古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

八町河原稲荷神社


        
            
・所在地 埼玉県児玉郡上里町八町河原468
            
・ご祭神 倉稲魂命 他十柱
            ・
社 格 旧八町河原村鎮守・旧村社
            *
「延喜式神名帳 武蔵國賀美郡 今木青坂稲実荒御魂神社」比定社
            
・例祭等 初午祭 2月初午 春季例祭 43日 例大祭 113
 上里町石神社から北東方向に通じる道路を直進し、1.2㎞程先の十字路を左折し、利根川堤防方向に進むと、その手前付近に八町河原稲荷神社は鎮座している。
地図を確認すると、利根川と烏(からす)川の合流点南岸の低地帯にあり、埼玉県最北部に位置している社のようである。
 この社の寛永四年(1627)銘をもつ石祠には「上州那波郡八町河原之持」とあり、当時烏川・利根川の流路変更によって上野国に所属していた時期もあったらしい。神川町の肥土廣野大神社の例もあるが、河川流域付近の社には、洪水等の自然災害は近代史前では、不定期に起こること自体宿命的な出来事ともいえよう。八町河原稲荷神社も、自然災害から地元住民を守る為に建立されたお社なのであろう。
        
                                八町河原稲荷神社
          正面からの撮影は禁止という事で、やや斜めからの風景
『日本歴史地名大系』 「八町河原村」の解説
八丁河原とも記す。利根川と烏(からす)川の合流点南岸に位置し、烏川の対岸は上野国那波郡沼之上(ぬまのうえ)村(現群馬県玉村町)、東は児玉郡新井村(現本庄市)、西は忍保(おしぼ)村。八町河岸(八丁河岸)および上野国に至る三国街道の渡船場(八町河原渡)があった。北条氏邦領について記録した鉢形北条家臣分限録(埼玉叢書)に「本国山城、千貫、随臣、加美八町河原住、桑原玄蕃」とみえる。地内にある稲荷神社の寛永四年(一六二七)銘をもつ石祠に「上州那波郡八町河原之持」とあり、当時は烏川・利根川の流路変更によって上野国に所属していたらしい。近世初期には本庄城主小笠原信嶺の知行地とされる(享保一二年「庄田三郎兵衛覚書」庄田家文書)

       
             社号標柱               趣のある手水舎
        
              鳥居近辺に設置されている案内板
 稲荷神社 御由緒  上里町八町河原2266
 □御祭神

 ・倉稲魂命 ・誉田別尊 ・罔象女神  ・菊理媛命
 ・伊弊諾尊 ・伊弊冉尊 ・天照大御神 ・豊受姫命
 ・迦具土命 ・大物主今 ・菅原道真公
 □御縁起(歴史)

 当社は八町河原の小字の一つである本村の北端に鎮座する。創建年代は、「児玉郡誌」に宝徳年中(西 一四四九-五二〉、「郡村誌」に天文年中(西 一五三二-五五)、「風土記稿」には天正年間(西 一五七三-九二)とそれぞれ載せられており、遅くとも中世後期には勧請されたことをうかがわせる。鎮座地については、「郡村誌」に「往昔は鳥川の畔にあり、其後安政6己未年(西 一八五九)八月中洪水に罹り社地崩壊せり、同年十一月本村の中央に仮宮建立遷座す」と記されている。
 本殿には、「稲荷大明神」「享保四己亥(西 一七一九)霜月吉祥日京稲荷社愛染法院暁雄」}と墨書された神璽筥が奉安されており、京都の伏見稲荷神社から拝受したことが知られる。
 明治四〇年二月十三日、八幡神社(植竹)、水神社(水神前)、白山神社(前河原)及び境内の神明愛宕、琴平、北野の各神社を合祀している。
 本殿右の大欅の元には、寛永四年(西 一六二七)上州那波之郡、八町河原之持と刻まれた石祀があり、その他境内には寛永四年建立の雷電神社や江戸期に栄えた八丁河原の舟運利用の永の神である大杉神社などが祀られている。(以下略)
                                      案内板より引用

        
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿 八町河原村』
 稻荷社 村の鎭守なり、天正の頃觀請すと云、宮守を關口和泉と云、先祖は要人とて、是もその頃の人なりと云、觀音寺持、下七社同じ、〇雷電社 〇水神社 〇天神社 〇神明社 〇愛宕社 〇大杉社 〇八幡社、
 觀音寺 新義真言宗、京都智積院末、中興僧快〇寶永五年修理すと云、本尊大日を安ぜり、
『新編武蔵風土記稿 八町河原村』に記載がある「関口氏」は他にも、『武蔵国児玉郡誌』に「寛永三年神主関口丹波、正徳三年神主関口左馬之助、其後関口和泉神主となる」と見える。因みにこの関口姓は武蔵国、上野国等に多く存在するようだ。
        
