれ彼栗生田村に小名山王と云あり、昔山王の社ありしといへば、其所に掛しものにや、其鰐口の形をうつして左にいだせり

 上記『風土記稿』において、土屋神社に関する説明の中で古墳や石室について述べられているが、「文字をも失へる古碑」は板碑に使用される緑泥片岩(秩父石)の天井石であると思われる。内部に安置されている石像については「恵比須」のような石像としているが、これが何の像でいつ頃安置されたかは不明であると述べている。また、この塚は疑いなく古墳であるとしているが、この古墳が浅羽氏によって築造したものか、それとも嘗てこの地を所領としていた土屋某が築造したものか、地元の言い伝えも途絶えており、不明であるとしている。
        
                     本 殿
 本殿の真下は、コンクリートで固められていて、その中央部には横穴式石室への入口が開口している。その先に凝灰岩の切石積みの横穴式石室があるのだが、現在非公開であるという。
『埼玉の神社』では以下の解説が載せられている。
石室は本殿真下にあり中に石像がある。この石像は冠を着け合掌した座像で、高さが一・七メートルほどある。石室天井部石版には「武州入間郡浅羽郷別當大蔵院 奉修覆土屋大権現御寳前敬白 寛永四年丁亥九月一五日信州石屋藤沢忠兵衛」とあるが、これは前年に起こった大地震のために崩れた石室を修理したもので、石室内の神像はこの時修理に使用した石材と同様のものを使用していることから、忠兵衛が大蔵院の命を受けて土屋に坐す神として鑿をふるったものであろう。
社の創建については、村人が昔からある古木に囲まれた塚に対して畏敬の念を感じ、村鎮守として小祠を建てたのに始まると思われるが、そのほかにも、本山派修験山本坊配下大蔵院が当社の別当として、信仰的にも影響を与えていると考えられる。これは本社の土屋権現社よりも末社浅間社の信仰に端的に表れ、塚上にある社を浅間山に見立てて盛んに加持祈祷を行った。また、古墳を修理した時代には浅間山・富士山の噴火が続き、関東一円に多くの灰を降らせている。このことを考え併せると、塚上にあった社と修験者の活動は無関係とは思われないものがある。
 
     社殿の左側に鎮座する境内社       天満宮等の手前に祀られている石祠等
      天満宮(左)・稲荷神社(右)

    社殿右側にある出羽三山神の石碑        出羽三山神の石碑から石段を登ると境内社 
                           浅間神社が祀られている。
      
      本殿の奥には樹齢千年を超えると伝えられている神木スギが立っている。
             埼玉県指定天然記念物に指定されている。

 土屋神社神木スギ 埼玉県指定天然記念物
 古墳時代の終わりごろ(一四〇〇年ぐらい前)に造られた円墳の上に、土屋神社の社殿があり、その後ろに神木スギが立っています。樹齢が千年を超えると言われ、古墳と神社を長い間、見守ってきました。
 樹齢千年を超えると伝えられている神木スギは、高さ二八m、幹まわり八・五m、根回り一一・三mとまさに巨木と言えます。七世紀に築造された円墳の頂上に、土屋神社の社殿があり、この後ろに神木スギが立っています。円墳は七世紀後半に築造されていますので、樹齢千年を超えるというのも大げさではありません。
 写真のように天上に張り出した枝の多くは葉をつけていないので、枯死したように見えますが、いくつかの枝には青々とした葉が息づいています。樹齢からかなり高齢のスギではありますが、坂戸の移り変わりを静かに見守ってきたのでしょう。
 枯れ枝の伐採を行なったり、樹勢回復のために根元の土壌を栄養のある土に替えたり、根を保護するために柵を設けたりしました。
 老木のため、太い幹といくつかの枝を残すだけになりましたが、春には新しい芽吹きも見られます。(以下略)
                                      案内板より引用

 古墳時代から悠久の時を経て、満身創痍の状態になっている現在でありながらも、尚この地の護り神である事には間違いない。神々しさすら覚えてしまう絶対的な存在感がそこにはある。
        
