古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

七里生岡神社

 日光山輪王寺の強飯式(ごうはんしき)は、日光修験の名残をとどめるもので、日光三社権現とその応化(おうげ)たる大黒天・弁財天・毘沙門天から御供(ごくう)を戴く儀式である。42日、三仏堂では紋服裃姿の強飯頂戴人(ごうはんちょうだいにん)が大盃の酒や三升の飯を高々と盛り上げた椀を山伏に強いられる。その姿は、とてもユーモラスとの事だ。
 ほかに、平成812月に国指定重要無形民俗文化財に指定された「鹿沼市上粕尾の発光路(ほっこうじ)強飯式」(13)、昭和382月に市指定重要無形民俗文化財に指定された「日光市生岡神社の子供強飯式」(1125)が知られている。
        
              ・所在地 栃木県日光市七里1862
              ・ご祭神 (主)大己貴命 (配)田心姫命 味耜高彦根命
              ・社 格 旧村社
              ・例祭等 例祭・子供強飯式 1125
 清瀧神社から国道122号に戻り、東行して日光市街地方向に進む。さすが観光名所である日光。東照宮付近には多くの観光客で賑わいも見せている。特に海外から来た観光客の人々の多さ。あらゆる国籍の方々が国道沿いの歩道を歩いている光景を見ると、ここ3年間コロナ騒動で自粛傾向にあった海外旅行も本年度から解禁となったことで、多くの方々が旅行を楽しむことができるようになり、この日光にも活気が出てきて来たのだろうと、肌で感じた次第だ。
 国道122号線を進むこと4㎞程、「神橋」交差点を右折し、東武日光線・JR日光線の各日光駅を左手に見ながら暫く直進、人通りの賑やかな街中を過ぎると、正面には巨大な杉が両側に列を成して並ぶ風景が飛び込んでくる。さすがに国道は綺麗に舗装され、所々に民家が立ち並んで杉並木がない所もあるが、それでもこの杉並木は歴史を感じるビジュアルであろう。特に「神橋」交差点から3㎞先にある「七里」交差点から先は多くの杉並木が国道沿いに見られるようになる。
 その後「七里」交差点から1㎞強先に路地があり、そこを右折し、この細い道路を道なりに進む。 当日は雨交じりの天候、賑やかな日光市街地とはがらりと変わって農道のような道路を進む心細さを感じつつも、ここは我慢して進行、日光宇都宮道路の上を進む先には開けた場所があり、そこには民家が立ち並ぶ場所の一角に七里生岡(いきおか)神社は鎮座している。
        
                  
七里生岡神社正面
『日本歴史地名大系』には 旧「七里村」の解説を載せている。
 南東へ流れる大谷(だいや)川右岸にあり、今市扇状地の扇頂部にあたる。村域の大部分を山地が占め、北部を志度淵(しどぶち)川が流れて大谷川に注ぐ。同川段丘上を日光街道が東西に通り、集落は街道沿いに続く。西は日光東町、東は野口村。村名は、村内生岡から日光山神橋(しんきよう)までが六町を一里として数えると七里であることによるとされる(堂社建立記)。南東部の生岡を含む上野(古くは上野口ともいう)は、弘仁一一年(八二〇)空海によって創建されたと伝えられる大日堂を中心に開け、中世には信仰の一拠点であった。慶安郷帳に村名がみえ、日光領、畑高七三石余。元禄一四年(一七〇一)の日光領目録では二〇〇石余。
        
               鳥居の手前に設置されている「
生岡神社強飯式」の案内板
 日光市指定文化財
 生岡神社強飯式
 種別…年中行事
 生岡神社は、弘仁十一年(820)弘法大師が来山し、この地に大日如来を祀った時をもって開基とする。大日堂は明治の神仏分離令により「生岡神社」の名の下に、昔ながらの氏子や信奉者の崇敬を集めている。同社に古来より伝承する神事に「強飯式」「お飯食」「春駒」の三種があり、総称して「上野の強飯式」と呼ばれている。昔は正月八日に行われたが現在は十一月二十五日に執行される。「強飯式」は子供が主役となって演じられる。
 行事の次第は、拝殿の祭典終了後、拝殿正座に太郎坊、側座に次郎坊の両名が白衣装に目籠笊をかぶって膳の前に着座する。
(強飯式)法螺貝の合図で山伏が太郎坊前に進み、目籠笊の上に藁注連をかぶせ、「コリャ、御新役、当山の作法七十五杯、ツカツカおっ取り上げての召そう(以下略)」と口上を述べて立ち去る。つづいて独特な衣装の強力が登場して生大根で床を打ち、「コリャ、中宮祠の木唐皮(中略)生岡神社の生大根」「(前略)一杯二杯に非ず七十五杯、ツカツカおっ取り上げての召そう」と述べて退去終了する。
(お飯食)新役両名の前に里芋を高盛りした高杯が置かれ、別当職が前に跪き、芋をつまんで新役の口元に差しだし、「お飲食に案内もん」と唱えながら三回ほど回して口にねじ込む。これを両名に三回ずつ行って神事が終了する。
(春駒)まず、木彫りの馬頭で馬身が青竹の春駒に脇別当がまたがり、別当は幣束を持って手網を取って、床を右大回りで三回跳ね回る。次ぎに太郎坊、次郎坊が春駒にまたがり、手網は脇別当が取る。最後に神前に拝礼して式が終了する。
昭和三十八年二月十三日指定 日光市教育委員会
                                      案内板より引用 
        
                     拝 殿
 七里地域・北東部の上野(うわの)に鎮座する。祭神は大己貴命・田心姫命・味耜高彦根命。神護景雲元年(七六七)の創建とも伝え(旧県史)、明治初年に廃絶した生岡大日堂の鎮守であった。大日堂のある地は勝道が日光開山前に修行した地と伝え、神出現の地であるので生岡とよばれるようになったとされる(日光道中略記・堂社建立記)。「日光山滝尾建立草創日記」によれば、弘仁一一年(八二〇)二荒山に初めて登拝した空海は、九月一日「野口生岳」にとどまって大日遍照像を刻んだという。
       
         社殿奥に聳え立つご神木である「生岡の杉」(写真左・右)
        
