古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

内田ヶ谷多賀谷神社

 多賀谷氏は道智氏の一族で、武蔵七党のひとつ野与党に属し、道智頼基の子・光基(みつもと)を祖とし、武蔵国埼玉郡騎西荘多賀谷郷の地頭職として赴任し、本拠地としていた。周辺には、寄居・タテヤマ(館山か)などの、館跡に関する地名が残っている。
 1190年(建久元年)117日、源頼朝上洛の際の先陣の髄兵の中に多賀谷小三郎の名があり、『吾妻鏡』にも御弓始の射手として多賀谷の名が散見される
 吾妻鑑卷十「建久元年十一月七日、頼朝上洛随兵に多加谷小三郎」
 卷二十一「建暦三年五月二日、和田の乱、北条方たかへの左近は討死す」
 卷三十二「嘉禎四年二月十七日、多賀谷太郎兵衛尉、多賀谷右衛門尉」
 卷四十一「建長三年正月十日、多賀谷弥五郎重茂」
 卷四十六「建長八年正月十三日、多賀谷弥五郎景茂」
 元々、多賀谷郷一帯は小山氏の領の一部であったが、小山義政の乱で功のあった結城氏にこの地が恩賞として与えられるに及び、多賀谷氏は結城氏の家人となり、氏家の代に常陸国下妻へ移住。1440年(永享12年)に勃発した結城合戦では、氏家は落城寸前の結城城から結城氏朝の末子・七郎(後の結城成朝)を抱いて脱出して佐竹氏を頼り、後年、結城家の再興に尽くした。
1454年(享徳3年)の享徳の乱では、鎌倉公方足利成氏の命により関東管領上杉憲忠を襲撃。憲忠の首級をあげ、その功により下妻三十三郷を与えられ、「金子に多賀谷という名字と多賀谷の紋(瓜に一文字)を下された」と記していて、結城氏の家臣ながら関東諸将の会合に列席する地位を得た。だが、氏家の弟で結城成朝より1字を受けた多賀谷高経(朝経)が成朝を暗殺したと伝えられる(『結城家之記』『水谷家譜』東大史料本ほか)など、その後は結城氏からの自立を図り、佐竹氏との同盟を強め、反北条氏の立場を鮮明にしてゆく。
 重経の代に最盛期を迎え、領地を20万石にまで拡大。1590年(天正18年)の小田原征伐に参戦して豊臣秀吉から領土を安堵されたが、文禄の役では病気と称し参加しなかったため、領地の一部を没収1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いにおいては、家康の再三の出陣要請にも応じず、会津征伐に向かう徳川家康の小山本陣へ夜襲をかけようとした事が露見し、改易された。重経は流浪の末、死去し、その後。多賀谷氏は没落していく。
 ともあれ、戦国時代には20万石の大名として常陸国下妻城主として君臨していた多賀谷氏の故郷が、武蔵国埼玉郡内「田ヶ谷(多賀谷)」地域であったというのも興味深い事である。
        
             
・所在地 埼玉県加須市内田ヶ谷676
             
・ご祭神 倉稲魂命
             
・社 格 不明
             
・例祭等 例大祭 1013
    
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1176611,139.5456808,16z?entry=ttu

 外田ヶ谷久伊豆神社の南側正面である一の鳥居が接している埼玉県道148号騎西鴻巣線を1.8㎞程東行し、「田ヶ谷小学校前」交差点を右折する。「内田ヶ谷集会所」が左手に見えるすぐ先の丁字路を左折し、左方向に大きく迂回するように進むと民家の間から内田ヶ谷多賀谷神社が見えてくる。
社には専用駐車スペースがないようなので、近場の路肩に停めてから急ぎ参拝を行う。
        
           新川用水(騎西領用水)のすぐ南側に鎮座する社
『日本歴史地名大系』 「内田ヶ谷村」の解説
[現在地名]騎西町内田ヶ谷
正能(しようのう)村・騎西町場(きさいまちば)の西にあり、西は騎西領用水を隔てて外田ヶ谷や村。集落は同用水南岸に沿う自然堤防上に立地する。嘗ては外田ヶ谷村と一村であったが、騎西領本囲いの堤を築いた時、堤防の内となった地域を内田ヶ谷と称した(風土記稿)。
円福寺記録(内閣文庫蔵)に収める多賀谷譜によると、騎西庄多賀谷郷は多賀谷氏の本拠で、字中郷(なかごう)の新義真言宗大福だいふく寺一帯は室町時代の多賀谷館跡と伝える(風土記稿)。
 
