古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

前堀田諏訪神社

 本庄市堀田地区は大部分が小山川と備前渠に挟まれた田園地帯が広がった地域であり、平均標高40m程。昔の榛沢郡滝瀬村字堀田は古の村名にて、松陰私記に「文明三年・五十子近辺堀田」と見える。
 古代での日本では城や館を「堀内」・「堀ノ内」と称していて、濠に囲まれた場所としてつけられた地名だが、「堀内」・「堀ノ内」の源となる「堀(ホリ)」は「モリ、ホル、ホリ、フル」とも読まれていた。但し本来は神聖なる社の周囲を「堀」という漢字で表していたともいう。
本庄市堀田地区には「前堀田」と「北堀田」の2つの地区に分かれ、いずれも諏訪神社を祀っている。 
        
              ・所在地 埼玉県本庄市堀田1059
              ・ご祭神 健御名方命
              ・社 格 旧無各社
              ・例 祭 初午祭 2月初午 祈年祭 43日 夏越大祓 730
                   例大祭 1017日 新嘗祭 1210日 他
 前堀田諏訪神社は、国道17号バイパスを「道の駅 おかべ」を過ぎ、「岡(西)」交差点を右折し、旧中山道をに合流して小山川を越える地点に所在する滝岡橋を抜け、北西方向に時計回りに400m程進んだところを斜め右後ろ方向に曲がると、前堀田諏訪神社に達する鳥居に到着する。
               
                      社号標柱
 社号標柱には「村社」と表記されているが、明治時代の近代社格制度では、滝瀬村として、滝瀬神社が村社となり、当社は無各社とされたとある。
        
                  
正面鳥居から撮影
        
                 鳥居近郊にある案内板
諏訪神社 御由緒   本庄市堀田一〇五九
御縁起(歴史)
正保二年(一六四五) の「本庄町外石高等領地図」(中原家蔵) に「滝瀬村ノ内掘田」と見え、更に『武蔵志』には、堀田は「中山道筋 滝瀬ノ新田別村ニアラス」とあり、古くは滝瀬村に属していたことがわかる。堀田は、前堀田と北堀田の二つの地区に分かれ、いずれも鎮守として諏訪神社を祀っている。当社は前堀田の方の諏訪神社で、神社を中心として西方の地城の小名を上諏訪(通称は上)、東方の地域の小名を下諏訪(通称は下)と呼んでいる。
社蔵の明治初年の「明細帳」によれば、往古甲斐の国士逸見儀左衛門は信濃国の諏訪大社を深く崇敬していた。永禄十年(一五六七)のころにこの逸見家が没落した際、その一族が武蔵国に来て、堀田の字下諏訪の地に土着し、同地に諏訪大社の分霊を勧請して一族の祈願所とした。以来武門の崇敬を集めたが、永い歳月を経て衰微してしまった。そこで寛延二年(一七四九)に前堀田の氏神として再興し、遷座祭を執行した。この時、逸見郷右衛門・粂原友之丞・荻野万兵衛・内田清兵衛・田沼四郎衛らが世話に当たったという。
明治初年の社格制定に際しては、古くから滝瀬村の鎮守であった滝瀬社(旧聖天社)が村社となり、当社は無格社とされた。明治二十七年には、幣殿増築並びに本殿修繕を行った。
                                      案内板より引用
        
        旧無各社ではあるが、社格のある社と遜色ない風格も感じる。
       
             社殿左側に聳え立つご神木(写真左・右)
        
                     拝 殿
 日本書紀神代上に「素戔鳴尊、新羅国に降り到り、曽尸茂梨の処に居す」。元慶年間(877885)の日本書紀講書に「曽尸茂梨は、今の蘇之保留の処か」とある。
 曽尸茂梨(そしもり)・蘇之保留(そしほる)は素戔鳴尊が天降った先の古代朝鮮、新羅(しらぎ)の地名である。黄海道鳳山(こうかいどうほうさん))。すなわち金の山、輝く山の意で、神降臨にふさわしい聖所でもあり、古代は除伐(しょぶる)、又は金城(そふる)と称した。
 一説によると、天下った聖地である「金城」は新羅国の首都である「金城」であるという。その首都の名称から、モリ、ホル、ホリ、フルは城とか都の意味であり、その場所に生活している非農民である役人や商工者、鉱山鍛冶師等の集落を称していた。
 その後渡来人鉱山鍛冶集団は砂鉄の採取出来る川岸附近に土着して集落の通称に堀(ほる、ほり)の佳字を用いていた。

