古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

奈良新田湯殿大神社

              
              ・所在地 埼玉県熊谷市奈良新田257
              ・ご祭神 大山祇命
              
・社 格 旧村社
              
・例 祭 祈年祭 2月21日 例祭 4月15日 新嘗祭 12月10日
              *例祭日は「大里郡神社誌」を参照。
 奈良新田湯殿大神社は南北に長い奈良新田地区に鎮座する、規模は小さいながらも旧村社格の社である。途中までの経路は四方寺湯殿神社を参照。「中奈良」交差点を利根川方向に北上し、道路沿いにある「横塚山古墳」の手前のT字路を左折すると、ほぼ正面に奈良新田湯殿大神社が鎮座する場所に到着できる。
 残念ながら専用駐車場等の適当な空間が周辺確認したが見当たらなかった為、道を隔てた東側に路駐して、急ぎ参拝を行った。
           
              南北に長い参道の先に朱の鳥居が屹立している。
 奈良新田地区は『新編武蔵風土記稿』では「中奈良新田村」として紹介されている。元々江戸時代に当時の上奈良村の地内に新田として開発された土地で、開発当社は仁左衛門新田と呼ばれていたが、後に中奈良村新田ないしは中奈良新田と呼ばれるようになったという。その後幕末に至り今の奈良新田に改称されたとの経緯があった。
 創建年代等は不詳ではあるが、江戸時代に中奈良新田として当地が開拓され、村の鎮守として出羽の湯殿山権現を勧請して創建したという。
 広大な妻沼低地の肥沃な地域の中に集落は形成され、その最北東部に社が鎮座している。まさに村の鎮守様との形容が相応しい社。
         
                      正面鳥居
         
                 拝殿手前左側に聳え立つ老木。
          ご神木と判別できないが、やはりこの姿には威厳が感じられる。
         
                      拝 殿

 湯殿大神社 熊谷市奈良新田二五七(奈良新田字東通)
 奈良新田は、江戸時代に当時の上奈良村の地内に新田として開発された土地で、開発当社は仁左衛門新田と呼ばれていたが、後に中奈良村新田ないしは中奈良新田と呼ばれるようになり、幕末に至って現行の奈良新田に改称された。この辺りは、利根川と荒川に挟まれた農業地帯であり、水利を生かして米麦が耕作されている。
 当社は、この奈良新田の鎮守として、出羽国(現山形県)の湯殿山から分霊したものと伝えられており、江戸時代には湯殿権現社と称していた。ただし、残念なことに、出羽国から分霊して当社が創建された年代については伝わっていない。また、湯殿権現社と呼ばれていた当時は、本殿に本地仏として、阿弥陀如来を中央に、その両脇に観世音菩薩と勢至菩薩を配した阿弥陀三尊像を祀っていたが、神仏分離により、当社に隣接する氏子の箕田家に移された。
 この本地仏の移動と同時に、従来当社の祭祀をつかさどってきた西福寺の管理を離れ、明治二年四月に湯殿大神社と改称し、村社となった。このことは、当時、村社として認められるには仏教色を排除することが必要であったことを物語っている。また、当社は村社ではあったが、小規模で氏子の数も少なかったところから、明治の末に奈良神社に合祀するとの話があったが、氏子の厚い信仰を尊重して合祀は見送られ、現在に至っている。
                                  「埼玉の神社」より引用
 
    拝殿に掲げてある趣のある扁額      社殿左側にポツンとある石祠。詳細不明。
 
  社殿の右側に鎮座する境内社・八坂神社      八坂神社の隣には庚申石碑2基
                            及び大黒天石碑あり。
        
 奈良新田湯殿大神社のすぐ東側には横塚山古墳(写真中央部のこんもりとした場所)が見える。


 
参考資料 「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」等
     

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四方寺湯殿神社

 山形県にある湯殿山神社は、月山神社・出羽神社と並ぶ出羽三山神社の一つである。出羽三山は、明治時代まで神仏習合の権現を祀る修験道の山だったが、明治以降は神山となっていて、湯殿山神社では大山祇命、大国主命、少彦名命の三神が祀られている。
 熊谷市内では、「奈良新田」、「四方寺」、「西別府」そして境内社であるが、「代」各地区に湯殿神社が鎮座している。
        