     鳥居の上部に掲げてある社号額        鳥居を過ぎてすぐ左側に鎮座する
                             境内社・八坂社
        
                    境内の様子
『新編武蔵風土記稿 内田ヶ谷村条』には「多賀谷氏」に関して意外と詳しく載せている。長い文章であるので、文脈ごとに最初は「原文」、そして後に現代語での筆者の拙い解説ではあるが載せたいと思う。尚旧漢字も幾つかある為、これも現代漢字に変換して解説を行う。
『新編武蔵風土記稿 内田ヶ谷村条』
=原文=
古は西庄多ヶ谷郷と唱へ多賀谷氏住せしと云、多賀谷記を按るに、武蔵国埼玉郡多賀谷郷の住人、左衛門尉家政は、金子十郎家忠が二男なり、仁元年頼經の随兵たり、其子彌五郎重茂頼嗣に仕へ、建長三年弓始を勤め、其子五郎景茂宗親王に仕へ、康元元年弓始に景茂其器に撰れ、其子彦太郎家經、其子五郎政忠、其子彦太郎家茂相續す」
=現代語訳=
 嘗てこの地は西庄多ヶ谷郷と言い、多賀谷氏が地頭職として赴任して以来、代々この地に住んでいた。多賀谷記という書物では、多賀谷左衛門尉家政は桓武平氏村山党の金子十郎家忠の次男であるともいう。この多賀谷家政は暦仁元年(1238)時の鎌倉将軍である九条頼経(摂家将軍・在位12261244)の随兵として仕えていた。その子彌五郎重茂は鎌倉第5代将軍である九条頼嗣(摂家将軍・在位12441252)に仕え、建長三年(1251)御弓始の射手を勤めた。その子五郎景茂は鎌倉第6代将軍・宗親王(後嵯峨天皇第一皇子・在位12521266)に仕え、康元元年(1256)御弓始の射手に選ばれている。その子供である彦太郎家經から五郎政忠、彦太郎家茂と一族は代々相続されてきた。
*筆者の調べたところ、「吾妻鑑」では嘉禎4年(1238217日九条頼経の随兵として、多賀谷太郎兵衛尉(第21番)、多賀谷右衛門尉(第26番)の名前が出ていて、その2人の内のどちらかではなかろうか。因みに「嘉禎4年」は1123日に「暦仁元年」と改元されているので、そこから上記のミスがあったのだろう。
=原文=
其子彌五郎政朝、下總結城左衛門尉滿廣の子、原五郎光義を聟(娘むすめの夫おっと)となし、家を繼しむ、光義古郷忘れ難く、結城に歸りしかば、嫡子彦四郎氏家を始め、家臣随ひ来ると載たれば、此頃まで當所に住せしなるべし、又村内大福寺の記に、多賀谷氏下妻へ移し時、館蹟へ建立と云事見えたれど、同書に據ば光義當所を去し後、彦四郎氏家一旦常陸に趣き、後寛正年中下妻城を取立住せしとあれば、寺傳こゝより下妻へ移りしといふは誤りなり、その寺の條下に辨せり、且家政重茂等がことは【東鑑】に載する所も多賀谷記と符合せり、又當國七黨系圖野與黨に、道地法花坊・多賀谷次郎光基・同彌三郎某・同三郎重基・同四郎久基など云人見ゆ、道地村と云るは、隣村なれば是等の人々も當所に住せしこと知るべし、又外田ヶ谷村名主太四郎の先祖は、多賀谷氏に仕へしものなり、其家傳に多賀谷氏の先、頼朝に仕へて、安藝(芸)国藻刈城を賜はり、遥の後宮内少輔武重が時、毛利氏に仕ふと云のみにて、其詳なることは知らず
=現代語訳=
 多賀谷彦太郎家茂の子である彌五郎政朝の代に、下総国・結城左衛門尉滿広の子である原五郎光義を聟(むこ)として向かい入れ、多賀谷氏を相続させたが、光義は故郷である結城、下妻が忘れられず、嫡子彦四郎氏家を始め、一族・家臣も従えて帰ってしまった。尚、光義がこの地から離れた後に、彦四郎氏家は一旦常陸国に赴き、その後寛正年中(14601466)に下妻城に戻ったというが、村内の大福寺の記録には、光義と一緒に彦四郎氏家は下妻へ移ったというが、それは誤りである。
 多賀谷彦太郎家茂以下の事項は「吾妻鑑」にも記載されているので、多賀谷記は信頼できる資料である。また「武蔵七党系図」には道地法花坊・多賀谷次郎光基・同彌三郎某・同三郎重基・同四郎久基など人名が載っている。
*武蔵七党系図
「野与六郎基永―道智法華坊頼意―平太郎頼基―多賀谷二郎光基―弥三郎□□、弟に三郎重基、四郎久基、五郎重光、六郎時員」
 内田ヶ谷村の隣村に「道地村」があるのも、多賀谷氏に関連した地名であろう。また外田ヶ谷村名主太四郎の先祖は、多賀谷氏に仕えていて、その後その一族は安芸国藻刈城を賜り、その後宮内少輔武重の時に毛利氏に仕えたというが、詳しいことは分からない。
=原文=
「當(当)村もとは内外の分ちなかりしが、騎西領本圍(囲)の堤を築し時、堤の内を内田ヶ谷と云ひ、堤の外を牛之助新田と云いが、後は外田ヶ谷と唱へ、二村に分てり」
=現代語訳=
 この村は嘗ては同じ「田ヶ谷村」であったが、騎西領本囲堤を築く際に、堤内を内田ヶ谷と言い、その外側を牛之助新田、その後外田ヶ谷と唱え、二村に分かれた。
        