                    本 殿
 別当の観音寺は真言宗の寺院で、延宝元年(1673)に開創されたと伝えられるが、明治初年の神仏分離により観音寺から離れた。明治5年村社に列する。明治40年4月23日八幡神社(字植竹鎮座、祭神誉田別尊、慶長13(1608)創建、祭日815日)、水神社(字水神前鎮座、祭神美津和売命、天保元年(1830)創建)、白山神社(字前河原鎮座)及び境内の神明神社、愛宕神社、琴平神社、北野神社の各神社を本社に合祀しているという。
       
                      社殿西側には豊かな社叢林が広がる(写真左・右)
           この林は位置的に見ても防風林の役割もあるようだ。
 
  境内西側奥にある鳥居の笠木・島木部         社殿右側にある神興庫
以前あった鳥居を大切に保管しているのであろう  地域の祭りの山車(?)が保管されている
       
       ご神木(写真左・右)とその幹部分に祀られている寛永4年(1627)銘をもつ石祠。
        
                  社殿からの風景
        
                        境内南側隅に祀られている庚申塚、仏様等



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「上里 菅原神社HP」「埼玉苗字辞典」
    「境内案内板」等
 

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上村君避来矢神社

 埼玉県羽生市上村君の利根川沿いに避来矢(ひらいし)神社がある。社殿や石鳥居は真新しく、利根川堤防強化事業に伴い、平成27年に移転した。地元には、下野から飛来した大石を祭り、飛来石神社と呼ばれていたが、明治61873)年に避来矢神社と改称したとの言い伝えがある。神殿裏には、特に説明板はないが、大きな石が祭られている。裏側の道を1本隔てて2本の桜と数体の石碑が並び、一つは昭和35年の社殿移転記念碑。神社は堤防工事のたびに少しずつ移動しているようだ。
 天文年間(1532年〜1554年)に、下野栃木村から大きな「石」が飛来し、その石を崇拝したことに始まるとされる。そのため、当時は、飛来石神社と称していたという。それが、藤原秀郷公が百足退治の礼として龍宮の王から授かったと言われる伝説の大鎧(飛んでくる矢が当たらないといい、源平合戦前は「真経腹巻之具足」と呼ばれていた)である、その後、避来矢(ひらいし)と結びつき、現在の社名並びに形となったという。
        
              
・所在地 埼玉県羽生市上村君191
              
・ご祭神 藤原秀郷公
              
・社 格 旧上村君村鎮守・旧村社
              
・例祭等 例祭 714日に近い日曜日(獅子舞)
 発戸鷲宮神社から用水路沿いの道路に北行して戻り、合流後右折する。仰ぎ見れば、鮮やかな青色の夏空の中、綿菓子のような雲とのコントラストが見事なまでに盛夏の雰囲気を醸し出している。運転をしながらふと左手を見ると、そこには利根川の堤防が東西に延々と続き、周囲は長閑な水田地帯が広がる中、700m程先にある丁字路を左折すると、利根川の堤防が見えるその南岸に真新しい上村君避来矢神社が見えてくる。
 社の東側に隣接して駐車場も綺麗に完備され、しかも今風のスロープもあり、安心して参拝に望めることは大変ありがたい。
        
                 
上村君避来矢神社正面
『日本歴史地名大系』 「上村君村」の解説
 利根川沿いに発戸村の東に位置し、東は下村君村。古くは同村と一村であった。文明一八年(一四八六)東国巡遊の旅に出た聖護院門跡道興は「むら君」を通過する際、「たか世にかうかれそめけん朽はてぬ其名もつらきむらきみの里」(廻国雑記)と詠んでいる。
 永禄六年(一五六三)五月二八日の広田直繁判物写(武州文書)には「太田庄北方村君之郷」とあり、村君郷が太田庄北方に含まれていたことが知られる。
        
                                    拝 殿
『新編武藏風土記稿 埼玉郡上村君村』
避來矢社
村の鎭守なり、相傳當社は俵藤太秀鄕を祀る所にして、古へ相州朽木村より飛來りし故、元は飛來と書しを、享保十一年神祇伯吉田家へ神位を請し時、今の文字に改め記し來りしと云、
〇雷電社 〇通殿社 〇稻荷社 〇天神社 以上總德院の持、
 
