古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

日光東照宮

 日本を代表する「日光の社寺」はユネスコ世界遺産に登録されており、その中でも最も有名な日光東照宮は江戸幕府初代将軍・徳川家康を神格化した東照大権現(とうしょうだいごんげん)を主祭神として祀り、日本全国の東照宮の総本社的存在である。
 創建は奈良時代にさかのぼる天台宗の門跡寺院(皇族・公家が住職を務める特定の寺院、その後鎌倉時代以降は位階の高い寺院の呼称)である輪王寺や下野国一之宮で旧国幣中社の社格をもつ日光二荒山神社と隣接していて、この東照宮、二荒山神社、輪王寺を総称して「二社一寺」と呼んでいる。
 東照宮は徳川家康を「東照大権現」という「神」として祀る神社である一方、二荒山神社と輪王寺は奈良時代に山岳信仰の社寺として創建されたもので、東照宮よりはるかに長い歴史をもっている。ただし、「二社一寺」がこのように明確に分離するのは明治初年の神仏分離令以後のことであり、近世以前には、山内の仏堂、神社、霊廟等をすべて含めて「日光山」あるいは「日光三所権現」と称し、神仏習合の信仰が行われていた。
「日光東照宮」は日本屈指の観光スポットとして国内外から人気が高く、また55棟の建築物のうち8棟が国宝、34棟が重要文化財に指定されていて、多くの豪華絢爛な社殿群が訪れた観光客を魅了している。
        
              
・所在地 栃木県日光市山内2301
              ・ご祭神 (主)徳川家康公(相殿)豊臣秀吉公・源頼朝卿
              ・社 格 別格官幣社
              ・例祭等 春季例大祭・神事流鏑馬 517
                   渡御祭「百物揃千人武者行列」 518
                   秋季祭・渡御祭「百物揃千人武者行列」 1017日 他

 2025年度を飾る1番目の社は「日光観光の中心地」として、 徳川初代将軍・家康公を御祭神に祀る社・日光東照宮と当初から決めていた。当ブログでも紹介している、忍東照宮や世良田東照宮、徳川東照宮等、「東照宮」と呼ばれる神社は全国各地にあるが、ここ日光の東照宮は、全国の東照宮の総本社的存在である。他社との区別のために「日光東照宮」と俗に呼ばれてはいるが、正式名称は当然「東照宮」である。
 日光の人気観光スポット「日光東照宮」は1617年に、徳川家康を祀る神社として、2代将軍徳川秀忠により建てられた。その後、1634年~1636年にかけて、3代将軍徳川家光による「寛永の大造替」で建て替えられたものである
 現在そのほとんどの建築物などが、 国宝や重要文化財に指定され、1999年には、世界遺産にも登録されている。
「豪華絢爛」という言葉はこの社に対して使うのに相応しい。日本の伝統的な技術や芸術性の高さを示した建築目当てに、国内はもとより、海外からの観光客でも連日賑わっている
        
     早速日光東照宮に参拝。長く玉砂利が敷かれた参道先にある鳥居を目指す。
 当日は平日で雨交じりの天候であったが、多くの国内外の観光客・参拝客で賑わいを見せている。
        
              参道の先にある高さ9m程ある石鳥居
 この石鳥居は江戸時代に造営された鳥居では日本最大規模の鳥居であり、元和4年(1618年)に福岡藩の初代藩主・黒田長政によって寄進されたもので、福岡藩領内(現在の福岡県糸島市にある可也山)から海路・水路・陸路を使い15個の石を運び、積み上げて造られたという。
            
              石鳥居を過ぎ、すぐ左側に見える五重塔 
        
                                        表 門
 五重塔を抜けると、正面に表門がある。表門から先は有料となるので、事前に拝観料を購入し、それから改めて参拝を行う。
        
 表門を抜け、正面には「下神庫・中神庫・上神庫」が並ぶ。参道自体は左に曲がるが、その左手には神厩舎(しんきゅうしゃ)があり、そこには有名な「三猿」の彫刻が見られる。因みに神厩舎とは、神馬(しんめ)をつなぐ厩(うまや)で、古来、猿は馬の病を治したり、馬の世話をするなどされているという。猿の彫刻が描かれているのも、その由来から来ているのであろう。神厩舎には猿の彫刻8面が描かれているが、これは人間の一生が風刺されているとの事だ。
 神厩舎の建物は、絢爛豪華な日光東照宮の社殿では唯一の素木造。
 有名な場所だけに、多くの観光客・参拝客がいて、撮影をしていたので、待ち時間がかなりあった。
        