           「栃木県指定天然記念物 生岡の杉」の案内板
 栃木県指定天然記念物  生岡の杉
 所有者 生岡神社
 昭和三十二年十二月十五日指定
 スギ科 目通周囲 約七メートル
 枝張り 東  西 約十二メートル
     南  北 約十四メートル
     推定樹齢 五〇〇年
 地上約3メートルより木末に至る間に落雷による焼胴が見られるが、樹勢は旺盛であり、県内有数の巨木である。
 この神木は非常に旧く、祭神は日光二荒山神社と同じであり、主祭神は大己貴命で、神護景雲元年(七六七)正月八日に創建されたという。
 現在の神殿は天正十八年兵火にあい改築されたものである。
 栃木県教育委員会 生岡神社
                                      案内板より引用
       
 ご神木の「
生岡の杉」の奥手には、日光市指定天然記念物である「生岡神社のエゾエノキ」もある(写真左・右)。1994811日指定。案内板に「幹・根元に見られる板状あるいは盾状の襞(ひだ)は他に例を見ない特異なもの」と記されているように、凹凸の幹が独特の陰影をこの木に与えているようだ。
        
               社殿奥に祀られている石仏像等
        
                境内に祀られている石像物群

 
生岡神社はもともと生岡大日堂という寺で、江戸時代までは日光山輪王寺の僧侶が強飯式を行っていた由緒あるお寺だったが、明治期の神仏分離令により、生岡大日堂は廃され、生岡神社のみ残った。いわば神仏習合の名残りが、この石像物等、この社の雰囲気全体に残されているようにも感じた。


参考資料「日本歴史地名大系」栃木県公式HP」「
Wikipedia」「境内案内板」等
      

  


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清瀧神社

 湯立(ゆだて/ゆたて/ゆだち)とは、神前に大きな釜を据えて湯を沸かし、神がかりの状態にある巫女が持っている笹・幣串をこれに浸した後に自身や周囲に振りかける儀式で、古くは神意をうかがう方式であったと思われるが、後世には湯を浄め祓う力のあるものとみなし、舞と結合して芸能化した。
 その釜で湯を煮えたぎらせ、その湯を用いて神事を執り行い、無病息災や五穀豊穣などを願ったり、その年の吉兆を占う神事の総称を湯立神事(ゆだてしんじ)という。ゆだち,湯立神楽(ゆだてかぐら/ゆたてかぐら)ともいう。古くは神憑り,託宣する神事であったが,現在では湯による祓禊の意味が濃くなっている。
 日光市・清瀧神社には古くから湯立神事が行われている。弘法大師が同神社を創建した820(弘仁11)年から続く伝統行事で、当初は修験者の荒行の一つとされていた。大釜で塩湯を沸かし、それに笹の葉を浸して塩湯の滴り落ちる熱湯を神職が頭上より受けるもので、この笹の葉は、家内安全と無病息災のご利益があるとされている。
        
             
・所在地 栃木県日光市清瀧 1-626-26
             ・ご祭神 (主)大海津見神
                  (配)高龗神 大己貴命 田心姫命 味耜高彦根命
             ・社 格 旧村社
             ・例祭等 節分祭追儺式 23日 例祭(湯立神事)515
                  秋祭り 1015日 他
 大間々町塩原貴船神社から国道122号経由にて日光方向に48㎞程進む。途中草木ダムや足尾地域の風景を愛でながら、休憩を挟んだり、のんびりとしたドライブを楽しむ。中でも草木ダム手前の桐生市黒保根町付近では、「メロディーライン」という道路に溝を作り、その上を一定の速度(制限速度)で走ると、走行音がメロディーを奏でるようにした道路があり、大体50㎞で走行すると童謡「うさぎとかめ」が聞こえてくる。このメロディーライン設置の目的は、
 ①制限速度で走らないと聞こえないから、スピード抑制効果あり。
 ②居眠り防止。
 ③土地にちなんだメロディーで、観光地をイメージアップ。
 童謡「うさぎとかめ」の曲の作詞者は、みどり市出身の石原和三郎(1865-1922)氏との事。童謡作詞家としての石原氏の業績に対し、童謡ふるさと館が開館。資料は旧花輪小学校記念館にも展示してあるというが、今回は残念ながらそこには寄らなかった。
 その後華厳滝から東方向に日光・今市の両市を流れて鬼怒川に合流する大谷川を越えたすぐ先にある「細尾大谷橋」交差点を直進し、国道122号線から離れ、北東方向に進路を取り2㎞程進むと、左手に清瀧神社が見えてくる。因みにこの「大谷川」は「だいやがわ」と読む。後日地図を確認すると、日光道・清滝ICのすぐ西に鎮座し、日光東照宮といろは坂登り口の中間に位置しているようだ。
        
           広々とした空間の中に静かに佇むというイメージ
 
  やはり世界的にも有名な観光地「日光」           入り口近くにある社号標柱
 英語表示もされ、案内板にも投資の仕方が違う。
        
             参道入り口付近に設置されている案内板
 清瀧神社
 御祭神 (主)大海津見神
     (配)高龗神 八坂神 八荒山三神 稲荷神
 祭 日  例祭 五月十五日 秋祭 十月十五日

 御神徳  延命長寿、病気平穏、厄除開運、家内安全
 特殊神事 古式 湯立神事 五月十五日
 由緒沿革
 古伝に依れば弘仁十一年(820)弘法大師空海が来晃し滝尾・寂光・生岡等と共に当社を創建した。社名は、社殿背後のお滝を含めた地形が中国大鷲山の清滝に似ているところから命名されたという。
 往時は、二荒山登拝の要路として、又、密宗修験の霊場として大いに栄えた。お滝の御神水は、古来生命保全の霊水として広く信仰されており、又社前の池は、応永十二年(1406)鎌倉官領の追討を受けた常陸国小栗城主小栗判官満重を恋慕する美女照手姫が判官の無事息災祈願の際に洗面したところから、“照手姫の化粧池”と伝えている。
                                      案内板より引用
 案内板に記載されている「小栗 満重(おぐりみつしげ)」は、室町時代前期から中期にかけての武将で、常陸国真壁郡小栗を領した常陸小栗氏の当主。通称は孫次郎。官途名は常陸介という。
 小栗氏の所領は関東にありながら室町幕府の御料所となっていた中郡荘と近接しており、早くから幕府中央と関係を結んでいた。この満重は応永23年(1416年)の上杉禅秀の乱で禅秀に味方したため、戦後に鎌倉公方の足利持氏から所領の一部を没収されていた。これを恨んだ満重は、応永25年(1418年)・応永28年(1421年)に鎌倉府に反抗的な動きを見せている。応永29年(1422年)に宇都宮持綱・桃井宣義・真壁秀幹らと共謀して反乱を起こし、一時は下総結城城を奪うなどした。しかし反乱の長期化・強大化を懸念した持氏が応永30年(1423年)に大軍を率いて自ら出陣すると、反乱軍はたちまち崩壊して満重も居城の小栗城で自刃して果てたという。