 日本語には一字一音一義といって、五十音の一字ごとに意味があることが特徴であり、世界の言語にはそれはほとんどない特別な言語でもある。それ故に日本語は世界の言語語源に対して「孤立した言語」とも言われている。
 残念ながらいまでは戦後教育の成果(?)で、そうした日本語独特の意味を我々日本人自体が忘れてしまったため、この本来の意味を取り戻すのはちょっと大変であるが、もうそろそろ本来の日本の懐の深さを知るべきではないかと考える。
 
  社殿右側奥に鎮座する境内社。詳細不明。   社殿右側奥にも石祠、石碑、供養塔あり。

追記 滝岡橋に関して
 社に到着する前に「滝岡橋」を通るが、この橋は鋼製8連桁橋で、橋延長は146.7 m、幅員は6.3 m 2008年(平成20年)37日に国の登録有形文化財で、日本の近代土木遺産のひとつとなっている。
 中山道の旧藤田村滝瀬と旧岡部村岡との境界を流れる小山川に架かる橋。 それぞれの地名の一文字を当てて「滝岡橋」と命名されていている。元々江戸時代からの渡し(渡船場)であったが、明治時代の19013月に木橋が完成していて、その後大正8年より小山川の改修と併せて施工され、昭和3年に完成している。 鋼桁橋として古い形態を留めており、親柱や欄干に花崗岩を用い、橋台の 表面には深谷にあった日本煉瓦製造の赤レンガを用いている。

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新井稲荷神社

 平成18年(2006)に本庄市と児玉町が大合併して現在の本庄市が誕生したが、合併以前の本庄市は「本庄」「藤田」「仁手」「旭」「北泉」の5地区により構成されていた。
 旭地区は本庄市野最北端に位置し、北は利根川が流れ、地区全体が利根川の氾濫原で平坦地となっている。その中で「新井地区」は「山王堂」地区の西側にあり、共に直接利根川の左岸に位置していて、本庄市北端の地区でもある。
        
              ・所在地 埼玉県本庄市新井1
              ・ご祭神 倉稲魂命
              ・社 格 旧村社
              ・例 祭 例祭 211日 祈年祭 43日 大祓 723
                   新嘗祭 128     
 新井稲荷神社は国道17号を本庄市街地から上里町方向に進み、「小島」交差点を右折し、小山川を越えて道なりに北上する。「本庄旭小」交差点をそのまま進むと左右に「都島角折神社」「本庄市旭公民館」が見え、そこから250m程先にT字路があり、そこを左折すると、道路沿いすぐ右側に新井稲荷神社が鎮座する地に到着する。
 社の左側は広い空間となっていて、お子様の遊具の邪魔にならない所に車を停めて参拝を行った。
 
田園地帯が広がる新井地区にあって、この新井稲荷神社周辺には住宅街が多くあり、北側利根川方向に目を転ずれば本庄利根工業団地も存在している。昔ながらの懐かしい青々とした垣根を伴った一軒家を見ながら、現代産業を担う工業団地や近代建築の住宅が入り混じった、不思議な空間を感じながらの参拝ともなった。
        
                  
新井稲荷神社 正面
                 正面撮影を禁ずるとの看板表示があり、斜めから撮影。
 新井地区は本庄利根工業団地もあり、烏川と利根川が合流するすぐ近くで、初め上野国(現群馬県)那波郡に属していたが、寛永二年(1625年)の利根川大洪水後の烏川の流路変更により、上野国から武蔵国に所属が変わった経緯があり、その為、旧家には上野国との関わり合いの深い家が多く、氏子の中で最も多い境野姓の本家も、上野国芝根村(現群馬県佐波郡玉村町芝根)からこの地に来たといわれている。
 