 神厩舎に描かれている「三猿」撮影終了し、青銅製の鳥居の先に見える陽明門へ進む。雨交じりの天候に加えて、周囲には霧が立ち込めているその雰囲気が、逆に神聖さや荘厳さを高めているようにも見える。
        
          陽明門に通じる石段を登り終え、一旦振り返り撮影。
   「三猿」の彫刻が描かれている神厩舎に多くの観光客が集まっているのが分かる。
        
            日光東照宮のシンボル的な存在である陽明門
 この陽明門は、日光東照宮のほぼ中央に位置し、建物全体がおびただしい数の極彩色彫刻で覆われ、一日中見ていても飽きないということから「日暮御門」と称されている。国宝。門の名は平安京大内裏外郭十二門のうちの陽明門に由来する。陽明門は、表門から参道を進み、石段を2つ上った先に南面して建っている。 
 日光東照宮の建物を代表する陽明門は高さ11.1m2層造り、正面の長さが7m、奥行きが4.4mである。その名称は、宮中(現・京都御所)十二門のうちの東の正門が陽明門で、その名を頂いたと伝えられている。江戸時代初期の彫刻・錺金具・彩色といった工芸・装飾技術のすべてが陽明門に集約されている。陽明門に描かれている故事逸話や子供の遊び、聖人賢人など500を超える彫刻は見事で、それら彫刻には一つ一つ意味があり、これを探ることで家康公の平和への願いや教訓を知ることができる。
 2017年に平成の大修理が行われたことで、黄金の輝きを取り戻したこの陽明門は、この門と本殿を直線でつないだ先に北極星が見えることから、別名を「北辰門」とも呼ぶ。
 
 陽明門の東西に伸びる、神域を守る全長220mの回廊(写真左・右)。陽明門の東側の東回廊、西側の西回廊が対称的に備わり、やはり見事な彫刻が施されている。陽明門の豪華絢爛さばかり目立つが、この東西回廊も国宝に指定されている。
 回廊南面には日本最大級の花鳥の大彫刻25枚が飾られ、すべて一枚板の透かし彫りであり、一度間違えたら彫り直しがきかない究極の職人技を眺めることができる。
        
                 陽明門の先にあり、拝殿の前に立つ国宝の「唐門」
 極彩色が多い東照宮の建造物の中で、ひときわ存在感を放つ白い門は、日本画にも用いる白い顔料の胡粉(ごふん)で塗られていて、繊細でかつ荘厳な彫刻は陽明門にも匹敵。唐破風の屋根が特徴で、柱や扉は東南アジアから輸入した紫檀や黒檀などを使用した寄木細工(よせぎざいく)。唐門の両脇には唐木の寄木細工で昇り龍と降り龍が描かれていて、門上には古代中国の聖賢の故事を題材に、1本の木からくり彫りした精巧な彫刻が飾られている。
 ここより先に行ける人は将軍に拝謁できる身分とされ、幕臣や大名に限られていたという。
 
 唐門の東側には奥社拝殿に通じる道があり、坂下門(写真右)手前にある本殿の東廻廊に彫られた、名工・左甚五郎作と伝わる有名な彫刻「眠り猫」(同左)がお出迎えしてくれる。
 眠り猫のある廻廊の下を潜ると、家康の御墓所のある奥宮に導く奥社参道へと続く。参道にのびる207段の石段は各段で一枚石が用いられており、この階段自体も東照宮の名所のひとつである。眠り猫から奥宮まで上るには10分程度かかり、途中踊り場で休みながら進む。
        