 但し小栗満重は歴史上の人物より、伝説上の人物(小栗判官伝説)として有名で、特に江戸時代には人形浄瑠璃や芝居などで一躍有名になった。
 小栗落城後、満重は実は死なず、脱出して落ち延びたという。そのとき、相模の旧知である横山大膳という人物を頼った。このとき、横山の娘・照手姫と恋仲になった。ところが横山は小栗の首を差し出して褒美を得ることを目論んでいた。そのため、宴会を開いて酒を勧めたのだが、これが毒酒だった。小栗とその部下は何の疑いも無く飲んでしまい、そして命を落とし、持っていた金品も略奪された。
 ところが満重だけは虫の息ながら生きており、部下と共に遺棄された場所で僧侶に助けられて手厚い看病を受けた。特に熊野権現の霊験と温泉の効果があったという。恋仲になっていた照手姫は父の所業に悲嘆して家を出たが、追っ手に捕らえられて身ぐるみ剥がされた上で追放された。そして下女として働くことになる。
 本復を果たした満重は常陸に戻って再起を果たし、裏切った横山を討ち、下女になっていた照手姫を見つけ出して約束どおり夫婦になった。そして幸せに暮らしたという。

 史実と案内板の年代がかなりの隔たりがあるが、それは「小栗判官伝説」の説話の一つである『説経節』がその元ネタではないかと考える。
 当時僧侶や巫女たちは、一般庶民への布教のため、特に室町時代以降には譬え話や因縁話が取り入れられ、芸能化しつつ発展し『説経節』となったという。これは説経浄瑠璃とも呼ばれ、近世には語り物芸能として独立し発展した。
 この説教節『小栗の判官』には「日光山の申し子で美貌の娘である照手姫」という一文があり、そこを参照して案内板に加筆したのではないか、と思われる。
 但しこれはあくまで筆者の勝手な推測ではある
        
             長い参道の先には2基の石製の鳥居が立つ。
        参拝時は雨交じりの天候であったので、境内は全体的に薄暗い。
 また筆者の技量不足から、今回カメラの手振れ、また編集の失敗等で、ピンボケが多かった。

   一の鳥居のすぐ右側にも案内板がある。    一の鳥居と二の鳥居の間には手水舎あり。
  日本語表示の他に、英語表示もされている。
        
                     拝 殿
   
     拝殿の左側には池がある。         拝殿手前に設置されている案内板
 案内板に記載されている「照手姫の化粧池」か。

 日光市指定文化財 清瀧神社のサワラ
 種別 天然記念物
 員数 一本
 樹高 三十五.五メートル
 目通周囲 五八八センチメートル
 枝張り 東(六・五)西(六・五)南(六)北(五・六)*単位はメートル
 推定樹齢 約五〇〇年
 清瀧神社のご神木として清滝地区の人々に昔から崇められている大木である。日本のサワラの分布は福島県より岐阜・福井県の本州中部各地に自生し、さらに熊本・長崎などにも僅かな自生が知られている。サワラはヒノキに似ているが、鱗状の葉先が尖るなどの特長で見分けられる。川沿いの湿潤な土地を好む性質があり、清滝下のこの場所はふさわしい生育環境となっている。
この木は、環境省が集計した北関東の巨樹巨木調査記載の上位3本を上回る大きさであり、本県では最大のサワラと見られる。
 サワラの名は、ヒノキより材が「さわらか(軽くてやわらかい)」なことから起きたとする説がある。材は水湿に強いことから、風呂や桶などの利用に優れている。サワラはヒノキより園芸品種が多く、葉が黄色で、全国の生け垣に盛んに使われている。ニッコウヒバ(オウジンシノブヒバ)も、サワラを原種として育てられた品種である。
 平成十五年七月二十三日指定  日光市教育委員会
                                      案内板より引用

        
     社殿の後方は崖となっていて、その崖面には一筋(すじ)の滝が流れていた。
      神社の後ろに滝があるとは驚きであり、これこそご神体といえるものだ。


参考資料「栃木県神社庁HP」ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典」「精選版 日本国語大辞典」
    「ぐんラボ」「ぐんまメロディーラインHP」「Wikipedia」「境内案内板」等

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大間々町塩原貴船神社

 みどり市(みどりし)は、群馬県東部(東毛地域)に位置する市で、2006年(平成18年)327日に、新田郡笠懸町、山田郡大間々町、勢多郡東村の21村が合併し発足し、平成の大合併において群馬県で新たに誕生した唯一の市である。また群馬県初のひらがな名の市でもある。
 地形は南北に長く、北部には足尾山地が連なり、その山塊に源をもつ渡良瀬川が市の北東から南東にかけて流れている。東町地区の主な地域はこの渡良瀬川に沿うように形成されていて、上流部には草木ダムが豊富な水をたたえ、首都圏に水を供給する役割を担っている。中部から南部にかけての地域は、渡良瀬川の清流がつくりだした「大間々扇状地」により形成されている。
 この大間々扇状地は、足尾山地に源を有する渡良瀬川が赤城山の南東部の麓で関東平野に達し、桐生市から伊勢崎市や太田市に達する地域に土砂を堆積して形成されている。
 扇頂部はみどり市大間々町付近。この旧大間々町(おおまままち)は源を日光の山並みに発する渡良瀬川が、赤城山の東麓をとおり関東平野に出て作った扇状地の要に位置する。
 大間々(おおまま)の「まま」とは、切り立った傾斜地崖「まま」のことで、町の面積の70パーセントが緑におおわれた緑豊かな場所である。嘗ては、足尾銅山から発掘された銅を運ぶ銅山街道(あかがねかいどう)の宿場町として、また絹や農作物の市場として栄えた町であるという。
 旧大間々町北部の塩原地域に鎮座する貴船神社は京都・貴船神社の分霊を祀ったとされ、例年県内一の20万人もの初詣参拝者が訪れるという信仰篤い社でもある。
        