             
・所在地 埼玉県熊谷市四方寺401
             
・ご祭神 大山祇神
             ・社 格 旧村社
             ・例 祭 不明
 四方寺湯殿神社は国道407号を熊谷警察書から旧妻沼町方面に北上し、「中奈良」交差点を右折、埼玉県道359号葛和田新堀線に沿って、暫く2㎞程進むと、道路沿いに「四方寺農村広場」と呼ばれる公園があり、その隣に四方寺湯殿神社はひっそりと鎮座している。
 県道沿いに鎮座しているとはいえ、県道に対して背を向けて鎮座している配置となっており、また社務所や自治会館等ないため、専用駐車場がない。そこで南側に回り込むように移動し、社正面近くの路肩に停めてから、急ぎ参拝を行った。
        
                            南向きの四方寺湯殿神社
             
                     社号標柱
 
          石製の鳥居           「慎ましい」という表現が似合う境内
 
        社殿手前で左側に境内社            同手前右側に境内社
       左から八坂社・天神社          左から神明社・石灯篭・伊奈利社
        
             ひっそりと鎮座する
四方寺湯殿神社拝殿
 湯殿神社 熊谷市四方寺一〇六五(四方寺字西田)
 利根川と荒川のほぼ中間の低地に位置する四方寺に鎮座し、大山祇命を祀る当社は、『風土記稿』に「湯殿山権現社 村の鎮守とす」とあるように、古来、四方寺村の鎮守として奉斎されてきた。創建の年代は定かではないが、村一番の旧家である吉田家によって祀られたとの伝えがある。吉田家の屋敷から見ると、当社はちょうど艮(北東)に当たるため、この伝えによるならば、初めは、同家の鬼門除けとして祀られたが、村の発展に伴い、村の鎮守になったものと推測される。
 江戸時代には、地内の蓮華院が別当を務めた。蓮華院は、湯殿山と号す真言宗の寺院で、開基は不明であるが、やはり吉田家によって建てられたものとの伝えがある。また、当社は享和元年(一八〇一)九月に神祇管領卜部良連から幣帛を献じられており、これは今も本殿内に奉安されている。かつては、このほかに、金の幣束も本殿に入っていたが、いつのころか盗まれてしまい、以後「本殿に神体が入っていないから『カラッポコ様』だ」と揶揄されることもしばしばあった。
 旧社格は村社で、『明細帳』には祭神の項に「合殿 月夜見命」とあるが、合祀の記録はなく、口碑にも伝えがないため、月夜見命を祀るようになった経緯はわからない。境内には、元は杉の大木が林をなし、参道が南に長く延びていたが、杉はキティ台風で倒れ、参道は区画整理でなくなったため、昔からみると随分寂しくなっている。
                                  「埼玉の神社」より引用
        
               社殿右奥に鎮座する境内社・金比羅宮
「四方寺(しほうじ)」という地名も変わっているが、『埼玉県地名誌』によれば、「はっきりしていないが、寺名ではないであろう。撓んだ土地を意味する。“シオジ”の転化からきたものではないか」と簡潔に説明されている。
「撓んだ」とは「曲がる・傾く・ たわむ」という意味があり、思うに河川等の氾濫により、自然堤防等が形成され、そこから低地帯とはいえ、緩やかな凸凹のある地形に地区全体が形成されていたのではないだろうか。
「シオジ」とは漢字変換すると「塩地」になると仮定して、話を進めよう。「塩」を冠したこの地域で、土地から塩が採れたり、交易品として集った事実はないようで、そうすると地形に由来するものと考えることができる。
        