拝殿手前にある上村君地区の「獅子舞」の案内板     社殿右側にある社務所
 指定文化財 獅子舞(上村君地区)
 無形民俗文化財 羽生市指定第7号 昭和34101
 前獅子、中獅子、後獅子の三頭で構成されます。他の役割は花笠、笛方、旗持ち、万灯があります。現在は714日に近い日曜日に祭が行われ、その日の夕方はここから雷電神社まで天下泰平、村内安全、五穀豊穣の幟を先頭にして往復します。
 当日の午前中はここから出発し、地域内をくまなく回る村回りを行います。
 舞いは前庭と本庭からなり、曲目は「花笠」「四本ずく」「八丁しめ」「辻がかり」「弓がかり」「ささ蛇」「鐘巻」などがあります。
「辻がかり」は悪病が来ないようにと村境で舞われるもので、本番での獅子舞は棒術に続いて行われます。
 元亀・天正の頃、羽生城の救援に出陣した上杉謙信が将兵の士気を高めるため、上野国からささら舞師を招き、避来矢神社に奉納したのが起こりという伝承があります。
 平成14320日 羽生市教育委員会
                                      案内板より引用

        
            境内にある「「避来矢神社移転建築記念之碑」
        
               
本殿の後ろに祀られている「甲石」
           
旧下野国栃木邑から飛来したという「石」という。
『羽生昔がたり』には、「栃木邑から飛んできた甲石」という昔話がある。
 羽生昔がたり「栃木邑から飛んできた甲石」
 上村君地区のこの話は、今から千年以上もの古い話から始まります。
 平将門は朝廷にむほんをおこし、下総国(千葉県北部及び茨城県の一部)の父の遺領地に帰りましたが、遺領地をめぐって一族の争がますますひどくなって大さわぎになりました。
 そして将門の勢力をのばして、武蔵国のお役人たちまで困らせるなどの反乱をおこしたので、武勇にすぐれた藤原秀郷(俵藤原太郎)と平貞盛の二人の武将は力を合わせて、朝敵将門を討伐しました。
 武蔵国も下総国も平和となって、秀郷と貞盛の手がらは人々からほめたたえられました。将門の乱を平定した秀郷は功績をみとめられて、武蔵国と下野国の二国の守に任ぜられ、東谷(羽生)に国府(役所)を開いて政治をとったといわれます。人々をさいなんから守り、神様のようにあがめられました。
 ところがそれから六百年もたったある日のこと、下野国(栃木県)栃木邑から、たたみ一枚ほどもある大きな石が上堤根邑(上村君)に飛んできたということで、村は上を下への大さわぎになりました。紫がかったこの石は形が「かぶと」によく似た石です。「もしかしたら秀郷将軍が石になって村を守るために飛んできたんだんべ」と里人たちはこの不思議な石をめぐってワイワイガヤガヤ…結局勇猛な秀郷の化身と信じ「ありがてえ、ありがてえ」「やたらに人の目にふれたら神様にバチがあたる」と地表に少しおすがたを見せて地中に安置しました。
 丁度その頃が戦に明け暮れた戦乱の世だったので、秀郷が将門の乱を平定した時のようにと里人たちは甲石をご神体にして信仰しました。
 秀郷が愛用した「避来矢のよろい」は栃木県の唐沢神社の宝物になっているそうですが、上堤根村ではよろいの名をとって避来矢神社を建立し、秀郷を祀り、村の平和を祈りました。
 舘林城主、松平左近将監は(今から二百年位前)領内を巡行した折に、甲石を興味深く見ていかれたという記録があります。
        
    社の境内から道路を挟んで北側に石碑や石祠、庚申塚等が多数祀られている。
        
                       一番右側に建つ「社殿移転記念之碑」
                  
社殿移転記念之
             当避来矢神社は古老の口碑によれば
            古来下野国栃木邑より飛来せし大石を里人
             甲石と称して崇敬し天文年中日本武尊と
                併せ奉祀したるものと伝えらる
                        其の後飛来石神社と称し地区民崇敬の中心
                        なりしも詳かならず明治六年避来矢神社と
                             改称し村社となり今日に至る
                         昭和三十四年建設省関東地区利根川上流
                        引堤工事の確定により此の由緒深き神殿の
                         移転に当り地中に埋設せし伝説の御神体
                       甲石を始めて掘り出し氏子一同の奉仕により
                          昭和三十五年三月三十日現地に遷座す
                        尚天神社通殿社浅間社三宇も遷座合祀せり
                            
昭和三十五年三月 小林一雄撰文
        
                社殿から鳥居方向を撮影



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「羽生市HP 羽生昔がたり」
    「Wikipedia」「境内案内板、記念碑文」等