            
・所在地 群馬県みどり市大間々町塩原785
            
・ご祭神 高龗神 大山祇神 大穴牟遅神
            
・社 格 不明
            
・例祭等 節分祭 21日-3日 例大祭 51
                 秋祭 
101日 他
 筆者が在住する埼玉県熊谷市からは、国道17号バイパス「西別府」交差点先の上武道路に合流し、利根川を越え群馬県に入り、伊勢崎方面に向かう。17㎞程進んだ「流通団地前」交差点を右折し、栃木県道・群馬県道39号足利伊勢崎線沿いに東行する。その後「流通団地東」交差点を左折、今度は群馬県道291号境木島大間々線を大間々町方面に北上し、国道122号線と交わる丁字路を左折、渡良瀬川を越えた直後の群馬県道257号線との交点にある丁字路を左折し、3㎞程同県道に沿って進むと大間々町塩原貴船神社正面に到着する。自宅からこの社まで40㎞程、途中でいくつか別件にて寄り道をしたが、1時間30分位で到着することができる。
        
                 大間々町塩原貴船神社正面
 参拝当日は残念ながら雨交じりの天候で、平日の為、他の参拝客は全くなし。雨の影響からか足尾山系には霧も発生していたが、
それが不思議と紅葉時期とのコントラストに絶妙に合い、また社周辺の鬱蒼たる森の目の前に立った時、自分の存在の小ささを実感したと共に、何万年という途方もない月日を通して熟成されて到達した日本人独自の「天地自然の法則」、つまり大自然を畏れ謹み崇めて神としてきた考え方に深く共感する次第だ。
 当たり前のことだが、人間は水がなくては一日たりとも生きられない。本来その水を育むものは豊かな緑、森林であり、日本の神様は「清浄」を最高としている。その清浄をもたらす根源は水である。
 その水の神様として高龗神を祀っている大間々町塩原地域に鎮座する貴船神社にやっと参拝することができた。感激もひとしおだ。
        
              大間々町塩原貴船神社 正面一の鳥居
       鳥居は石段に達するまでに3基見え、自然と厳かな気持ちにさせてくれる。
 当社は大間々町の中心から足尾街道の対岸を渡良瀬川に沿って遡上した地にある古生層の断崖上に鎮座し、赤城山の雄姿を仰ぐこともできるという。
 社伝によれば、天暦10年(956年)に関東地方が干魃に襲われた際、山城国の貴船神社(現在の京都府京都市左京区鎮座の貴船神社)から神霊を勧請して降雨と五穀豊穣を祈願したところ霊験著しく甘雨を得たため、渡良瀬川流域の山地に祀ったのが創まりで、江戸時代の寛文8年(1668年)に現在地に遷座したという。        
        
      参道を進む途中、左側には環境庁・群馬県が設置している社の案内板がある。
    社の創建に関して、国家省庁や、地方自治体のお墨付き頂いた看板にも見える。
          
                  案内板の左側には鳥居があり、その先には手水舎がある。
    この手水舎の奥から、斜面上に祭られている境内社群に向かう道があるようだが、
              正面参道に戻り、参拝を改めて行う。
        
                          石段の様子
 石段の真ん中付近には4基目の鳥居があり、そこを越えるともうすぐ境内が見えてくる。この石段の両脇にも豊かな木々が生い茂げり、森の中で浄化された空気を体いっぱいに吸いこむと、体の隅々まで清められたかのようなすがすがしさに包まれるような気持ちになるから不思議である。
        
                     拝 殿
               
                                         案内板
(但しこちらは入り口付近に設置されている案内板。境内にもあるが、内容はほぼ同じなのでこちらを紹介する)
 貴船神社由緒
 ●創立
 平安時代の天暦十(九五六)年、東国(関東地方)がひどい干ばつに襲われたとき、山城国(京都)の貴船神社の祭神が、古来より祈雨・止雨祈願の神として信仰されてきた高おかみ大神で、その分霊を奉り降雨と五穀豊穣を祈願したところ、それがかなえられたので、関東平野の最北端、渡良瀬川流域の山地に祭られ、現在地に建立されたのは、江戸時代の寛文8(一六六八)年といわれています。
 ●御祭神
 御祭神は高龗大神のほか、大山祇大神、大穴牟遅大神が合わせてまつられています。
 高龗大神(たかおかみのおおかみ)
水の神さまで国土を永遠に湿潤にして草木の生育をたすけ、人々の生活を豊かにする。雨をともなう龍神としての信仰があり、特に雨乞いの神として崇められてきた。
 大山祇大神(おおやまづみのおおかみ)
 山々の精霊を統括支配し、五穀豊穣をもたらす神。
 大穴牟遅大神(おおなむちのおおかみ)

 国土を治め、守護し、人々の病めるのを治し、不幸を救う神。
 外数神

 ●御神徳
 貴船大神は、関東地方を干ばつから守り、古くから水の神さまとして信仰されてきました。人類をはじめ地上に生育する全ての生物は一として水の恩恵を受けないものはありません。ですから貴船大神を崇敬し、その御神徳に浴すことは、衣食住の安全、即ち生活の保証を得ることになり、家内安全、商売繁盛、水の浄化力から厄除の神、また水の力は願い事を成就させるとして心願成就の神、そして交通安全の守護神として篤く崇敬されています。
 ●貴船信仰
 貴船の神は開運の神・心願成就の神として信仰されています。貴船神社の「きふね」は、昔は「気生根」とかかれ、水は気の生ずる根源であり、生命の原動力である気が蘇ると元気が出て運が開け、願い事を成就できるという信仰です。水神の鎮まる貴船神社に参拝すると、気力が生じて願い事を成就できることから縁結び、恋愛成就の神としても知られています。 このように貴船の神は、衣食住の源である水を司る神、その水の源である雨をもたらす神として、また開運・心願成就の神として人々の崇敬をうけてきました。
                                      案内板より引用