                四方寺湯殿神社からの遠景

 旧男衾郡には塩村が存在していて、今の江南町塩地区がそれにあたるが、江戸時代の文献には嘗て「四方郷」と呼ばれていた。この塩地区は、「地名辞典」などでは、“シワ”と同じ意味を持ち、谷津の入り組む地形を呼ぶと説明していて、実際、「塩」地区は「正木・駒込・諸ヶ谷・久保ヶ谷・檜谷」などの谷津に区分された丘陵地と緩斜面から形成されている。つまり、土地が重ったような起伏の大きい場所のイメージを、当時の方々は「シオ(塩)」という言葉で表現し、それが今でも使われているかもしれない。

 四方寺という地名も、「塩地」を語源と考えると、妻沼低地に位置しているとはいえ、全ての土地が現在のように均一のとれた地形ではなく、河川のより出来る堤防もあれば、窪地や高台もあったであろう。自然がつくりだす造形をうまく利用し、低地を開拓し、田畑をつくり、自然堤防等の高地に居住していたに違いない。



参考資料 「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「埼玉県地名誌」
          「 熊谷Web博物館 ・熊谷デンタルミュージアム」等 

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弥藤吾氷川大神社

 氷川神社は旧武蔵国に一大勢力を有した神社である。氷川神社は埼玉県に162社、東京都に59社、茨城県、栃木県、北海道に各2社、神奈川県、千葉県に各1社と、旧荒川流路を含む荒川流域に集中して分布し、荒川流域の氏神様ともいえよう。
 因みに利根川流域には香取神社が、元荒川筋と利根川の間には久伊豆神社が分布していて、古代は各河川の区切りによって宗教圏が異なり、神社も地域的に纏まって分布したと考えられている。
 不思議なことだが、氷川神社の分布状況の中にあって、
旧妻沼町・現熊谷市弥藤吾地区には県内最北端の氷川神社があり、現在の荒川流域とはかけ離れた場所にポツンと鎮座している。この配置は何を意味するのだろうか。地元の鎮守であると共に、武蔵と毛野国を結ぶ街道や河川の鎮護でもあったのだろうか。
        
             
・所在地 埼玉県熊谷市弥藤吾687
             ・ご祭神 素戔嗚命、稲田姫命、大己貴命
             ・社 格 旧村社
             ・例 祭 17日 新年祭 315日 祈年祭 77日 例大祭
                  1117日 新嘗祭 
 弥藤吾氷川大神社は国道407号線沿いに位置する「道の駅めぬま」前の交差点から東へ向かって行くと妻沼南小学校があり、その道を隔てた東側に氷川神社が鎮座している。境内には社の右手には社務所があり、駐車駐車スペースも確保されていたので、そこに停めてから参拝を行う。
        
                  社号標柱と一の鳥居
「熊谷Web博物館 ・熊谷デンタルミュージアム」には「熊谷 地名由来」として「弥藤吾」をこのような記載で紹介している。
「弥藤吾」
・享保17年(1732)に成立した妻沼聖天山の縁起である「歓喜院本聖天宮縁起」には、斎藤五の子が弥藤五を名乗りその地を治めたとされる。斎藤五は、平安時代末期の武将・斎藤実盛の子どもで、弟の斎藤六とともに『平家物語』等で平氏最後の嫡子とされる平六代に最後まで仕えた人物として描かれている。五、六は、五郎、六郎の略称であろう。『平家物語』等の流布とともに、父の実盛とともに全国的に知られるようになり、各地にゆかりの寺院や史跡が数多く建てられている。弥藤吾にある実盛塚は、父実盛の遺物を埋納するために、斎藤五・六兄弟が築いたとの伝承が残る。
「弥藤五」の名称は、16世紀末には古文書に見えるので(天正19年(15913
月「伊奈忠次忍領預地書立」(長崎県片山家文書)」)、これ以前にはこの名称があったことが確認できる。「歓喜院本聖天宮縁起」の真偽は不明であるが、弥藤吾に住む中世・近世の人々は、斎藤五の子のゆかりの地であることを意識していたであろう。
        