                             石段上に鎮座する奥社拝殿
 家康が日光に祀られることになったのは、家康本人の遺言である。「遺体は久能山に納め、(中略)一周忌が過ぎたならば、日光山に小さな堂を建てて勧請し、神として祀ること。そして、八州の鎮守となろう」と残されている。家康が目指した「八州の鎮守」とは、日本全土の平和の守り神でもある。家康は、不動の北辰(北極星)の位置から徳川幕府の安泰と日本の恒久平和を守ろうとしたと伝えられている。
 日光東照宮は江戸城(現在の皇居)の真北にあり、北の守りを固める重要な位置にある。本殿前に造られた陽明門は真南を向いていて、真北を向いている江戸城と向かい合わせになっている位置にあり、表参道を延長していくと上野の寛永寺・旧本堂(根本中堂)につながるという。

 日光東照宮には主祭神として徳川家康、そして配神として源頼朝・豊臣秀吉が祀られている。調べてみると、豊臣秀吉と源頼朝が祀られるようになったのは明治以降のことである。それまでは、山王神、摩多羅神(またらじん)が祀られていた。明治時代に神道と仏教、神と仏、神社と寺院とをはっきり区別させる「神仏分離」が行われたが、摩多羅神というのは仏教の神なので問題となる。
 そのため、山王神を豊臣秀吉に、摩多羅神を源頼朝に変更して神道に統一したという。
        
                                 奥社 宝塔(御墓所)
 重要文化財 奥社 宝塔(御墓所)
 御祭神徳川家康公の墓所。昭和40年、東照宮350年祭を機に公開された。8角5段の石の基盤の上に更に3段を青銅で鋳造し、その上に宝塔を乗せている。当初は木造、その後石段に改められたが、天和3年(1683)の地震で破損したため、鋳工椎名伊豫(しいないよ)が製作した唐銅製(金・銀・銅の合金)に造り替えられた。塔の前には鶴の燭台、唐獅子の香炉、花瓶からなる三具足が据えられている。
                                      案内板より引用




参考資料「日光東照宮HP」「日光市公式観光WEB」「Wikipedia」「境内案内板」等

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新年明けましておめでとうございます。

 新年明けましておめでとうございます。
 謹んで新春の祝詞を申し上げます。
 旧年中は大変お世話になり、誠にありがとうございました。
 本年も皆様のご多幸を心よりお祈り申し上げます。

 新年初日の出を妻と一緒に拝ませて頂きました。
 場所は嵐山町・古里兵執(へとり)神社の境内です。当日氏子様、総代様から格別のご配慮を頂き、730分から元旦の祭礼の準備で慌ただしい中、車両も社務所前に駐車させてもらいまして、多くの方々と一緒に初日の出を拝みまして、新年の幸せと健康を祈願いたしました。
        
            
嵐山町・古里兵執神社の境内からの初日の出

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本年は大変お世話になりました。

 本年は大変お世話になりました。
 本年も一年、ご愛顧を賜りまして誠に有り難く厚くお礼申し上げます。

 私自身、公私共に何かと慌ただしい一年でありましたが、無事に新年を迎えることができ、心より感謝しますと共に、来年もより一層のご支援を賜りますよう努力してまいりますのでよろしくお願い申し上げます。
        
          年末に参拝させて頂いたとある社の静かな風景です。

 皆様にとって来る新年が素晴らしい年になりますよう、お祈り申し上げます。
 どうぞ良いお年をお迎え下さい。


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森友瀧尾神社


        
              
・所在地 栃木県日光市森友995
              
・ご祭神 (主)田心姫命
                   (配)大己貴命 味耜高彦根命 軻遇突知命
              
・社 格 旧村社
              
・例祭等 節分祭 23日 祈年祭 217日 夏越の大祓 7月海の日
                   新嘗祭 1123日 例大祭 12月25日 他
 森友瀧尾神社は日光市南東側に位置する今市エリア内に鎮座する社である。JR日光駅から国道119号を南東方向に13㎞程進み、「森友」交差点を左折すると進行方向右側に「縁結び・子宝・安産の大しめ縄 ひめがみさま 森友瀧尾神社」と書かれた縦長の看板が見えてくる。地図を確認すると、国道119号線とそれに並行して北側を通る水無バイパスとの間に鎮座している。
 専用駐車場も看板付近にあり、そこに停めてから参拝を行う。
       