      拝殿に掲げてある扁額         境内には小さいながらも手水舎あり。
        
              貴船神社境内から石段を下るその一風景
        
     石段には踊り場が数カ所あり、その右手の先には境内社群が祀られている。
   赤い鳥居の先には境内社があり、その周りにも古そうな石祠が並んで祀られている。             

 案内板の記載によると、昔「貴船」は「気生根(きふね)」と書かれ、水は気の生ずる根源であり、生命の原動力である気が蘇ると元気が出て運が開け、願い事を成就できるという信仰であるという。そのことから、縁結びや開運、心願成就の神様としても広く信仰されている。
人が事成す時は、やはり「気」は必要なのだ。そのことを改めて感じさせてくれたことに対して感謝をしながら、この厳かな雰囲気の社参拝を終えることができた。


参考資料「みどり市HP」「旧大間々町HP」「貴船神社公式HP」「
Wikipedia」
 

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多和目天神社

 徳川家旗本である稲生家は、三河国譜代の旗本であり、「稲生家系譜(稲生家文書)」によれば、藤原鎌足の末流で、その14代後尾張國住人平賀十郎俊親の5代後平賀次郎左衛門光定のとき、尾張國春井郡山田莊稲生村に住し姓を「稲生」と改名し、その5代後稲生七郎右衛門光房のとき、三河国に移り、その子光実は家康の父松平広忠に仕えた。その後正吉・吉重・光正・正信・正倫と代を重ねるが、正倫以降のほとんどの当主は「七郎右衛門」を名乗っている
 光正のとき、武蔵国高麗郡(のち入間郡)多和目・和田善能寺・同国足立郡円笠木・堀崎計五ヶ村五〇〇石を知行し、その後替地や加増が行なわれ、正倫の子である正盛以降は一五〇〇石を知行している
 同時に江戸城勤番として重要な役職にもついて、正盛から6代目の正興は日光奉行・大目付等歴任しているように、地味ながらも旗本として徳川家の土台を支えている一族といえよう。
        
                          ・所在地 埼玉県坂戸市多和目384
                          ・ご祭神 菅原道真公
                          ・社 格 旧村社
                          ・例祭等 例大祭(多和目天神社の獅子舞)1017
 坂戸市多和目地域は市南西端部に位置し、すぐ南側は日高市が、そして西側から北側にかけては毛呂山町が多和目地域に覆い被さるような形で接している。途中までの経路は厚川大家神社を参照。厚川大家神社は「一本松」交差点の5差路を右折するが、そのまま埼玉県道74号日高河越線を直進。東武越生線「西大家」駅近くの踏切を越えてから700m先の変電所が見えるY字路を右方向に進む。そこから南西方向に進路をとり、「多和目」交差点を直進してすぐ先にある路地を右折して暫く進むと、進行方向右手に多和目天神社の鳥居が見えてくる。
 社の東側には「多和目普御世会館」が隣接してあり、そこの入り口付近の駐車スペースに車を停めてから参拝を行う。
        
                                   
多和目天神社正面
 多和目天神社が鎮まるこの地域は、高麗川がS字蛇行しながら南西から北東へ流れるその両岸に位置していて、高麗川の左岸は河川敷や河岸段丘が広がる低地面で標高50m程であるのに対して右岸は平均標高55mと左岸に対してやや高めであり、社が鎮座している場所は、その右岸である。
 因みに多和目という地名は[たわむ]に由来するそうで、この付近では高麗川は頻繁に蛇行(撓み)を繰り返して流れている。「多波目」「田波目」とも記される。
 後日編集時点で気づいたことだが、この地域は日高市との境となっていて、地域名は田波目(たばめ)である。隣接する地域名に「上」「下」と表記することはあるが、ほぼ同じ名前の地域が、違う行政区域となっているのは、少々紛らわしい。
*坂戸市多和目地域…「新編武蔵風土記稿」では入間郡に所属。
 日高市田波目地域…「新編武蔵風土記稿」では「上多波目村」として高麗郡に所属。
        
                ひっそりと静まり返った境内
『日本歴史地名大系』 「多和目村」の解説
 [現在地名]坂戸市多和目・西坂戸一―五丁目・けやき台、日高市田波目
 四日市場(よつかいちば)村の西にあり、南は高麗郡上田波目(うわたばめ)村・平沢村(現日高市)、北は下河原村(現毛呂山町)。高麗川が蛇行しながら南西から北東へ流れる。
 村名は多波目・田波目とも記される。小田原衆所領役帳には半役被仰付衆左衛門佐殿の所領として、河越三三郷の「多波目葛貫」一四六貫六三六文がみえ、弘治元年(一五五五)に検地が行われていた。元和三年(一六一七)五月二六日稲生次郎左衛門(正信)は「高麗郡日西之内多和目」など三ヵ村計三五五石余を宛行われた(「徳川秀忠朱印状」稲生家文書)。以後旗本稲生氏は当村内に陣屋(現天神社社地)を構えて当村・和田村・善能寺(ぜんのうじ)村などを幕末まで領し、大目付・日光奉行・長崎奉行など幕府の重職についている。稲生正信の住んだ正信(しようしん)庵が城山の中腹に現存する。田園簿には下田波目村とみえ田一七三石余・畑一八七石余、旗本稲生領(一八〇石余)・同河村領(一八〇石余)の二給で、ほかに恵眼寺(現永源寺)領一〇石があった。
        
                     拝 殿
 多和目天神社は、徳川家康が関東に入国した天正18年(1590)から明治維新まで当地の領主だった稲生次郎左衛門光正が、氏神と崇敬する天神を当地に勧請したという。稲生家は当初当地近辺及び西方に陣屋を構えていたとされ、後年江戸屋敷へ移り、陣屋跡に祀られていた当社がいつしか村の鎮守として祀られるようになったものと思われる。明治維新後の社格制定に際し明治5年村社に列格、明治41年字平の白山神社、字岩口後の熊野神社、同境内社稲荷神社・愛宕神社を合祀している。

『新編武蔵風土記稿 田波目村』には、稲生家に関連した記載を載せている。
 田波目村 天神社
 地頭稲生が陣屋跡にあり、其處の鎮守西福寺持(中略)
 稲生某陣屋跡
 村の東にあり、八段許の地なり、四方にかた許のまがきをなし、門をも南向に立り、されど近傍にある天神社のあたりも、陣屋跡なりと傳れば、このまがきは纔に古の様を殘せしものなるべし、按に村名の條に載しごとく、先祖次郎右衛門光正御入國の時、武州にて五百石を賜りし由、家譜に載たれば、そのかみ居宅を爰に構へ、後江戸に移りしものなるか、