                                 二の鳥居前から撮影
 
   二の鳥居は朱を基調とした両部鳥居       妻沼地域では珍しく案内板が設置
 氷川大神社
 当社の創建年代は不明であるが、武蔵国一の宮の氷川神社(さいたま市)の祭神を勧請し、古くから弥藤五(後に弥藤吾)村の鎮守社であったと想定される。祭神は、素戔嗚命、稲田姫命、大己貴命の三神である。
 江戸時代に当社を管理していたのは、現在廃寺である修験寺院の実蔵院で、その別当は斎藤五の子孫が受け継いできたという。斎藤五は、源平合戦で活躍した長井斎藤別当実盛の子で、『平家物語』では平清盛のひ孫六代に最期まで仕えた人物として描かれる。弥藤吾の名の由来は、斎藤五の子孫弥藤五がこの地を領有したことに始まると伝えられる。
 現在、覆屋によって保護されている本殿は、内陣壁画の墨書によれば、天保七年(一八三六)九月十五日、実蔵院別当歓慶のときに再建された。桁を駆使した緻密な彫刻が施される。正面扉には牡丹と宝物、両側面と背面には中国の伝説などを題材とした彫刻ががはめこまれている。そのほかの各部材にも、龍や鳳凰などの神獣、猿やうさぎなどの動物、鷲や鴨などの鳥類、梅やぶどうなどの植物等、さまざまな彫刻が施される。彫物師は、川原明戸の飯田仙之介の弟子で、山神村(現群馬県太田市)の岸亦八である。亦八は、埼玉県指定文化財の越生町龍穏寺経蔵や群馬県沼田市正蔵寺山門などの彫刻を手掛け、群馬・埼玉県内に数多くの優品を残している。
 各彫刻には、寄進した人名とその地区名が刻まれており、この本殿が、中地区をはじめ、北・新田・杉の道・王子・浅見・下宿・年代の弥藤吾各地区が中心となって建立されたことが分かる。そのほか、妻沼地区からの寄進も一部見える。
 なお、明治四十三年(一九一〇)に、弥藤吾各地区にあった年代保食社・熊野社、王子白髪社、中口神明社、新田八幡社、大杉社、杉之道天満社を当社に合祀し、社務所を建立した。
                                      案内板より引用


『地域計画事業』を実施するにあたり実施したアンケートの中で、『弥藤吾の伝統・文化を知る機会がない』との回答が多くあったので、妻沼南小学校区連絡会では氷川大神社についての説明看板を設置したとの事。
 弥藤吾は歴史も古く、また信仰深く纏まりのある地域であった為、古くから多くの行事が行われていた。すでに廃れたものもあるが、簡略化されながらも続く行事、時代に合わせて変わった行事もあり、改めて弥藤吾の伝統行事について冊子に纏め、全戸配布したと書かれている。
        