                                      拝 殿
        
                 拝殿に掲げてある案内板
 多賀谷神社 例大祭 十月十三日
 当社の創建は古く、約五百年前、多賀谷光義が稲荷明神を郭内に勧請したことによるという。光義は敬神の念厚く、その際、牛頭天王・熊野社・弁天社などの社も祀ったと伝えられる。五穀豊穣と福寿に霊験あらたかなことから「福寿稲荷」とも呼ばれた。
 大正四年、これらを合祀したことにより「多賀谷神社」と改称した。主祭神は倉稲魂命で、農業の守り神として崇敬される。
 当社は、かつて米麦の収穫期にコメバツ・ムギバツ(米麦の初穂)と呼ばれる氏子の物納により維持された。現在は米代・麦代として現金を集め、その費用に充てている。
                                      案内板より引用
 
 社殿左側手前に祀られている境内社・天神社     境内東側隅に祀られている石祠。
        
                                   境内の一風景
 多賀谷神社の案内板にある「合祀前の鎮座地」を現在の地図で照合・確認すると、東西の範囲は西側端にある多賀谷神社(元稲荷社)から東側は大福寺を越えて、今の「内田ヶ谷地蔵尊」あたりまでの約1㎞まで。南北に関して北側は新川用水(騎西領用水)、南側は「備前堀用水」の左岸あたりの数百m程と推測されるので、東西に長いかなり大規模な鎮座地であったと思われる。


 ところで、関ヶ原の戦い以後の多賀谷氏は、どうなったのであろうか。佐竹氏から重経の養子となった宣家は、関が原の戦い後、佐竹氏に戻り、兄佐竹義宣の秋田転封に従い檜山城主となり、その後、宣家は出羽亀田藩岩城氏の家督を相続して亀田藩主を継いだ。
 一方、重経の実子・三経は結城秀康(松平秀康)の家臣となり、秀康の越前転封に従って越前松平氏の有力家臣となって、越前丸岡・三国で32千石を領した。三経の一族は1616年(元和2年)三経の子・泰経の死によって断絶したとされるが、血統は存続したという。



参考資料「吾妻鑑」「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉苗字辞典」
    「Wikipedia」「境内案内板」等

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