 
     拝殿正面に掲げてある扁額              本 殿
        
        拝殿前に設置されている「多和目天神社の獅子舞」の案内板
「多和目天神社の獅子舞」 坂戸市指定無形民俗文化財
 江戸時代、多和目の領主だった稲生家によって、天神社に奉納されたのが始まりと言われています。毎年、秋の天神社のお祭りに、村人の安全を護り、豊年を祝う獅子舞が演じられます。
 獅子舞は、昔から地元の人々によって受継がれてきました。
 江戸時代の天保の頃(一八三〇年~一八四三年)、高萩村女影(現在の日高市)から伝えられたと言われ、多和目の領主稲生家より天神社へ奉納されたのが始まりとされています。昭和五七年(一九八二年)太鼓の張替えを行った時、胴の内側に「天保四年(一八三三)年江戸浅草」と記されているのを発見しました。言い伝えによる獅子舞の開始時期は大きく間違っていないようです。
 獅子舞を舞うのは小・中学生から高校生と氏子の有志で、演者は天狗、大獅子、中獅子、女獅子、軍配を振って舞いを盛り上げる大狂(へいおい)、花笠をかぶりささらを擦るささらっ子、舞の合図をするほら貝などから構成され、笛方と唄い方が演奏をします。演目は「すり違え」の唄、「シバ掛り」の唄、「竿掛り」の唄の三曲です。
 獅子舞の当日、獅子の宮参りは天下泰平、五穀豊穣、氏子の繁栄、お祭りの成功を願って、舞いながら社殿を三周します。その後、獅子舞行列を組んで西郷へ向かい、火の見広場で一番の「すり違え」を舞います。再び天神社にもどって、獅子舞を奉納します。
 秋も深まる十月に、多和目の里に流れる笛やささらの音に合わせて、三頭の獅子が太鼓を打ち鳴 らして踊る姿は、勇壮の中に優美な趣をたたえています。
                                      案内板より引用
 
 本殿の奥には「天然記念物 多和目の大杉跡」の石碑がある(写真左)。県天然記念物で、幹周9m、樹高35m、樹齢は石碑を奉納した昭和56年時点で1032年とあり、碑文によれば、途中で2幹に岐いるところから「夫婦杉」と呼ばれていた。しかし昭和34年に発生した伊勢湾台風の為先端10m程が折られ、その後、年月が経過すると共に樹勢が弱まってしまう。そこで氏子総会による決議を経て、県神社本庁に天然記念物指定の解除、並びに伐採の許可を承認され、ここに多和目地域での一つの象徴であった大杉は終焉を迎えたという。
 現在ある2本の杉は埼玉県林業試験場の協力を得て、その大杉の二世を植樹したという(同右)。
 
  境内に祀られている境内社。詳細不明。     同じく境内にある神興庫だろうか。

 社殿の右側には境内社・稲荷社が祀られており、その奥にはご神木であるカゴノキ(鹿の子木)が聳え立っている。かごの木はクスノキ科の樹木で、南方には結構な大きさのものも存在するが、北関東でこれまでの大きさに育ったものは希有な例との事。各地で呼び名も特徴があり、こがのきと呼ばれたり、この木のように鹿に見立てて「鹿子木」と呼ばれる例もあるようだ。
        
             社殿右側に祀られている境内社・稲荷社。
        
        稲荷社の隣に設置されている「カゴノキ(鹿の子木)」の案内板
 坂戸市指定天然記念物 カゴノキ(鹿の子木)
 この樹木は、正式名称が判明するまで「なんじゃもんじゃの木」と呼ばれていました。
 昭和五十九年に埼玉大学の永野教授の鑑定により、学名をクスノキ科に属する「カゴノキ」で、名勝は「鹿の子木」と判明しました。
 この樹木は暖地性の常緑喬木で、沖縄・九州・四国を中心に分布している樹木で、関東以北ではほとんど生育していない、植生上も貴重な樹木であることがわかりました。
 樹木の名称の由来は、淡褐色を帯びた樹皮が円形に点々と剥落し、この部分に次々と白い木肌が現れます。この様子が、鹿の子の斑点と同じように見えることから、この名称がつけられたと考えられます。
 樹木の規模は、樹高十五メートルを測り、樹齢千年といわれていますが。樹木医の診断では、八〇〇年程とされています。
                                      案内板より引用
 

        
                カゴノキ(鹿の子木)遠景

 樹齢800年とは思えないぐらいの樹勢は良好で、ともかく小鹿の毛並みのような珍しい斑点模様の木肌が特徴的である。樹容は社殿奥に嘗て聳え立っていた大杉と同じく双幹であり、紙垂も巻かれているところをみるとご神木として祀られているのであろう。
 嘗てこの社には
カゴノキは勿論のこと、社殿奥の大杉も存在していて、その並び立つ姿は如何ばかりだっただったろう。今大杉は伐採されてこの地にはないが、同じ場所にその子供である若木がすくすく成長している。そしてカゴノキは傍にいて、その成長を親代わりに見守っているようにも見える。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「日本歴史地名大系」「坂戸市HP」
    Wikipedia」「境内案内板・記念碑文」等
 

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北浅羽八幡神社

 武蔵七党の一派で最大派閥といわれた「児玉党」は、藤原姓で武蔵国から興り、丈部氏後裔・有道氏族で、藤原鎌足十四代の孫遠岩を遠祖とし、武蔵国児玉郡を領知して在名をとって児玉氏を称したという。その児玉党の本宗家2代目で、児玉・入西(にっさい)の両郡を領有した児玉弘行は、入西郡小代郷に進出してきたが、その子、資行(すけゆき)は入西三郎大夫と称し小代郷地頭職を賜り分家、入間郡入西原はその住地であるという。
 浅羽(アサバ)氏は児玉党の出身で入西三郎大夫資行の長子浅羽小大夫行業を祖とする。行業の弟に次郎大夫遠広(小代氏の祖)、新大夫有行(越生氏の祖)がいて坂東武者として活躍している。さらに三郎行親(浅羽氏)、四郎盛行(小見野氏の祖)、五郎行直(粟生田氏の祖)の3人の子があり、みな在地の地名を名字にしている。
 このように、浅羽氏は北浅羽付近を本拠地にして、一族は北浅羽周辺や越辺川流域・越生あたりの入間郡北西部一帯(入西地域)に勢力を持った豪族であった。
 北浅羽八幡神社は浅羽小大夫行業が当地を所領として与えられた際に、鎮めとして鶴岡八幡宮の勧請を許され、この地に祀ったという。
        