          案内板                       社号標柱の左側に並ぶ阿夫利神社石祠等

 稲荷神社 御由緒   本庄市新井1
 □御祭神…倉稲魂命
 □御縁起(歴史)
 新井の周辺地域は、初め上野国(現群馬県)那波郡に属していたが、寛永二年(1625)の利根川大洪水後の烏川流路変更により、武蔵国に所属が変わった。そのため、旧家には上野国とのかかわりあいの深い家が多く、氏子の中で最も多い境野姓の本家も、上野国芝根村(現群馬県佐波郡玉村町芝根)からこの地に来たといわれている。
 稲荷神社は、古くから村の産土として信仰されてきた社である。創建の年代は定かではないが、当社には寛延三年(西1750)九月に京都の神祇官領長吉田家から受けた幣帛が安置されていることから、このころには既に現在のような形で祀られていたことが推測される。また「風土記稿」新井村の項に「稲荷社 鎮守なり、清淵寺持」と記されているように、江戸時代には真言宗の清淵寺が別当として当社の祭祀を行っていた。殿内装飾から神道護摩が行われていたかもしれない。
 神仏分離によって、当社は清淵寺の管理を離れ、明治五年に村社となった。その後、政府の合祀政策に従い、明治四十五年に字御陣場の村社稲荷社を合祀した。同社の依代であった御幣は、当社に移されているが、これには「稲荷大明神 元禄八乙亥(一六九五)七月七日寄進 武州台河原 宮下新左衛門」の墨書がある。また、同年、字屯の無格社厳島神社、字御陣場の無格社琴平神社及びその境内社の大杉神社を当社境内に移転し、これらを境内社として祀るようになった。
                                      案内板より引用
        
                                         拝 殿
 
 社殿後方にはたくさんの石祠や石碑が一ヶ所に集められていて(写真左)、天照皇大神・春日大神・八幡大神、蔵王大権現、大江神社、御嶽山神社、八海山神社、天野御中主神などの名が見られる。
 また石祠、石碑群の右隣には境内社あり(写真右)。中には二基の石祠が納められているが、詳細不明。

 案内板に紹介されている「境野氏」について調べてみると、
 □境野氏
 元は那波氏家臣の境野氏であり、今でも群馬県佐波郡赤堀町や群馬郡多野郡新町、伊勢崎市にもその氏は存在し、新井地区に多く今でも現存していて、古代以来の土着者とも言われている。またその氏は周辺地区、滝瀬地区や宮戸地区や深谷市・新戒地区にも広がりを見せていて、地域限定の一族でもある。
武蔵国児玉郡誌
「大字新井の稲荷神社は、明徳年間に境野宗秀の創立せし社なり」
「三友河岸船問屋境野万右衛門。当村安政三年庚申塔に境野儀助。明治九年戸長境野儀八郎・文政六年生、副戸長境野重衛・文化五年生、副戸長境野佐平・文政十年生、立会人境野藤吉」
明治二十一年皇国武術英名録
山念流新井村境野新三郎・境野重三郎」


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沼和田飯玉神社

 沼和田飯玉神社は山王堂地区の南側に位置する沼和田地区に鎮座している。沼和田の地名由来では、「和田」は川の曲がって流れている部分や丸みのある平地を指すといわれ、『埼玉県地名誌』では沼のある和田の地の意味であろうと推定している。『本庄の地名』では明治18年(1885)に測量された陸軍陸地測量部の迅速図を見ると、乱流する利根川が良く分かり、旧流路ともども丸くなった地形が、地名の発祥と想定させてくれる。
 沼和田地区は山王堂地区や東側に隣接する仁手地区等周辺の村と共に、江戸時代初頭頃までは上野国那波郡に属していた。
 直現在の沼和田の読みは「ぬまわだ」だが、昔から愛称もこめて「ヌマンダ」と発音している方も多いという。
 