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発戸鷲宮神社

 天日鷲神(あめのひわしのかみ)は、日本神話に登場する神。『日本書紀』や『古語拾遺』に登場する。阿波国を開拓し、穀麻を植えて紡績の業を創始した阿波(あわ)の忌部氏(いんべし)の祖神である。
 日本神話において、天照大神が天岩戸に入られたとき、岩戸の前で神々の踊りが始まり、天日鷲神が弦楽器を奏でると、弦の先に鷲が止まった。多くの神々が、これは世の中を明るくする吉祥(きっしょう)を表す鳥といって喜ばれ、この神の名として鷲の字を加えて、天日鷲命とされた。という内容である。後に平田篤胤は、神武天皇の戦の勝利に貢献した鳥と同一だと言及している。
『古語拾遺』によると、天日鷲神は太玉命に従う四柱の神のうちの1柱である。やはり、天照大神が天岩戸に隠れた際に、穀(カジノキ:楮の一種)・木綿などを植えて白和幣(にきて)を作ったとされる。そのため、天日鷲神は「麻植(おえ)の神」とも呼ばれ、紡績業・製紙業の神となる。また、天富命は天日鷲神の孫を率いて粟国へと行き、穀・麻を植えた。
 天日鷲神は一般にお酉様として知られ、豊漁、商工業繁栄、開運、開拓、殖産の守護神として信仰されている。
        
               
・所在地 埼玉県羽生市発戸1653
               ・ご祭神 天日鷲命(推定)
               ・社 格 不明
               ・例祭等 不明
 尾崎鷲宮神社より北東方向に伸びる用水路沿いに600m程進み、十字路を右折すると、すぐ右手に発戸鷲宮神社が見える。この二社は直線距離にしても700m程しか離れてなく、互いに近距離に位置している。
 因みに「発戸」と書いて「ほっと」と読む。 
        
                  発戸鷲宮神社正面
『日本歴史地名大系』 「発戸村」の解説
 [現在地名]羽生市発戸
 利根川右岸の自然堤防上、上藤井村の北にある。「ほっと」は「陰」に通じ、奥深く入り込んだ地形をさすという(埼玉県地名誌)。現鷲宮町鷲宮神社の文禄四年(一五九五)八月付棟札に「発戸道原明堤此郷何三分一」とみえ、同社領があった。田園簿によると幕府領、田高四一五石余・畑高六四二石余、ほかに野銭永九四文。国立史料館本元禄郷帳では甲斐甲府藩領で、宝永元年(一七〇四)上知(寛政重修諸家譜)。
        
                        一の鳥居の掲げてある社号額
 一の鳥居に掲げられた社号額には、「鷲宮大明神 桑原大明神」と同列併記されていて、「新編武蔵風土記稿」には「桑原社」と記載がされ、むしろ「鷲明神」を後に合祀したような記載がされている。
『新編武蔵風土記稿 発戸村』
桑原社 祭神詳らかならず、鷲明神を合祀す、〇雷電社 〇日光權現社 〇湯殿權現社 
〇天神社 〇稻荷社 以上觀乘院持、
 
     参道の先にある二の鳥居          民家が立ち並ぶ中にありながら
                           落ち着いた雰囲気の漂う境内
 昭和433月、発戸鷲明神社の西方の畑を田に改造するための土取り作業の際、地下7080㎝の深さから縄文時代の石器や土器が多数出土した。土器は浅鉢・深鉢・壺・注口土器など縄文時代後期・晩期を中心に中期・後期のものが混在している。また独鈷石・石棒・石皿破片・打製石斧などの石器類が出土している。「発戸遺跡」と呼ばれている。
 中でも土面は、関東地方随一のもので、写実的に眉・目・鼻・口が表現され、目には玉がはめこまれていた形跡がある。目と口の周辺は赤く塗られ、頬(ほほ)には三叉の文様が描かれていて、顎(あご)には一条たどたどしい浅い沈線が刻まれている。この沈線は紐かけのすべり止めと考えられ、紐で額(ひたい)にゆわえたものと推察されている。
 また遺跡の西限を通る道路は、遺跡の中心地と推測されている発戸鷲宮神社を囲むように半円を描いており、かつて地表にあった環状盛り土遺構を避けるように道筋が定まったものと考えられている。
独鈷石(とっこいし)…縄文時代後・晩期の磨製石器。仏具の独鈷に似ているところからの名称。中央部はえぐれ、両端は斧状、つるはし状を呈する。はじめは実用具であったが、しだいに儀礼具化したと考えられる。
 発戸地域は、利根川右岸の自然堤防上に位置し、縄文時代の遙か大昔から人々が生活を営んでいて、早くから開発がされてきた地域でもある。「発戸」という地域名の由来は上記『日本歴史地名大系』にて【「陰」に通じ、奥深く入り込んだ地形をさす】と記されているが、その淵源ははるか縄文時代に遡るかもしれない。
        