                                拝殿覆屋
   覆屋内には神明社と保食社、八幡社、熊野社、白山社が合祀されているのだそうだ。
 
 富士塚の上には浅間大神等が祀られている。        境内社・詳細不明。     

「熊谷Web博物館 ・熊谷デンタルミュージアム」では「弥藤吾」の地名由来を記しているが、追加として、以下の記述もされている。

妻沼についての詳細は、前述のとおり隣接する男沼に対しての名称で、そのルーツは西に男体様を拝し、東に女体様を拝した大きな沼地を控え、その付近の自然堤防上の高台に広大な大我井の杜と称する平地林があり、ここに一つのお社があった。妻沼聖天の縁起によれば、昔伊邪那岐(いざなぎ)・伊邪那美(いざなみ)の二柱の神が鎮座した地であると伝えられている。
 このあたりは、往古より秩父山塊と両毛三山からの扇状地の最前端部にあたり、しかも妻沼低地と称される平坦地に位置する平野で、往古より利根川の浸水地域でもあり、しばしば洪水の被害が発生していた。このような地形的条件の中にあって、大我井の地は周辺を芝川と称する川が舌状に囲み、その高さは45mの台地となって、正に要害の地形的様相を示していた。この良地に治承年間、斉藤別当実盛聖天堂に歓喜尊天を祀り、長井庄の総鎮守としたと伝えられる。
 ただ、この天下の要害としての条件を具備した豊かな森に囲まれた高台の地に、なぜ当時長井庄の首邑としての城館を設けなかったのか、私的には理解しにくい。しかも他の多くの場合このような地は神社仏閣など建立し、むしろ聖地として讃え崇拝している。
 現にある長井城館祉は、西城前長安寺沼付近・往昔蛇行する福川右岸・今の奈良川の北方の低地にあったとして建碑した。そのことはそれでいい、けだし不可解である。一つは福川庄の所在、また大我井の杜の中核、妻沼小学校庭拡張の際に、経筒はじめ数多くの貴重な埋蔵品が出土している妻沼経塚(昭和32年発掘された4
基の経塚)のこと。さらに、聖天様に極めて関連深い、幡羅の大殿と言われた後の成田氏が、斎藤氏の着任に際して直ちに城を明け渡して東の方面成田の地に転出した経緯など。もっと知りたいものである。

 妻沼低地に属するこの地域において、豊かな森に囲まれた天然の高台であり、要衝地として斎藤別当実盛が平安時代末期に妻沼聖天院を「大我井」の地に建立したのは歴史的な事実である。ただそれ以前、この地域の中心は、福川流域の「西城」であったことは、西城大天縛神社で述べた通りだ。
ただこの地域は、福川のみならず、利根川にも近郊し、往古より両河川の乱流地域でもあり、しばしば洪水の被害が発生していたことも確かである。そのデメリットを犯してまでも、この「西城」地域に拠点を置く理由として考えられる一つとして「水運」があげられる。
 この地域には、嘗て『東山道武蔵路』が南北に走り、上野国と武蔵国との陸路・水路両方の公益において、重要な地であったはずである。地域周辺には延喜内式社に名が載る社が圧倒的に多いのも決して偶然ではあるまい。
       
                          社殿右側に聳え立つ大欅のご神木



参考資料 「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「 熊谷Web博物館 ・熊谷デンタルミュージアム」等          

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江波・上根神社

【江波神社】
        
               
・所在地 埼玉県熊谷市江波315
               ・ご祭神 菅原道真公
               ・社 格 旧村社、旧江波村鎮守
               ・例 祭 春季祭 旧2月25日 秋季祭 旧9月25日
               *例祭日は「大里郡神社誌」を参照。(旧)は旧暦。
 江波神社は八ッ口日枝神社から南北に走る道路を南方向に道なり700m程に進むと、一面の田畑のなかに浮かぶようにポツンと静かに鎮座している。駐車スペースは専用の場所は見当たらないが、東側に面している空間は広くあり、そこの一角に停めてから参拝を開始する。
        
                                      江波神社正面
 話は神社とは少しかけ離れるが、熊谷市江波地区には「かめの伝説」がある。

「江波に富翁と呼ばれていた長者(大金持ち)がいました。ある日、長者は馬に乗って近くの川を渡っていたとき、馬の様子がおかしいので振り返ると馬の尻っぽに何かぶら下がっているようです。よく見ると亀でした。その亀をはずそうとしたのですが、なかなか離れず、腹を立てた長者は、亀をつかまえて家へ持ち帰り、鎖をつけて柱につないでおきました。長者の家には気のやさしい女中がいました。その女中は亀をかわいそうに思い、餌(えさ)を与え、川に放してやりました
 それから少しして、女中が川へ洗濯に行ったとき、川底にキラキラ光る物を見つけました。手に取って見るとびっくり仰天。彼女が今まで手にしたこともない黄金の小判でした。女中は誰かが落としたのではないかと思い、あたりを見回しましたが誰もいません
 その時でした。川の中を亀がスーと泳ぎ去っていくのが見えました。女中は「あの時の亀かな?」と思いながら家へ帰りました。それからというもの川へ行くたびに小判が川底に落ちていて、そのたびに亀の姿も見かけました。そんなことが続いて女中は大金持ちになりました
 やがて、そのことは村人の知るところとなり、誰となく女中を「お福」、川を「福川」と呼ぶようになったのです。