        
              ・所在地 埼玉県本庄市沼和田926
              ・ご祭神 倉稲魂命
              ・社 格 旧指定村社
              ・例 祭 不明  
 沼和田飯玉神社は国道17号を本庄市街地から上里町方向に進み、「小島(北)」交差点を右折する。埼玉県道351号沼和田杉山線に合流し、そのまま北東方向に700m程進むと左側に本庄市立旭小学校が見え、そのまま進み、次の信号のある交差点を右折すると左側に社の鳥居が見える。鳥居のそばには沼和田センターがあるので、そちらに駐車してから参拝を行う。
             
               沼和田飯玉神社 正面社号標柱
 社号標柱に『神饌幣帛料供進』と彫られているが、この神饌幣帛料供進社とは如何なる社の事を謂うのか調べてみた。
神饌幣帛料供進指定神社
 神饌幣帛料供進神社(しんせんへいはくりょうきょうしんじんじゃ) とは、郷社・村社を対象に勅令に基づいて県知事から、祈年祭、新嘗祭、例祭に神饌幣帛料を供進された神社のことを指している。
 明治40年(1907年)からは、府県郷を始め、村社(指定神社以上)が例祭に地方公共団体の神饌幣帛料(しんせんへいはくりょう)の供進を受けることが、大正3年(1914年)4月からは祈年祭・新嘗祭にも神饌幣帛料の供進を受けることが、それぞれ認められ、神饌幣帛料供進社(しんせんへいはくりょうきょうしんしゃ)と称された。神饌幣帛料供進共進神社、神饌幣帛料供進指定神社、あるいは社格と併せ指定県社、指定村社等の表現も為される。明治8年(1875年)の「神社祭式」では、幣帛として布帛などの現物のほか、金銭を紙に包んだ「金幣」を加えることとされた。金幣は祭典にさきだってあらかじめ地方庁に交付され、地方長官に供進させた。
 現在、全国の神社本庁包括下の神社の例祭には神社本庁から「幣帛料」として金銭が贈られている。
                                    Wikipediaより
参照
        
                              一の鳥居
 
  一の鳥居の左側に庚申塔等の石塔が並ぶ。       二の鳥居に続く参道
   昔からの信仰心が今も残されている。    地方の社には長い参道が今も残されている。
        
                                  二の鳥居
        
                        拝 殿

  境内は思いのほか広く、手入れも行き届いていていて、境内社等の配置も整然としている。
 
     拝殿上部に掲げてある扁額           扁額の左側にある社号額
       
               参道の左側境内入り口にある御神木
             
                御神木の手前にある境内碑
 境内碑  飯玉神社由来記
 當社創立ハ不詳ナレドモ往古室町時代ニハ上野國那波郡那波城主ノ崇敬アリシ社ニシテ神徳遠近ニ輝キシト云フ祭神ハ倉稻魂命ヲ祀ル五穀ノ祖神ナリ舊社地ハ村ノ東方字飯玉ノ地ニアリシヲ天正十八年ニ今ノ地ニ遷ス舊境内ニハ周圍參拾餘尺ノ欅ノ老樹アリシカ明治二十年一月二日燒失セリ建物ハ本殿幣殿拜殿社務所等ノ施設ヲ完備ス
 境内ハ四百七拾万坪ヲ有シ社格ハ明治五年村社トナリ明治四十二年ニ無格社雷電神社稻荷神社八幡神社諏訪神社ヲ境内社ニ移轉シ大正十年二月二日神饌幣帛料指定社トナル神域ノ樹木欝蒼トシテ神威赫々タリ茲ニ由来ヲ調査シテ略記シ後世ニ傳フト云爾
正三位勲六等金鑚宮守題額幷撰  
逸見應次敬書
 