          道路沿いに看板(写真左)、社号標柱(同右)が立つ。
『日本歴史地名大系』 「森友村」の解説
 南を赤堀川が南東へ流れ、北は荊沢(おとろざわ)村、西は今市宿。河内郡に属する。中央を東西に通る日光街道の大沢・今市両宿から各一里の立場(宿村大概帳)。一里塚があり、中央の街道両側に集落がある。日光山往古社領六十六郷に「守友郷」がある(日光山常行三昧堂新造大過去帳)。
「梅津政景日記」元和八年(一六二二)四月二六日条に「もりとも」とみえ、日光へ向かう佐竹義宣一行は同夜当村に宿泊したという。
        
 比較的小さめな鳥居が出迎えてくれる。それにしても鳥居の両サイドにある一対の狛犬の衣装が、その図体に対してアンバランスのように見えて、それが不思議と可愛いらしく感じてしまう。
        
                    拝 殿
 拝殿前には「お百度参り」の為の「お百度石」がある。当神社は、主に安産祈願、子授け祈願などのお参りが多く参拝者に親しまれているとの事。
 当日雨も上がり、晴れ間が見えているが、路面は濡れていた。境内には砂利が敷かれているようだが、拝殿前は窪んでいるため水溜りが残っている。多くの参拝者がここを訪れていた証拠であろう。それにしても水溜まりから映し出される社殿が美しい。
 
 拝殿に掲げられている注連縄は、出雲大社の大注連繩作りをされている方の指導を受け、現在は当地の保存会にて奉製されているという。大きくて立派なしめ縄は見ていて圧巻(写真左・右)である。

 因みに出雲大社の注連縄は左右が逆に張られている。本来神社神道では、神様に向かって右方を上位、左方を下位とするため、一般的に神社では上位の右方が綯い始めで、左方を綯い終りとする張り方となっている。
 出雲大社の本殿内には、客座五神として「天之御中主神・高御産巣立日神・神産巣立日神・宇麻志阿斯訶備比古遅神・天之常立神」の五柱の神が祀られているが、尊貴第一の神たる「天之御中主神」が上位となる一番左に祀られている。また、江戸時代の祭事の記録では、神様へお供え物を進める際、上位のお供え物を向かって左へ、下位のお供え物を向かって右へ進める作法となっている。 このように、古く出雲大社では一般的な神社とは反対に、向かって左方を上位、右方を下位とする習わしがあり、よって注連縄を張る際には上位である左方が綯い始めで、右方を綯い終りとする張り方となっているという。(出雲大社HP参照)
        
           拝殿前にある「縁結び子宝の大注連繩」の案内板
「縁結び子宝の大注連繩」
ここに御奉納されました大注連繩は、
毎年十二月十五日の例大祭前に奉製ご奉納されます。
日光藁文化保存会会員が奉製ご奉納いたしました。
この大注連繩作りをご指導下さいましたのは、
出雲大社の大注連繩作りをされている菅恒義先生です。
先生には平成十四年、十五年とご指導を賜りました。
現在は、日光藁文化保存会独自で奉製しております。
当社は、この出雲の大注連繩作りの為に、
毎年五月末 土曜日に「おお杉青刈り祭」を行い、
青刈りし乾燥、高品質の青藁を厳選し、
確保 大注連繩を奉製します。
重さ   約三〇〇キログラム
最大周囲 一メートル七〇センチ
長さ   四メートル
二本の繩は男性・女性を意味し、ふさは
しめの子といい、三人の子供をあらわしています。
縁結び子宝の大注連繩です。
                                      案内板より引用

        
                     本 殿
 神護景雲称徳天皇の御代(1251年以上前)森友瀧尾神社の主祭神である田心姫命が旅の途中、森友森脇の腰掛の地に休憩され、建長四年(1252)後深草天皇の御代に腰掛の地に祠が建立され、田心姫命が祀られたことが森友瀧尾神社の創始という。その後大正五年(1916)現在地に遷宮した。