              
・所在地 埼玉県坂戸市北浅羽262
              
・ご祭神 誉田別尊
              
・社 格 旧村社
              
・例祭等 大祭(秋祭り) 十月十七日
 北坂戸駅西口から駅前通りを西行し、高麗川に架かる「北坂戸橋」を渡り、関越自動車道を潜った先の越辺川右岸に沿った道路を道なりに2㎞程進む。周囲は長閑な田畑風景が一面に広がる中、進行方向右手前方に北浅羽八幡神社のこんもりとした社叢林が見えてくる。
        
            道路から離れた場所に社号標柱は立っている。
        
                       
北浅羽八幡神社正面の社叢林遠景
『日本歴史地名大系』「浅羽郷」の解説
 浅羽・北浅羽を遺称地とし、高麗川流域に比定される。「和名抄」所載の入間郡麻羽(あさは)郷の系譜を引く中世郷で、児玉党浅羽氏の本領とされる。児玉党系図(諸家系図纂)には入西三郎大夫資行の子行業は浅羽小太夫と注記されている。浅羽氏は鎌倉幕府御家人となり、「吾妻鏡」には文治三年(一一八七)八月一五日の鎌倉鶴岡八幡宮放生会の流鏑馬で行業の孫小三郎行光が的立を勤め、同五年の奥州合戦には行光の兄五郎行長が出陣しているなど(同年七月一九日条)、浅羽氏の活動が記される。永源寺にある元弘三年(一三三三)五月二二日銘の板碑は鎌倉幕府滅亡の際、北条氏に従って死んだ浅羽氏の供養塔といわれる。文和元年(一三五二)閏二月新田義宗・脇屋義助らが上野から武蔵へ攻め上った際、浅羽氏も新田軍に馳参じた(「太平記」巻三一新田起義兵事)
        
                               
北浅羽八幡神社正面
        
                                   参道の様子
 参拝前の社叢林の様子からかなりの規模の社とは想像できたが、鳥居を過ぎて境内に入ると、参道の回りには豊かな杉林等が生い茂り、創建時期の古さと由緒の確かさも相まって、貫禄ある風情を匂わせるものがある。
 
              参道に聳え立つご神木(写真左・右)
        
           境内に設置されている「北浅羽の獅子舞」の案内板
 北浅羽の獅子舞 坂戸市指定無形民俗文化財
 秋になると豊年を祝う獅子舞が、市内の各地で行われます。竹で作った「ささら」と呼ばれる楽器を使って獅子舞を踊るので、「ささら舞」とも言われ、昔から地元の人々によって受継がれてきました。
 北浅羽の獅子舞は、江戸時代に始まったと伝えられ、八幡神社のお祭りに演じられます。
 獅子は悪霊払いの霊獣として崇められ、遠い土地から来る力の強い神のかたちを現します。 古来祭りの主役として、獅子舞が全国各地で行われてきました。北浅羽の獅子舞は、江戸時代の天保年間(一八三〇年~一八四三年)に、西戸村(現在の毛呂山町)から伝承されたと言われています。
 演目は「雌獅子かくし」と「竿がかり」があり、演者の構成は、天狗・花笠・雌獅子・みの獅子・ほうがん(雄獅子)・弊負・笛吹き・ほら貝です。「ほうがん」と「みの獅子」の呼び名は、市内の他の獅子舞にはないものです。天狗はもともと入り婿が務める役で、笛吹き・ほら貝は成人が務め、他は地元の小・中学生が演じます。
 獅子舞の奉納は、八幡神社の大祭(秋祭り)の十月十七日と決められていましたが、最近は第三日曜日に行われるようになりました。前日に、近くの万福寺に勢ぞろいして準備を行い、身支度を整えます。その後、八幡神社まで練り歩き、獅子舞を日没まで続けます。大祭の当日も万福寺で身支度を整え、一度「雌獅子かくし」を舞ってから八幡神社に向かいます。
 大しめ縄を先頭に、万灯、天狗、花笠、笛吹き、弊負、雌獅子、みの獅子、ほうがん、氏子の順に行列して神社まで練り歩きます。神社では社前に礼拝して、天下泰平と五穀成就に感謝して、勇壮な獅子舞が奉納されます。
 平成十九年三月 坂市教育委員会
                                      案内板より引用
        
                     拝 殿
 北淺羽村 八幡社
 村の鎮守なり、中央は八幡左右に天照大神・津島天王・鹿嶋明神・天神の四座を相殿とす、満福寺の持なり、當社の縁起はかの寺の記にのせたり、下に出す,
 神楽堂 末社甲良明神社
                               『新編武蔵風土記稿』より引用

 浅羽氏は武蔵七党のひとつ児玉党武士団の一員で、小大夫行成(行業とも書く)の時に「浅羽氏」を名乗っている。行成の弟に次郎大夫遠広(小代氏の祖)、新大夫有行(越生氏の祖)がいる。さらに三郎行親(浅羽氏)、四郎盛行(小見野氏)、五郎行直(粟生田氏)の三人の子がいて、みな在地の地名を名字にしている。
 このように、浅羽氏は北浅羽付近を本拠地にして、一族は北浅羽周辺や越辺川流域・越生あたりの入間郡北西部一帯に(入西地域)に勢力をもった豪族であった。
        