  社殿左側に鎮座する境内社・諏訪、雷電社     草木に覆われているが富士塚もあり
       
     本庄市指定文化財として有形文化財(天然記念物)に指定されているサイカチ。
                  
目通り周囲は3.2m
*サイカチ
 マメ科ジャケツイバラ亜科サイカチ属の落葉高木。別名はカワラフジノキ。漢字では皁莢、梍と表記する。日本では中部地方以西の本州、四国、九州に分布するほか、朝鮮半島、中国に分布する。山野や川原に自生する[2]。実や幹を利用するため、栽培されることも多い。
 木材は建築、家具、器具、薪炭用として用いられ、莢にはサポニンを多く含むため、油汚れを落とすため石鹸の代わりに、古くから洗剤や入浴に重宝された。豆果は皁莢(「さいかち」または「そうきょう」と読む)という生薬で去痰薬、利尿薬として用いる。種子は漢方では皁角子(さいかくし)と称し、利尿や去痰の薬に用いた。また棘は皁角刺といい、腫れ物やリウマチに効くとされた。
 サイカチの花言葉は、「壮大」
『万葉集』に収録された和歌の中にも詠まれている。
・万葉集(巻十六) 皂莢爾 延於保登礼流 糞(屎)葛 絶事無 宮将為
 かわらふじに 延ひおほとれる屎葛(くそかづら) 絶ゆることなく宮仕えせむ(高宮王)
                                     Wikipediaより
参照
 
     左側の赤い石祠は三峯神社。       赤い鳥居は稲荷社。隣の石祠は不明。
中央の石碑の左側石祠が天手長男神社、右が菜種
          八幡神社と刻まれている。

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山王堂日枝神社

        
                       ・所在地 埼玉県本庄市山王堂228-1
              ・ご祭神 大山昨命
              ・社 格 旧村社
              ・例 祭 不明
 山王堂日枝神社は国道
17号を上里町方向に進み、「若泉一丁目」交差点を右折する。北上する形で進むと、国道462号に交差する十字路に達し、そこは直進する。その後埼玉県道351号沼和田杉山線に合流し、600m程進むと、「沼和田」交差点に到着し、そこを左折。左折してすぐ斜め右方向に進む細い農道があり、そこを右折し、400m程進むと山王堂日枝神社の社号標柱近郊に達する。
 社の北側には利根川支流である御陣場川が東西方向から南東方向に流れ、河川右岸の土手近くに鎮座していて、水神を信奉する社であることが立地状況を確認すれば容易に想像できる。
               
                         丁字路付近にある社号標柱
 
     参道正面 一の鳥居を望む。         参道右側、鳥居前にある案内板
 日枝神社  所在地 本庄市山王堂二二八‐一
 日枝神社の祭神は、大山咋命で、慶長年間(15961615)の創建と伝えられる。
 その後、元禄十五年(1702)に京都吉田家より正一位大明神の神号を授けられている。
 社殿は利根川南岸、堤防に接し、明治四十三年(1910)の大洪水で本殿を破壊され拝殿を流失したが、同四十五年に再建された。
 社殿の横にあるケヤキの大樹は、神社創建当時に植えられたものと思われ、樹齢四百年以上と推定される。目通り周囲五・一メートル、高さ二十六メートルで、先の大洪水でも残り、樹勢は今なお旺盛である。昭和五十一年本庄市指定の文化財となっている。
 昭和六十一年三月  埼玉県 本庄市
                                       案内板より引用
 
 
      玉砂利が敷かれた参道          二の鳥居手前で左側に鎮座する石祠       
 手入れも良く周囲の環境設備も行き届いている                詳細は不明         
        
                         朱色の二の鳥居        
        
                                        拝 殿
『本庄の地名』によれば、本庄市山王堂は、最北端に位置し、北側が利根川に面している。山王堂の東部には主要地方道である国道462号本庄伊勢崎線が南北に通り、利根川には坂東大橋が架かっていて、本庄市側から直接群馬県に通じるルートとなっている。
 山王堂という地名由来として、『地名に遺る埼玉の史跡』では、山王堂は同所に古来あった仏堂である天台宗日叡派の山王日吉権現を祀ったものであったが、明治時代の時に神仏分離して、村社日枝神社となり、仏堂の名前は消滅したが、地名として遺ったといわれている。また上野国志に「武州児玉郡山王堂村は、古へ上野国那波郡に属し、寛永年中洪水の時、烏川の瀬替りてより武蔵国に属せり」と書かれており、江戸時代の寛永年間の洪水時までは上野国に属していたようだ。
 