 森友瀧尾神社のご祭神である田心姫命(たごりひめのみこと)は、日本神話に登場する女神で、福岡県宗像市に鎮座する宗像大社を総本宮として、日本全国各地に祀られている三柱の女神の総称である『宗像三女神』の一柱で、宗像大社では「田心姫神」として、沖ノ島にある沖津宮に祀られている。
 この女神は天照大御神と須佐之男命の誓約により誕生した三女神の一柱で、『古事記』では多紀理毘売命、『日本書紀』では田心姫(たごりひめ)・田霧姫(たきりひめ)と表記される。『古事記』では別名を奥津島比売命(おきつしまひめのみこと)とされているが、『日本書紀』第三の一書では市杵嶋姫(市寸島比売・いちきしまひめ)の別名としている。『古事記』の大国主神の系譜では、大国主神との間に阿遅鉏高日子根神(あぢすきたかひこね・味耜高彦根神)と下照比売(したてるひめ)を生んだと記されている。
「宗像三女神」の一柱でありながら、三女神の一柱として祀らず、田心姫命にみを独立して祀っているのが森友瀧尾神社である。
        
                         社殿の右側奥にある「腰掛石」
 
 案内板によれば、この腰掛石は、神様がお座りになる尊い石で、紙垂も巻かれているが、この石に触れたり座ったりすることは可能で、それどころか、良い御縁があり、病が癒え子宝に恵まれ、安産で家庭が円満になると、遥々栃木県内外から参拝者が訪れるという。
 腰掛石は屋根付きの建物で綺麗に整備されている(写真左)。また近くには案内板も設置されている(同右)。また建物の欄間には見事に装飾された彫刻もある。

「腰掛石」
 ここに鎮まります腰掛石は、神様がお座りになる尊い石です。
 神護景雲称徳天皇の御代(一二五一年以上前)森友瀧尾神社 主祭神 田心姫命が旅の途中、森友森脇の腰掛の地に休憩されました。
 建長四年(1252)後深草天皇の御代に腰掛の地に祠が建立され、田心姫命が祀られたことが森友瀧尾神社の創始です。
 この石に触れたり座ったりすると、良い御縁があり、病が癒え子宝に恵まれ、安産で家庭が円満になると、遥々栃木県内外から参拝者が訪れます。
 この建物の欄間に装飾されている彫刻は、「双龍栗鼠葡萄極彩色彫刻」です。
 木彫師 中井伸明氏 塗師 佐藤則武氏 彩色師 手塚茂幸氏が制作され奉納されました。
 彫刻には、子宝、安産、病気平癒は勿論、家内安全、子孫繁栄、豊穣金運等の御利益の深い意味合いがあります。
                                      案内板より引用



参考資料「出雲大社HP」「栃木県神社庁HP」「日本歴史地名大系」「Wikipedia」
    「境内案内板」等
 

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和泉磐裂神社


        
               
・所在地 栃木県日光市和泉914
               
・ご祭神 (主)磐裂神・根裂神 配神 王位神
               
・社 格 旧村社
               
・例祭等 例祭 113
 七里生岡神社から一旦国道119号線に合流後、今市方面に進路をとる。といっても七里生岡神社から国道まで分かりやすい道はないので、来た道を引き返すように戻るルートを選択、結果的にはかなりの遠回りとなるが、あまり地理に詳しくないので、そこは慎重に対応。その後、国道を3㎞程進み、「杉並木公園」の西端近くで、国道と旧日光街道と合流する信号のある交差点の一つ手前の路地を右折する。丁度コンビニエンスとガソリンスタンドとの間の道であるので分かりやすい。
 右折した道路は丁度南方向に進行する。途中「天台宗・月蔵寺」を右手に見ながら更に南下、まもなくJR日光線の線路を越えるが、そのまま直進を続ける。300m程進むと十字路に到達、そこを右折して、そこからまた300m程進んだところにある丁字路を左折する。そして暫く道幅が狭く、道路の両側には杉林が生い茂げ、寂しさも漂う上り傾斜面の道路を道なりに進むと、その道は行き止まりとなるが、その手前右側に和泉磐裂神社の鳥居と社号標柱が見えてくる。
 駐車スペースは鳥居がある場所から先の行き止まり地点手前に確保されている。そこの一角に車を停めてから参拝を開始した。
*追伸として、
道路を進む中では全く気づかなかったが、和泉磐裂神社に向かう途中に「磐裂の霊水」があったとの事。迂闊にも通り越してしまったことは、残念極まりない。やはり余裕のあるプランを事前に立てなければいけないと深く反省した。
        