                                     本 殿
  すぐ北側には越辺川が東西に流れているためか、基壇には高い石垣が築かれている。

 八幡神社から350m程西側に浅羽氏一族の菩提寺である「福寺」がある。福寺」は、源頼朝に仕えて当地を領有した淺羽小大夫行成の三男五郎兵衛行長が当寺を創建、浅羽氏一族の菩提寺として栄え、建武年間(1334-1336)には足利尊氏より田地の寄進を受けている。その後永享年間(1429-1441)に淺羽下野守・同左衛門大夫等が戦死、檀越を失ったことから衰退したものの、俊誠(元和元年1615年寂)が中興開山したという。
『新編武蔵風土記稿・満福寺条』
今市村法恩寺の門徒なり、天徳山地蔵院と號す、相傳ふ當寺は當所の名家淺羽氏の菩提寺なりと、淺羽氏の事は【東鑑】等の書にも見えて、當國七黨の内の侍なり、猶上淺羽村の條見合すべし、されば古は當寺も然るべき古刹なりしならん、永禄の頃戰争の世に、上田周防守松山城を守りて落城の時、敵兵境内へ亂妨して放火せし後、一旦廢絶せしを、後に至りて俊誠と云僧再建せり、故に今此僧を中興開山とせり、寺傳に曰俊誠元和元年九月二十三日寂せり、寛文十年九月十三日淺羽三右衛門と云者の記せしものに當寺正八幡建立の来由を尋ぬるに、昔内大臣伊周公左遷の時末子一人京都に留められしが、有道氏の養子となりて、關東へ下向す、是を有道貫主遠峯と號す、其子を武蔵守惟行と云延久元年七月七日卒す、其庶流淺羽小大夫行成と云もの、右大将賴朝の時功ありて、兩淺羽・長岡・小見野・粟生田等の地を賜はる、又賴朝の命によりて、鶴岡正八幡を淺羽庄へ遷せり、是今の八幡社なり、其三男五郎兵衛行長は、賴朝の供奉して奥州へ下り戰功ありしものなり、此人當寺を再建す、當寺昔は眞言律宗なり、後改て眞言宗となる、其後建武年中尊氏田地寄附の條あり、其文に曰く、
自元弘到建武戰死亡卒之幽靈數萬也、不弔者不可有因、茲淺羽之庄之中水田十町、畠田十町、永代寄進之、香花灯明誦經等、聊懈怠不可有者也、
建武三年七月十三日 源尊氏(以下略)」
 
      拝殿手前にある神楽殿           神楽殿右側に鎮座する若宮八幡社
 
    本殿左側奥に鎮座する三峯神社             拝殿右手前に祀られている高良神社

 ところで児玉党の本宗家2代目児玉弘行は、「有貫主・阿久原(あくはら)牧別当」という肩書の他に、「武蔵守(かみ)」という地方にあっては最高官職についていたというが、本拠地から遠く離れた「入西(にっさい)」郡を何時領有したのであろうか。
 児玉弘行は、永保3年(1083年)9月に起きた「後三年の役」に参戦していたとされ、伝承では、源八幡太郎義家の副将軍として、清原家衡、清原武衡軍と戦ったとされる。後に後白河上皇の命で作成された『奥州後三年合戦絵巻』には、大将軍八幡太郎義家と共に赤烏帽子姿で座した副将軍児玉有太夫弘行朝臣の姿が描かれていたとされるが、後の武蔵武者などの謀により別人の名に書き替えられてしまったと言う伝聞が残る。
 但し一応断っておくが、これらの伝聞はあくまで「伝承」の類であり、史実だったかどうかもあやふやともいわれ、実際には「後三年の役」に児玉弘行は参戦していなかったのではないかという説もある。
        
            社の北側には越辺川の静かな風景が広がる。
 越辺川右岸の河川敷には「北浅羽桜堤公園」といわれる緑地公園となっていて、坂戸市内を流れる清流越辺川沿いに総延長1.2㎞にわたり約200本の「安行寒桜」の桜並木が植樹されているそうだ。

 児玉弘行は、永保3年(1083年)9月に起きた後三年の役に参戦していたとされ、伝承では、源八幡太郎義家の副将軍として、清原家衡、清原武衡軍と戦ったとされる。後に後白河上皇の命で作成された『奥州後三年合戦絵巻』には、大将軍八幡太郎義家と共に赤烏帽子姿で座した副将軍児玉有太夫弘行朝臣の姿が描かれていたとされるが、後の武蔵武者などの謀により別人の名に書き替えられてしまったと言う伝聞が残る。
 源氏と児玉(遠峰)氏は密接な関係だったようだ。伝承では、後三年の役において軍功を上げたとして、源義家から団扇を賜ったとされる。これが後に児玉党の軍旗に描かれた唐団扇の由来であり、家紋が軍配団扇紋となった由来とされる。また後三年の役後の活動としては、伝承として、源義家が弘行の領有する武蔵国児玉郡に隣接する上野国多胡郡に住む多胡四郎別当大夫高経が、義家の命に従わないので、児玉有大夫広(弘)行に討手を命じたところ、広行は弟の有三別当経行を代官としてさし向け、高経を討ち取り、その首を武蔵国足立郡にある義家の宿所に届け、椚(くぬぎ)にかけたという。
 後三年の役に義家の副将軍として参加したという記事と合せて、義家に関連した後三年の役・多胡高経征伐による論功行賞として、所領が拡大したのではないかと推測される。
『小代行平置文』によれば、奥州征伐後に弘行と弟の有三別当太夫経行(有道児玉経行)は児玉郡を屋敷として居住する様に命じられ、弘行は児玉・入西の両郡の他、久下、村岡、忍などを領有したとされている。
 同時に惟行の次男で弘行の弟である児玉経行の娘は、源義朝の嫡子・義平の乳母となり、「乳母御所」を称したと『武蔵七党系図』には記されている。児玉党が早い時期から河内源氏(清和源氏の一流)に従属していた事が分かり、中央政府と繋がりのある河内源氏を棟梁と仰ぐ事で、政治的保護を求めたものと推測でき、この事から児玉党本宗家3代目(家行)の時代には源氏との繋がりが強くなったものと見られる。
        
                   静かに佇む社

 後三年の役に関して、朝廷は戦役を義家の私戦とし、これに対する勧賞はもとより戦費の支払いも拒否した。更に義家は陸奥守を解任されている。義家はこの戦いの間、決められた黄金などの貢納を行わず戦費に廻していた事や官物から兵糧を支給した事から、その間の官物未納が咎められ、そのため義家は新たな官職に就くことも出来なかった。
 結果として義家は、主に関東から出征してきた将士に私財から恩賞を出したわけだが、このことが却って関東における源氏の名声を高め、後に玄孫の源頼朝による鎌倉幕府創建の礎となったともいわれている。当然、児玉氏は治承・寿永の乱(源平合戦)の時、源氏側に参戦しているが、児玉氏からみれば、源氏側参戦理由の一つに、義家への恩義が多分に入っていたであろうことは想像に難くない。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「日本歴史地名大系」「坂戸市HP」
    「鶴ヶ島市立図書館/鶴ヶ島市デジタル郷土資料」「Wikipedia」等


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