                           参道左側に祀られている境内社
        左側より「八坂神社」「東照大権現・天満天神宮」「雷電神社」
        
                    拝 殿
 創建時期、由来等は詳らかではない。特に『新編武蔵風土記稿』において「桑原社」、一の鳥居の社号額に表記されている「桑原大明神」における「桑原」という名称の由来は結局分からなかった。但しこの地域の開発の速さを証明する遺跡が、この社を起点としている所からみても、何かしらの伝承・伝説の類はありそうである。
       
       境内にある「鷲宮神社 農業研    記念碑に並びにある石碑群。一番右側には、
           修所建設記念碑」   国幣湯殿山・官幣月山・国幣羽黒山と刻まれている。
        
                        境内にある「発戸松原跡」の石碑
「四里の道は長かった。その間に青縞の市の立つ羽生の町があった」で始まる小説『田舎教師』。この作品は、実在の人物小林秀三が書き残した日記をもとに、田山花袋が丹念な取材を行って書き上げた小説で、登場人物はほぼ実在した人々である。明治30年代の羽生の自然や風物、人間模様が生き生きと描かれており、主人公林清三を中心にした小説として、また、明治期の郷土羽生の風景や人々を現代に伝える郷土資料と言える。小説から当時の面影を偲ぶことができる。

 松原遠く日は暮れて 利根のながれのゆるやかに ながめ淋しき村里の 此処に一年かりの庵 はかなき恋も世も捨てヽ 願いもなくて唯一人 さびしく歌ふわがうたを あはれと聞かんすべもがな

 嘗て利根川の堤防をたどると、発戸松原跡に碑が建っていた。この碑は令和311月、利根川堤防拡張工事のため発戸地内の鷲宮神社内に移設された。散歩好きだった小林秀三は、発戸、上村君、下村君あたりの堤をよく一人で散策していたという。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉県埋蔵文化財調査事業報告書 第461集」
    「羽生市HP」精選版 日本国語大辞典」「フリー百科事典 ウィキペディア(Wikipedia
    「境内記念碑文」等

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尾崎鷲宮神社


        
              
・所在地 埼玉県羽生市尾崎705
              
・ご祭神 天穂日命 武庚鳥命
              
・社 格 旧尾崎村鎮守
              
・例祭等 春季祭 41415日 夏季大祭 71415
                   
秋季祭 101415
  
地図 https://www.google.com/maps/@36.1932794,139.5504263,17z?hl=ja&entry=ttu
 本川俣長良神社から北側の利根川土手沿いの道路を東行し、2㎞程進んだ三つ又交差点を右折、350m程進むと右側に細い路地が見え、「尾崎農業研修所」に隣接するように尾崎鷲宮神社が古墳墳頂部に鎮座している
        
                               
尾崎鷲宮神社正面
『日本歴史地名大系』 「尾崎(おさき)村」の解説
 [現在地名]羽生市尾崎
 利根川右岸の自然堤防とそれに連なる後背湿地よりなる。西は同川沿いに稲子(いなご)村に続く。「万葉集」巻九の「武蔵の小埼の沼の鴨をみて作る歌」の「小埼沼」、巻一四の国歌に詠まれた「埼玉の津」を当地に比定する説もある(行田市の→小崎沼)。「風土記稿」は「此辺多クハ沼田ナレハモシクハ当所小埼沼ノ旧蹟ニテ後年尾崎ノ文字に改シモ知ルヘカラス」と記す。田園簿によると田高一八五石余・畑高二八六石余、幕府領。国立史料館本元禄郷帳では甲斐甲府藩領。同藩領は寛文元年(一六六一)からで宝永元年(一七〇四)上知(「寛政重修諸家譜」など)。
『新編武蔵風土記稿 尾崎村』
 按るに埼玉津小埼沼皆【萬葉集】の詩にも見え、當所の名前なるはいふもさらなり、されど上りたる世の中にして、舊蹟しかと論じがたし、然るに此邊多くは沼田なれば、もしくは當所小埼沼の舊蹟にて、後年尾崎の文字に改しも知るべからず、
 鷲明神社 愛宕社 以上二社を村の鎭守とす、
 
    鳥居のすぐ先に置かれている            境内一帯の風景
     伊勢参宮記念碑等の石碑四基       社殿は古墳の墳頂部に鎮座している。
 行田市酒巻地域にある「酒巻古墳群(酒巻八幡神社を参照)」や「真名板高山古墳」の例もあるが、利根川流域の加須低地一帯は、嘗て「関東造盆地運動」による沈降と河川の氾濫土の堆積により、古墳の多くが地表から沈降し、埋没してしまっているという。
『埼玉県古墳詳細分布調査報告書』によると、尾崎地域には全部で9基からなる「尾崎古墳群」といわれる古墳群が複数調査により確認されているが、現在はそのほとんどは水田下に埋没しているとの事で、この鷲宮神社古墳と社南方にある遍照院古墳の二基が残されているとの事だ。残念ながら遍照院には行かなかったので、確認は出来ず。
        