               斜面上に鎮座する和泉磐裂神社
 日光は歴史も古く、日光権現を祀る山々が知られるようになった宗教地域である。その後。江戸時代に徳川家康および徳川家光などの江戸幕府の初期の将軍によって徳川家の廟地となった。明治以降は観光地・景勝地として日本における代表的な地域の一つとなり、日光東照宮や中禅寺湖・華厳の滝、日光連山、日光湯元温泉など、国際観光都市として多くの観光客で賑わいを見せている。
 ただ個人的な好みである点を最初にお断りするが、筆者は観光地の神社も勿論好きではあるが、現在は閑散としていて、目立たない場所であっても、昔からその地域を見守って下さっている社や祠を参拝したり、その地域の歴史を考察することが何より好きであるその地域に住む人たちの何気ない生活の時を、社は静かに、そして長い間絶えず見守ってきてくれている。生活の一部に社はしっかりと根付いていて、密着度が違うのだ。
 この地に降り立ち、社の鳥居を見た瞬間に、そのような思いが脳裏をよぎった。
 
 鳥居前で一礼し、参拝を開始する。鳥居にもたげるようにかかるモミジの紅葉が美しい。参拝当初は石段を登り(写真左)、その後緩やかな上り斜面先の二の鳥居まで真っ直ぐな参道が伸びている(同右)。参拝時、雨は止んでいたが、路面は濡れていたので、足元には注意しながら社殿方向に進む。適度に長い石段・参道。そして参道両側に聳える杉林の先に見える小さな鳥居とのコントラストが不思議と美しい。
        
                 参道途中にある庚申塔
『日本歴史地名大系』 「和泉村」の解説
南東へ流れる大谷(だいや)川南岸段丘上にあり、田川が南東へ流れる。西は野口村、南は山久保村、東は平ヶ崎村(現今市市)。泉村とも記される。村名は丘陵裾に湧泉があるからとも、和泉国から移した薬師如来を上泉(じようせん)寺(廃絶)に祀ったことにちなむともされる(「薬師如来略縁起」如来寺文書)。
慶安郷帳に泉村とみえ、畑高一四八石、日光領。同領となった時期は不明。元禄一四年(一七〇一)の日光領目録では和泉村とあり、高二九二石余。天保八年(一八三七)の神領組売木仲間規定帳(星芳夫文書)では当村から一人が加わっている。また朝鮮種人参が栽培されていた(日光道中略記)。
        
                 二の鳥居から境内を望む。
                鬱蒼とした森に囲まれ、昼間の参拝にも関わらず薄暗い境内
        
                   境内の一風景
 天長三年(826)九月創建。嘉祥元年(848)頃の慈覚大師円仁作と伝わる虚空蔵尊が月蔵寺に祀られた。宝暦三年(1753)五月に日光山星宮の御分霊を勧請して村の鎮守とした。
 江戸期には虚空蔵尊,妙見天童と称し,維新に際し磐裂神社と改称し現在地に遷宮した。
     
                        拝殿手前に聳え立つ巨木(写真左・右)
              
                                 「震災復興記念碑」
「震災復興記念」
 昭和二十四年十二月二十六日午前八時十七分、突如として激震に襲われ山は崩れ大地は裂け、社殿や家屋は傾きあるいは倒れ、甚大な被害を受ける氏子は一体となり三神社の復興に努め社資と氏子の奉仕により磐裂神社雷神宮を復興し、磐裂神社に拝殿を新築して王位神社を合祀し復興奉告祭を昭和二十六年四月三日執行し、この未曾有の災禍を銘記し碑を建て永久に記念す。
 昭和二十八年四月三日 氏子中
                                      案内板より引用