    拝殿正面上部に掲げてある扁額       社殿左側には「大黒天」等の石碑・
                       その他境内社等鎮座する。多くは詳細不明

 那波家中証人之事(宇津木文書)には「天正十五年二月二十六日、山王堂兵庫頭・実子但し男子」と見え。厩橋城主北条氏照代官へ実子を人質に差出していた。この時の「山王堂」氏は児玉郡山王堂村より起った一族か、或は上野国那波郡山王堂村(現伊勢崎市)の住人か今となっては定かではない。
 
 社殿の左側奥には庚申塔が取り囲むように並ぶ。 庚申塔の並びの一角に境内社・稲荷社が鎮座
 
 実はこの庚申塔、塚等社殿の左側奥だけでなく、参道正面以外社殿を囲むように並んでいる(写真左・右)。明治43年(1910)の大洪水も含め、過去多くの大洪水に巻き込まれている。大量の漂着物の中にはどこにあったか判明しない多くの石祠や庚申塚等が散乱したのだろう。石祠の中には多く「水神」も含まれていたと思われる。それらを地域の方々が、一つに纏めて、神聖なる場所に祀らせたのではなかろうか。そういう意味において、これらの遺物は、当時の人々の苦労をしのばせる歴史の証人でもある
       
             社殿右奥に聳え立つご神体のケヤキの老木
                  本庄市指定天然記念物

 山王堂日枝神社のケヤキ  本庄市指定天然記念物(1976426日指定)
 日枝神社の創立は江戸時代の慶長期以前と伝えられています。同社のケヤキは利根川堤防沿いに所在しており、その創立期に遡ると推定されています。目通り周囲は5.4メートルです。(樹高 26m、目通り幹囲 5.2m。推定300年以上
                                 本庄市 ホームページ参照
        
             社殿右側に鎮座する境内社・大杉神社

PDF「利根川の水神信仰」によれば、『武蔵国郡村誌』には、「大杉社 平社村社の境内にあり祭神勧請年月日共に不詳祭日三月六月八月共に二十七日」とあるが、現在の例祭は1017日である。社殿の前方には燈篭が1基あり、正面に「御神前」、右側は「天明三癸卯十一月日」、左に「舩持中」という刻銘がある。天明3年(1783)といえば、浅間山大噴火によって利根川の流路が変わったり、洪水の続出などもあり、流域一帯に大被害を与えた年でもある。
        
                    境内の様子
 山王堂日枝神社の境内社である大杉神社は、群馬県堺に近い上里町黛から、本庄、深谷、妻沼、羽生、栗橋、幸手にかけて点々と分布する。そして利根川の舟運の安全と水害除けの水神として、利根川流域の各地に、多くは石祠として祀られていていた。
 不思議と大杉神社の祀られた地点は、大半が破堤地点であるなど、何らかの被害を受けてきた場所と考えられていて、そこは、舟運の安全に限らず、洪水の時に危険な場所であるという、先人たちの鋭い観察力に基づいた警告とも捉えることができる。

 東日本大震災での現地での社の配置でも分かる通り、先人は我々に何かしらの形で警告を発している。規模的には些細な対象でしかない石祠であっても、事前に由来等の確認は必要で、決して現代技術を過信して、過去の遺物や伝承等を見下すような対応をしてはいけないのだ。


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西富田栄金鑽神社

        
              ・所在地 埼玉県本庄市栄3-5
              
・ご祭神 素盞嗚尊
              ・社 格 旧村社
              ・例 祭 祈年祭 219日  秋季例大祭 1019日  
                   新嘗祭 
1214日
 西富田栄金鑽神社は、埼玉県道23号藤岡本庄線、通称「南大通り」を北東方向に進み、「栄3丁目」交差点を国道462号方向に200m程直進すると左側に西富田栄金鑽神社の社叢が見えてくる。「栄3丁目」交差点の次の信号のある変則的な十字路を斜め左方向に進むと、左側にこの社の鳥居が見えてくる。
               