 古墳上に鎮座する社殿と、その両側に祀られている境内社との配置が不思議とマッチしていている。
       
    社殿に通じる石段の右側にある社の由来と指定文化財の獅子舞に関しての案内板

  指定文化財 尾崎地域の獅子舞の案内板        社の由来等を記した案内板
指定文化財 獅子舞(尾崎地区)
(無形民俗文化財 羽生市指定第7号 昭和34101日)
 親獅子、中獅子、子獅子の3頭で構成されます。頭をかぶる一人一人が1頭の獅子の役を受け持つため、一人立ち3頭形式の獅子舞といいます。以前は714日から16日の3日間をかけて行われていましたが、最近では714日の例大祭の夜のみ、五穀豊穣、家内安全を願った奉納となりました。昔は鷲会という組織に、167歳から30歳までの男子が入会し、ゲンロウと呼ばれる人たちのきびしい指導を受けながら、習得していきました。
 獅子舞はまず棒術の演技が行われ、その後出端→シバ掛かり→段物→(花散らし)→岡崎の順に演じられます。演目である段物には「梵天」「八丁締」「行道探し」「弓」「鐘巻」などがあります。笛方は10数名で構成され、65本調子です。
 三代将軍徳川家光の頃より行われていたといい、下野国から獅子舞の師匠を呼んで習ったと伝えられています。
 平成14年3月20日 羽生市教育委員会

                                                                            案内板より引用
        
                                      拝 殿
   案内板による創建時期は承応元年(1652)。久喜市鷲宮神社から分祀したという。

 本殿には、天穂日命と武庚鳥命を祀る本殿両脇に、愛宕社・天神社・浅間社・稲荷社を祀り、愛宕社・天神社・浅間社には、それぞれに勝軍地蔵像・天神座像・木花咲耶姫像が安置されている。更に、稲荷社には眷属(けんぞく)の狐のほか、大きな厨子に高さ50㎝ほどの稲荷大明神が祀られている。
 正一位 鷲宮大明神
 鷲宮神社ノ由緒
 神社所在地 埼玉県羽生市大字尾崎七〇五番地
 境内面積   六六三坪(前方ノ道路ヨリ入リ参道ヲ含ム)
 起源       承応元年(今ヨリ約三百三十年前二〇代ノ後光明天皇ノ御代江戸時代ノ創立鷲宮ノ
             鷲宮神社ヨリ分祀セラレタル説アリ)
 神德       御祭神ノ故事ニヨリ特二開運火防農工商交通安全ノ守護神
 境内神社    一、産土神社祭神鬼子母神出産ヲ司リ
             一、産児ノ保育スル神
             一、稲荷神社祭神宇迦御魂命農ノ神
             一、八坂神社祭神須佐之男命
 平成二十三年八月 氏子総代会
                                    境内案内板より引用
 
拝殿に掲げてある「正一位 鷲宮大明神」の扁額  石段左側に祀られている三峯神社の石祠
 
  石段手前で左側に祀られている境内社      境内左側にある「出羽三山参拝記念碑」
            左から稲荷社・八坂社       幾多の記念碑も塚側に向いている為、見づらい。      
        
                              静まり返った境内の一風景

 埼玉県行田市の南東部に位置する埼玉地域には、かつて「小埼沼(おさきぬま)」という沼が存在していた。今では小さな林とわずかな窪地を残すのみとなっているが、縄文時代にはこのあたり一帯は東京湾の一角として入江が入り組んでいたという。
 この小埼沼は尾崎沼・小崎沼とも称され、大字埼玉の東部に所在していたと伝わる沼である。今日では林の中に「武藏小埼沼」と彫られた石碑と池が所在していて、この石碑は宝暦3年(1753)に忍城主の阿部正允により建てられたものである。
 ところで、万葉集には小埼沼について歌われているものが2首現存している。
 ・小埼の沼
 「埼玉の小埼の沼に鴨ぞ翼きる 己が尾にふり置ける霜を払ふとにあらし」
 ※(解説)小埼の沼で鴨が翼を振って水しぶきを飛ばしている。自分の尾に降った霜を払おうとしているようだ。
 ・埼玉の津
 「埼玉の津に居る船の風をいたみ 綱は絶ゆとも言な絶えそね」
 ※(解説)埼玉の渡し場にある舟は、風が強いと綱が切れることがあるが、二人の仲は切れないよう続けたい。たとえ会えなくなっても、お前は便りを絶やすようなことはしないでほしい。