        
                     拝 殿
        
                     本 殿
 和泉磐裂神社の御祭神である磐裂神(イワサク・イハサク)・根裂神(ネサク)は、日本神話に登場する神であり、『古事記』では石析神・根析神、『日本書紀』では磐裂神・根裂神と表記されている。
『古事記』の神産みの段で伊邪那岐神が十拳剣で、妻の伊邪那美神の死因となった火之迦具土神(ほのかぐつちのかみ)の首を斬ったとき、剣の先についた血が岩について化生した神で、その次に石筒之男神(磐筒男神)が化生している。
『日本書紀』同段の第六の一書も同様で、第七の一書では磐裂神・根裂神の子として磐筒男神・磐筒女神が生まれたとし、この両神の子が経津主神であるとしている。
「石折神(古事記)」は、「磐裂神(いわさく・日本書紀)」とも表記され、岩を裂く神であり、また、岩を裂くほどの切れ味をもった剣の威力そのものを神格化した存在であるといわれている。また「根折神」も上記と同様で、堅い木の根すらも切り裂くほどの威力という意味となる。磐石(いわむら)の神である「石筒之男神」と共に生まれたことから、この二柱の神も素直に磐石の神であったと解釈することもできよう。
        
                               拝殿からの眺め
 この磐裂・根裂を祭神とする神社はさほど多くないものの、栃木県に集中しており、県内に磐裂根裂神社や磐裂神社、根裂神社が何社もある。
 これは奈良時代の735年に下野国芳賀郡で生まれたとされる勝道上人(しょうどうしょうにん)が日光山登頂を三度目にして成功させたときに盤裂神の助けによるとしたことから盤裂神に対する信仰が始まったようだ。
 神仏習合時代は盤裂神の本地仏は「虚空蔵菩薩」とされ、栃木県日光市の磐裂神社は、かつて「星の宮」と称して虚空蔵菩薩を祀っていたとされている。「虚空」は広大無辺の宇宙を表しており、そこには無限の知恵があるとされ、そこから「星神」と結びついていったと考えられている。勝道上人が日光山で虚空蔵菩薩を感得したことで日光修験の本地仏が虚空蔵菩薩とされ、結果として栃木県に磐裂根裂神社が多くなったのだろう。
        
       
和泉磐裂神社の鳥居から北側道路沿いに並んで置かれている石仏像群


 ところで、この「星神」「星の宮」「星神社」は大きく分けると妙見菩薩信仰系と虚空蔵菩薩信仰系、それと天香香背男(アメノカカセオ)または天津甕星(アマツミカボシ)を祀る神社の3系統になる。
 この天香香背男、ないし天津甕星に関して、筆者は非常に高い関心を持っている。以前から疑問に思っていたことがあるのだが、日本神話には「星神」の話が極端に少ないのはどうしてなんだろう、ということだ。神話ではアマテラスを太陽神、月読尊(ツクヨミ)を月の神とする以外では、この天香香背男が唯一の「星の神」であり、その他星に関する話がほとんど書かれていない。
 嘗て日本人は古代ギリシャやローマ、メソポタミアは勿論、隣国の古代中国にも星座に関する知識や思想はあり、当然その考え方は日本にも入ったはずである。
 日本人が星について無関心だったわけではなく、四方海に囲まれている海洋国家でもあり、古墳時代には高松塚古墳やキトラ古墳の天井画には多くの星座が描かれているし、旧石器時代以降、多くの人たちが大陸や半島から海を渡ってやっていて、彼らは星の知識が当然あったはずだ。そうでなければ長い航海はできない。

 色々と考えることが多いが、本件には直接関係ないので、いずれ項目を設けてじっくりと考察したい…そんな神である。



参考資料「栃木県㏋」「日本歴史地名大系」「Wikipedia」「境内震災復興記念碑文」

      
           
                 

  

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