 伝承・伝説は信憑性に欠けるものと謂われていて、他愛もない、とても信じられないといったものかもしれないが、心豊かであった遠く祖父母の時代から伝わってきた大事な文化的な遺産ともいえよう。この「かめの伝説」は荒川支流である「福川」の名前由来も含まれるが、わざわざ江波地区にその由来の起源を設定したという箏は、何か特別な意味があるのだろうか。
 
       参道正面の鳥居            参道も短く、社殿がすぐ見える。
        
         ご神木と判別はできないが、社殿の左手前に聳え立つ巨木
        
                                        拝殿覆屋
『新編武蔵風土記稿』の江波村の項に天神社があり「村ノ鎮守トス 寶蔵院持」とある。『埼玉の神社』には「明治四十一年の改正まで天神社であったことから、氏子にはいまだに天神様と呼ばれている。(中略)明治四十一年、字西嬉愛の宇知多神社(妙見社)と字道上の稲荷神社の無格社二社を合祀した」とあり、「お産を軽くしてくれる有り難い御利益がある」として信仰を集めたようだ。
        
                                    江波神社 扁額

 熊谷市江波地域最北端は、河川により形成された自然堤防上に所在する「上北浦(かみきたうら)遺跡」と言われる、今から約
3,000年前から始まる縄文時代後・晩期の集落遺跡が存在する。縄文時代後・晩期では、竪穴建物跡8軒、土坑6基を検出していて、多量の縄文土器のほか、岩版、石棒・石剣、耳飾り、土偶、骨角器など呪術(まじない、占い)や儀礼に使用した道具が多数出土している。
 

          神輿殿               社殿右横に並ぶ石祠群

『岩版』とは、材質が泥岩ないしは粘土からなる版状の遺物である。破壊した状態で出土することが多く、また赤色塗彩を施したものがあることから、宗教的な遺物の一種と考えられている。縄文時代の晩期に発達し、その分布は大きくみて東北地方と関東地方の二地域を中心とする。…岩版・土版を護符とする説は、これまでにそういった用途を示すような出土例はないものの、今日最も一般的な見解となっている。
        
                               江波地域に広がる田園風景

 縄文時代の後・晩期の遺跡は、水害を受けにくい台地の縁辺部やその直下にある例が多い中、利根川の氾濫の影響を大きく受ける低地帯に存在し、また利根川に近い妻沼低地での縄文時代の遺跡の調査例は少なく、貴重な資料といえる。
 熊谷市江波地区には、想像を豊かにしてくれる、縄文文化が確かに存在していた。



【上根(かみね)神社】
        
             ・所在地 埼玉県熊谷市上根588-1
             ・ご祭神 菅原道真公 素盞嗚命
             ・社 格 旧村社
             ・例 祭 不明
 上根神社は江波神社から一旦南下して埼玉県道303号に交わるT字路を右折する。県道303号線はそのまま進むと右カーブで北上するルートとなるので、カーブする地点で左折し、福川に沿って道なりに1㎞程東進すると道路沿いで左側に上根神社が見えてくる。
 道路を隔てて社の向かい側には薬師堂があり、適当な駐車スペースもあるので、そこを利用して参拝を行う。
        
                                   上根神社正面
 
          正面鳥居             鳥居を過ぎた先には神牛がお出迎え
 上根神社は上根の中央部に当たる字本郷に鎮座していて、その創建については明らかでないが、「新編武蔵風土記稿」に「天神社 大性寺持」と記されるように、元来は天神社と称していた。このことは、本殿に安置されている菅原道真公座像や、明和五年(1768)の本殿棟札に見える「天満大自在天神宮」の墨書などからも伺う事ができるとの事だ。
        