 同地は1961年(昭和36年)91日に「万葉遺跡・小埼沼」として埼玉県指定記念物に指定されているが、伝承による埼玉の津および小埼沼の候補地は、行田市埼玉の場所だけではなく、羽生市大字尾崎とする説や、さいたま市岩槻区大字尾ケ崎とする説(共に武蔵国埼玉郡)がある。
 この奈良時代末期に成立したとみられる日本に現存する最古の和歌集である万葉集は、7世紀前半から759年(天平宝字3年)までの約130年間の歌が収録された日本の古典であり、日本文学における第一級の史料であろうことは疑いない。
 その古典に「小埼沼」という地名は確かに存在していて、この候補地の一つに挙げられているのが羽生市尾崎地域である。その中央部付近に、尾崎鷲宮神社は静かに鎮座していた。

【浅間塚古墳】
 尾崎鷲宮神社から南方向に通る道路を900m程南下すると、右手に「浅間塚古墳」が見えてくる。
 遠目から見ても一目で古墳と分かる形状をしているので、立ち寄って確認する。
        
                   浅間塚古墳
 山頂には浅間神社の小さな祠があり、それがこの古墳の名称の由来ともなっている,麓には馬頭観音の碑が祭られている。元は円墳の古墳(推定)築造時期は不明。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「羽生市HP」「Wikipedia」
    「境内案内板」等

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本川俣長良神社

 日本人の神観念のなかには,人間を神にまつる風習に基づいた神格がある。死後神にまつられる場合と,生前にその人間に神格を認め,信仰対象とした場合と二通りあり,後者の場合,まつりこめた祠を「生祠」としている
 生祀は、元々古代中国の前漢時代の政治家である欒布(? - 紀元前145年)が燕の丞相であった時、燕と斉の間にその社を立てて、「欒公社」と呼んだ。また石慶が斉の丞相であった時、斉人は「石相祠」を建てた。これが生祠の始まりであるという。
 日本における生祠に関して、自己の霊魂を祀った生祀の文献上で最も古い事例は、平安時代の923年、伊勢神宮の外宮の神官であった松木春彦(824年〜 924年)が、伊勢度会郡尾部で、石に自己の霊魂を鎮め祀ったことである。
 生祀は江戸時代に増えたが、それは中国思想の影響であろうという。この場合の生祀とは、人々のために利益をもたらした英雄や,一般人よりも権力や霊力あるいは徳において秀でた人物を象徴的に崇拝の対象として祀っているという。
 但し、自己の霊魂を祀るケースもあり、江戸時代中期、松平定信が1797年、奥州白河城に自分の生祀を成立した例があり、また山崎闇斎が儒教の礼式を参考に祭式を考案し、自らの霊魂を祀った。その生祀は1671年、京都の自邸の垂加霊社に成立したものである。これ以後も、神道家や平田派の国学者によって、それぞれ独自の祭式で自己の霊魂を祀った。
 羽生市本川俣長良神社境内には、江戸時代の川越領主であり、当該地域も領地分として善政を施いた松平大和守直恒の生祀を祀っていて、現在その石祠は羽生市の市指定史蹟となっている。
        
             
・所在地 埼玉県羽生市本川俣12135
             
・ご祭神 藤原長良公(推定)
             
・社 格 旧本川俣村鎮守・旧村社
             
・例祭等 不明
  
地図 https://www.google.com/maps/@36.1866796,139.5329647,17.29z?hl=ja&entry=ttu
 上川俣天神社から一旦国道122号線に戻り、東方向に進路をとる。東武伊勢崎線の踏切を越えて350m程進んだ丁字路を左折する。その後「葛西用水路」を越えた先に「本川俣集会所」が見え、その隣に本川俣長良神社は鎮座している。
        
                              
本川俣長良神社 一の鳥居  
『日本歴史地名大系』 「本川俣村」の解説
 利根川南岸の自然堤防上に位置し、旧利根川の流路跡もみられる。古くは西側上流の上川俣村と一村であった。田園簿によると幕府領で、田高二三九石余・畑高五九九石余、ほかに千手せんじゆ院領一〇石があった。国立史料館本元禄郷帳でも幕府領。明和七年(一七七〇)と推定されるが川越藩領となり、文政四年(一八二一)上知(松平藩日記)。同九年には三卿の一家である清水領で(「清水家領知村々社倉仕法請書」酒井家文書)、幕末の改革組合取調書でも同じ。
        