                                  境内右側にある神楽殿 

『坂戸市史・民俗資料編」には、この神木スギに関わる伝説が今でも残されている。昔、土屋神社の神木スギには「テンマサ」という化け物が住んでおり、弓矢を以って、当時2つあった太陽の1つを退治したといわれている。
 退治された太陽は、ばらばらになって地上に落ちたのだが、欠片の一部が天に残り、それがお月様になったと言われている。
 また、坂戸の北西に太陽の欠片が落ちたので、村の人々はそれを神様として祀り、「日を祀る」と書いて、「ニッサイ」と読み、後の入西(現坂戸市西部の辺り)村になったと言われている。

このような伝説が、史実であるかどうかは別にして、この地域に残る貴重な財産であることには間違いなく、これからも長く伝承して頂きたいと、切に願うものである。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「坂戸市史・民俗資料編」
    「坂戸市HP」「Wikipedia」「境内案内板」等

拍手[2回]


森戸国渭地祇神社

 森戸地域に鎮座する国渭地祇神社の創建は不詳。延暦年間(782年~806年)に坂上田村麻呂が東征の帰途に社殿を造立したとも、奥州藤原秀平が創建したとも伝えられている。社号は「国一熊野大権現」が訛ったものではないかと言われ、江戸時代には「熊野社」と称し、江戸幕府から朱印地10石を下賜され、森戸村の鎮守とされた。明治初年に別当を務めた修験大徳院の大徳氏によって、現在の国謂地祗神社と改称された。また、別名「森戸神社」と呼ばれている。
 平安時代927年の『延喜式神名帳』に記載のある「武蔵国 入間郡 国渭地祇社 小」の論社とされているが、一般には北野天神社(埼玉県所沢市小手指元町)が有力とされる。しかし、当社の社地から鎌倉期と思われる古瓦が出土していることや、樹相が古いということを考えると、古社であることは間違いない。
        
              
・所在地 埼玉県坂戸市森戸616
              
・ご祭神 八千矛命 天照皇大神 伊弉諾尊 伊弉冉尊
              
・社 格 『延喜式神名帳』武蔵国入間郡・五座の一
                   「国渭地祇社」の論社。旧
森戸村鎮守 旧村社
              
・例祭等 例大祭 1015
    
地図 https://www.google.co.jp/maps/@35.9352871,139.3551212,17z?entry=ttu

 厚川大家神社から一旦埼玉県道114号河越越生線を南東方向に進み、「一本松」交差点の五差路を右折する。同県道74号日高川島線に合流後、1.5㎞程南西方向に進むと、東武越生線・西大家駅の約100m手前で、進行方向右側に森戸国渭地祇神社の鳥居が見えてくる。
 因みに「国渭地祇」と書いて「くにいちぎ」と読む。変わった名称だ。
        
 今回所用があり、急ぎ参拝をしたこともあり、県道沿いに建つ鳥居や社号標等の撮影ができなかった中、「森戸の獅子舞」の看板のみ撮影していた。

 森戸の獅子舞  坂戸市指定無形民俗文化財
 秋になると豊年を祝う獅子舞が、市内の各地で行われます。竹で作った「ささら」と呼ばれる楽器を使って獅子舞を踊るので、「ささら舞」とも言われ、昔から地元の人々によって受継がれてきました。
 森戸の獅子舞は、江戸時代に始まったと伝えられ、国渭地祇神社と周辺の神社のお祭りに舞われます。
 獅子は悪霊払いの霊獣として崇められ、古来、祭りの主役として、獅子舞が全国各地で行われてきました。森戸の獅子舞は、江戸時代の安永六年(一七七七年)に始まったと伝わっていますが、記録などは残っていません。国渭地祇神社と周辺の神社へ、毎年十月十五日に奉納されます。
 獅子舞の演者は、雄獅子、雌獅子、中獅子の三頭で、これに山の神の天狗、軍配を振って舞いを盛り上げる配追い、花笠をかぶったささら子、これにほら貝、笛吹き、唄うたいが加わります。演目は「すり違い」、「竿がかり、「花すい」、「秋葉社の舞」、「宮まいり」があります。   獅子舞の当日は、ほら貝の合図で社殿を一周する「宮まいり」から始まり、境内で「すり違い」を舞います。四日市場、森戸の秋葉社へ行列を組んで行き、それぞれの神社に舞を奉納します。神社への行き来の間、国渭地祇神社の境内にもどり、「竿かがり」を舞い、最後に神社境内で「花すい」を奉納して舞納めとなります。行列の先頭を行く万燈には、天下泰平、五穀豊穣、風雨順調、氏子繁昌との願いが記されています。
 祭の当日に立てられるのぼり旗の文字は、巌谷修(児童文学者巌谷小波の父)の書によるものです。 平成十九年三月 坂戸市教育委員会
                                      案内板より引用 
      