                             高台の上に鎮座する拝殿
「明細帳」によれば、明治八年(1875)八月に村社となった。明治四十一年(1908)十月大字上根字出口の稲荷社、字宮前の神明社、字本郷の八坂社を合祀し、更に大正二年(1913)四月には大字田島字奈花郷の稲荷社を合祀して社名を上根神社と改めた。
              
                    
神域整備碑
 神域整備碑
 天神に八坂を合祀する当社は、霊験あらたかなるも、北を走る町道は県道太田熊谷線から長井中央部に通ずる幹道で、沿線の開発が進み、平成元年五月東武鉄道妻沼線跡地が緑道に再生するに及び、交通量が急増したしたため、区民から歩道の設置が強く望まれた。
 特に当社の西北は湾曲して危険なため、宮司氏子総代が区民と謀り、町の道路改良に協力して、二百二十㎡余の境内地を提供し、鳥居伏牛像碑御影石柵等の施設を移転した。
 更に社殿の一部を改修して、西南に擁壁を造成し、併わせて平成二年十一月、今上陛下御大典記念植樹と年番長金井薫氏の厚意により、児童遊具を更新する等、神域を整備し神威の高揚に大きく寄与された。茲に其の大要を碑に刻し氏子の篤き信心を称え、地区の安寧を祈念して永く後に伝える。
                              碑文より引用 句読点は筆者加筆



*参考資料 「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「熊谷市web博物館」等

       

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八ツ口日枝神社


        
               ・所在地 埼玉県熊谷市八ツ口922
               ・ご祭神 大山咋神
               ・社 格 旧村社、旧八ツ口村鎮守
               ・例 祭 春季 旧2月7日 秋季 旧9月9日
               *例祭日は「大里郡神社誌」を参照。(旧)は旧暦。 
 八ツ口日枝神社は熊谷市八ツ口地区中央部に鎮座している。八ツ口地区の大まかな位置関係をいうと、北・東部は備前渠水が境となり、西部は埼玉県道303号弥藤吾行田線が、南部には「Jaくまがや妻沼東部ライスセンター」の東西に走る道路、北側がその境となっている。善ヶ島神社北側にある龍泉寺のすぐ西側の道路を備前渠水方向に進み、備前渠水に架かる「しんすけ橋」を越えて、なおも道なりに700m程進むと、変則的なY字路に到着し、右側角地に社の鳥居が見えてくる。
 神社の専用駐車場は見当たらないが、道を隔てた反対側にある八ツ口集会所には車を停められるスペースが若干ながらあるので、そこに停めてから参拝を行った。
 
 八ツ口日枝神社正面は鳥居が2つあり(写真左)、左側が日枝神社、そして中央には社号標柱があり、右側には小さめな鳥居が立ち、その奥に境内社・八坂神社が鎮座している。
 まずは当然ながら主祭神・大山咋神を祀る日枝神社に参拝(同右)する。
 
 鳥居を過ぎ、参道を進むと正面に社殿が見える(写真左)。若干ではあるが上り坂の参道で、その高台に社殿は鎮座していている。嘗てこの地に住んでいた方々は、この高台を古墳と捉えていたようで、新編武蔵風土記稿でも「山王社」と呼ばれていた。
 また参道途中・左側には境内社・秋葉社と、その右側には小さな石祠が並んで鎮座している(同右)。
        
                                        拝 殿
 当社の信仰について『大里郡誌』は「古来安産の守護神として礼拝者多く其他凡て婦女子の疾患に特殊の霊験ありて奉賽の為旗幟の奉献頗る多し」と記している。今も氏子の間では「当社は女の神様で、お産を軽くしてくれる有り難い御利益がる」と語られている。