                               
 西富田栄金鑽神社 正面
         西富田栄金鑽神社は武藏國二之宮 金鑽神社の分社十一社の一社
   
        入口正面鳥居               鳥居の近郊にある案内板
 金鑽神社  御由緒   本庄市栄三ノ五
 □御縁起(歴史)
 本庄台地の末端近くに位置する東富田と西富田は、古くは一つの村であったが、中世の末期に分かれたものと思われる。 このことは、鈴木弘家文書の天正十八年(一五九〇)四月の「信茂判物」に「両富田之村」とあることからも推察できる。 当社は、そのうちの西富田の鎮守として祀られてきた社である。
 創建について『児玉郡誌』は、「当地は、鎌倉時代には武蔵七党児玉党の支族・富田三郎近家(親家)が居住したところで、当社はこの近家が勧請したものである」旨の言い伝えを載せている。ここにいう富田近家の居館と伝えられ、平安時代から鎌倉時代にかけて築造されたものと推定される屋敷の跡は、村の中央にあり、今では空堀の一部が残存するだけであるが、かつては水堀が残っていたらしく、女堀川の北側には「堀ノ内」の地名がある。こうした周辺の状況を考えると、当社の創建に富田氏がかかわった可能性は高い。
 また、『児玉郡誌』は、新田義純の後裔である岩松満次郎が江時代に書いた石額があること、社殿は茅葺きで古い構造のものであること、かつてより京都吉田家の配下の神主内記が奉仕してきたことを記している。この記事に見える「石額」は現存し、表面には「金鑽大明神」とあるので、当時、京都の吉田家から大明神号を受けていたことが推察されるが、年紀がないため年代は不明である。
                                      案内板より引用

 
         境内の様子                    神楽殿
       交通量の多い道路沿いに鎮座してるが、境内は至って静かである。
         社には不思議な防音装置が備わっているのであろうか。
        
                                     拝 殿
 児玉党富田氏は児玉郡富田村より起る一族である。武蔵七党系図に「有大夫弘行―武蔵権守家行―富田三郎親家(強力)―太郎近重―小太郎近行―又太郎親氏(観応二年十二月薩埵山高名)。近重の弟五郎惟近、其の弟六郎兵衛尉長家(承久乱、京方にて討死)」と見える。
 
   社殿左側にある境内社。詳細不明。      隣には同じく境内社・八坂社が鎮座
 
 境内社・八坂社の隣には多くの末社群が鎮座。      社殿左奥に鎮座する境内社。
      こちらも詳細不明。         詳細不明だが、鳥居の左右には地中に埋も
                          た灯篭がある。洪水の影響だろうか。

 富田三郎親家はかなりの怪力(強力)の人物であったようだ。吾妻鑑卷二十一に「建暦三年五月六日、和田の乱に与したる生け捕りの人々に富田三郎。七月十一日、富田三郎は強力人にすぐれ鼎をあげ石をくだくと云々、将軍家その芸を御覧ぜんがために富田を召さる。御感の余りに富田を免さるる」と記載されている。
 ここに記されている建暦三年は1213年のことで、順徳(じゅんとく)天皇の代の元号である。前元号は承元(しょうげん)で、順徳天皇の即位にともない改元された。建暦年号は鎌倉時代の1211年から1213年までの3年間のみの年号だが、鎌倉幕府では執権の北条氏と、有力御家人の権力闘争が激化していた。侍所別当(長官)の和田義盛(よしもり)は、1213年(建保1)に北条氏打倒の兵を挙げたが、幕府軍に討たれ、一族とともに敗死した和田合戦が起こっている。
       
                       社殿の右側に聳え立つご神木
 親家は和田合戦で和田側に加担したのだが、その怪力話を聞いた三代将軍源実朝が親家を呼び、その怪力を試す場を演出し、大鹿の角を差し出し、これを折る様に指示した。親家はこれを2本同時に折って見せ、実朝と列座していた一同を感心させ、その罪を許された。大力と言う理由だけで助命されたうえ、敵兵でありながら領地まで与えられた。

 和田合戦では和田氏を初め横山党など、一族滅亡の憂き目に会った武士団もあり、その中でも異彩を放つ逸話となっている。親家はこれに深い恩義を感じ、それ以後は忠臣として活動し続け、その子孫も忠義を尽くし、承久の乱(
1221)では親家の子息達は活躍し討死している。
           

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