        
               森戸国渭地祇神社  境内の様子
 高麗川の南側南岸に位置する。ここは川沿いが低地で、南に行くほどゆるやかに台地上になっていく。森戸国渭地祇神社はこの村の鎮守として鎮座し、社前の往来は旧鎌倉街道であると伝えている。
『日本歴史地名大系』 「森戸村」の解説
萱方(かやがた)村の南西、高麗川両岸にある。南東は中新田村・上新田村(現鶴ヶ島市)、西は市場村(現毛呂山町)。南西の四日市場村境を鎌倉街道が南北に、北寄りを川越越生道が東西に通る。小田原衆所領役帳には御馬廻衆久米玄蕃の所領として河越筋の森戸三五貫文がみえる。田園簿では田二九二石余・畑一七七石余、旗本藤掛領(二五九石余)と同朝比奈領(二〇九石余)。元禄一〇年(一六九七)川越藩領となり(「御知行替物控日記」大徳家文書)、宝永元年(一七〇四)上知され、その後一部が旗本深津領となる。残りは宝暦一二年(一七六二)から寛政七年(一七九五)まで三卿の清水領となり、「風土記稿」成立時には幕府領、文政五年(一八二二)下総古河藩領(「古河御家中并御加増地村高帳」比留間家文書)
        
  鳥居の正面に見えるお社は、森戸国渭地祇神社の社殿ではなく、境内社・八幡神社である。
 県道沿いにある鳥居の西側にも鳥居があり、そこからの参道正面に社殿が見える。もしかしたら本来はそこが嘗て正面入り口ではなかったのではなかろうか。

「埼玉の神社」において、当社は国一熊野大権現と称していた。この社名の国一は美称で、国で一番すばらしい社であるという意味が込められ、これが後に国渭地祇に転化されたものと思われる。このため社の創立は、越生の本山派修験山本坊と直接結びついていた別当三宮山大徳院の活動にかかわるものではないかと考えられる。
 社記には、延暦年中、坂上田村麻呂が東征の帰途、報賽のため社殿を再営し、下って奥州藤原秀衡が再建したと伝えている。
        
           境内社・八幡神社の右側に並ぶ「秋葉神社」「神庫」
 
        境内社・秋葉神社                神 庫
        
                     拝 殿
                    理由は不明だが、社殿は南西方向に向いている。
『新編武蔵風土記稿 森戸村条』
 熊野社
 當村の鎮守なり、慶安二年社領十石の御朱印を賜り、鎮守府将軍秀衡の勧請なりと傳るのみにて、證すべき記録もなければ信ずるに足らず、鳥居の前に一條の往来あり、往古は此街道を隔てて西に鳥居ありし由、今もそこを字して鳥居を云、往来北の方市場村より入、高麗川を渡て社の前に至れり、當村と四日市場村の間を過て、高麗郡中新田に貫けり、鎌倉古街道なりといへり、
末社。疱瘡神社、三島社、石尊社、秋葉社
 観音堂
 別當大徳院。三宮山と號す、本山修験山本坊の配下本尊不動を安ず、開山権律師月證と云、寂年は傳へず、されど本社の傍に觀應二年辛卯三月三日、右志者大檀那當住権律師月證逆修願予普及及法界自陀冏證無上菩提沙彌道妙彌尼妙安敬白と彫たる碑を建つ、此の月證當院の草創ならんには開山の年歴も推考すべし

             社殿右奥に聳え立つご神木の「シイの木」

 国渭地祇神社の社記には、延暦年中、「坂上田村麻呂」が東征の帰途、報賽のため社殿を再営し、下って奥州「藤原秀衡」が再建したと伝えている。何故奥州から遙かに離れた森戸の地に「藤原秀衡」が再建したと語られるようになったのだろうか。
 鍵となるキーワードは「国一熊野大権現」、つまり「熊野信仰」ではなかろうか。