          八ツ口日枝神社の右隣には境内社・八坂神社が鎮座する(写真左・右)。       
       
          八坂神社の扁額           八坂神社の裏に伊奈利社

『新編武蔵風土記稿 八ツ口村条』には、当社を「山王社 村の鎮守にて、稲荷を合殿とす長昌寺」と載せる。また、長昌寺は、天文元年(1532)に成田氏に従い武川の合戦にで討死にした山田弥次郎の菩提追福のために、その父山田伊平が、弥次郎の領地であったこの地に草創した寺院であるという。
 それに関連して同じく『風土記稿 上川上村条』には以下の記述もある。
【原文】
「山田伊半と云へるもの、此の地に住すと云ふ。伊半は成田下総守の家人にして、或る夜、鈴に芋を生ぜしと夢みて、翌日戦場に赴き討死せしかば、今に至り土人・芋を植ることを禁ずと云ふ。按ずるに成田分限帳に伊半の名を載せざれど、幡羅郡八ツ口村長昌寺の伝へに、成田氏の臣山田伊半が子弥次郎・十九歳、武河合戦の時討死せしかば、成田氏の命により、当所は弥次郎の采地なれば、其の人をもて開基とし、長昌寺を造立すと伝ふれば、伊半は成田氏の臣たること知らる」
【現代文口語訳】
 山田伊半が住んだと云う。伊半は成田下総守の家臣で、ある夜鈴に芋ができた夢をみて、翌日戦場に赴き討ち死にしたので、今でも地元の人は芋を植える事を禁じているという。調べてみると、成田分限帳に伊半の名は載ってないが、幡羅郡八ツ口村長昌寺の寺伝に、成田氏の家臣山田伊半の子弥次郎が武河合戦で討ち死にしたので、成田氏の命令により、また当所は弥次郎の領地なので、弥次郎を開基として長昌寺を造立したとある。このことから伊半は成田氏の家臣であったことが分る。

 ここでいう「成田下総守」は成田正等。室町時代後期の武蔵国の国人領主で、成田顕泰の養父で出家後に法号「正等」と名乗り、号を自耕斎(じこうさい)とする。受領名は左衛門尉後に下総守。「武河合戦」は関東管領上杉氏と古河公方の戦いと推察され、成田氏は当初関東管領上杉氏の支配下にあったが、享徳の乱において成田正等(号 自耕斎)は途中から古河公方足利成氏に寝返って、上杉氏と戦ったという。
       
             日枝神社の鳥居の横にある      八坂神社の鳥居の手前に
                      青面金剛像                       浅間社が鎮座

 実は系図を確認すると、この時期の「成田系図」記載の生没年が、同時代史料にみえる成田当主の名と合わないと指摘されていて、実名の比定が成田系図によっていた成田正等の養子である顕泰、その嫡子である親泰の頃の業績にずれがあるとする説が出されている。

 忍城築城主は、築城年代が忍周辺の領主が岩松氏から成田氏に代わった文明年間と考えられ、「成田系図」生没年から推測して顕泰の築城とされたが、同時代史料の「文明明応年間関東禅林詩文等抄録」から文明11年(1479年)時点で忍城は存在したと指摘され、築城はその前になるため築城主は抄録にみえる顕泰の養父・正等とする説が提示された。 没年に関しても、顕泰の没年は成田系図での没年・天文16年(1547年)ではなく、系図で親泰の没年とされる大永4年(1524年)で、その親泰の本来の没年は天文14年(1545年)とする説もある。
        
                             八ツ口日枝神社 遠景

 どちらにしてもこの騒乱の時期から成田氏の勢力拡大、全盛期が演出され、幾多の戦場にも幾何の兵士は駆り出されたであろう。そこで多くの死傷者も出たはずだ。
 成田氏の家臣山田伊半がどの程度の身分であったかは判明しないが、それなりの身分であったであろう。だからこそ成田氏の命令により、亡くなった子供の供養の為、長昌寺を造立できたのではないだろうか。

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