                                 境内の様子
『新編武藏風土記稿 本川俣村』
 村名の起りは上川俣村・上新郷村の間に會川と云古川あり、是中古までは利根川の枝流にして、ニ又に分れ、其所へ當村の地臨みし故、川俣の名は起れりと云う、
『新編武藏風土記稿 上上新郷村』
 此會川と云は利根川の古瀬にして、古は利根川當村の北にてニ派となり、一は今の利根川、一は此會川にて、南へ折れ郡中を貫き、川口村にて又今の利根川に合す、昔は利根川に劣らず大河なりしを、忠吉郷の家人小笠原三郎左衛門、文祿三年堤を隣村上川俣村まで築きて、水行を止しゆへ、古川となりしよしを傳ふ、

「新編武蔵風土記稿 本川俣村」において、
川俣という地名由来が記されていて、そこでは、嘗て「利根川」の支流であった「会川」は、上川俣村・上新郷村の間を流れていて、この地で二又に分かれたために、「川俣」という舞相になったと記されている。対して「新編武藏風土記稿 上上新郷村」では、利根川の支流の支流でありながら、「会川」は、当時の利根川と同じくらいの水量を誇る大河であり、恐らくは水害も何度もあったのであろう。文禄3年に堤防を築いたことにより、水量を管理したことが記されている。
        
                    拝 殿
 長良明神社
 村の鎭守なり、當社は元上野國邑樂郡瀨土井村にありしが、天正三年利根川洪水の時、當所の岸へ流れ來りし故、土人取上て翌年三月廿日社を造りしとなり、祭神は長良親王の由にて、束帶の坐像なり、今按に上野國瀨土井村なる長良神社は、在昔上野國騷亂の時、大職冠鐮足七世の孫、黃門侍郎藤原長良をして、鎭撫せしめしに、國大に治りし故、長良歸京の後、家監赤井師助と云ものを留て、是を治めしめたり、長良沒後に及て師助國人と計て彼靈を神に祀り、直に長良神社と號すといへり、是に據ば親王といへるは誤なるべし、されど長良の上野を治めしこと國史に載せざれば、詳なることは知べからず、或云【和名抄】上野國邑樂郡の鄕名に、長柄あり、是地名を以神號とせるならんと、此當れる如く思はるれど、未だ其據を聞かざれば信じがたし、
 別當大藏院 本山派修驗、葛飾郡幸手不動の配下
 本地堂 觀音を安置す、
 〇八幡社 〇鷺明神社 〇天神社
 以上の三社は、文祿四年の勧請にして、大藏院の持なり、
                          『新編武藏風土記稿 本川俣村』より引用
 長良神社は利根川中流域左岸、つまり、群馬県の利根川流域に数十社集中的に鎮座しているが、反対側である、埼玉県側の利根川右岸には、この本川俣地域と、弥勒地域の2か所しか存在していない。特徴ある配置状況である社といえる。
        
                                       本 殿
 
  社殿の左側に祀られている「松平大和守生祠」の石祠(写真左)とその案内板(同右)
 指定文化財 松平大和守生祠 
(史蹟 羽生市指定第5号 昭和32129日)
 本川俣村は、明和7年(1770)から文政4年(1821)までの約50年間、それまでの幕府直轄地から河越城主の領分となっていました。
 生祠とは、領主の徳をたたえるために領民がまつったもので、市内には堀田氏、戸田氏、本多氏らの城主のもの以外にも、小尾氏、戸田氏、土岐氏等の旗本をまつったものがあります。
 この生祠は、松平大和守直恒をまつっています。当地は天明6年(1786716日におきた上川俣の竜蔵堤の決壊および、寛政3年(179187日の再決壊による水害に見舞われました。この領民の窮状を知った直恒は、食料を与え、租税も五年間免じました。この恩に報いようと、惣百姓、組頭、年寄、名主が願主となり、そのいわれを記して後世まで伝えようと寛政6年(1794)に建立したものです。
 松平大和守生祠は、寛政元年(1789)に待従に任ぜられた後、文化7年(1810)に49歳で没しました。
 平成15320日 羽生市教育委員会
                                      案内板より引用

 
  生祠の左側並びに祀られている湯神社      生祠の右側並びに祀られている石碑
    その右側には石鳥居建築記念碑       左から琴平神社・〇大明神・威徳天満宮
 
 琴平神社等の石碑の右側並びに祀られている石碑・石祠群(写真左)。左から八幡神社・水神宮・龍〇宮・庚申供養塔・(不明)・(不明)・道祖神・道祖神。これらの石祠群の奥にも境内社が祭られているのだが(同右)、詳細は不明。
        
                社殿から見た境内の一風景


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「羽生市HP」「Wikipedia」「境内案内板」等


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