 史実の上での藤原秀衡は平安後期の陸奥の豪族で、陸奥守・従五位上・鎮守府将軍。平家滅亡後は、源義経を匿って頼朝に対抗。奥州藤原氏の3代目として,奥羽一円に及ぶ支配を確立し、砂金の産出や大陸との貿易等により莫大な経済力を蓄え、京都の宇治平等院鳳凰堂を凌ぐ規模の無量光院を建立するなど、北方の地にまさに王道楽土を現出させるかの如き所業を遂げ、奥州藤原氏の最盛期を築いた人物である。
 藤原秀衡は冷静沈着にして豪胆な人物であったという。事実、秀衡が健在の間、頼朝は平泉に朝廷を通じて義経追討を要請し、「陸奥から都に貢上する馬と金は自分が仲介しよう」との書状を秀衡に送り牽制をかけるという書面上での行動しか起こしておらず、軍事行動には至っていない。これは頼朝が秀衡の君主としての器量を認めざるを得なかったことを示している。それほどまでに頼朝は秀衡を怖れていた。      
        
                    境内の様子

 東北地方では、平安時代末期から熊野信仰が広がったと言われており、全国に3000社以上ある熊野神社のうちおよそ700社が東北地方に存在する。ことに秀衡は信仰が篤かったと伝えられており、名取熊野三社(宮城県名取市に存在する熊野神社(熊野新宮社)・熊野本宮社・熊野那智神社の総称)と密接な関係を有していたという
 名取熊野三社は、東北地方の熊野信仰の中心的存在にあり、仙台湾を熊野灘、名取川を熊野川、高舘丘陵を熊野連山に模し、本宮・新宮・那智の三社が他の地域とは異なりそれぞれ別に勧請されている。紀伊熊野の三社それぞれを地理的・方角的に同様にセット状態で勧請しているのは非常に珍しく、全国の熊野神社の中でもここだけであるとされる
 三代藤原秀衡のとき、名取熊野別当の金剛別当秀綱が強大な武士団を率い、更に藤原泰衡の後見人になるなど、軍事的・宗教的に大きな力を持つようになった。奥州合戦の際も秀綱は平泉方につき、源頼朝の軍に抗戦した。伝承によると、秀綱は本吉四郎高衡(藤原高衡)や日詰五郎頼衡と共に高舘山の高舘城に籠り、20000の兵をもって頼朝を迎え撃ったという。最終的に泰衡が死亡した後も秀綱と高衡は生き残り、投降したのちに秀綱は赦され、高舘山に祭神を藤原秀衡とする高舘神社を建立したという。
 奥州藤原氏滅亡後も名取熊野三社は信仰を集め、多くの宿坊を擁する一大聖地として隆盛を誇った。特に熊野新宮社が中心を成すようになり、やがて新宮社には本宮社と那智社も合祀され、熊野神社と称するようになった。

 また熊野信仰の布教的な役割を担う「山伏」の存在も忘れてはならない。平安末に熊野山の末端機構の一員として、関東・東北の熊野信仰の発展を、主として山伏が広汎に地方に散在していたからこそ、短期間に、同時に大規模にその信仰を広げたのではなかろうか。

「義経記」によれば
…越後直江の津は北陸道の中途にて候へば、それより比方にては、羽黒山伏の熊野へ参り下向するぞと申すべき、それより彼方にては、熊野山伏の羽黒に参ると申すべし…
とあり、羽黒、熊野間を結ぶ山伏の多かった事を伝えている。叉修験道では、日本総国66ヶ国を東西に両分し、西24ケ所は熊野、東33国は羽黒権現鎮護の地となすとあり、羽黒山との関係が東北地方の熊野信仰の発展を考える上に無視しがたい。

『新編武蔵風土記稿 森戸村条』には「観音堂」は「別當大徳院」で別名「三宮山」と呼ばれていた。この「三宮」とは熊野三神であり、越生の本山派修験山本坊と直接結びついていた別当三宮山大徳院の活動は、つまり「熊野信仰」の出先機関ではなかったのではないだろうか。その信仰の過程で「藤原秀衡」という強力な信仰心のある大物が社記に記されてしまったのではないかと考察する次第である。




参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「坂戸市HP」
        「Wikipedia」「境内案内板」等

拍手[2回]